第2話 コンクール(下)

文字数 55,498文字

「…うん、登録完了のメールが来てるね」
「はい」
私は、すぐ脇に立っている師匠に顔を向けて、パソコンの前で座りつつ返した。
ここは私の自室。初のコンペティションから五日後の金曜日の夕方だ。この日は学校が終わると、裕美たちに断って早足で帰って来たのだった。私が帰ると、既に師匠は居間で私の帰りを待っていた。私が帰ってきたのを確認すると、早速私は制服姿のまま、こうして二人してパソコン画面とにらめっこしていたのだった。因みに制服は夏服になっていた。
「…さて」
師匠は大きく伸びをしたかと思うと、私に明るく笑いかけながら
「じゃあ、下にいる瑠美さんに報告に行こうか?」
と言うので、
「はい」
と私も微笑み返した。そして、私がパソコンの電源を切ったすぐ後で、二人連れ立って一階に降りて行ったのだった。
…ここまで勿体ぶって溜める必要は無かったかもしれないが、察しの良い皆さんなら、もうお判りだろう。
そう、結論から言ってしまえば、無事に予選を通過する事と相成った。あの予選の日、私含めた同い年の男女五人が受けた訳だが、一時間ばかりかかったコンペティションの後、十分ほど待たされたので、着替えたりしていると結果発表の時間となった。発表の場は、演奏会場にて行われた。予選という事もあってか、思っていたよりもあっさりと発表が成された。審査員長と思しき老齢の女性が壇上に出てきて、淡々と勿体ぶらずに、まず優秀賞が二名いる事を知らせた。この優秀賞に選ばれると、次の本選にいけるのだ。私たち出場者は、客席の最前列に横並びに座らされて、固唾を飲んで見守っていた。私自身も勿論緊張をしていたが、ふと両隣にいる他の人を見渡すと、見るからに私以上に緊張しているのが見受けられた。私のすぐ脇に座る女の子なんかは、色が変わるほどに固く手を握りしめていた。保護者たちは一つ分列を離れた所で座って見ていた。まず名前が挙げられたのは、二人いる男の子の内の一人だった。スラッとした見た目で、顔の表情は少なく色白で生気の無い顔つきだというのが第一印象だったが、それでも名前を呼ばれた時には喜びの感情が表に現れていた。名前の後には、どこどこの教室の出身と付け加えられていた。すると両隣の子達が拍手をし出したので、私も何となく合わせる様に拍手をした。
男の子ははにかみつつ壇上に上がると、審査委員長から賞を受け取り、その後から小さな楯を受け取っていた。男の子は客席に向かって深々と一礼をすると、壇上脇にある二、三段の階段から降りて、元の自分の席に戻った。私は好奇心からなのか、特に意味もなく男の子の姿を目で追っていたが、そのすぐ後に、審査委員長がもう一人の名前を挙げた。それが、そう…何と私の名前だったのだ。その瞬間、会場からはため息にも似たドヨメキが起こった。私はボーッとしてしまったのか、すぐに気づかなかったが、不意に係りの一人が側に寄ってきて、無言で壇上に上がる用の階段を指差したので、少しオドオドしつつ、おっかなびっくり転んだりしない様に慎重になりながら、階段を上がって壇上に出た。そして審査員長の前まで行くと、その女性は微笑みつつ「おめでとう』と静かに言うと、私に賞状を渡してきた。私は前の男の子の見様見真似で慣れない調子で受け取った。何せ、賞状など貰うのは、小学校の卒業証書以外これが初めてだったのだ。流石の私も終始戸惑いっぱなしだった。次には楯を受け取り、これまた見真似で会場の客席の方を見た。強目のライトが向けられていたので、少しばかり目が眩んでハッキリとは見えなかったが、微笑んでいるお母さんと師匠の姿だけはしっかりと見えていた。それを見た瞬間緊張がほぐれたのか、自分でも分かる程に軽く微笑みを浮かべて、深々とお辞儀をし、そして壇上脇から降りて自分の席に戻ったのだった。
それからは簡単な事務的な話がなされて、お開きとなった。
終わると、私と男の子の周りを他の参加者たちが取り囲み、中には半泣きの子もいたりしたが、その子も含めて笑顔で讃えてくれた。それに対して、私ともう一人の男の子も笑顔で対応するのだった。途中からは私の話になって、どこから来たのかなどの世間話が中心になった。この辺りは、どこにでもいる普通の中学生といった感があった。まぁ本音は、ポッと出で何処の馬の骨だか分からないって所から、好奇心で聞いてきたのだろう。普段だったら少し煩わしく思う所だったが、私自身思っていたよりも喜びに興奮していたのだろう、心から楽しく会話を楽しんだ。その流れで、何故か師匠の話になりかけたのが印象的だった。みんなが師匠のことを知っていた。とその時、「琴音ー」と少し離れた所からお母さんに声をかけられた。
もう帰るとの話だ。私は名残惜しげに皆に別れを言うと、お母さんと師匠の側に駆け寄った。お母さん達はお母さん達で、出場者の親御さん達と楽しげにお喋りに講じていた様だった。私が近くに寄ると、途端にお母さんは目元をなんとも言えない感じで歪ませつつ、しかし何とか笑顔を作ろうとしているかの様な笑みを浮かべて「琴音やったわね!…おめでとうっ!」と言いながら抱きついてきた。私は咄嗟のことで呆気に取られてしまったが、周りの大人達が微笑ましげに見てくるのに気付いて、途端に恥ずかしくなりこの場から逃げたくもなったが、それと同時に、お母さんの体温を服越しとはいえ感じると、気持ち視界がボヤけるのを覚えた。それから数秒後にお母さんが離れたので、私も笑顔を作りつつ「うん」とだけ返したのだった。保護者の面々も口々に「おめでとう」といった類いの言葉を投げかけて来てくれた。その度に、私は恐縮しつつ、しかし笑顔で応じた。そんな中チラチラと隣の師匠の表情を伺うと、そんな私の様子を、何も言わずにただ微笑みをくれるだけだった。
それから私たち三人は、この場にいた人々の中では一番初めに後にした。エレベーターで下に降り外に出ると、すっかり夜の様相を呈していた。すぐそばのパチンコ店のネオンが、多種多様に眩い光彩を放ち、チカチカと辺りを照らしていた。
私たちはそのまま何処にも寄らず、ここまで来た道をそのままの順序を追う様に帰って行った。
日曜だというのに行楽帰りなのか、親子連れからカップルから何からで混み合う車中、誤解を恐れずに言えば門外漢のお母さんが、何故私が優秀賞を取れたのかと師匠を質問攻めしていた。師匠は私に笑顔を向けてきつつ、「ただ単に、この子の実力ですよ」と返していた。それを聞いたお母さんは、それをそのまま間に受けて、同じく私に微笑みかけながら返していた。私は本心から恥ずかしそうに照れて見せたが、その一方で、何故私が通ったのか、この時点で一つ思うところがあった。というのも、結論から先に言えば、私の演奏だけ途中で切られなかったからだ。
…急に何を言い出すのかと思われただろう。今から説明する。単純な事だ。それぞれ一人当たりの演奏時間が決められていた事は、随分前になるが話したと思う。要は、楽譜通りに弾いてたら、その時間内には弾き終えれない設定になっていたのだ。本来はあったらしいが、私はその旨を説明される様な会には出席しなかったが、その時点でも話されていたはずだったのに、正直今日見た感じ、優秀賞を獲ったもう一人の男の子以外は、それが出来ていなかった様に見受けられた。何故なら、ここでさっきの話に繋がるが、私たち二人以外の参加者は、途中で無情なベルがけたたましく鳴らされて、演奏を中止されていたからだった。でもこれは後で師匠自身に聞いた事だが、そう時間制限を設けられても、それを守れるのはまずいないらしい。殆ど全ての参加者は、演奏途中で切られる様なのだ。だから、一番手で弾いた私は、他の参加者の演奏を舞台袖で見てたりしたが、途中で切られても、誰一人として悔しげな表情を浮かべる事なく、何事もなくしていたのが、これまた印象的だった。私以外の参加者は、このコンクール関係の教室出身者だというのもあって、それを知っていたのだろうと、すぐに納得がいった。
で、何で私が部外者だというのに切られずに演奏を遂行出来たかというと…もう言うまでもないだろう。勿論、これは師匠のお陰以外の何者でもなかった。この半年間、私と師匠とで話し合いながら、課題曲の編曲をし続けてきたのだった。前回の放課後、裕美たちの遊びの誘いを蹴ってまで家に帰った事を覚えておられていると思う。その時に頭に流れたメロディーというのが、この時間内に収まりつつ、楽曲自体の”質”を損ねない様な短縮バージョンだったのだ。だから…勿論この様な事もあったりと、全てという訳ではなかったが、やはり出場経験者にして、しかも全国大会優勝者でもある師匠のアドバイスがあっての優秀賞だというのは、殊勝ぶっていう訳ではなく、本心からシミジミと感じて、ピアノを弾き終えた時、他の参加者の演奏を聞いてた時、そして授賞式で私の名前が読み上げられた時、こうして何気無く帰っている時ですら、ずっと師匠に感謝の念を抱き続けていたのだった。
地元の駅に着くと、途中までは三人一緒に歩いていたが、途中私たちの家と師匠の家との丁度別れ道に差し掛かった時、不意にお母さんが立ち止まったかと思うと、私の肩に手を置いて
「ほら、琴音、今日はここまで来てくれたのだから、ちゃーんと”師匠”をお家まで送って行きなさい」
と悪戯っぽく笑いつつ言った。師匠は、お母さんの口から”師匠”という単語が飛び出たのを聞いて、何だか気恥ずかしそうにしていた。
「うん、分かった」
私は迷う事なく当然の事だと瞬時に明るい調子で返すと、師匠に声を掛けて、一緒に行く様に促した。
師匠は苦笑を浮かべつつ、お母さんに挨拶すると、スッと帰り道へと足を進めるので、私も慌ててついて行こうとしたその時、お母さんが深々と腰を大きく曲げてまでお辞儀をするのを見た。その姿は、何故か今だに鮮明に脳裏にこびりついている。
師匠の家までの道、早速私は今日のデキについての感想を聞いていた。やはり緊張をしていたせいか、思った様には運指が上手くいっていなかった箇所が随所に弾きながら感じていたからだ。師匠もそこは見逃さずに聞いて見ていたらしく、率直に正確な箇所をズバッと指摘してくれた。普通なら、もしかしたらコンクールの直後、それも優秀賞を獲った後だというんで、建前でも辞令的な言葉を掛けてくる様な人もいるだろうけど、私の師匠はこんな時でもどんな場合でも関係なく、ダメな所はダメだったと言ってくれるのだ。他の人は、そんな師匠の態度をどう思うか知らないが、少なくとも私の場合で言えば、間違いをキチンと相手に気を遣わずに言ってくれるのが、とてもありがたかった。勿論、それが感情からくる見当違いな指摘では無いという条件付きだが、そんな心配は師匠には無用だった。普段からの師匠が自身の芸に対して真摯に向かう謙虚な姿勢、その態度、これら全ては私が師匠に対して信用を置くのに余りあるほどの物だった。…我ながら、弟子にして師匠をこうして値踏みする様な発言をするのは、不敬極まると苦笑もんだが、私の性格上、これが一番の賛辞なのだと納得していただく他に無い。
…くだらない話が続いた。話を戻そう。
演奏内容を話し合っていると、あっという間に師匠宅に着いてしまった。
私は玄関先で待つ間、師匠は鍵を開けると大きく開けたままにして、こちらに振り向き、
「今日はお疲れ様!」
と笑顔で言った。それを聞いた私は、お母さんのお辞儀を参考に腰を大きく曲げながら
「今日は有難うございました!」
と、夜のせいと少ない街灯のせいでほぼ真っ暗で静かな住宅街の中、思わず知らずに大きな声で挨拶をした。その瞬間、師匠は「シーーっ」と指を口に当てつつ息を漏らしたが、顔は笑顔だった。私も師匠を真似して口に指を当てて見せると、一瞬お互いに目を合わせると、次の瞬間にはクスクスと笑い合うのだった。
笑いが収まり、師匠に挨拶して帰ろうとしたその時
「…琴音!」
と背後から声を掛けられた。それに応じるために振り返った次の瞬間、何と師匠が私に何も言わずに抱きついてきた。元々普段から人通りの無い裏通りというのもあって、今は周りには誰もいなかったが、さっきお母さんに抱きつかれた時よりも驚いてしまった。そこには、呆気にとられる余地が無いほどだ。ただただ驚いていたが、お母さんよりもまた少し背が高く、これは本来は女性に言うべきことでは無いと知りつつ、褒め言葉として言わせて貰えれば、お母さんとは違ってピアノで鍛えた筋肉質な感触を味わっていた。考えてみたら、師匠に抱きつかれたのは、私が受験をするにあたっての、あの訴えの時以来だった。この時の私は、当時の私のことを思い出していたが、様々な想いが一気に胸に去来したせいか、これまたお母さんに抱きつかれた時には目頭が熱くなったくらいだったのが、気づけばホッペを一筋の温かな水が伝うのを感じていた。視界も滲んでいて、師匠の背後の玄関上の照明がボヤけて見えた。
どれほどそうしていたのか、暫くすると師匠が離れた。顔は若干逆光でハッキリとは見えなかったが、何となく戸惑っている様に見えた。師匠は何かを言おうとしているかの様だったが、口を軽く開けて見せるだけで、肝心の言葉が出てこなかった。他の人なら何かしら気の利いた言葉なり態度が示せたのかも知れないが、私は不器用にも、師匠の言葉をそのままの状態で待っていた。
と、ふと師匠の目が大きく見開かれたかと思うと、苦笑いを浮かべて、不意に私のホッペを優しく撫でながら声を掛けてきた。
「…ふふ、琴音ったら…何泣いてるのよ?」
「…え?あ、あぁ…」
変な言い方で申し訳ないが、この時初めてハッキリと自分が泣いている事を認識した。水がホッペを伝っている時点で気づきそうなものだと、自分でも思うが、それだけショックが大きかったのだ。
「…すみません」
私は何故か謝りながら、師匠に触れられていない、もう片方のホッペを撫でつつ言った。
すると師匠は、今度は愉快げに明るく笑うと、「何で謝るのよぉ?」と言うので、
「あ、いや…すみません」
と、今度は軽く狙って同じ様に謝って見せた。
すると師匠は今度は意地悪くニターッと笑いつつ、私の両方のホッペを軽く抓って引っ張りながら
「また言ってるーー」
と返してきたので、私は何も言わずにニヤケて見せると、師匠もニタニタと笑い返すのだった。
それからは、また改めて感謝と挨拶をすると、師匠宅の玄関前を後にした。曲がり角の所で振り返ると、真っ暗な路地の中、師匠宅の玄関の明かりだけがボーッと灯っていて、その下に人影が見えていた。こんな時でも、師匠はいつも通りに見送ってくれているらしかった。私は見えるのかどうか確信が持てなかったが、試しに大きく手を振ってみると、その人影も大きく振りかえしてくれた。私は一人でクスッと笑みを零すと、名残惜しそうにその人影を見つつ曲がり角を曲がったのだった。

とまぁ、以上が事の顛末だ。それで今に至る。
この日はコンクールの地区本選申込日開始の日で、前回と同様に、師匠にわざわざご足労を頂き、こうして申し込みが済んだのだった。地区本選は、七月下旬、夏休みに入ったばかりの頃に行われる。
今日は金曜日で学校があったので、放課後というのもあって、作業が済んだのは夜の七時だった。師匠は遠慮して見せていたが、お母さんが「是非夕食を食べてって!」と言うので、結局根負けした師匠と三人で食事をしたのだった。お父さんは今日は仕事で食事に間に合わないと言っていたのに、ついつい三人分作ってしまったから助かると、お母さんは師匠にサバサバと明るい調子で話していた。お母さんなりの、相手に気を遣わせない様にとの気遣いなのだろう、それが功を奏したか、見るからに師匠の肩の力が抜けて見えた。

食事終えても少しの間、雑談に花を咲かせた。内容は徐々に私のコンクールの話になっていった。
師匠はまたついて行く旨を話したその時、ふと苦笑を漏らしたかと思うと、そのままの調子で
「…次は目立たない格好で行かなきゃなぁー」
と漏らしたので、私とお母さんは顔を見合わせると、クスクスと笑い合うのだった。
一昨日に、たまたま私たち三人の都合が合ったので、夜、お母さんが企画して、地元の駅中のレストランで食事をする事になった。因みに義一や絵里、聡と行ったファミレスではない。普通の一般的な全国チェーンの焼肉店だ。そこで食事していた時に、何故あの時に囲まれていたのかを聞き出したのだった。
私が聞いた途端、私の隣に座っていたお母さんはニヤケながら向かいに座る師匠を見つめ、当人である師匠は照れ隠しに苦笑を浮かべつつ答えるには、どうも昔に向こう…細かく言えばドイツを中心とした欧州域内で活躍してたのを、流石のピアノファン、クラシックファンのコンクール参加者たちが知っていたらしく、それで見つかってしまったということらしい。師匠本人としては、私が小学生に入るか入らないかくらいの時に引退をしていたので、もうすっかり一般人の気でいたらしいが、今回の件で”懲りた”との事だ。私は初めて師匠に出会ってから、勿論師匠が現役時代にどんな演奏をしていたのかなど、興味が尽きなく、それこそ何度も映像なり何なりを見せてくれとせがんだが、その度に師匠は、他の事ではうるさくなかったが、こと私が師匠の昔の演奏の音源なり映像なりを見たり聞いたりするのは、固く禁じていた。当時は理由を教えてくれなかったが、ここまで私の話を聞いてくれた方なら察してくれると思うが、私は普通とはまた違った意味で人見知りだったのに、殊の外師匠にはすんなり心を開いたので、理由を教えてくれなくても何となく教えをこの時まで守っていた。まぁ尤も、わざわざ映像などを見聞きしなくても、目の前で毎回生演奏をしてくれていたので、そこまで必要性を感じなかったのもあった。だから誤解を恐れずに言えば、幼い頃から知る師匠が、人に囲まれて、しかも憧れの視線を浴びていたのが不思議に見えて仕方なかった。だから今回の件で、改めて昔の現役時代の師匠に興味が湧いたのも仕方なかった…だろう。
まぁそういう事で、師匠自身も何となく納得いっていない感じだったが自覚したようで、そのような決意表明をしたのだった。
因みに、この後すぐ、師匠に黙ってネットで試しに”君塚沙恵”と検索をかけてみた。すると、沢山の結果が現れた。何と、師匠のファンサイトまでがあった。試しに覗いてみると、引退宣言して大分経つので流石に過疎にはなっていたが、掲示板のようなものがあったので過去の書き込みなどを見てみると、最近にもチラホラと書き込みが見られた。その内容の殆どが、復帰を望む声ばかりだった。師匠本人では無いのにも関わらず、思わず胸が一杯になる様だった。
後でくまなく見る事にして、次に動画サイトに飛んで見た。幾らか削除されたりしていたみたいだが、それでも何件も検索に引っかかった。ほぼ全てが師匠のライブ映像だった。
ここで軽くでも感想を述べざるを得ないのを許して頂きたい。そのどれもが私には衝撃的だった。
前にも触れたように、師匠は手首を怪我した事によって、二十代後半にして自主引退をした訳だが、でも正直、弟子の私の意見としては、今の師匠の腕でも十分ソリストとしてやっていけるんじゃないかと素直に思っていた。記憶は定かではないが、恐らく私の事だから、師弟関係になる前に、軽い気持ちで『復帰したら良いのに』と軽い言葉を投げたに違いない。それくらいには思っていた。だが…現役時代の師匠の演奏を聞いて見ると、度肝を抜かれるのと同時に、色々と納得がいった。音は動画サイト上というのもあってか、そこまで良くはなかったが、それでもあまりがある程に、その音の”重厚さ”が伝わってきた。日本人女性にしては大分高めの身長を生かして、鍵盤上を縦横無尽に肩から指先にかけて躍動しているのが良く見えた。たまに師匠の顔も映された。今と何も変化が無く、最近の映像と言われても信じてしまうほどだったが、その師匠の顔は正に”鍵盤上没我”ってな具合で、集中し演奏に没入するあまり、下手したら狂気じみて見える程の表情を浮かべていた。激しいテンポはそんな様子だったが、ゆったりとした所では、これまた何かが憑依したかの様に身体が揺れていた。…ここだけ聞くと、師匠は前に私に避難して見せた、無駄に身体を動かして見せて、演奏内容が希薄なピアニストに自身もなっているんじゃないかと思われて突っ込まれそうだが、説明を代わりにさせて頂くと師匠の場合は、演奏のために余計な力が入らない様に、力を分散させるためにしている…というのは、恐らく弟子の私だから気付ける点だと思う。
それはさておき、ついつい幾つもの師匠の動画を一気に見てしまったのだが、思わずクスッと笑ってしまった事があった。この動画サイトにはコメント欄があるのだが、私が見た限りでは必ずと言っていいほど、あるコメントが賞賛の言葉と共に書かれていた。それは英語で”Japanese Witch”や、フランス語で”La sorciere du Japon”や、はたまたドイツ語で”Die Hexe von Japan”といったものだった。私は当然習ってもいないし学んでもいないので、そこまで海外の言葉を読めたり話せたりは出来ないが、これくらいの簡単なのなら分かる。そう、つまり、英語圏の人や、フランス語圏の人、ドイツ語圏の人が師匠を見て”日本の魔女”と称していたのだ。
私はこれを見た時、師匠がどう思うかは別にして『これだっ!』と思った。年齢不詳で、妖艶で、指先から奏でられる音のソレは魔法の様で、まさに”魔女”に相応しいかった。
…これはまだ、師匠には黙っておこう。
と心の中で一人誓い、その後は大体おすすめ動画として画面脇に出ている、これまた当然というか、師匠の親友で現役のピアニスト、”矢野京子”さんのもチラッと見たりした。
…何故チラッとだけなのかと言うと、そのどれもが少なくとも一度は見たことのあった映像だったからだ。というのも、師匠にコンクールに出たいと宣言したあの日、矢野京子と親友だと教えて貰ったのを覚えておられるだろうか。あれから師匠は、例の毎週日曜日のお昼休み、お菓子を作った後、食卓で二人仲良く食べている時に、師匠はおもむろにDVDを取り出し、セットして、テレビを点けて見せてきたのが、彼女の演奏映像だった。それこそ小学生時代から今に至るまでのものだ。何故そんなの持っているのかを聞くと、『だって、私は京子の一番のファンだもの!』と悪戯っぽく笑いながら戯けて返すのみだった。師匠はここだと自分が思う所を一々止めて、解説をするのだった。勿論彼女自体の演奏のクオリティが高いので、勉強になるのは間違いなかったが、何よりも師匠が本当に心から好きだというのが伝わってきて、毎度毎度何だか心がほっこりとするのを覚えていた。しかし…相変わらず自分の映像は頑なに見せてくれなかったが。
まぁそんなわけで、最近は久しぶりにというか、一つ新たな習慣が加わった。ピアノの練習、雑誌オーソドックス自体や数寄屋に集う人々の書いた物を含む義一から借りた本、そしてこの師匠のライブ映像をネットで見るというものだ。ますます私の”普通の中学女の子”としての時間が使えなくなったのは言うまでもない。

…おっと、折角オーソドックスの話が出たので、その話にも触れたいと思う。時系列的にも丁度良かった。
その話とは勿論、”落語の師匠”関連の話だ。コンクールの予選があったその週の土曜日、私は急いで制服姿のまま直接に義一の家に向かった。今日は数寄屋には行かないと言うんで、会う約束をしていたのだった。着いて合鍵を使い中に入ると、義一が丁度玄関近くにいて出くわし、それから軽く挨拶を交わすと二人連れ立って”宝箱”に向かった。
いつもの様に定位置の椅子に座ると、義一もいつも通りに紅茶セットを持ってきた。そして二人でまず何も言わずに一口啜るのだった。その後二人揃って深く息を吐くと、まず義一が笑顔で
「予選通過おめでとう」
と声を掛けてきたので、「ありがとう」と私も笑顔で返した。
あの日の晩、早速私は義一関連の連絡先を知ってる人々全員に結果報告をした。内訳としては、義一、絵里、聡、美保子、百合子の順だった。私からはただのメールだったのに、その直後、皆して電話を掛けてくれた。義一以外は、みんな私以上に興奮した気配を電話越しにも滲ませていた。百合子ですらだ。苦笑まじりに相手を宥めるのが大変だったが、そうしつつも心から嬉しかった。その時には皆空気を読んでくれたのだろう、師匠のしの字も言わなかった。そんな気遣いを私も察して、それには触れなかった。そして今に至る。
それからはお母さんから送って貰った当日の写真を見せたりした。いつだかの、私が中学に入りたての時、裕美たちと研修旅行に行った時に撮った写真を見せた様に、隣り合って私の手元のスマホを二人で見た。義一は一々私の姿格好を褒めてきたが、ふと師匠の写真の所で「…あぁ」と声を漏らした。私も手をそこで止めた。画面一杯に私とお母さんと師匠が写っていた。
因みに条件付きでというか、義一は”沙恵さん”の事を知っていた。小学生の頃、誰にお菓子の作り方を習っているかという話になって、その時にフルネームを教えたのだった。その時、義一は目をまん丸くして、そしてため息交じりに感嘆でもするかのように、「へぇー…」と私に返すのだった。今思えば、この時既に義一は沙恵さんの事を知っていたのだろう。何せあそこまでクラシックに造詣の深い義一のことだ、我が師匠ながらアレだけ活躍していたのだから、知らない訳が無かった。だが、当時の私はそんな義一の反応に対して何も思わず、そのまま素通りをしてしまった。まぁ仕方がないだろう。
先回り的にネタバレになってしまうが、この時に初めて義一が沙恵さんのことを知っていたのを教えて貰うのだった。
「…?」
義一が沙恵さんに視線を落として溜息を漏らしたかの様に見えたので、私は少し警戒しつつ、でも冗談風に義一に話しかけた。
「…ちょっと義一さん、私の師匠を見て、意味深な溜息をしないでくれる?いくら美人だからって」
考えて見たら…いや、考えなくても、沙恵さんを写真でだが実際に見せるのは、これが初めてだった。本当はもっと早く見せたかった気持ちもないではなかったが、そもそも師匠との写真が今までに皆無だった。あれだけ仲良く何年も付き合いがあるというのにだ。近くに居過ぎると、一緒の写真を撮らない事もあるのだ。そんな事例の一つだった。だから私自身、師匠の写真が手元にあるのがこれが初めてだった。
「…リアクションに困るなぁ」
義一は照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。私はそれに合わせる様に意地悪くニヤケながら言った。
「ふふ、まぁいいわ。私の師匠の姿を見せるのは初めてだったよね?」
「え?あ、あぁ…うん、そうだね」
と義一が何故か歯切れ悪く返してきたので、早速私はソコに噛み付いた。
「え?何、その意味深な反応はぁ?気になるなぁ」
私はそう言いつつ、テーブルに肘をつき、隣に座る義一を薄目で見た。相変わらず照れ臭そうにしていたが、そのままにヤレヤレと言いたげな調子で返した。
「…うーん、まぁいっか。実はね、君から初めて君の師匠の名前を聞いた時に、ピンと来てたんだよ。『君塚沙恵…?どっかで聞いた事があったなぁ…』ってね」
「ふーん…」
師匠の容姿に反応した訳じゃないのね。
私は体勢を戻し、テーブルの上に置いたスマホの画面に映る私たち三人の写真を見つつ、感情を悟られない様に返した。
義一も私と同じ様に視線を落としつつ続けた。
「実は彼女の事は、君に教えてもらう前から知ってたんだ。CDも持っているしね。主にバイオリンとチェロとの三重奏の室内楽ばかりでね、…まぁそれは彼女が殆どそれしか出してないからなんだけど…」
「ふーん…」
相変わらず代わり映えのしないリアクションを取ってしまったが、胸中としては義一が師匠に対して興味を持っていて、そして好意的に述べているのを聞いて、毎度の事だろうと言われそうだが、自分のことの様に嬉しかった。
義一はここで子供っぽく無邪気な笑みを見せながら言った。
「それがいつの間にか表舞台から退いたとおもったら、まさか君の師匠になっているだなんて…いやぁ、世の中どんな縁が出来るかわかったものではないね」
「ふふ、そうね。私もまさか数寄屋の人達や、そしてあの”師匠”とも知り合えるとは思わなかったもの」
と私も笑顔でだったがしみじみと感慨深げに言うと、義一は見るからにハッとして見せると「あぁ、そういえば…」と口にしつつおもむろに席を立ち、庭に通づる大きな窓を背にしている書斎机に向かうと、上に置かれていた一般的な見た目の変哲の無いデジカメを持って戻ってきた。
そして座ると、何も言わないままに小さめの液晶を見せてきた。私も何も言わずに覗き込むと、そこには何処かの会場が映し出されていた。どうやら歌舞伎座の様だった。照明の落とされた客席から撮ったのか、強めの照明で照らされた舞台が余計に浮かび上がって見えた。舞台の奥には縦横二メートルくらいありそうなパネル一杯に、恐らく高座での写真なのだろう、自分でも納得のいく出来だったのか満面の笑みを浮かべる”師匠”の写真が出ていた。その手前には椅子が用意されていて、着物姿が何人か座っていた。彼らは私でも知ってる人達だった。一人は今回の会を開いてくれた歌舞伎役者の方だった。そして数人は”師匠”の弟子たちだった。その中には、数寄屋まで”師匠”に付き添って来ていた彼の姿もあった。とその中で異色な老人が一人座っていた。なぜ異色かと言うと、一人だけスーツ姿だったからだ。また周りの人々と比べると、一回りか二回りほど小さく見えた。数枚ある写真のどれを見ても、好々爺よろしく人好きのする笑みを見せていた。ここまで言えば分かるだろう…そう、それは神谷さんだった。写真だったので、何を話しているのかまでは分からなかったが、歌舞伎役者の方などとも心を割って話している様が見て取れた。故人を偲ぶ会ではあるのだが、まさに芸人らしく、神谷さんまで漏れることなく和かに明るく振る舞っているのが分かった。とても楽しそうな会だ。
その感想は正しかったらしく、私が普段して見せる様に、今回は義一が事細やかに一枚一枚を解説してくれた。因みに、この歌舞伎役者の事は、”師匠”を通じてだがよく知っていた。何かにつけ書籍や映像などで、”師匠”が彼を褒めるのを聞いたことがあったからだ。”師匠”自体は当代の彼のお父さん、つまり先代の同名の歌舞伎役者に可愛がって貰った縁で、その息子である彼を終始可愛がって面倒を見ていた様だった。そういう訳で、当代も当代で”師匠”を尊敬し付き合っていた様だ。
次号のオーソドックスで特集を組むというんで、その号が発売されたらまた私にプレゼントをする旨を言ってくれたので私はお礼を言ったが、ふとさっきから小さい事だったが疑問が湧いていたので、お別れ会の話に区切りがついたところで聞いてみた。
「ねぇ義一さん、そのー…こう言うのは失礼かも知れないけど、何で神谷さんが壇上に出ているの?」
「え?」
義一は新しい紅茶を淹れ直して戻ってきたところだった。そしてカップに出来たてのダージリンを注ぎつつ
「それってどういう意味?」
と何気ない調子で返してきた。
私は紅茶のおかわりにお礼を示しつつ続けた。
「うん。…何て言うのかなぁ、神谷さんって”一般人”じゃない?それが何で壇上に上がっているのかなぁー…って単純に疑問に思ったの。いや、ダメって言いたいんじゃなくて、ただ…神谷さんまで上がっていいのなら、他の人もいて然るべし何じゃないかなって思ったの。だって…この中で芸人じゃないの、神谷さんだけなんだもん」
私はデジカメの液晶に目を落としつつ言った。
それを聞いた義一は真向かいに座り、ゆったりとした動作で自分で淹れた紅茶をズズっと味わって一口飲んだが、一瞬微笑んだかと思うと、途端に意地悪くニヤッと笑いながら言った。
「…ふふ、君ってやっぱり今時の子とは一味も二味も違うねぇ。…今みたいなネット社会では、すぐに人の事を検索にかけたりするものだと思っていたけど。…まぁ、僕には言われたくないだろうけどね?」
「うん、あなたには言われたくない」
私は即座に間髪入れずに、なるべく顔にも声にも表情をつけない様にしながら返した。ほんの一瞬お互いに無表情で見合わせたが、次の瞬間にはどちらからともなく吹き出し、クスクスと笑い合うのだった。
笑いが収まると、義一が笑顔を絶やさないまま話し始めた。
「はぁーあ…あ、そうだねぇ、何から話そうかなぁ…うん、そうだ」
義一はふと立ち上がると、ティーセットの乗ったトレイを持ち上げて、何も言わずに”宝箱”内の本棚の無い一角にある、縦が五十センチ、横幅が一メートルほどの大きさの液晶テレビ前にある、円形の竹で作られたコーヒーテーブルの上に置いた。何も言わずとも、良くある事だったので、私もそのまま後をついて行き、テーブルの前にある二人がけのソファーに先に腰を下ろした。
…良くあると言ったのは、覚えておられるだろうか、何度かここで義一に何かしらの映像を見せて貰っていたという事を。それがこのテレビでの話で、私が初めて数寄屋に行った時に少し話した、物理学のドキュメンタリーも、ここでこれで見た物だった。テレビは真っ黒なシンプルなテレビ台に乗っており、一つ一つの棚にはDVDプレイヤーがセットされていた。台の両脇には縦長のスピーカーが設置されていて、そのまたすぐ脇には、天井に届くほどのDVDラックがあった。中には古今東西…いや、比率から言えば”古東西”と言った方が良いくらいの映画が、隙間無く詰められていた。義一に聞いても、本人でも把握しきれていないらしいが、取り敢えず少なくとも千本以上はあるとの事だった。それには、先ほども触れたものも入れたドキュメンタリーも含まれている。今まで機会が無かったから話していなかったが、本だけでなく、この中からも何本か借りたりしていた。
と、ここまでいつも通りだったが、今日は少しばかり違っていた。義一はDVDプレイヤーのセットされている棚のもう一段下に手を突っ込み、何やらゴソゴソしていたかと思うと、不意に中から無線のキーボードとマウスを取り出した。そしてそれをテーブルの上に置いた。呆気にとられると言うほどでは無かったが、不意をつかれた形になったので、取り敢えず私は黙って義一の行動を見守る事にした。義一は慣れた調子でセッティングを終えると、おもむろにテレビの電源をつけた。しばらくして画面が映されたが、そこに出てきたのは、パソコンの起動画面だった。まぁここまでお膳立てされれば、この様な展開は予測する事自体は容易だったが、ただ私達二人でパソコンを弄るというのは初体験だった為に、大げさな様だが新鮮味を覚えていた。義一は私の横に座ると、暗証番号を手際よく打ち込み、デスクトップ画面に飛ばした。そしてそのまま間髪入れずにネットの検索画面に飛び、そこでおもむろに”神谷有恒”と打ち込んだ。すると、すぐにズラッと沢山の検索結果が出てきた。ここまで私も義一も一言も言葉を発していなかったが、この時の私の心情としては、軽く驚いていた。もし検索をかけたところで、大した数では無いだろうと思っていたからだ。取り敢えず今は雑誌を出しているというんで、その関連で検索結果が出ることはあるだろうくらいの事は予測していたが、どうも目の前テレビのモニター一杯に出されている結果は、それだけでは無い事を瞬時に思わせるのには十分だった。私は思わず知らず前のめりになって見ていたが、ふと隣に座る義一が、気持ち愉快げに声のトーンを上げつつ話しかけてきた。
「…ふふ、驚いたかい?まぁこの通り、一番上にはオーソドックスが出てくるわけだけれど、その他にもこれだけ出てくるんだ。えぇっと…まぁ詳しくは、後で君が興味を持った時に見て貰うとして…」
義一は独り言を言うようにマイペースに目の前でアチコチとサイトを覗いて見せたが、ふと一つのサイトに目が止まると、そこをクリックして止めた。それは私の知らない誰かが作ったまとめサイトの様だった。アチコチに点在している動画サイトの中の動画をまとめている様だった。一つ一つサムネイルがあり、その脇にタイトルが出ていた。それぞれ違っていたが、共通していたのは全てに”神谷”の名前が出ていた事だった。私は自分でも分かる程に、もう気持ち半歩分前に前に乗り出して画面を見ていると、先程と変わらぬ調子で義一が話しかけてきた。
「このサイトの管理者は知らないんだけれどね、どうも昔から先生のファンらしくて、こうして昔にテレビに出ていた頃の先生の動画を纏めて載せているんだよ」
「へぇー…先生って、昔テレビに出ていたんだ」
ついつい義一の言葉に引き摺られるように”先生”呼びになりつつ、それを自分自身で気付かないほどに、変に感心しつつ返した。まぁ、これも普段通りの現象だ。
「先生本人は、それが恥だとか、汚点だと思っているみたいだけどね」
義一は悪戯っぽく笑いつつ言うと、おもむろに数ある中から一つのサムネイルをクリックした。するとその直後には、画面一杯に、あるテレビ番組が流れ始めた。そこに出てくる出演者たちの姿形や格好を見るに、今から二十年くらい前だろうと想像された。そのすぐ後には番組名の字がデカデカと表示された。この演出も古臭いものだった。因みに普段からテレビを見ない私でも、この番組の名前は知っていた。金曜日の深夜から、翌日の明け方まで生で放送される、いわゆる討論番組だった。司会進行の男性が何やら初めに話していたが、この人も知っていた。暫くはこの男性しか映っていなかったが、不意にカメラが切り替わったかと思うと、一人の長めの白髪頭の男性が映し出された。
私はすぐに彼が誰だか分かった。確かに二十年以上も前らしく、今と違って言ってはなんだが豊富な白髪を靡かせて、一風変わった見た目をしていて、胡散臭さすら漂わせていたが、顔の作り自体は何も変わっていないせいなのかも知れない。そう、この男性こそ神谷さんだった。五十代の神谷さんだ。今回は約五分あまり流していただけだったので、議論の中身はよく聞いていなかったが、今とは違って目がギラギラしていて、相手を食って掛かるような表情を見せ、口からは次から次へと止めどなく流れる様に言葉が紡ぎ出されていた。この頃から本人の言い方を借りれば多弁症だったらしく、司会が止めに入っても中々止めなかった。しかし、この時は繰り返すがキチンと聞いていた訳では無かったが、その発言には矛盾点は見付けられず、他の人がどう思うかはしらないが、私には発言が長く感じなかった。むしろ、もっと聞いていた気にさせられたのだった。
事あるごとに隣で義一が解説を入れてくれた。二十年前の一、二年の間、この番組の準レギュラーを張っていた事、討論の中での発言が当時の日本社会の中では異端だったので、その新奇さによって人気に火が着いたこと、その理由のために神谷さんが”黒歴史”と思っている事などだ。
「じゃあ、義一さんもこの番組を見ていたの?」
「え?えぇーっと…どうだったかな?」
義一さんはテレビとパソコンの電源を落とし、ソファーに深く腰掛けると、天井を見上げて考えて見せた。
「んー…まぁギリギリ見ていたね。先生は当時一緒に共演していた他の人達にほとほとウンザリしていたようでね、その番組のプロデューサーさんが必死に引き止めようとしたらしいんだけど、とうとう辞めてしまったんだ」
とここまで言うと、勢いよく私に顔を向けると、今度は無邪気な明るい笑みを浮かべて言った。
「それとほぼ同時に始めたのが…オーソドックスだったのさ」
「へぇー」
「さてと」
義一は私の返しに対してこれといった感想を言わずに、またトレイを持つと、いつものテーブルに戻したので、私もあとをついて行って座った。
「でね?」
義一はまた先程のように向かいに座ると、話を続けた。
「前に数寄屋で、先生自身が言ってた事を覚えてるかな?旧帝大で教授をしていたって話」
「うん、最後の教え子の一人が聡おじさんだって話だったよね?」
「そうそう、その通り。まぁ先生は初めからあんな感じだったらしくて、そもそもの所大学で教鞭を執るのにうんざりしていた時期だったらしいんだけれど、たまたまある問題が浮上してね、まぁある人物を教授に推薦するかどうかって話で、教授会の中で一悶着があったらしいんだ。まぁよくある話だし、大した話でも無かったんだけれど、先生は『これはチャンスだ』って思ったらしくてね、わざと他の教授たちとぶつかって、それでとうとう辞めてしまったんだ」
そう話す義一の顔は、呆れたような笑みを見せてはいたが、どこか誇らしげにも見えた。
「それでね、僕は当時まだ中学に入るかどうかくらいだったから知らなかったけれど、結構大きなニュースとして取り上げられたらしいんだ。でね、その騒動を引き起こした中心人物の先生をテレビに出せば、視聴率が稼げると計算した当時のプロデューサーが直接先生に出演依頼をしたらしいんだ。先生は勿論相手がどういうつもりで自分を誘っているのか分かっていたから頑なに断り続けていたらしいんだけれど、そのしつこさにとうとう折れて、一度だけって条件付きで出たんだ。その時の議題は女性問題についてでね、いわゆるフェミニスト相手に先生一人が奮闘するって感じだったんだけれど、先生が言うには、どうせこれが最初で最後だし、そもそも自分の名前は悪名高く全国に広まっているのだから、建前なんぞかなぐり捨てて、本音だけを話そうと思って、ズケズケと衒いなく話したらしいんだ。でね、その翌日、番組のプロデューサーから電話が掛かってきた…。先生が取るとね、相手がすごく興奮した調子で『先生、大変です!』って開口一番言ったらしいんだ」
「苦情の電話が沢山来てますって?」
と私が悪戯っぽく笑いながら返すと、義一も似た様な笑みを浮かべながら返した。
「ふふ、普通はそう思うよね?先生自身もそう思ったらしく『苦情ですか?』って聞いたらしいんだけれど、プロデューサーは益々興奮して見せて『いやいや、違いますよ!』って返した様なんだ。何でも、先生が出演された後、局の電話が鳴りっ放しになった様でね、それは視聴者からだったんだけれど、その半数以上が女性だったんだって。それでね、その電話の内容というのが、『今日出ていたあの人は一体どこの誰なんですか?今まで心の中では思っていたり考えていたりしていても、表立っては口に出来なかった事を、あの人は臆する事なくパァパァ発言してくれて、とても胸がすく思いがしました!これからもあの人を出してください。そうすればまた見ます』といったものらしいんだ」
「へぇー…」
当時は当然、義一が中学になるかどうかくらいだったから、そもそも私が生まれていないので知るはずも無いのだが、それでもその女性の気持ちはよく分かった。神谷さんもそうだが、義一に関しても言えた事だった。
「何となく、分かる気がする」
私がそう返すと、義一はニコッと目を細めて笑って見せると先を続けた。
「それでね、先生の弁を借りれば、本当は一度限りのつもりだったけれど、そんな風に言ってくれるのなら、もう一度くらい出てみようかなって思ったんだって。それで出るたんびに、そんな電話などが来てるって言われて、それでまぁ…嬉しくなったってんで、それでいつの間にか”準レギュラー”になっちゃったって恥ずかしそうに言ってたよ」
「…ふふ」
私は今の好々爺の神谷さんで想像したが、その照れ臭そうにしてる姿を思い浮かべると、何だか可愛く思えて思わず笑みが溢れた。
義一も私に微笑みをくれつつ、先を続けた。
「まぁ後は…さっきの話に繋がるんだけれど、それでもやっぱり嫌になって辞めて、また一人になったらしいんだけれど、テレビに出ていたお陰か、今まで疎遠だったある人から連絡が来たらしいんだ。その人が…そう、西川さんだったんだ」
「…あぁー」
ここでオーソドックスの筆頭スポンサーである西川さんの名前が出たので、すぐに察した。
「それでオーソドックスの発刊をスタートさせたのね?」
そう言うと、義一は満足そうに大きく頷いて見せた。
「その通り!これは君も話を聞いたと思うけど、丁度その頃西川さんもあの”数寄屋”の元になる廃れた店舗を見つけて思わず買ってしまった訳だけれど、丁度その頃にテレビで大学時代の先輩を見かけて、懐かしくて毎回見ていたらしいんだけれど、不意に出演を辞めると発表を聞いた西川さんは、本人曰くほとんど考えないままにテレビ局に電話を掛けて、先生の連絡先を問い合わせたらしいんだ。それで後日に先生と会って、もし今後予定が無いのなら、こんな事をしませんかって提案をして、先生も面白そうだと即座に乗った…これが、雑誌オーソドックスの誕生秘話だよ」
「なるほどねぇ」
私はそう呟くと、一口紅茶を啜った。義一も私に合わせる様に一口啜るのだった。
ほんの数秒間、久々に静けさが辺りを満たしたが、フッと短く息を吐いたかと思うと、義一はニタっと笑いつつ、少し小声で話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、今の話、先生には内緒にしておいてね?僕から当時の話を聞いたって知ったら、怒られちゃうから」
「ふふ、分かったわ」
私は義一の様子がおかしくて、半笑いでそう返したが、ふと一つの考えが浮かんだので、すかさず義一にぶつけてみた。
「…という事は、義一さん、あなたがそのー…高校生になりたての時に聡おじさんに連れられて数寄屋に行った時って、何となくだけれど…まだオーソドックスが出来たばかりの頃?」
そう聞くと、義一は少し腕を組み考える”フリ”をして溜めて見せたが、ふと顔を上げると明るい笑みを浮かべつつ返した。
「…そう、ほんの数カ月ばかりはズレてる筈だけれど、雑誌の黎明期から僕はあそこに通っていて、先生や他の人たちに色々と教わってきたんだ」


「へぇー、そうだったんだ…」
と私が返したその時、廊下の向こうで不意にガラガラっとけたたましい音を立てて玄関が開けられる音がした。廊下へのドアが開けっ放しだったので、余計にこっちまでよく聞こえた。誰かが向こうで動く気配がしたかと思うと、足音がこちらに近づいてきて、そしてその足音の主が”宝箱”の入り口付近に立った。その人はノースリーブの白ブラウスに黒のパンツを履いていて、色白の腕は程よく細く色気を醸し出していた。片手にはお土産なのかケーキが入ってそうな紙箱を持っていた。顔の表情は目元は顰めっ面風味だったが、口元はニヤケている。その上には特徴的なおかっぱヘアーを乗せていた。もうお分かりだろう?そう、絵里だった。相変わらずちょっとした時でもお洒落だった。裕美が見たら、また興奮して見せるのだろう。
「…ちょっとー」
絵里はゆったりとした歩みで義一をジトッと見つめながら言った。不満げだ。
「私は今日四時くらいに行くって言ってたでしょー?なのに何で出迎えてくれないの?」
そんな事を言うので、ふと部屋の古ぼけた掛け時計を見ると、四時ピッタシだった。
「いきなりまた随分な言い草だなぁー…」
義一は苦笑しか出来ないって感じだ。
「ふふ、いらっしゃい絵里さん」
と私の家でもないのに、不意にそんな言葉が口から出てそのまま投げ掛けた。絵里はそれに対して何も思わなかったらしく、紙箱を私たちの目の前のテーブルに置くと、いつもの様に(?)座ったままの私にガバッと抱きついてきた。
「琴音ちゃーん!会いたかったよぉー!」
「はいはい、私も私も」
私は敢えて無感情気味に、絵里の背中をポンポンと子供をあやす様に軽く叩いた。私から離れた絵里は、先ほど義一に向けたのとはまた違う種類のジト目をこちらに向けつつ、非難めいた口調で言った。
「まったくー…相変わらずあなたは冷めてるんだからぁ…。あ、ギーさん?」
「ん?」
「はい、これ!」
絵里は一度テーブルに置いた紙箱を手に取ると、義一の前に腕をめいいっぱいに伸ばして差し出しながら言った。
「これ、折角私がここに来る前に駅前まで行って買って来たんだから、お洒落なお皿に盛り付けて来てよ?…あっ!」
とここで絵里は、テーブルに乗っていた飲みかけのティーセットに目を落とすと、また義一に顔を向けて「私の分の紅茶もね?」と付け加えた。
「はいはい…」と苦笑まじりに返しつつ受け取ると、そそくさと宝箱を出てキッチンに行ってしまった。
「やれやれ…」
そんな後ろ姿を見送りながらそう言うので、私は吹き出しながら話しかけた。
「…ふふ、やれやれって…それは義一さんのセリフだと思うけれど?」
「…えぇー、琴音ちゃんはアヤツの味方をするのー?」
絵里は子供の様な不満顔を晒しつつ、先ほどまで義一が座っていた場所に腰を下ろした。私は何も返さず笑顔でいると、絵里は一度ふうっと息を漏らすと、ここに来て初めて優しい笑みを見せたかと思うと、口調も穏やかに話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、改めて予選通過おめでとう」
「…うん、ありがとう」
私もそう返しつつ微笑んで見せると、絵里は不意に大きく腕を天井に向けて伸ばして見せて、またさっきまでの調子に戻しつつ言った。
「…いやぁー、ギーさんがいる時、後でケーキを食べる時にでも言っても良かったんだけどさ、ほらー…やっぱり私としては、ちゃんと一対一の時に言っときたかったからね」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
絵里は目をグッと瞑りつつ今日一番の笑みを私にくれた。…かと思うと、不意に廊下の方に視線を流すと、また不満げに言うのだった。
「…まったくー、いつまで時間をかけてるのかなぁ?客人を待たせるなんて、まったくなっちゃいないよぉー。出迎えも無かったし」
「ふふ」
因みに今更だが、何故今日この場に絵里が来ているのかと言うと、まぁ…言うまでもなく、約束したからだった。以前にも話した様に、絵里にもコンクールの結果を知らせたのだが、その時に大袈裟にお祝いしたいと言い出したので、初めはそんな大層な事じゃ無いからと断っていたのだが、不意に今回の事を思いついて、義一の家でなら良いよと返したのだった。すると今度は絵里の方が渋り出したが、そこは私が何とか我儘を言って、飲み込んで貰っての今日という訳だ。
「でもさー?」
と私はテーブルに肘をつき、少し挑戦的な視線を流しながら言った。
「別に出迎えが無くてもいいじゃない?だって、絵里さんもここの合鍵を持っているんだし」
「ぐっ」
絵里はまるで漫画にでも出る様な声を漏らした。しかしこれは演技では無く素の様だった。
これはいつだったか…今いる宝箱に絵里が何度も足を運んでいるという話は、初めて三人であのファミレスに行った時に出た事だ。その時の話が、何回か絵里の家にお邪魔した時に出た時に、ポロっと絵里が漏らしたのだった。その時はすぐに口を塞ぐジェスチャーを見せたが、もう遅かった。そこから私は何故合鍵を持っているのか根掘り葉掘り聞こうとしたが、結局最初に戻るばかりで、何も得られはしなかった。まぁ恐らく、内容自体は大した事では無いのだろう。義一も、絵里にならと軽い気持ちで渡したに違いなかった。
「…それってどういう意味よー?」
絵里は立て直したのか、意地悪げな笑みを向けつつ、私と同じ様に肘をついて言ってきたので、
「さあねぇー」
と音程を変えずに間延び気味に、視線をズラしつつ返した。
とその時、
「…ん?どういう意味って、何が?」
「え?」
絵里は驚いた表情を見せて声の方を向くと、そこには幾つかある小さなケーキを盛り付けたお皿と、絵里の分のティーカップを乗せたトレイを持つ義一が立っていた。そしておもむろにそれをテーブルの上に置きつつ、視線を私たち二人に向けながら「何の話?」と聞いてきた。
私は面白がって話そうとしたその時、絵里は少し動揺を隠せないままだったが、何とか意地悪風を保って見せつつ言い切った。
「何でもありませーん。私たち女だけの話でーす。男で部外者のギーさんは、気にせんでよろしい!」


「ふふ、何だよそれー…」
義一はまた苦笑いを浮かべつつ絵里のカップに紅茶を注ぎ入れて、それから座ろうとしたが、ふと自分の座る椅子が無いのに気づき、絵里に話しかけた。
「…絵里さん?今あなたがお尻を乗せているその椅子は、私の座るものなんですけど?」
「お尻って…」
言われた絵里は、肘をついたまま、そばで立っている義一にニヤケ顔を向けつつ言った。
「それってセクハラじゃないのー?今のご時世、五月蝿いんだからね?」
「はいはい」
義一は絵里からの忠告(?)には一切気を止めずに、手で虫を払うかの様にシッシッと動かして見せた。
これ以上は冗談が続けられないと判断したのか、絵里は途端に素直になって、
「へいへい、自分の椅子くらい、自分で取ってきますよー」
と不貞腐れて見せつつ席を立ち、キッチンへとトボトボと歩いて行った。そして、食卓にある椅子の一つを手に持って戻ってきた。
私がいない時は当然知る由も無いが、椅子が二人分しか常備していないので、こうして私がいる時は絵里自らキッチンから椅子を一つ持ってくるのだった。
絵里は自分の椅子を廊下側のドアを背にする様に置くと、そこに座った。
座るなりカップを手に持つと、私と義一を交互に見て、最後に私に笑顔を向けると、手を前に突き出して言った。
「さて、では琴音ちゃんの予選通過を祝って…かんぱーい!」
「かんぱーい」
カツーン
これもいつも通りというか、まるでお酒で乾杯でもするかの様に、各自のカップを軽くぶつけ合って一口飲んだ。義一と二人ではまずしない事だったが、絵里とはこの習慣は続いていた。
それからは、絵里が持ってきてくれたお土産のケーキを三人で仲良く食べた。その間の会話は、私の学校生活やコンクールの話に終始した。約束通りというか、どうしても見たがっていたので、義一に見せる時とはまた違った意味で恥ずかしがりつつも、絵里にスマホごと渡して見せた。絵里は一々オーバーリアクションを取りつつ一枚一枚見ていったが、ふとある写真の所で指を止めた。
「何?どうしたの?」と斜め向かいに座る私は、少し腰を浮かせて画面を覗き込んだ。それは、先ほど義一が見ていた私とお母さんと師匠の写真だった。
絵里はそんな私の様子には目もくれずに、元々クリクリっとしてる目を大きく見開かせながら凝視した。
しばらくして、私にスマホを返してきつつ、少し動揺している様な素振りを見せつつ話しかけてきた。
「ありがとう、琴音ちゃん…。ところでー…最後の一枚に写っていたのって…勿論あなたの関係者よね?」
「へ?」
私はホーム画面に戻そうとしているところだったが、妙なことを聞かれたと画面をそのままにして声を漏らした。そして、確認するまでも無かったが、一応その写真を一度見返してから「うん、そうだよ」と返した。
「これが私のお母さんで、こっちが私の師匠」
私は絵里に見える様に画面を向けつつ、指で一人一人指差して紹介した。すると、絵里の目はまた大きく見開かれた。そんな妙な様子に義一も気づいたらしく、何事かと言いたげな表情を浮かべていた。
そんな義一には見向きもせずに、絵里は何か困った様な表情を見せたが、今度は若干苦笑気味に私に話しかけてきた。
「琴音ちゃん…驚かないで聞いてね?」
「ん?何?」
何を話されるのか予想もつかないと、要領を得ないといった風で返した。すると、また何かを言い淀むかのようにワンテンポ間を置いたが、今度は少し目力強めに真っ直ぐ私の目を見てきて言った。
「この…あなたのお母さんだっていう女性ね…私、知ってる人だわ」
「…え?どういう意味?」
私はそう返したが、咄嗟に以前から漠然と思っていた事を思い出していた。絵里は私の質問に、間髪入れずに苦笑いのまま返してきた。
「あなたのお母さんね…私の実家の生徒さんだわ」
…やっぱり。
「…へぇ」
私はいうべき言葉が見つからず、とりあえず間を埋める様に声を漏らしてみた。
「それって…目黒の?」
今まで静かだった義一が、少し真剣な面持ちを絵里に向けつつ聞いた。
「そう」
それに対して絵里も、同じ様な表情を義一に向けつつ短く答えた。
その後は数秒ほど沈黙が流れたが、不意に「んー…」と義一が空気を変える様に大きく伸びをして呑気な声を上げると口火を切った。
「随分と世間が狭いなぁー…。瑠美さんが通っている日舞の教室が、まさか絵里の所だったなんて」
「…まぁ」
と私もそんな呑気な調子につられる様に苦笑いをしつつ言った。
「何となくそんな気はしてたけどねぇー…絵里さんとこが、目黒だって時点で」
「んー…私もそんな気はしてたんだけれど」
と絵里も何だか私たち二人が呑気な調子でいるのに納得いかないって言いたげな顔つきだったが、空気に合わせて苦笑気味に言った。
「絵里は今まで気付かなかったの?ほら…苗字で分かるじゃない?」
と義一が聞くと、絵里は少し不満げな顔を見せて、ジト目を向けつつ答えた。
「知らなかったよー…。だって、さっき知ってるとは言ったけれど、見かけた程度だったし…。私の生徒さんじゃなくて、多分…お父さんかお母さんの生徒さんだもの」
「そっかぁ…」
義一がそう漏らすと、また今度は重苦しい空気が流れた。勿論その訳は知っていたが、私も自分で思うよりも呑気に構えていたのだろう、早くこの気まずい沈黙が過ぎないかと、どう打開すべきかに頭を悩ませていた。
「…うーん、参ったなぁ」
ふと絵里が困り顔で耳の裏あたりを指でポリポリ掻きつつ、正面を向いてはいたが、視線だけ私に流して言った。
「これって、どう考えたら良いんだろう…?もしこの辺りで、私と琴音ちゃんが一緒にたまたまいる所を見られても、”仲の良い図書館司書”って事で、そこから先は追求されないかなぁーくらいに考えていたけれど…」
この話は、小学生時代に、既に絵里と口裏を合わせていた。
「まぁ…教室で数回たまたますれ違ったくらいだから、私が覚えていても、あなたのお母さんが覚えておられるかまでは確信が持てないけれど…こういった所から変に綻びが出て、終いにはギーさんの事を悟られ無いとも…限らないんじゃないかな?」
と最後に、今まで私に向けていた視線を義一に流して言い終えた。
「うーん…」
今の絵里の発言に、私もその可能性を吟味してみようとするあまり、自然と声がまた漏れたが、義一も同時に漏らしていた。
また暫く沈黙が流れたが、腕組んで考えていた義一が不意に顔をあげると、絵里に話しかけた。
「うーん…まぁ確かに、今回の発見はイレギュラーっちゃあイレギュラーだけれど…それって、僕の所まで及ぶ話かなぁ?」
「…それって、どういう意味よ?」
そう返す絵里の目は、先ほどにも見せたジト目ではあったが、側から見てても分かる程に、真剣に怒っている様にも見えた。敢えて私の感想は述べないが、これには色々な感情が含まれていただろう…。勿論、絵里個人の感情もだ。
だが義一はどこ吹く風といった調子で、淡々と返すのだった。
「どういう意味って…そのまんまだよ。今絵里、君自身が言った様に、そもそも瑠美さんは琴音ちゃんに”仲の良い司書さん”がいる事は知っているんだし、それが仮に自分の通っている日舞の教室の先生の一人だって知っても、その偶然に対して、さっきの僕みたいに世間が狭いと驚きつつ喜びこそすれ、そこから僕のことを連想するまでは行かないだろ?…別に、そんなしょっちゅう君と一緒に外を出歩くわけでも無いんだし」
最後にそう言うと、これまた淡々と紅茶を啜った。
「そ、そりゃあー…そうかも知れないけど…」
絵里は何か言いたげだったが、それを言っても仕方ないと思ったか、渋々と両手でカップを包み込む様に持つと、静かに紅茶を啜るのだった。
一連の流れを私は黙って聞いていたが、流石に”この手”の話に疎い私でも、義一に対してデリカシーが足りないなぁと言う感想を抱いた。なかなか難儀なもんだなぁ…
確かに絵里の言った通り、どこかで予測はしていたものの、こうしてハッキリと絵里とお母さんの間に関連性がある事が証明されてしまうと、途端に言い様のない不安感に苛まれた。だが、確かに義一の言う通り、今の所はそれがバレてしまった所で、そこから義一との関連性が疑われるとも…絶対に無いとは言い切れないとは思ったが、可能性は”今の所”無い様に思われた。…その事実を、絵里がどう思ったかは兎も角としてだ。
「はぁー…まぁいいわ」
絵里は表情から緊張を解くと、ため息交じりに苦笑気味に言った。
「確かにギーさんが言った通り、今の所この件についてアレコレ悩んで考えて対策練ろうにもしょうがない…か。その時になって見ないと分からないものねぇ…いい加減で悪いけど」
と最後に済まなそうに力なく笑いつつ私の方を見てきたので、私は若干アタフタとしてしまったが、フッと一度微笑んで見せてから、頭を座ったまま深々と下げて「…ごめんなさい」と声のトーンを落として、心からの気持ちだと伝わってくれる様に言った。
すると今度は絵里がアタフタし始め、「ちょ、ちょっとー、何もあなたがそこまで謝ることじゃ無いったらぁー」と言った直後に、これまた思いっきり不満げな表情を浮かべて、ジト目で義一を睨みつつ言った。
「全ては、この男がしっかりしないのがいけないんだから!」
「何だよー…」
と義一も不満げに返していたが、不意に照れ臭そうに笑いつつ頭を掻きながら「まぁ…否定が出来ないのが辛い所だな」と言うので、
「でしょ?」
と絵里が悪戯っぽく笑いつつ返した。その後は一瞬間が空いたが、三人顔を見合わせると、やれやれと言った感じで最初は苦笑い、途中からは明るく笑い合うのだった。
それからはコンクールの話もひと段落ついたので、今度は絵里が”師匠”のお別れ会の写真を見たがったので、義一はまた立ち上がり、書斎机の上に置いたデジカメを取ってきて、絵里に手渡した。絵里は一枚一枚丁寧に、私のコンクールの写真と同じ様に丁寧に見ていったが、一つだけ違ったのは、私の写真を見る時には明るい笑み、時にはニヤケて見せていたのが、今回の場合は終始優しげな微笑みを浮かべていた事だった。
…ここで軽く説明がいるだろう。そう、もうお分かりの様に、絵里も”師匠”の事を知っていた。…というより、私と同じくらいに”ファン”だった。きっかけも私と同じだ。つまり、義一から薦められたとの事だった。映画もそうだったが、何度か絵里のマンションにお邪魔した時に、ふと本棚に、”師匠”の書籍が並んでいるのに気付いた。その事に触れると、何だか気恥ずかしそうにしながら、実は落語が好きで、そのキッカケが、これまた義一だったと照れ臭そうに話してくれた。何だか自分の恥の部分を話すかの様に見せたので、その時私は満面の笑みを見せていたと思う。
とまぁ、そんなこんなで、”師匠”が亡くなったという報道が流れた時には、絵里からその事について連絡は無かったが、今こうして”師匠”の件について語り合うのだった。
「…そういえば私ね、”師匠”と直接話した事があるんだよー」
「えぇー、いいなぁー!…って、何で?どうやってそんな機会を得たの?」
「それはねぇ…」
私はここで義一に視線を向けて、無言のまま話していいかを聞いた。義一はすぐに察してくれた様で、微笑みつつ頷いてくれたので、絵里の質問に答える事にした。
「絵里さんは知ってるか分からないけど…義一さんがよく行くお店で数寄屋っていうのがあるんだけれどね、そこの常連の中に”師匠”がいたの。それでいつだか行った時に、たまたま鉢合わせてね、そこで色々とお話が出来たんだー」
ありのままを話しても良かったと思ったが、何と無くこの様にボヤかしつつ話した。
すると、絵里はまた不満気にジト目で義一を見つつ、口調も合わせるかの様に言った。
「…あぁ、なるほどねぇー…あそこに連れてって貰ったんだ?」
「…え?絵里さん、数寄屋を知ってるの?」
私がそう聞くと、視線を私と義一と交互に流しながら答えた。
「知ってるというか…まぁ、存在を知ってるって感じかな?…アレでしょ?…”オーソドックス”でしょ?」
「え?オーソドックスまで知ってるの?」
私はさっきよりも声のトーンを上げ気味に聞いた。意外に重なる意外だったからだ。正直、絵里とあの雑誌が繋がらなかったからだ。
そんな私のテンションとは裏腹に、絵里はあくまで不満げな態度を変えずにそのまま返した。
「えぇ…この男に薦められてねぇ…隔月で発売日になったら、送ってくれるのよ」
「へぇー…で?」
「で?って?」
「…」
私は絵里自身があの雑誌を読んで、どの様な感想を抱いているのか、編集者でもないのに凄く気になった。だから問いかけてみたのだ。
絵里は私の質問の意図を汲み取ろうと考え込んでいたが、それが無駄だと悟ったらしく、何故か若干苦笑気味に返してきた。
「まぁー…雑誌自体は面白く読んでるよ。まず他では聞けない様な話ばかりだしね。色んな道で活躍している”プロ”が、その立場からどのように世の中を見ているのか、みんな赤裸々に語っているのが興味深いし」
「でしょっ!?だよねぇー」
「え、えぇ、そうねぇー」
私が思わずテンション上げ気味に返したので、絵里は若干引きつつも笑顔で同意してくれた。
…そっか、絵里さんもそうなんだ…。
「ふふ」と思わず笑みが溢れてしまったが、その時絵里は、今日ずっとの気がするが、今回はどちらかと言うとからかい気味の笑みを義一に向けつつ言った。
「まぁ…普段から何を考えてるか分からんこの男の事も、少しは知れる気もするしねぇー…。何だっけ?最後の方に書いてるコラムみたいなの?アレを読むとね」
そう言い終えると最後にこちらに無邪気な笑みを向けてきたので、私もクスクスと笑って見せるのだった。
「また無駄に人を読ませる様な文才が下手にあるせいで、それがタチが悪いよ」
「あのねぇー…」
とそれまで黙って私と絵里のやり取りを、表情柔らかく聞いていた義一が、ここにきて絵里に対して相変わらずの呆れ笑いを向けつつ言った。
「それって、褒めてくれてるんだろうけど…もっと良い言い方無かった?」
「…えっ!?」
話しかけられた絵里は、座ったまま大きく仰け反って見せた。
そして次の瞬間には体勢を戻すと、テーブルに肘をついてニヤケつつ返した。
「褒めてあげたんだから、それ以上の事は求めないでよぉー。…私、どっかの誰かさんと違って”語彙力”が無いから、これ以上の褒め言葉を知らないのよ」
「ふーん…そっかい」
「ふふ」
義一が珍しく拗ねて見せたので、それが珍しく面白く、私はまた自然と笑いが出てしまった。それを見た義一と絵里もその直後に顔を見合わせると、その瞬間はジト目を向け合っていたが、クスッと笑い合うのだった。
それから少しの間、何故私が数寄屋に行く事になったのかを聞かれたので、正直そのままに話した。そこでした会話の内容なども掻い摘んで話すと、絵里は驚いた表情を見せたり、呆れた表情を見せたりと、百面相を演じて見せてくれた。私が話し終えた直後、また絵里が義一に説教しそうな雰囲気を出してきたので、その前にすかさず横槍を入れた。私が進んで連れて行く様に頼んだ事を話すと、一瞬何故か絵里は哀しげな表情を私に向けてきたが、その直後には、呆れともなんとも言い難い表情で笑いつつ、「あなたがそう言うなら、良いけど…」と言ったので、安心したのも束の間、その直後に絵里は意地悪くニヤケつつ指で私のおでこをツンと押すと、
「一人の女の意見として言わせて貰えれば…、この男の様になるのは、オススメしないな」
と言った。
私はおでこを摩りつつ、こちらもとびっきりのニヤケ面を晒して
「分かってるよ!」
と返した。
「何だよー、二人してー…」
と義一がまた非難めいた声を上げたが、それを尻目に二人してまたクスクス笑うのだった。
それからはまた”師匠”に対して、それぞれが想い想いの話をしていたその時、「あっ!」と声を出したかと思うと、義一は不意に立ち上がり、また書斎机の方へと歩き出した。そして、机の陰に隠れる様にしゃがんだので、私たちの位置からは見えなかったが、何だかガサガサ音を立てていた。暫くして立ち上がると、手に何やら紙袋を手に持って戻ってきた。そしてそれをテーブルの私に近い辺りに置くと、笑顔で言った。
「これなんだけれどね…?是非君にって」
「え?これって…?」
「ふふ、見てみてよ」
「う、うん」
私は薦められるままに紙袋をまず持ち上げようとしてみると、思った以上にズッシリ重くてビックリした。持ち上げられなかったのだ。私は諦めて床に置いたまま中身をみると、そこには古ぼけた文庫本サイズの本が、約三〇冊ほど入っていた。私は何が何だか分からないと顔だけ義一に向けると、義一は何も言わずこちらに微笑みかけてくるのみだったので、聞くのも無駄だと判断した私は、改めてまた中身を覗き込んだ。視界の端で、絵里もこちらを興味深げに見てきていたのも見えていた。
取り敢えず中から一冊だけ取り出して見た。それは相当な年代物らしく、ページの側面なり上面なりが真っ茶色に変色していた。古本特有の、表現するなら甘い香りが仄かにした。と、至る所に色んな色の付箋シールが貼られているのに気付いた。それは十やそこらでは聞かないほどだった。他の数十冊にも貼られていた。表紙を見た。そこには”ジョーク集”と書かれていた。
それを見た瞬間、数寄屋での情景を一気に思い出したので、聞くまでも無かったが、敢えて義一に聞いてみることにした。
「これってまさか…”師匠”の?」
「…うん、そうだよ」
義一は私の手元にあるジョーク集の一つを見つめつつ、優しい口調で返した。絵里一人だけが何の事なのか分からないって風で、私たち二人を交互に見てきていた。まぁ、当然というか、仕方のない事だろう。ある意味、遠回しに説明するためにも、思い出した”師匠”との最後の会話の中身を話した。そして言い終えると、一度また自分の中でその事実を噛み締めてから、ボソッと
「…あの約束、覚えてくれていたんだ…」と溢したのだった。
義一は大きく一度頷くと、静かな口調で言った。
「うん…。何でもね、”師匠”はもうあの数寄屋に行ってた時点で、もう死ぬ気でいたらしくてね、それで処方されていた薬をだいぶ前から飲んでいなかった様なんだけれど…」
「うん…」
今義一が話してくれた事を、私はしっかりと飲み込みつつ聞いていた。もしこの時初めて聞いていたら、動揺したかも知れない。…いや、下手したら泣いてしまったかも知れない。でもこの事実は、”師匠”の訃報が報道された時に義一に貰ったメールの中に書かれていたので、その時にはお父さんの事もあってショックは大きかったが、今は落ち着いて聞くことが出来ていた。
「もう死期が近いと察していたらしくてね、モタモタしてたら間に合わないと、あの後迎えに来たお弟子さんの一人に、『自分が死んだら、あの子に俺のジョーク集を全部上げてやってくれ』と頼んだらしいんだ。それで…」
義一はふと、紙袋に目を落とした。
「お別れ会の時に、そのお弟子さんに会ってね、これをお嬢さんにって渡してきたんだ…。それが、これさ」
「…なるほど…ねぇ」
私は一連の話を聞いていて、少しばかり目頭が暑くなるのを感じていたが、涙が溢れるまではいかなかった。ただシミジミと「そっか…」と何度も呟きつつ、おもむろに無意識的に何冊か紙袋から取り出し、ペラペラとページをめくった。
「…私も良い?」と神妙な面持ちで、控えめな口調で絵里が聞いてきたので、私はそっと微笑み返して小さく頷いた。
それから四、五分間は、三人で何となしに感想を述べながらスラスラと読んでいた。付箋が貼られている所を見てみると、知らないものが多かったが、高座で語られたジョークもいくつかあった。これはまた別の機会に、”師匠”の弟子の一人から聞いた話だが、付箋の色でA、B、Cとランク付けをしていたらしい。Aなら面白い、Bはまぁまぁ、Cは客が玄人だったらぶつけてみる…といったものだ。
初めて義一たちと軽く流して読んだ時には、そこまでは分からなかったが、これは無粋だと思い口にしなかったが、やはり”師匠”は落語を含むお笑いという芸能が誰よりも好きで、こうして飽くなく…これが無粋だが、研究をしてきていたのだなぁっと、深く感心し、そして、義一キッカケとはいえ、最後まで”師匠”のファンで良かったと一人で感傷に浸るのだった。
ここでふと誰ともなく時計を見ると五時間近だったので、リクエストはされなかったが、私がおもむろに「折角だから、コンクールで弾いたのを、何曲か弾こうか?」と言うと、すぐに義一と絵里が喜んで見せたので、義一の座る椅子の真後ろ辺りにあるアップライトピアノに歩み寄り、座り、蓋を開けてと準備を済ませ、ここでハッと気付き、一度立ち上がると、二人の顔をジッと見た後にニコッと微笑み、大きく一回お辞儀をした。コンクール仕様だ。すぐに察したようで、二人ともノリ良く拍手をしてくれた。顔を上げて、その拍手に笑顔で返すと、スッと椅子に座り、大きく伸びや指のストレッチを軽くしてから、一度深呼吸をして弾き始めた。
緊張をしてないせいもあって、本番でトチってしまった部分も改善して、完璧に弾いて見せることが出来た。弾き終えると、義一が拍手をしようとしたその瞬間、絵里が勢いよく立ち上がり、これまたその勢いのままに座る私に抱きついてきた。今回は前触れもなかったので、慣れてるとはいえ驚いてしまったが、今度は往なすような真似はせず、私からも抱きしめ返すのだった。その向こうで、満足そうに微笑む義一の顔も見えた。そんな土曜日の夕方だった。

午後一時の原宿駅。改札を出ると照りつける太陽が燦々と降り注がれて、風が吹いても熱気が巻き上げられるのみで余計に暑さを際立たせた。昔からお気に入りの麦わら帽子を被り直し、信号を渡り右手に切れて、土曜日という休日のせいか、この暑さの中だというのに人通りが多い中を、うんざりとした心持ちで待ち合わせ場所へと向かった。といっても、信号を渡ってすぐの、大きな木が植わっている喫煙エリアのすぐ脇だったので、人通りからはすぐに抜けることが出来た。と、その待ち合わせ場所に着くと、向こうで一人の長身な女の子が、何やらお姉さんに声を掛けられていた。濃い青色のサロペットを身に付け、その下には淡いピンクの緩めのタンクトップを着ていた。足元は黒のパンプスで、手に持ったミニバッグも黒だった。…ここまで引き延ばす必要は無かったかも知れない、そう、彼女は律だった。
私は自然と溜息を漏らしつつ律に近寄って、側の女性を無視しつつ話しかけた。
「…何してるの、律?」
「…あ、琴音」
そう挨拶してくる律の表情は、相変わらず変化に乏しかったが、口調からは安堵が見られた。
「いや…そのー…」
と律が何かを言いかけたその時、
「あのー…」
とまだ側から離れていなかった女性が、今度は私に興味津々な笑みを向けて来つつ話しかけてきた。
「お友達ですか?」
「え?え、えぇ…そうですが…あなたは?」
私は不機嫌さを顔中で表現して見せたが、女性はひるむ様子を見せない。そのまま”営業スマイル”を顔に貼り付けたまま、どこからか名刺を取り出すと、私に差し出してきつつ言った。
「私は〇〇という芸能事務所の者なのですが…芸能界には興味がありませんか?」
「…」
先ほどは狙ってだったが、今度は自然ともっと顔中に渋味を浮かべたと思う。
…これを話すと色々と誤解が生まれそうだが、あえて言わせて頂くと、このように見知らぬ人から話しかけれられるのは、今回が初めてでは無かった。私個人で言えば、記憶には無いのだが、小学生の頃に、ママ友達同士でのお茶の場で、お母さんがそんな話をしていたのを聞いていたのを覚えている。中学に上がってからは、何故かこうして律と二人でいる時に限って、普段以上に声を掛けられる事が増えていた。でもその分、変に慣れてしまった事もあって、あしらい方も心得ていた。
「すみません、興味無いので他を当たって下さい。…行こ?律」
「…うん」
「あ、ちょっと…」
私は深々と麦わら帽子を抑えつつ頭を下げて言うと、律の手を取って、女性が引き止めようとする声を無視してツカツカっと歩き出した。
女性が見えなくなった所で手を離し、それからは人通りの多い、明治通りまでの緩い坂道をトボトボと、周りの歩調に合わせて歩いて行った。
「…ふう、撒けたわね」
私が溜息交じりにそう言うと、隣で律がクスッと小さく笑ってから返した。
「…撒けたって言いかた…。まぁでも確かにそうだね」
「…ふふ」
ただでさえ晴天のピーカン照りの中だというのに、人混みの熱気のせいで、余計に暑さが何割か増しになっていた。
「…しょーがない。どっか喫茶店に入ろうか?」
「…そうだね、あの待ち合わせ場所に戻ると、またあの人に見つかるかも知れないし…藤花たちには悪いけど、場所を変更してもらわなくちゃ」
因みに今日は期末テスト後の、私たちの学園の言い方で言えば”テスト休み”、終業式までの約一週間、謎の休みがあるのだ。…って、これは前回にも話した事があったか。今日は私たち五人の予定が合ったというので、結構久々に集まって遊ぼうという話になったのだ。ただ内訳を話すと、午前中から時間があったのは私だけで、他の四人は何かしらの予定があった。まず律。律は今こうして私と一緒にいるという時点で、私と同じで暇だったんだと思われるかも知れないが、午前中は地元のクラブでバレーボールの練習をしていたらしかった。ただ、この連日の真夏日のせいで、熱中症対策というのもあって、早朝からの練習だったらしく、結構早い時間に終わったらしい。それで律は私と一緒に待ち合わせが出来たのだった。次に裕美。裕美も律と一緒で午前いっぱい地元の水泳クラブで練習をするとの事だった。
律の場合と違って、室内でしかも水の中というのがあるのか、この暑さでも関係なく普段通りの練習をするとの事だった。 当初の予定では一緒に来る予定だったが、練習が少しばかり長引いて、待ち合わせの時間に遅れそうだというので、「アンタまで一緒に遅れちゃ悪いよ」と、先に行くように言ってくれたので、こうして私は一人で来たのだ。因みに藤花も同じような類いだった。今がどうかは知らないが、明日日曜のミサに向けての練習をしてから来るとの事だ。最後に紫。今更こう言っても誤解は無いだろうと思うが、一応念のために言っておくと、一番女子中学生らしい様な”一般的”な理由があった。いつだか触れたように、紫の家庭は、お父さんが中央官庁に勤めている官僚で、お母さんが企業に勤めるOLさんという共働き家庭なので、午前のうちに家事を全て済ませてから来るとの事だった。紫も裕美たちと同じ時間に行くと話していた。ここで一つ雑談めいた感想を言わせて頂くと、私たち五人の中で一番紫が偉く思えた。私含めて他の四人は、大変とは言え自分で好き好んで選んだ道を、自分勝手にただしているだけだというのに、紫は親の都合でやらざるを得ない家事をするのに、これといった不平不満を述べる事なくしているからだ。知っての通り、私は一人暮らしに向けて着々とお母さんという先生の元、家事を覚えていっているのだが、手を抜けばいくらでも楽に出来るのだろうが、もし完璧さを求めたら、これほど大変なこともないだろうと、大袈裟ではなくそう思っていた時期だったので、尚更そう思ったのかも知れない。
…と、また話が大きく脇道に逸れた。話を戻そう。
午後一時に先ほどの場所で待ち合わせていた訳だったが、こうして離れてしまったので、早速他の三人に連絡を入れようとしたその時、私のスマホに電話が掛かってきた。紫だ。
電話の主が紫だと律に伝えた後、すぐに電話を取った。
「もしもし?」
「あ、出た!ちょっとー、どこにいるのー?」
紫の声は不満タラタラだ。
「今ねぇー…」
私はふと周りを見渡すと、そこは丁度明治通りに着いた辺りだったので、その旨を伝えた。すると
「何でそんな所にいるのよー?」
と間延び気味に同じ声音で聞いてきたので、勿論電話越しだから伝わるわけが無かったが、不意に隣の律に苦笑を送った。律もそれだけで察したらしく、同じように送り返してきた。
「まぁまぁ…訳は後で説明するから。今律と一緒にいるんだけれど…」
「あ、律も側にいるの?」
と紫の声が聞こえたかと思うと、
「律もいるんだー」
という、トーンが高めの特徴的な声が聞こえてきた。その声の主はすぐに分かった。
「あれ?藤花も側にいるの?」
「…ふーん」
視線だけを流してそう聞くと、律は気持ち私に寄りつつ声を漏らした。「いるよー」と、おそらく背後からなのだろう、紫よりも小さい声だったが、藤花の返事が聞こえた。
裕美がまだ来てないかの確認だけ取ると、まだだと言うので、取り敢えず今私と律が立っている場所を教えて、そこで落ち合う事にして電話を切った。側に雑貨店が並んでいて、その軒先が日陰になっていたので、そこに律と二人で逃げ込んだ。その間に裕美にメールを打って、それが打ち終わったその頃、丁度向こうから「律ー!琴音ー!」という声が聞こえてきた。見ると、藤花と紫がこちらに向かって来ていた。藤花は満面の笑みでこちらに手を大きく振っていて、隣の紫は、やれやれと言いたげな呆れ笑を浮かべていた。
藤花は、胸元に小ぢんまりとした柄が描かれたシンプルな白地のTシャツに、ハイウェストのデニム地のショートパンツを履いていた。ウエスト部分にリボンベルトをしていた。足には真っ白なスニーカーと、シンプルではあったが、ガーリーな部分が残してある、如何にも藤花に似合っていた。紫も色は白と一緒だったが、フロント結びのトップスに、下はギンガムチェックのフレアスカートだった。如何にも、オシャレに気を使ってますっていった風だ。
一通り挨拶をした後、当然というか予想通りというか、何で待ち合わせの場所から移動したのか訳を聞かれたが、取り敢えずこの近所に来たらよく行ってる喫茶店に行こうと説得して、特に渋々だった紫を引き連れて、その喫茶店に向かった。
そこはいわゆる裏原に位置する所に構えており、人通りの少ない所にあるせいか、休日でも人が混んでいても騒がしかったりしないので、とても重宝していた。座れなかったり、待たされない点も大きかった。さっき裕美にも、この店に来てと連絡を入れて置いたのだった。この日もすんなりと席に通された。
店員さんに、後でもう一人来る旨を伝えると、各々が飲み物だけを注文した。今回は皆してアイスティーを注文した。裕美が来るまでは我慢するとの共通認識があったのだろう。
店員さんが人数分のアイスティーを持って来ると、まずみんなで一口ほど飲んで落ち着いた後、早速紫が訳を聞いてきた。
律が中々話そうとしなかったので、その事態は想定内だった私が率先して訳を話した。
「…だからね、律が”また”スカウトに引っかかっていたから、私が助けてあげてね、その場から逃げ出したのよ」
「ふーん」
私の向かいに座る紫はストローを加えつつ、そんな生返事をしながら律に視線を送った。紫の隣に座る藤花は、ニコニコしながら私と律を交互に見ていた。
「…まぁ、助けてくれたって言えばそうだけど…」
と、不意に隣の律が、私に視線を向けつつ静かに言った。
「…琴音が来た後は、その人、琴音に興味が移って、最後の方はどっちかっていうと琴音が絡まれていたけどね」
「え?そうだっけ?」
私は本気で疑問に思いそう返すと、向かいの紫は大きく肩を竦めて見せて「想像できるわぁー」と言った。「確かにー」と、隣の藤花もニヤケ面で同調してる。
「いやぁー…それはないでしょ?」
私はまた孤軍奮闘しなくちゃいけない雰囲気を感じながらも、負けじと何か反撃の手段は無いかと、隣の律をマジマジと見つつ言った。
「律が声を掛けられるのは分かるよ。だって…今日の律の服、とても律自身に似合っているもの。それに…みんなもね?」
と最後に向かいの二人を見つつ言うと、三人揃って照れ臭そうに苦笑い気味の照れ笑いをしていた。
「前から裕美が言っていたけど、本当に琴音は恥ずい事を恥ずかしげも無く言うんだからなぁ」
「ふふ…まぁ、ありがとうとは言わせてもらうわ」
「…うん」
藤花、紫、律の順にそんな事を口々に言っていた。私はここで、何とか逃げ切れると踏んで、最後に追い討ちをかけた。…が、これが失敗だったらしい。
私は自分の着ている服を見渡してから、
「それに引き換え…私はこんな地味な格好をしているんだもん。…スカウトの人だって、こんな私に興味を抱く筈がないでしょ?」
実際この日の私の格好は地味だった…と思う。さっき軽く触れたが、今は脱いでるがお気に入りの麦わら帽子に、肩が出るタイプではあったが真っ白のTシャツに、七分丈の細身のデニムだったからだ。
そう言い終えた私は自信満々でいたのだが、まず紫が大袈裟に大きく首を横に振りつつ、ため息混じりに言った。
「やれやれ…これだから姫様は…。何も分かっちゃいないんだから」「ふふ、これが”素”なのがタチ悪いよねー」
「…ふ」
紫が言うのをきっかけに、藤花と律も続いた。…律に至っては、ただ優しげな笑みを零しただけだったが。余談だが、普段物憂げな律が時折見せる柔和な笑みは、女の私から見てもドキッとするような大人の色気があった。
そんな考えもあったので、それを突っ込もうと思ったが、多勢に無勢、紫が私のことを”姫様”と称した事も突っ込めず、「何よー…みんなしてー…」と膨れて見せるしか出来なかった。そんな私の様子を見て、他の三人は顔を見合わせつつ笑い合うのだった。
それから約三十分後、グレーのVネックシャツに、デニムのショートパンツを履き、腰に赤と黒のチェックシャツを巻いた裕美が店内に入ってきた。遅刻を詫びる裕美に対して早速、紫を中心に先ほどの話がなされたのは言うまでもない。案の定と言うか、裕美も全く他の三人と同じ反応を示したので、結局今回も、私一人の負けという結果に終わった。ただ一つ、裕美も私の事を”お姫様”と称してきたので、今度ばかりは突っ込んだ。最後の虚しい抵抗だった。むしろそれによって他のみんなの笑みが増し、それにつられて私も笑顔を零すのだった。
それからは普通の女子学生らしい雑談を楽しんだ後、竹下通りに繰り出した。先頭を裕美と紫が率先してどんどん先に進んで行き、一歩下がった位置に藤花が、そしてそのまた一歩下がった位置に私と律が並んで歩くという、普段平日の学園生活と変わらないフォーメーションを組んでいた。まず先ほどの喫茶店で結局何も食べなかったから、クレープで腹ごしらえをして、その次に私たちがよく行く雑貨店に行った。そこは、派手めな物が好きな裕美や紫、可愛いものが好きな藤花、大人っぽい渋めな物が好きな私と律という、それぞれ異なった好みのタイプを、その店では一遍に済ますことが出来た。幅広いジャンルの小物が売られていたので、常連と言うほどでも無いとは思うが、原宿に行く事があればまず足を運ぶのだった。この時は、実際買った人と見ただけの人とで別れたが、お互いに満足し、次には実際に買い物をするわけでも無く、何となしにブランド店の立ち並ぶ表参道を歩いたりした。そして最後に、また竹下通りに戻り、プリクラを撮り終えた頃には夕方の六時になっていた。
藤花が明日があると言うので、これでお開きになった。藤花は気にしないでと言っていたが、そもそもの予定がそのくらいの時間だったので、それだけの旨を伝えた。藤花と律は地下鉄で帰ると言うので、私と裕美も同じと、ここでJRで帰ると言う紫と別れた。別れ際、自分だけが一人だなんてイヤだと寂しがって見せていたが、私たち一人一人が大袈裟に肩を叩いたり、頭を撫でたり慰めてあげると、つり目の目元を若干緩ませ、自分からネタを振ってきたくせに恥ずかしそうにしながら、地下へと続く連絡口の上から私たちが見えなくなるまで見送ってくれた。角を曲がる時に、一度立ち止まり、最後にお互いに大きく手を振りあった。それからは残りの四人で地下鉄に乗り込んだ。座席は人数分空いていたが、もうすぐだと藤花と律が言うので、私と裕美が座り、二人の荷物を私たちで持ってあげた。地下鉄が霞が関に着いた時、ここで乗り換えると言うんで荷物を返し、それを受け取った二人はそそくさと周りの邪魔にならない様に降りると、ちょうど私たちの座る前の窓の向こうに立ち、藤花は満面の笑みで、律は控え目だったが仄かに口角を若干あげる様な笑みを浮かべて見せた。そして電車が発進した時、お互いに手を振りあったのだった。
それからは裕美と二人で今日あった事を思い返しつつお喋りした。裕美はどう思ったか知らないが、何だか懐かしい久しぶりな感覚を覚えていた。中学二年になり、クラスも離れてしまったので、以前ほどの付き合いでは無くなってしまっていたが、それでもお互いに都合が合う、週に三度ほどは待ち合わせて学校まで通ったりしていた。だから本来なら久しぶりと感じるのは不思議な事なのだが、この時は気付いていなかったが、この日は一週間後に迫っていたコンクールの本選の事を、一瞬とはいえ忘れる事が出来ていたのが大きかったのかも知れない。五人全員で遊ぶというのは久しぶりだったので、自分でも思いがけない程に楽しく過ごせたのだろう。
私は買わなかったが、裕美は例の雑貨屋で小物を買っていたので、それを見せてもらったりした。具体的に言うと、黒のエナメルのポーチだった。そして、最後にみんなで撮ったプリクラを二人で和かに笑いながら見せ合い、この場にいない事を良いことに、好き勝手な感想を述べ合った。慌てて付け加えると、別に悪口では無いのであしからず。
そうこうしているうちに、電車は私たち二人としては懐かしの、受験期間に通っていた塾の最寄駅を通り過ぎ、乗り継ぎの駅で降り、乗り換え、地元の駅に着く頃には七時になっていた。

「あーあ、結局混んでるんだもんなぁー」
いつも通っている帰り道。街灯が少ないので、ほとんど真っ暗だ。前から人が歩いて来ても、十メートル以内にまで近付いてやっと判別出来るほどだった。人によってはとても寂しい町だと言うのを聞いた事があったけど、私はこの寂しさが何だか好きだった。
裕美はそう言うと、クルリと私の隣で一回転して見せた。腰に巻いていたチェックのシャツがフワッと広がり、まるでスカートの裾の様に見えた。
「ふふ、そうね」
私はそんな裕美の様子を微笑ましげに見つつ返した。
「この辺りは、あの電車しか無いんだもんねぇ…そりゃ混むわ」
「はぁー…これも、この辺りで生まれ育った、私の宿命なのかぁ」
「…ふふ」
急に裕美が芝居掛かった動作をしながら言ったので、今度は軽く吹き出してしまった。それを見た裕美は、何故か満足げなドヤ顔をこちらに向けてきつつ、その後には私と同じ様に笑うのだった。
それから五分ほど歩くと、裕美のマンションが見えてきた。
とその時、ふと裕美が立ち止まったので、私も釣られて止まった。そこは、私たち二人にとって色々な思い出の詰まった、例の小さな公園の入り口だった。裕美は公園の中を見つめたまま黙っていた。
「…?裕美、どうかした?」
いつまでも裕美がうんともすんとも言わないので、シビレを切らして私から話しかけた。すると、裕美は一度ウンと頷くと、私の方に顔を向け、明るさと静かさを織り交ぜたかの様な調子で話しかけてきた。
「…琴音、アンタ…まだ時間大丈夫?」
「え?えぇっと…うん、大丈夫だけれど…」
私は一応腕時計で確認してから返事した。すると裕美は一度ニコッと笑うと
「…久しぶりに、少し寄って行かない?」
と、公園に少し顔を向けつつ、視線を私に流したまま言った。
私はすぐには裕美の真意を掴めなかったので、本心では戸惑っていたが、それでも確かに今日は久し振りづくめだったので、そのシメには良いかと「えぇ、良いわよ」と快く笑顔で了承した。
「そう?良かったー!じゃあ行こっ?」
裕美は私は返事を返す前に、ズンズンと公園の中に入って行った。
「やれやれ…」と私は一人ボソッとゴチながら後に続いた。
…さっき戸惑ったと言って、その理由も話したが、それ以上に他の理由があった。それは…公園から漏れる薄明かりの下だったから、ハッキリとは見えなかったが、裕美が見せていた笑顔の中で、唯一その目の奥が、真剣味を帯びた光を発していた様に見えていたからだった。それが私に少し身構えさせたのは間違いなかった。
「こっち、こっち!」
と一足先にいつものベンチに座った裕美が、明るい調子で声を上げつつ私に”来い来い”と手招きをした。「はいはい」と私も苦笑まじりに返し、すぐ脇にゆっくり腰を下ろした。見上げると、公園に植わってある幹が太い桜の木々の枝には、桜花の代わりに新緑の葉が繁茂して、ただでさえ小さな光源の灯りを遮っていた。
考えて見たら、裕美とこうして、この公園に立ち寄るのは繰り返しになるが久し振りだった。お互いに忙しいのもあって、桜の時期にも公園を横切ることはあっても、こうしてベンチに座ってゆったりと過ごすことが無かったのだ。記憶が間違いでなければ、小学校の卒業式以来かもしれない。前回からそれだけ月日が経っていた。
私が頭上を見上げたので、裕美も同じ様に見上げた。暫くは、こうして薄暗がりのせいでロクに色合いを感じられない真っ黒の葉っぱを見つめていたが、不意にそのままの体勢で裕美が話しかけてきた。
「…しっかしアンタ…今日もまた街で絡まれたのねぇ」
ここで裕美がこちらを見てきている気配を感じたので隣を見ると、案の定裕美は私にニヤケ面を晒してきていた。
私は大きく溜息ついて見せてから、呆れ笑を含めつつ
「あのねぇー…だから違うって言ったでしょう?あれは律が一人でいた時に…」
と返すと、裕美は手で”ハイハイ”とパタパタ動かして見せつつ「分かった、分かった」と、ニヤケ顔をそのままに返すのだった。
「何が分かったって言うのよぉ?…何も分かってないじゃない」
「いやいや、ちゃーんと分かってるってー。…アンタがモテるって事は、小学生の頃からね」
「あぁー、言ったわねぇー!」
と私が肩を裕美の肩にぶつけると、裕美は明るく笑いつつやり返してきた。一通りやると、一瞬顔を見合わせて、その直後にはまたお互いに笑い合うのだった。何だか小学生に戻った様な心持だった。裕美もそうだっただろう。
「はぁーあ…ってそういえば」
一頻りジャレ合い笑いあった後、裕美に気を落ち着けつつ聞いた。
「今私を公園に行こうって誘ったのは何で?いや、久し振りだったし懐かしさもあって良かったんだけれど…まさか、こんなクダラナイ話をする為だとは言わないでしょうねぇ?」
「んー…まぁ、それもあるんだけれど…」
「あるんかい」
私は思わず突っ込んでしまったが、いつになく裕美の顔に真剣さが差しているのに気付いていた。
裕美は一度小さく息を吐くと、先ほどまでの様な明るい調子で話しかけてきた。
「アンタ…明日って暇?」
「…へ?」
思わぬ問いかけに、気の抜ける様な生返事をしてしまった。明るい調子ではあったが、先ほど見せた真剣さが抜け切れていなかったせいだ。そのせいで無理しているのが見え見えだったのだ。…まぁ、これは長い付き合いの私だから分かった事かもしれないけど。
「んー…あっ」
私はちょっと考えたが、明日の日曜日は重要な予定が入っていたのに気づいた。そう、来週の水曜日に開催されるコンクールの本選に向けての最終確認を、師匠宅でする予定になっていたのだ。
私はこの時点で、裕美が何のつもりでそんな話を振ってきたのか分からなかったが、少し気まずそうな素振りを思わずしつつ言い辛そうに返した。
「いやー…」
「いやー…?いやー…って何?」
裕美は何故かまた真面目な顔つきになって、ベンチに両手をつき、私にズイっと体ごと寄らせてきた。そのあまりの勢いに、私はその分ベンチの上を横滑りした。
私はすぐに返せなかったが、裕美の方でも何も言わずに真剣な眼差しを向けてくるのみだったので、私は仕方ないとホッペを掻きつつ口を開いた。
「いやー…そのー、ね、明日は先客というか…私に師匠いるの知ってるでしょ?その師匠の家でレッスンをしてもらう約束をしていたからー…明日は暇じゃないわ」
「ふーん…レッスンねぇ」
裕美は今度はジト目気味に私を見つつ、最初に座っていた位置に座り直した。私も元の位置に戻った。
「レッスンねぇー…」
そうまた一度呟くと、裕美はガバッと私の方に勢いよく振り向くと、今度は少し意地悪げにニヤケつつ話しかけてきた。
「アンタ…そこまで練習熱心だっけ?」
「…え?どういう意味?」
今度は私の方が少し裕美の方に体を寄せつつ返した。だが、裕美の方では引くことも無く、何故か自信満々な笑みを浮かべていた。
「どういう意味?そのままの意味よ。アンタは確かに、初めて出会った頃から熱心にピアノの練習をしていたよね?ただ…最近のアンタ、何だか以前よりも余計に熱が入っている様に見えるのよ」
「…え?」
ぎくっとした私は、先ほど裕美に詰められた様に少しばかり身を引いた。何を今から話されるのか、予測は少しは出来たが、そのまま言われるのを恐れていた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、裕美はふと正面を向くと、また明るい調子に戻して続けた。今度は自然だった。
「明日暇かと何故聞いたかというとね、実際に明日アンタが暇かどうかが重要ではないのよ。…まぁ暇だったら、久し振りに二人っきりで遊ぼうかなくらいには思っていたけれどね?私は暇だったし…」
「…」
『へぇー、そうだったんだ』くらいには思ったが、それを口にする事なく、ただ黙って先を待った。
「そう話を振ったのは、この事を聞きたいが為のフリ…」
そう言うと、裕美は今度はゆっくりとこちらに振り向いた。その瞬間は無表情だったが、その後には優しげな笑みを浮かべていた。そしてその表情のまま、口調も柔らかく言った。
「アンタ…今コンクールに出るんで、特訓してるんでしょ?」
「…」
一瞬何を言われているのか分からなかった。…いや、頭が理解するのを拒否したと言う方が正しいかも知れない。先ほど以上…いや比べ物にならない程の予期せぬセリフに、呆然としてしまった。
暫くして「…え?」と返すのが精一杯だった。
そんな私の反応は想定内だったのだろう。裕美は表情を崩す事なくそのまま静かなトーンで続けた。
「…ふふ、何で分かったのかって顔してるね?実はねぇ…」
そう少し溜めると、今度はニヤッと笑って見せつつ言った。
「私の母さんから聞いたの。アンタのお母さんから聞いたってんでね」
「…え?私のお母さんから?」
「そう!テスト期間に入る前だったかなぁー…夕食食べてる時にね、母さんが話してくれたの。『そういえば琴音ちゃん、今コンクールに挑戦してるんだってねぇ?今回が初出場らしいけど、こないだ予選を通過して、近々本選に出るらしいじゃない。偉いわねぇー』ってね」
最後にニコッと目を細めて笑って見せた。
…あぁ、そういえば、お母さんに誰にもこの事話さないでねと言ってなかったなぁー。
などとこの時にして、やっとツメの甘さに気づいた。この分だとヒロにも伝わっているかも知れない。
それが何だかすごく面倒な気がして、想像するだけで気が滅入ってきていたが、それを察したか…いや、流石にこれは察してはいなかっただろうが、裕美は愉快げな調子で言った。
「あはは、そんな表情しないでよー?このこと知ってるの、少なくとも知る限り、私だけだったから。それとなしに周りに話を振って見たけれど、何のリアクションも無かったから間違いないよ」
「そ、そう…?」
私はその根拠について後になって凄く気になったが、この時はそれよりも、この自体をどう収拾すれば良いのかに気を取られていて、それどころでは無かった。
とここで裕美は突然また正面に向き直ると、「んーーん!」と声を漏らしつつ、大きく伸びをする様に両腕と両足を大きく前に伸ばした。そしてストンと足を地面に下ろし、腕も元の位置に戻すと、一度私の方をチラッと見てから、投げやりな調子で声を出した。
「…あーあ、何でコンクールの事を私に話してくれなかったのかなぁー…」
そう言うと、今度は靴をベンチの縁辺りに起きつつ、片膝を抱える様にして、こちらを見つつ続けた。
「初めに聞くのが親経由って…それはそれで、流石の私でも寂しかったし、少し傷ついたんだぞー?」
と少しおちゃらけて見せたが、目は薄暗がりでも分かる程に真剣さが宿っていた。
「え、あ、いやー…そのー…」
「…まぁ、理由は分かるけれどねぇー…何となくだけれど。何せ、そこそこ長い付き合いだからね!」
私がどう返して良いものかと思いあぐねていると、裕美は片方の足を地面の上に戻し、こちらにとびきりの笑顔を向けて来つつ言った。それからまた正面を向くと、若干顎をあげて、目を瞑って見せ、淡々とした調子で続けた。
「…でもやっぱり、それでも琴音、アンタの口からキチンと聞きたいなぁー…何でそのー…”親友”の私に話さなかったのか…をね?」
「…ふふ」
裕美は途中まではその調子だったのが、”親友”と言うところで急に辿々しくなり、そのまま元に戻らず最後まで話きったのを聞いて、何も変わっていない裕美が嬉しくも面白くて、ついついクスッと笑ってしまった。「何よー?」とまだ照れ臭いのか、苦笑いを浮かべつつ言う裕美に対して、「んーん、何でもない」と私は自然な笑みをこぼしてから、気持ちを落ち着けて答えることにした。
「…あなたも知ってる様に、私は人前に出るのを極度に嫌っているわよね?それは今も変わらないんだけれど…。でも、そのー…裕美、あなたと知り合えて、自分以外にも何か一つのことに打ち込む人がいるんだって気付かされて、それでまた中学に入って、藤花たちとも出会えて、また他にもそれぞれで頑張ってる人がいるんだって知らされたんだ。そしたら…何だかいてもたってもいられなくて、それで今まで断っていた恥を忍んで、師匠に思い切ってコンクールに出たいって言ったの。師匠は何度も私に本気かと聞いてきたけれど、その度に意志を示したら、今度は途端に喜んでくれてね?それが…去年の十一月くらいで、それから今までずっと、これまでのただ単純に芸の腕を磨くってだけじゃなくて、コンクール用の特訓をし続けてきたの。で、そのー…その事について話せなかった訳はね、師匠に対してもそうだったけれど、裕美、あなたにも何度も人前に出たくない訳を話していた手前、中々言い出せなかったし、それに…何だか、先をずっと行ってる気がするあなたに、やっとスタート時点に立ったばかりの私が、コンクールの事を話すのが、そのー…単純に気が引けたのよ。…話としては、こんな感じ…何だけれど」
私は話しながら、所々で自分の吐いたセリフに自分で恥ずかしくなりながらも、何とかこれまでの経緯と思いの丈をつらつらと述べていった。その間裕美は正面に植わってある桜の木の幹をジッと見つめるかの様な体勢のまま静かに聞いてくれた。
私が話し終えると、ほんの数秒ほど沈黙が流れたが、
「…いやー」
と急に声を漏らしたかと思うと、裕美はこちらにゆっくりと向き直った。その顔は先ほど以上に苦笑いだった。
「…私から聞いたんだし、それなりに予想はしていたんだけれど…実際に面と向かって話されると、そのー…やっぱり恥ずすぎる!よくもまぁ、そんな恥じらいも無くスラスラと思いの丈を話せるわねぇ」
こう字面で見ると、中々に厳しい事を言ってる様に見えるが、実際は普段の呆れ笑気味でため息交じりの”裕美調”だったので、
「…ふふ、私だって流石に今回は”恥ずかった”わよ」とお返しとばかりに、呆れ調で返すのだった。
「あははは!」と裕美は声を上げて笑って見せたが、少しすると何だか少し顔の表情を曇らせつつ、何だか言い辛そうに言うのだった。
「はぁーあ、いや、ありがとう。キチンと何も隠す事なく話してくれて…。アンタはやっぱり強いね?」
「え?」
「アンタは強いよ。だって…そこまで自分の弱さを自覚して、それをしかもその相手に向かって吐露出来るんだもん。…私には出来ないよ。それに、アンタは今私の事を褒めてくれたでしょ?それはとても恥ずいながら、とっても嬉しかったんだけれど…でも結局、今年の大会も、三位に終わっちゃったしさ」
「…」
そうなのだ。あえて触れる事は無いだろうと思いそのままにしていたが、覚えておられるだろうか、去年の五月のゴールデンウィーク、久々に裕美は大会に出た訳だったが、結果は三位に終わった事を。その時の裕美は明るく次までに研鑽を積み、優勝すると所信を披瀝していた訳だったが、結局努力は実らず、前回と同じ様に三位に終わったのだった。しかも上位二人は、去年も負けた相手だった。この時もヒロと一緒に観に行ったのだが、大会が終わっての裕美の、何処と無く諦めが滲んだ笑みが今でも忘れられない。
その事に裕美は触れていたのだった。
私が返す言葉が見つからず黙っていると、「んーん!」と、裕美は先ほどの様に大きく伸びをして見せて、淀んだ空気を入れ替えるかの様にテンションを上げて見せつつ言った。
「湿っぽくなっちゃったなぁー…そんなつもりは無かったのに。取り敢えず、何が言いたかったのかというとねぇー…アンタのそのコンクール、本選っていつなの?」
「…え?えぇっとー…来週の水曜日だけど…?」
と私は思わず、最後を疑問調にして返してしまった。
一体何の話だろう…?
と頭を巡らせていると、裕美は思いっきり驚いて見せて声を上げた。「えぇっ!もう一週間も無いじゃない!」
「え、えぇ…そうだけど」
「うーん…来週の水曜…終業式の次の日かぁ…」
私がまだ戸惑っているのを他所に、裕美は腕を組んで何やら考えて見せた。私は何事かとジッとその様子を伺っていたが、ふいに裕美は顔を私に向けると、明るい表情を浮かべつつ、声のトーンも上げ気味に言った。
「…よし!私もその時、観に行くよ!」
「…へ?」
私はますます呆気にとられてしまったが、そんなのに気を止める様子無く、裕美は一人でテンションを上げつつ、私にまたグッと身を寄せてきつつ続けた。
「アンタのそのコンクールって、親とか先生以外にも観に行っていいの?」
「え?えぇっと…」
私は言われるがままに、予選の時の光景を思い出していた。
「…えぇ、大丈夫だと思ったけど」
「そう?良かったぁー!じゃあ…」
と裕美はここまで言いかけると、ふと私の両肩に手を置き、その後に満面の笑みを浮かべて
「応援に行くから、楽しみにしててよー!」と言った。
私はここでも少しばかり呆然としていたが、ようやく事の流れが把握出来たのか、自然と嫌嫌そうな渋い表情を浮かべると、不満げな声とともに言った。
「…えぇー、いいよ別にー…そんな観に来なくたってー…。面白くも何とも無いよ?」
私は今さっき裕美に”言えない理由”を話したばかりだというのもあって、本選とはいえまだまだの段階の時に、裕美にその姿を見せるのは、何だか気が引けたのだ。いくら裕美が、自分の事を謙虚に評価したとしてもだ。
「えぇー、何でよぉー…別にいいじゃなーい。…アンタ、忘れた訳じゃ無いよね?」
「え?何のこと」
裕美がおちゃらけ気味に不満を表現していたかと思うと、今度はまた意地悪な悪戯っぽい笑みを浮かべて続けた。
「ふふ、忘れた?お互いに小学生だった頃、立場は逆だったけど、アンタが私の大会を観に行きたいって言って、実際に観に来たこと」
「…あぁー」
この瞬間に、裕美が何が言いたいのか察したが、あえて何も言わずに、話の続きを待った。
「ふふ、思い出した?私が『いい』って言うのを制してまで、観戦にきた時の事を。だーかーらー…」
裕美は背筋を伸ばして座り直し、正面を向いて一度溜めてから、私に向き直り、明るいながらも静かな笑みを浮かべつつ続けた。
「今度は私の番。借りがある私が観に行く分には、何も文句は無いでしょ?尤も…文句を言われて止められてたって、どっかの誰かさんみたいに無理矢理にでも観に行くけどね?」
結局最後までその表情は止めることが出来なかったらしく、最後はまたニタっとニヤケつつ言い切った。
そんな豊かな表情の変化に、思わず知らず吹き出してしまい、
「何よそれー…」
と苦笑気味に返したが、狙ってやったかどうかは兎も角、少なくとも私の緊張を和らげる効果を発揮し、それと同時に安易に決断を誘発してくれた。
私は見るからに呆れたと言いたげな大きな溜息をして見せると、苦笑い顔をそのままに裕美に話しかけた。
「しょうがないなぁー…いいよ、裕美、あなたさえ良ければ是非観に…っていうか、聞きに来てちょうだい」
「…あ、本当に良いの?…やったー!」
裕美は私の言葉を聞くと、さも意外だと言いたげにすぐには受け止めなかったが、その直後には急に勢い良く立ち上がったかと思うと、両腕を天高く上げて万歳する様な動作を見せつつ声を上げた。チラッと見えていた公園の時計を見ると、八時ちょうどを指していたが、その時間でもこの辺りは薄暗く静かで、水泳をしているのと関係があるのか分からないが、よく通る裕美の声が辺り一面に広がって行く様に感じられた。
「ちょ、ちょっとー…大袈裟ね」
私は慌てて制しようとしたが、すぐに無駄だと悟ると、ただ呆れ調でそう言うしか無かった。裕美は顔だけを器用にベンチに座る私に向けると、またニターッと笑って見せ、そしてベンチに座った。今日ここに来て、一番近い距離だった。
「ふっふーん」
と裕美は座るなり、意味のない声を漏らしつつ、私にじゃれついて来たので、初めの頃は裕美の体に手を当てて押しのけようとしたが、結局は私も一緒になってじゃれ合うのだった。こういった所も、小学生時代と何ら変わっていなかった。我ながら成長しないのに苦笑もんだったが、今の所はそれで良いのかなっと思ったのだった。
それからは軽くまた雑談をして、それから笑顔で裕美のマンション前で別れた。


本選当日。朝の八時半。まだ朝だと言うのに容赦無く紫外線を降り注ぐ太陽の下、私とお母さんと師匠三人は、裕美のマンション前にいた。待ち合わせよりも十分ばかり早かったのに、既に裕美はエントランス前に立って待っていた。裕美もこの日ばかりはドレスアップしていて、まさに”余所行き”といった趣きだった。ハリのある生地で光沢の美しいネイビーのドレスで、光の当たり具合によっては濃いブルーにも見えるような綺麗な色合いだった。袖のパフスリーブやドレスらしいフィット&フレアのシルエットが、大人らしいのと同時に可愛らしく、水泳で鍛えられたスタイルの良い裕美によく似合っていた。腕には純白のミニバッグを下げていた。ショートボブの髪も、上手いことアップに纏められていて、それがまたドレス姿に合っていた。
裕美は私たち三人に気づくと、明るい笑みを浮かべつつこっちに手を振ってきた。私もそれに手を振り応じた。
「今日もあっついわねぇ」
開口一番、裕美は手でパタパタと顔に向けて仰いで見せながら、渋い表情で言った。
「本当ね」
私も短くそう返しつつ、マジマジと裕美の姿を見つめてから続けた。
「…ふふ、あなたの余所行き、初めて見たけど、よく似合っているじゃない?」
「そーお?」
裕美は私の前で一回転して見せた。ドレスの裾がフワッと広がったのがまた綺麗だった。
裕美は前屈みになると、目をギュッと瞑って見せると「ありがとう!」と言ったので、「どういたしまして」と私も笑顔で無難に返したのだった。
「あらホント!裕美ちゃん、そのドレス可愛いわねぇー。よく似合っているわよ」
ふと私の背後からお母さんが裕美に話しかけた。
すると裕美は、お母さんの姿を、私がさっきしたみたいに見渡した後、明るい笑顔を浮かべて言った。
「ありがとうおばさん!おばさんも、良く似合っているよ」
「ふふ、ありがとう」
今日のお母さんの服装は、前回の予選の時に着てきたのと同じ物だった。色は裕美と同じネイビーだったが光沢は抑えられていて、ジョーゼット生地のトップスには三段フリルが付いている、Iラインスカートのドレスだ。
「母さんが、よろしくと言っていました」
「ふふ、任されました」
お母さんは微笑みつつ裕美に返した。
裕美が本選を観に来る事が決まった後、そのすぐ後にはトントンと手筈が進んでいった。その流れで、一度裕美のお母さんも交えた食事会をしたのだが、その時は一緒に来る話になっていた。だが、急にどうしても抜けれない用事が出来たとかで、昨日の夜にわざわざ家まで来て、私に一緒に行けない旨を伝えたのだった。まぁ尤も、この為だけではなく、何かの用事ついでに立ち寄った様だったけど。逆にこっちが恐縮してフォローを入れたのは言うまでもない。
二人して軽く笑いあった後、裕美は私の姿も改めてマジマジと見ると、何故か一度長めに息を吐いて見せてから、呟くように言った。
「アンタは…ホント、この手のドレスがやたらに似合うのねぇー…ふふ、小学校の合唱コンクールで弾いてた姿を思い出すわぁ」
「やたらって…ふふ、褒めてくれてありがとう」
私は若干の棘が含まれていたのが気になったが、ここは素直に感謝を述べた。私の格好も、お母さんと同じ様に変わらず同じだった。やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。化粧や髪も朝早くに起きて、お母さんに一からセットをしてもらった。化粧も以前と同じだったが、ただ髪型だけは前回と違っていた。
予選の時は、右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものだったが、今回は去年の花火大会の時にしてもらった様な、三つ編みをいくつか作り、ゴムで縛っては軽く引っ張り崩す、この繰り返しで作り上げていく様な、いわゆる編み込みヘアーだった。私は同じにしか見えなかったが、お母さん曰く、少し品を持たせたコンクールバージョンとの事だ。
「…あっ、でもね、実際弾くときは、今着てる服じゃないのよ」
「あ、そうなの?」
「えぇ。それは…」
私は語尾を伸ばしつつ、視線をお母さんの手元に流した。それに釣られる様にして裕美も見た。お母さんの手元には、予選の時と同じ様に紙袋が握られていた。
「今お母さんが持っている、あの紙袋の中に入っているの」
「あ、そうなんだー…へぇー」
裕美がしげしげと見ていると、お母さんはフッと気持ち高めに紙袋を持ち上げて、ユラユラと得意満面の笑みを浮かべつつ揺らして見せていた。
「本番は違うのねぇー…ねぇ、本番では、どんな衣装を着るの?」
「え?それは…本番になってからのお楽しみ!」
と私が勿体ぶって言うと、裕美は私の肩を軽く指先でツンと指しながら「ケチー」と不満げに返してきた。だが、その直後にはお互いに顔を見合わせて、どちらからともなく笑い合うのだった。
「…ふふ、琴音のそんな様子は、何だか新鮮だわぁ」
とここで、今まで黙って微笑みつつ見守っていた師匠が口を開いた。私が咄嗟に師匠の方を向いたので、裕美も合わせて顔を向けた。初めて見るからか、少し顔に緊張を漂わせていた。師匠は、前回を反省して、地味な格好を試みようとしていた様だったが、場が場なだけに、それなりのドレッシーな格好を余儀無くされて、結局は前回と同じ格好に相成った。黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスだ。炎天下の中でもアイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットを羽織っていたが、下はノースリーブだ。メイクだけ前回と違って普段通りのナチュラルメイクをしており、クラシカルロングの髪も、少し高めの位置で束ねているのみだった。コソッと教えてくれたが、マスクを用意しているらしい。それが精一杯の変装の様だった。
裕美は、微笑んできている師匠に対し、ピシッと背筋を伸ばしたかと思うと、深々とお辞儀した。そしてすぐに起き上がると、顔を真っ直ぐ師匠に向けて挨拶した。
「初めまして。私は琴音の小学校からの友達の、高遠裕美と言います」
「あらあら」
師匠はそんな裕美の挨拶に、若干苦笑気味の笑みをこぼすと、途端にあっけらかんとした笑顔を見せつつ返した。
「そんな堅苦しい挨拶は無しにしましょう?…ふふ、アナタの事は琴音から良く聞いていたわ。今日は会えて嬉しい。…よく付いて来てくれたわね、歓迎するわ」
と言い終えると、目をギュッと瞑った無邪気な笑顔を見せたので、 裕美はその瞬間は戸惑い気味に「あ、い、いえ…」と返すのみだったが、初対面にありがちなある種の緊張がほぐれたのか、師匠に合わせた様な明るい笑みを浮かべて
「はい、今日はよろしくお願いします!」
と元気に返すのだった。
「うん、こちらこそよろしく!」
「…何だか、あなたの方が気合い入ってるわねぇ…」
と私が苦笑いで言うと
「あんたが気合入れ無さすぎなのよ」
と裕美は裕美で、ジト目を向けてきつつ、口元はニヤケ気味に返してきた。
そんな私たち二人の様子を、師匠とお母さんは微笑ましげに黙って見ていたが、ふと腕時計に目を落としたお母さんが声を挙げた。
「…っと、そろそろ行かないとね。では行きましょうか」

お母さんの合図の後に、私たち四人は地元の駅に向かった。出勤ラッシュのピークは過ぎていたが、それでも近くの人と肩をぶつけあわなければならないほどだった。
予選の時は夕方からだったが、本選は朝の十時半からだったので、この時間に出発した。今日の会場は、合羽橋にある固定300席のシューボックス型コンサートホールだ。予選時は平均的な教室くらいのサイズしかなかったのが、急にホールサイズに格上げだ。今回は事前に師匠に付き添って貰って、実際に会場に足を運んで見た。建物自体は近代的な作りをしており、正面の壁は一面がガラス張りになっていた。中に入ると、吹き抜けの構造になっており、天井が三階分ほど高かった。会場となるホールは、音の反射を考えて作られた木質のパネルが敷き詰められていて、外観とは違って、何だか温かみのある内観をしていた。見上げて見ると、天井も吹き抜けで、軽く十メートル以上はありそうだった。いくつもの照明が取り付けられていて、光を燦々と降り注いでいた。師匠はホールの中で周囲を見渡しつつ、
「自分の時にはこんなホールが無かった、もっと古びた所でやったなぁ」と、少し羨ましげに言っていたが、当の本人としては、急に大舞台に立つことになったので、ホールの奥の舞台を見たその瞬間だけ物凄く緊張した。だが、一度見ておいて正解だったと思う。自分で言うのもなんだが、当日を迎えた私の心持ちは、その時予想したよりかは落ち着いていた。ただ、なんとも言いようの無い、一口に言えば軽い興奮状態にあるだけだった。何だか無性に体を動かしたくなるアレだ。騒ついているとも言えるが、それは心地の良い類いのものだった。まぁそんな心理状態は、裕美には伝わっていなかったらしいが。
ついでと言ってはなんだが、聞いておられる中で、ある事について気になっている方も居ようと思うから、先に軽く触れておこう。
そう、それは…紫たちには伝えなかったのかという事だ。勿論その話は、裕美とあの公園で話している時にも出た。だが、正直胸の内を裕美に話すのがやっとだった私は、そのままなし崩し的に紫たちにも話すという気にはなれなかった。言うまでもないとは思うが、何も依怙贔屓してのことでは無い。ある意味、今の関係を大事に思うからこその態度だった。…まぁもっと露骨に恥を忍んで言ってしまうと、裕美が今回聞きに来るとまで話が進んだ後に、紫たちの事を考えると、何と言うか…憂鬱な気持ちになったのだ。裕美一人でさえ、ここまで動揺する程なのに、何の心の準備が出来ていないまま、他の三人を招待する気にはなれなかったのだ。恐らく、演奏どころでは無くなるだろう。…ここで、こんなツッコミが来るかも知れない。『お前だって、藤花の独唱を、何の前触れもなく聞きに行ったじゃないか』と。確かに、あの時は、藤花が自分がそんなに歌うことに対して真剣に取り組んでいる事を話していなかったのに、急に驚かせる結果になったが、ここで慌てて自己弁護をさせて貰うと、私個人でだが、正直何も知らされずに来て貰った方がありがたい。何故なら、本番のその時は、何も気にせずに演奏に集中出来るからだ。今回私が危惧しているのとは、大分条件が違うのだ。それだけは言わせて欲しい。
…何だか余計な話をしてしまったが、今のような事を、裕美にも話した。裕美は私が言ったことに理解を示してくれて、取り敢えず紫たちには内緒にしてくれると約束してくれた。
だが、一つだけ条件を出してきた。それは…”もし全国大会に出場することになったら、ちゃんと紫たちにも話すこと”というものだった。私はすぐには返さなかったが、その条件は当然だとすぐに思えたので、快く承諾したのだった。
…別に興味がある人はいないだろうが、本人が拗ねると面倒なので、一応触れておく。ヒロの事だ。ヒロに関しては公園での会話で出なかったのだが、その翌日に、裕美から連絡を入れていたらしい。師匠との最終チェックをした帰り道、裕美と落ち合って、またあの公園でお喋りした。裕美がどうしても会いたいからと連絡して来たので、結局昨日の今日でまた会ったのだ。その会いたい理由が、その件を直接話したかったかららしい。それを聞いた私は、練習後の疲れも相まって、物凄くウンザリした表情を浮かべたのは言うまでもない。裕美はそんな私の様子を見て愉快げにニヤケていたが、次の瞬間には軽く落ち込んだ表情を見せた。なんでも、コンクールの話をしたら、ヒロは凄く興味を持って、すぐにいつなのかを自分から聞いてきたらしいが、裕美が日程を伝えると、見るからにテンションを下げて、『その日は部活だわ…』と残念そうに呟いたらしい。と言う訳で、ヒロは本番には来れないということだった。それを聞いた私が安堵したのはそうだが、裕美はそのまま残念そうな面持ちのままだった。この時の私は、てっきり私に泡を吹かそうとした魂胆が実らなくて、それに対してがっかりしているものだと思っていた。それはさておき、しばらくそんな表情でいたのだが、ふと何かを思い出したような顔つきになり、私にニヤケ面を晒しながら、「そういえば、頼まれごとがあったんだ』と言った。それは何かと訝しげに聞くと、『出来る範囲でいいから琴音の勇姿を写真かなんかで撮ってきてくれ』と頼まれた事を、意気揚々と言った。それを聞いた私は、それについて渋々了承しつつも、またウンザリ顔を向けたのは言うまでもない。…とまぁ、そんなこんなで今に至る。
そのまま若干混み合う電車に揺られる事十五分、途中で地下に潜ったので、余計に息苦しさを味わいつつ、会場の最寄り駅に着いた。あまり人が降りなかったので、周りの人に断りつつ押し退けて、やっとホームに降り立った。少し皆して服装を直してから改札を出て、地上に出た時には、本選開始時刻の四十分前だった。
ここから会場まで十分ほどなので、ちょうど良い頃合いに辿り着けた。それからはほぼ一本道の道筋を、私は裕美と、お母さんは師匠とお喋りしつつ歩いていると、会場に着いた。一度見た時と、当然ながら外観は変わっていなかったが、正面玄関付近には、私たちの様にドレスアップした人々が大勢ひしめき合っていた。
予選の時とは雲泥の差ねぇ…
などと呑気な感想を持ったが、まぁ当然だろう。何せ今日は、東京に限って言えば、西東京と東東京とで別れている中の、私が入っている東東京地区の本選だったからだ。因みに裕美も、水泳でだが、東東京地区に入っていた。…まぁそれだけだが、本選のエントリーカードが届いた時に、表にそう書かれていたので、不意に裕美を思い出し、その共通項に一人にんまりしたのだった。話を戻そう。
「わぁー…凄い人ね」
裕美は御上りさんの様に周囲をキョロキョロ見渡しながら声を漏らした。
「うん…私も、こんなに多いのは初めて見た。…やっぱり東京ってだけでも、これだけの人がいるのね」
自分でも分かる程に、若干声が強張りながらそう返すと、ふと私の肩に手を置いてくる人がいた。師匠だった。
師匠はいつの間にかマスクをしていたので、なんだか今着ているドレスとチグハグで、私の目から見ると、余計に悪目立ちしそうな見た目をしていた。だが、これは余計な事だと判断して、黙ったままでいた。裕美が横目で、怪しい人を見るような目つきで師匠を見ていたのが印象的だった。
師匠はマスク越しからでも分かる様な、意地悪風な笑みを向けてきながら、置いた手を動かし、肩を揉みつつ言った。
「こーらっ。演奏する前から、そんなのに飲まれてどうするのよ?ほーら、リラックスしなさい」
「…はい、師匠」
その無邪気な子供の様な笑みを向けられて気が緩んだのか、自然な笑みを零しつつそう返した。
それからは、正面玄関に立っている係員の指示に従って、まず参加証を見せて、その次に他の参加者と関係者でごった返す掲示板の前で、四人揃って演奏の順を確認した。予選の時には、人数が少なかったせいか無所属の私が一番手だったが、本選ともなると、私以外にも無所属の参加者が幾らかいるらしく、無所属の中での一番最後だった。厳密に言えば五番手だ。その後には、予選と似た様なもので、このコンクールを主宰している所の教室に在籍している人の名前が書かれていた。
その中には、私と一緒に予選を通過した男の子の名前があった。姿は見ていないが、おそらく会場のどこかにいるのだろう。
参加者と関係者が別れる廊下のT字路に着くと、まずお母さん、そして師匠の順に軽く私に声を掛けてきた。お母さんは相変わらず「頑張ってね」と言った調子だった。そんなお母さんと入れ替わる様に師匠が近づいてくると、相変わらずマスクをしたままだったが、ふと周りを確認すると、マスクを顎の下辺りまで下げた。現れた表情は神妙な面持ちだったが、途端に先程私の肩を揉んだ時の様な笑みを浮かべて、また同じ様に肩に手を置くと、明るい口調で話しかけてきた。
「…琴音、さっきも言ったけれど、何にも心配のあまり緊張する事なんて無いのよ?間違ったって良い…本番で間違う事は、プロだって良くある事なんだから。もちろん、手を抜いていたという理由での失敗は論外だけれど、あなたは、今までこれだけの練習を積み重ねてきて、良くも悪くも手なんか抜けないような”完全主義者”なんだからね…誰かに似て」
ここで師匠は満面の笑みを浮かべた。そしてすぐ後に照れ笑いをするのだった。気を取り直すように、ワザとらしくコホンと咳払いを一度すると、また表情を戻して続けた。
「取り敢えず、観客がいないものと思って、思いっきり弾いてきなさい。もし舞台に上がって、観客が目についたら、その時は…昔ながらの手垢まみれな言い方だけど、客席を畑だと思って、そして観客自体を”かぼちゃ”だと思えば良いのよ…分かった?」
自分でも予め言ってはいたが、それでもいざ話してみると、そのテンプレートな言い方が恥ずかしかったらしく、その直後にはまた照れ笑いを浮かべていた。それを見た私は、かぼちゃ云々はともかく、師匠のそんな様子自体に励まされた。会場の外でのとはまた違った感じに緊張が解れた私は、「はい」と笑みを浮かべて返したのだった。
師匠と入れ替わりに、最後に裕美が私の前に来た。
裕美は会場の雰囲気に飲まれていたのか、師匠みたいな神妙の面持ちで一瞬私を見つめていたが、次の瞬間、ニターッと笑ったかと思うと、軽く前傾姿勢気味になり、
「…じゃあ、私、客席で見てるから。…私は、アンタも知るように”門外漢”なんだから、素人の私でも分かって、そんでもって楽しめる演奏をしてよね?」
と顔だけ近づけるようにしながら言った。
私はあまりのクダラナイ注文に、呆気にとられてしまったが、これが裕美流の緊張をほぐしてあげようとしてくれている気遣いなのは分かっていたので、
「何よそれー…別にあなたの為に弾くわけじゃ無いのよ?」
と苦笑気味に返した後、自分でも意図しないままに自然と柔和な笑みを浮かべつつ、色んな意味を含めた「ありがとう」を言った。その中身を知ってか知らずか、予想通り裕美はアタフタと動揺して見せて、私の”恥ずいセリフ”に対して抗議をしてきたが、それでも最後には「どういたしまして」と笑顔で返してくれた。そんな私たち二人の様子を、お母さんと師匠が微笑ましげに見てきている気配を感じていた。
それからは、お母さんから着替えの入った紙袋を受け取り三人と別れて、私はまず女子更衣室に入った。更衣室があるのも、予選とは違った所だった。ロッカーには他の参加者の女の子たちが、それぞれ着替えていた。私は避けながら、自分の参加証に書かれている番号のロッカーを探した。見つけると、通路の真ん中に設置された長椅子の上に紙袋を置き、まずロッカーを開けた。それから紙袋の中から、今日着る衣装を取り出した。軽く触れたように、予選とはまた別の、新たに師匠とお母さんとで買いに行った、さらな衣装だった。それは鮮やかなネイビーブルーのティアードロングドレスで、チュール生地を惜しみなく使って仕立てた豪華な4段のティアードスカートが、シックな色合いの中でも可愛らしさを演出していた。
裾にはテグスが通してあるらしく、たっぷりとボリュームがあった。光が当たると星屑のように輝くラインストーンが、胸元に散りばめられていた。腰には、ドレスの色と合わせると控えめに映る、大きめな黒のリボンがアクセントになっていた。
これは買ってもらった時から、あまり服に興味がない私でも大変気に入った一着だった。この日は、それをようやく着れるという喜びもあった。
着替え終えて荷物をロッカーにしまうと、控え室に向かった。入るとそこは、壁と天井が真っ白な、清潔感はあったが無機質な部屋だった。床はグレーの絨毯が敷き詰められていた。予選会場ほどの広さで、部屋の奥には天井から大きめのテレビが二台吊り下げられていて、そこには舞台が映されていた。
そんな様子だったので、第一印象としては、学校の視聴覚教室みたいだというものだった。そんな感想を抱きつつ、いくつか用意されているテーブルの、空いている所に座ると、少し離れた所に見たことのある顔があった。それは、そう、予選で一緒に勝ち上がった男の子だった。と、ふと目が合ったので、こちらから会釈をすると、向こうでも無表情だったが会釈を返してくれた。そして視線をテレビに向けるのだった。しばらくの間、部屋のドアが開けられるたびに、無意識的にその方向に顔を向けたりしていたが、ある程度人が集まってきた頃、係りの人が参加者の番号と名前を読み上げていった。一人、そしてまた一人と、徐々に参加者が消えていった。
死刑囚の気持ちって、こんな感じなのかな…?
などと、自分でも不謹慎だと思うような感想を抱きつつ待っていると、また係りの人が入ってきて、私の番号と名前を読み上げたので、「はい」と小さく返事をすると、席から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで後を付いて行った。
案内されるままに付いて行くと、そこは舞台袖だった。真っ暗だったが、すぐそこに眩いばかりの照明が当てられている舞台があったので、そこか漏れてくる光が僅かに差し込んできて、全く見えないほどでは無かった。そこにはパイプ椅子がいくつか用意されていて、既に私よりも先に呼ばれた参加者四人が、緊張の面持ちで座っていた。私もそこに座った。
しばらくこの場には緊張感のある、張り詰めた空気が流れていたが、不意にブーーーっとブザーがけたたましく鳴り響いたかと思うと、どこからか放送が流れた。それは、コンクール本選開始の合図だった。
アナウンスに呼ばれる度に、一人、そしてまた一人と椅子から腰を上げて、のっそりとした足取りで、光の中へと消えて行った。
この時の私は目を閉じて、頭の中で師匠の所で弾いた曲をさらっていたが、自分で言うのもなんだがよっぽど集中していたのだろう、他の参加者の演奏が耳に入らないくらいに没入していた。
不意に側で立ち上がる気配がしたので隣を見ると、私の一つ前の出番の女の子だった。彼女が舞台に向かうその後ろ姿を、何ともなしに見つめていたが、この時ふとある事を思い出し、私も立ち上がった。そんな様子を見た係りの人が、慌てて近寄って来ようとしていたが、私はそれに構わず、どこか寄りかかれる壁はないかと周りを見渡し、お手頃なのを見つけると、そこまで歩いた。係りの人を含む他の裏方の人達も、何事かと興味の視線を私に向けてきていたが、普段だったらついつい恥ずかしがってしまうのだが、この時は気合が入っていたせいか一切気にならず、それからは時間をかけて、自分の出番になるまで入念にストレッチをした。壁に手を当ててする様な腕や手首のストレッチだけではなく、スカートだというのに屈伸やふくらはぎを伸ばすストレッチまでした。その様子を、周りは暗がりだというのにもかかわらず、驚いている表情が見てとれた。
…もうお気づきだろう。そう、これは、師匠の親友の、京子さんが子どもの頃から欠かさず続けて演奏前にしているという習慣を真似したものだった。師匠の所でレッスンを受ける前には、ストレッチと、指を温めるためにエチュードを何曲か弾くといった話をしたと思うが、このストレッチに関しては京子さん由来だと教えてくれた。それらを含めて思い出し、こうして実践してみたのだ。し終わって分かったのは、普段の時にはストレッチをする意味は、そのままの意味で、ただ単に身体の部位を伸ばすだけの為だと思っていたが、実はそれだけではなく緊張を緩める効果もあるというのに、身を以て知った。どこかしらで聞いたことのある事ではあったが、これは思わぬ誤算だった。私は一人でクスッと笑っていると、ちょうどその時に私の番号と名前がアナウンスされたので、気持ち足どり軽く舞台へと出て行った。
舞台袖から出ると一瞬目が眩んだが、そのままピアノの側まで歩いた。そして客席の方を向くと、思ったよりも暗闇に包まれているのに気づいた。人の姿が見えるのは、一番前から二、三列といった所だった。ただ何となく、暗闇の中に人のいる気配だけはヒシヒシと感じていた。
…こんなに見えないんじゃ、かぼちゃ云々どころでは無いわねぇ。
と、不意に師匠の言葉を思い出し、そんな事を思った瞬間思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、深々とお辞儀をし、顔を上げて客席を見渡し、結局見つけられなかったが、裕美たちがいる事を頭の片隅に過らせつつ、スッとピアノの前に座ると、一度大きく息を吐いてから、しーんと静まり返る会場に向けて、第一音を鳴らしたのだった。
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