第1話 コンクール(中)

文字数 41,919文字

一巻からの続き

「琴音…」
「あ、律」
ゴールデンウィーク明けてからの、初めての土曜日。例に漏れず私たちの学園も、土曜日は四限目で終わる。正午を少し過ぎた辺りだ。
担任の志保ちゃんからの軽い連絡事項を聞いてから、放課後になり今に至る。
ここで少し、私と律のことに触れようと思う。前にも話したように、一年毎のクラス替えにより、残念ながら裕美と紫と藤花とは別々のクラスになってしまった。新しいクラスになってから、この時点で一ヶ月ばかり経とうとしていたが、少なくとも私が思う意味での新しい友達は、まだ出来ていなかった。元々昔から自分から進んで他人に話しかけるようなタイプでは無かった。人見知りという訳では無いと自分では思っている…現に、話し掛けられさえすれば、相手に合わせて対応することが出来た。ただ、よっぽどのことが無い限り、それはつまり相手に興味を持つという意味だが、自分から話しかけて、交友の幅を広げようって気になれなかったのだ。それは小学生時代もそうだった。その時にも話したと思うが、我ながら周りに助けられていたのだと思う。私から何かアクションを起こさなくても、いつも私の周りには人が何人か屯ろしていた。そのお陰で、一応側から見る限りにおいて、孤独では無かった。これは幸運と受け取り、感謝すべき事だと思うし、実際に感謝していた。
ここまでは私自身の事だったから細かく話せたが、私が思うに、多かれ少なかれ律も同じタイプだった。裕美がどこまで考えての発言だったか知りようも無いが、私と律が似ているというのは、あながち間違ってはいなかったようである。というのも、律も中々自分から人の輪の中に入って行くようなタイプでは無かったからだ。私が言うことではないかも知れないが、律も率先して新たな友達を作ろうという気概は無いように見受けられた。だからある意味自然にというか、ここ一ヶ月ばかり、ずっと二人は一緒に過ごしていた。具体的に言うと、音楽などの教室を移動する時も一緒に、そして教室に着いてからも二人がけに一緒に座る、典型的な例だが体育の時ペアを組む時にも、間違いなく一緒に組んでいた。まぁ尤も体育においては、クラスで一番背が高い律と、二番目に高い私が組むのは、ある種必然であったのかも知れない。そして昼休み。一年生の時には触れなかったが、それはわざわざ触れるまでも無いと判断しての事だった。
でもせっかくなので、ここで纏めて話してみようと思う。私たちの学園には給食が無かったので、それぞれが弁当を持参して来るか、購買部でパンなりお弁当なりを買ったりする。私たちのグループは、よほどの理由がない限り、それぞれが弁当を持参していた。昼休みになると、誰か…席替えが確か一年生の間に三度ほどあったので、それぞれの事について細かく挙げるのは避けようと思うが、取り敢えず窓際に誰か一人がいたら、その周りに集まって一緒に食べるといった感じだった。入学当初は、出席番号順に座っていたので、私と紫が窓際の席だったから、そこの周りに集まって食べていたのを覚えている。雑談が続くが、極たまに解放されている屋上の空中庭園で陽光の下、食べることもあった。まぁこれも、屋上が空いていたらの事だったけれど。それが今はクラスが別れてしまったのがあって、それでもたまに裕美たち三人が纏めてこちらのクラスに食事しに来ることがあったが、大抵は私と律二人で、どちらかの机の上にお互いの弁当を広げて、食べるのが習慣となっていた。
とまぁそういった具合で、二人でいつも過ごしていたのだが、この一ヶ月の間に、律にまた面白い一面があるのに気づいた。それは…これ言っても本人は怒らないと思うが、いつもこの仏頂面で石仮面を被っている律だったが、意外や意外に内面は凄く乙女だという点だった。幾らも例を挙げられるのだが、初めて律のお家に一人で遊びに行った時、部屋に通されて驚いた。部屋の壁紙が薄ピンクで、ベッドの布団もそのような色合いだった。枕元には、大きめなテディーベアーが鎮座していた。小学校に入るくらいまでは私も持っていたのだが、入ってからはテディーベアーどころか人形を持っていた記憶が無かったので、ついつい繁々と見てしまった。床はフローリングだったが、その上に大きめの赤い絨毯が敷かれていた。何だか甘い良い香りもした。この日は、あの文化祭の時に会った、律と見た目が瓜二つでも、性格が真逆のお母さんが留守だというので、私は別に構わなかったのに、お茶の用意をしに何処かへ行ってしまっていた。私は一人ぼっちで手持ち無沙汰だったので、こうして部屋を見渡し、クマを見つけたのだった。無意識的にそれを取り上げ、高い高いをしたりしていたら、ちょうどその時、半開きだったドアが開けられて、律がオボンにコップ二つとジュースの入ったペットボトル、そして小皿に入ったお菓子類を乗せて入ってきた。当然というか、流石の私もそんなキャラに似合わない、ぬいぐるみと戯れているところを見られて、恥ずかしいやら気不味いやら、自分でも分かる程に顔が火照っていたが、律も同じような反応を示していた。律は部屋の真ん中の真っ赤な絨毯上に置かれた、これまた薄ピンク色のコーヒーテーブルの上に、何も言わずに乗せたが、ふと耳が真っ赤に染まっているのが見えた。律は髪がベリーショートだから、耳が隠れる事が無いのですぐに分かる。そしてその前にストンと座ったので、私もならって、ぬいぐるみをすぐ脇のベッドの上に静かに置き、そして座った。すると、律はふと顔を私に向けた。表情は相変わらず無表情というか、凛としていたが、やはりホッペは軽く薄ピンク色になっていた。…凛としていたと言ったが、視線は少し泳ぎ気味で、たまにぬいぐるみの方にも流れていた。そんな調子なのに、澄ました調子を止めようとしない律が、途端に可愛らしく思えてきて、本人には悪いが思わず目の前で吹き出してしまった。すると、律は何も言わず目を大きく見開いたが、それからすぐ後に、フッと見るからに緊張を緩めて、綺麗に横に長く切れた一重の目元を気持ち下げて見せた。これが、律の笑みだった。私も微笑み返したが、少しして「…可愛いでしょ?」と恥ずかしげに言うので、私も「えぇ」と短く、そして少し意地悪げに返すのだった。前から藤花に『律ってすっごく”乙女”なの。少なくとも私たちの中では一番”純粋”だと思うわ』だなんて良く言っていたが、これは藤花なりの冗談かと思っていた。それが本当だというのが、この日に初めて立証されたのだった。それからは私の事、そして律の事についてお喋りした。
一年生の頃からの付き合いだったが、ここまで話を聞いてくれた人からは即座にツッコミが入るだろうが、このグループの中だと、私はどっちかと言うと無口な方だった。主に裕美と紫と藤花が色々と女学生らしい話題を振ってきて、それに対して受け身に回って聞き手に徹していたのだ。それは律も同じだった。それ故というか何というか、こうして二人っきりになれば、もう少し早くこのような関係になれたのだろうが、滅多にその機会がなく、大抵私と律以外に最低もう一人がいたので、第三者がいては出来ないような、裕美が言うところの”恥ずい”心を割るような話も出来なかったのだ。だからといって、少なくとも私の方では疎遠だとは思っていなかったし、大切な友人の一人だと思っていたが、この日を境に、グッと距離が縮まったのを感じた。
これが確かー…四月の真ん中辺りだと思う。そして今五月に入り、律が話しかけてきたという所だ。
「ほら、あそこ…」
「ん?」
律がふと顔を教室のドアの方に向けたので、私も座りながら顔を向けると、そこには裕美たちがドア付近に立ち、私たちに笑顔を向けてきていた。と、私と目が合うと、裕美たちがそのまま大袈裟に手を振ってきていた。時折、外に出ようとする生徒が迷惑そうにしているのを、苦笑気味に頭を下げて平謝りしていた。
「…ね?」
と律が言うので
…何が『ね?』よ?
と心の中でツッコミつつ、
「じゃあ行きますか」
と私は腰に手を当てながら、年寄り風な動きをして見せつつ、のっそりと立ち上がった。その様子を見て、律は僅かに笑みを浮かべていた。そして相変わらず他生徒の邪魔になっている裕美たちの側へと向かった。

「いやー、久し振りじゃない?」
そう声を漏らしたのは紫だ。
「…何が?」
と私はワザと惚けて返した。
ここは学園の目の前の、緑に囲まれた、何て言えばいいのか…一応は公園なのだが、線路に沿うように横に伸びていて、そして学園前の道路にも挟まれている関係で、かなり横幅は狭かった。公園というよりも、緑の多い遊歩道と言ったほうが正しいのかも知れない。ただここは、今説明したように細長い作りをしていて、ベンチが数多く設置されており、緑も多いとあって、気持ち良くて落ち着くと、私たちのグループの溜まり場になっていた。学園内で何かの事情で待ち合わせが困難な時や、気分転換で、ここでよく落ち合う事があった。そしてこのようにベンチの上に全員カバンをおいて、この後の予定などを組むのだった。私たちは気に入っていたが、他の生徒達は違うらしく、すぐ脇の道を、同じ制服姿の女子がゾロゾロと歩いているのを横目で見たりした。敷地内で制服姿は、私たちのみだった。個人的には、そんなところも気に入っていた。藤花が話してくれたが、自分たちも今ままでは素通りしていたとの事だった。すでに触れたように、藤花と律はいわゆるエスカレーター組で、幼稚園からずっとこの近所に触れていたわけだったが、中を通ることはあっても、遊具もないのにこうして立ち止まって何かをする事は無かった様だ。さて、大体予想がつくだろうが、ここを溜まり場にしようと提案したのは裕美だった。裕美は後で私と二人っきりの時に、やはりと言うか公園…いや、緑の多い公園が好きだと話してくれた。昔からの癖で、落ち着くらしい。私も感化されたのか、どこか雑踏をぶらぶらするよりも、よっぽど何もない公園内でボーッとしている方が楽で好きだった。でもこれまたやはりと言うか、私たちの中で最も典型的な”女学生”の紫は、いつまでもジッとしているのが耐えられないらしく、早く予定を立てようと急かすのだった。そこまでがいつもの流れだった。
この日も、紫が率先して口火を切った。
私が惚けて見せると、紫は腰に手を当てつつ、ジト目を向けてきながら返した。
「あのねぇー、私たち五人が全員集まった事がでしょ!」
「ふふ、冗談よ。そんなに怒らないでよ」
「…もーう」
紫はまだ不機嫌そうに見せていたが、徹し切れずに笑ってしまっていた。他の三人も笑っている。
「でもそうだねぇー」
と大きく腕を伸ばしつつ言ったのは藤花だった。
「確かに、何だかんだ全員が集まるっていうのは珍しいからねぇ」
「まぁ、最近ではゴールデンウィークに皆んなで集まったけれどね」
と裕美も、藤花の真似をワザとして見せるように伸びをしつつ言った。「うん」
と短く返すのは律だ。
ゴールデンウィークは、師匠に言われるままに、コンクールのことを忘れて束の間の休みを…取ったはずだったが、何だかんだいつも外をぶらついていて、毎日を忙しく過ごしていた。予定通り、裕美と一緒に絵里のマンションに遊びに行ったし、これは予定に入っていなかったが、ヒロと裕美三人でも地元で遊んだ。そして今話題に出た通り、この五人でお泊まり会をしたのだった。とても面白かったのだが、ここで細かく触れられない事を許してほしい。…いや、そこまで需要があるのかと、自分で言っておいて、自己反省をしてしまうのだが…。まぁとにかく、これも何か機会があったら触れてみたいとは思っている。今は軽くだけ話すとしよう。まぁ結論からいうと、結局紫のマンションでする事になった。誰の家にしようかと皆んなで考えた結果、取り敢えず事情が分かっている紫の家に、またお邪魔しようと相成ったのだった。
…これだけ言うと、随分図図しいように見えるだろうが、真っ先に手を上げてくれたのが紫自身だった。むしろ率先して来て欲しいと言ってくれたので、違う人はまた次回に持ち越しにして、またお邪魔する流れになったのだ。実質一泊二日の旅行みたいだった。まず紫の家にお邪魔して、荷物を先に置かせてもらってから、遊びに出た。平日も別に必ずしも規律に従っていた訳ではなく、放課後も直帰せずにぶらついたりはしていたのだが、それは本当にぶらついていただけで、ただ時間を潰していたという方が正しい言い方だろう。何度も言うように、私たちはそれぞれ個人で忙しくしていたので、それこそ暗くなる前の五時くらいには解散していたのだった。休日も、他のみんなもそうだったが、私自身もコンクールの関係でずっと毎週日曜日は師匠のお宅にお邪魔して練習していたので、尚更遊びらしい遊びをしなくなっていた。だから、このゴールデンウィークは、久し振りに思春期の女の子が遊ぶような事を、主に紫と裕美が中心になって計画を練ってもらい、それに私と律、そして藤花が付き従うという形で過ごした。
ここでまた、余談につぐ余談だが、ふとこう思われた人もいるかも知れない。『底抜けに明るい天真爛漫なキャラクターの藤花も、裕美達に混ざって計画したりしそうなのに』と。これは確かに入学当初、知り合って間もない時は私もそう思っていたが、褒めるようだが、これがまた藤花の人間性の深さと言えるかも知れない。
…大袈裟か?
それはともかく、藤花は律のことを『キャラに似合わず乙女』だと称していたが、それを言うなら私からしたら『藤花もキャラに似合わず硬派』だと称してあげたい。私はご存知の通り、藤花とは同じ音楽の芸という繋がりで、深く付き合いがあった訳だが、付き合っていく内に、意外に頑固で、ストイックで、完全主義者だというのが分かってきた。自分からは言わないから周りも触れなかったが、いつも学校やそれ以外にも水筒を持ってきていた。魔法瓶だ。私はそれでも気になって、ある時…そう、藤花の家にある練習場にお邪魔した時に、その中身を飲んでいるのを見て、思わず聞いてしまったのだった。初めのうちは、目を真ん丸くしたまま固まっていたが、フゥッと息を吐いたかと思うと、何故か恥ずかしげに話してくれた。
簡単にまとめると、中身は喉の炎症を抑えるハーブティーで、古来より歌などの喉を酷使する人々に愛飲されてきたものらしい。それをこうして普段から練習の合間に違和を少しでも覚えたら飲むとの事だ。それを聞いて本心から感心して見せたのが功を奏したか、まぁいいかと言いたげな呆れ顔で笑いつつ、今度は部屋の隅にある机と椅子の方へと近付いた。私も素直に跡を追うと、藤花はその机の上にある、何も書かれていないダンボールの箱に触った。縦横高さが同じ長さ、大体五十センチ程のサイズだった。実は初めてこの部屋に来た時から、密かにずっと気になっていたものだ。この練習部屋が、私の家のと同じで八畳ほどの広さがあったが、アップライトだがピアノもあったりと、色々な歌関係の機材がある中で、この机と段ボールの箱が異質に映ったからだった。私が見つめる中、藤花は中から何やら機械を取り出した。そして、また中から、病院などで見た事のある酸素吸入器の口当て部分の様なものを取り出し、置いて、そしてふとタンスらしき所を開くと、中から一枚のバスタオルと、これまた驚いてしまったが、ミネラルウォーターの入った二リットルペットボトルを取り出した。チラッと見えたが、中にはタオルと水の入ったペットボトルが積まれてしまわれていた。そしてそれを、机の上面に二十センチほど張り出した備え付けの棚に、サイズに合う様に折りたたみ敷いて、その上に先程出した機械なり水なり何なりをゆっくりと慎重に置いていくのだった。そして最後に機械から伸びるプラグをコンセントに挿した。藤花が何も言わずに、いつものといった調子で手際良く作業をしていくので、私はただ黙って見守る他に無かった。と、作業が終わったのか、一度後ろからでも分かる程に頷くと、軽い身のこなしで半回転してこちらに向いた。藤花の顔は、また普段の爛漫な笑みを浮かべていた。でも話す段階になると恥ずかしげに、たまに機械の方を振り向きつつ言った。
「これは吸入器でね、耳鼻咽喉科にある様な本格的な物ではないんだけど、これを使う事によって、喉に潤いを与えて、痛んだ部位を治すのに手助けしてくれるの」
そう言うと、藤花はまた机の方を向いて、水のペットボトルを手に取り、キャップを外したかと思うと何かに注ぎ入れていた。私がゆっくり近づいて見ると、ちょうど支度が済んだ様だった。
藤花はふと私の方を見て、一度ニコッと笑うと、吸入器の電源ボタンを押した。ピッと音が鳴ったかと思うと、次の瞬間、大量の蒸気がモクモクと次から次へと口あての部分から湧き上がってくるのだった。見るのが初めてだったので、ついついジッとその様子を見ていたら、藤花は少し愉快といった調子でまた詳しく説明してくれた。それを聞きながら、ふとさっき感じた疑問をぶつける事にした。
「今藤花の話を聞いて、理由とかはよく分かったけれど、じゃあ何であのハーブティーを学校にまで持ってきてるの?」
「えぇー、それ聞くー?…まぁ聞くよね、そりゃあ…」
と、藤花は電源ボタンをまた押し、吸入器を止めながら言った。そしてこちらにまた向けた顔には、苦笑いが浮かんでいた。そして照れ臭そうに、決まり悪そうに答えた。
「私ってそのー…自分で言うのは馬鹿みたいだけど、お喋りでしょ?でねー…お家に帰って、いざ練習しようとしたら、声が思った通りに出ない事がよくあったの。これは小学生の頃の話ね。すぐにね、あぁ、学校でお喋りし過ぎたからだって分かったんだけど、何とかそのお喋りな性格を治そうとしても、結局治んなかったのね?だから、もうそれは仕方ないから、せめてこうしてお茶を持って行って、なんか喉に違和感が出てきたなって思ったら、飲む事にしているの。まぁー…そんな理由!」
恥ずかしさを拭い去るが為か、最後は無理やり勢いよく言い切った。
私は言い終えても決まり悪そうにしている藤花に対して、その芸に対する態度…しかも小学生の頃からだと言うのに益々感心しつつ、それでも疑問調で話しかけた。
「でもだったら、最初に言ってくれればよかったのにー。私もそうだけれど、多分他のみんなも何だろうって思っているよ?」
「律は知ってるけどねぇ」
藤花は悪戯っぽく笑いつつ、例のハーブティーを飲みつつ答えた。そしてそれが入った魔法瓶を手に持ちつつ、また少し照れ臭そうに笑いながら言うのだった。
「だって…やっぱり何だか恥ずかしいじゃない。普段から何も努力とかしてなさそうな人が、何気無く…私の場合は歌だけど、歌った時に、周りの度胆を抜くっていうのが良いのよ。…私は最初は聖歌隊からだったけど、これだけのめり込んじゃって、パパやママにこんな部屋まで作って貰って…」
藤花はここで一度、愛おしそうに部屋をぐるっと見渡した。それに釣られる様に、私も見渡した。
「どうせだったら、その歌の道を極めたいって、パパとママ以外では、律を除いて大人子供問わずに話したことは無かったけれど、そう思って、恥ずかしさもあって今までコソコソとしてきたんだ。…何も、努力してる所を他人に見せる事は無いもんね?」
「…」
そう言い終えた藤花は、また意地悪目にニヤッと笑って見せたが、私はすぐには返せなかった。
今更だが、この日というのは、私が初めて藤花の歌を聞いて、それから初めて無理を言って行った日だった。それまでは、何かしらの努力があってのあの歌声なのだろうと、漠然とは思っていたが、私たち…少なくとも私の知らない所で、ここまで普段の生活から芸のために摂生をして生きてる人間が、同い年にいるというのに感動していた。義一じゃないけど、裕美という例外はいたけど、こうして何か一つのことに邁進しているのは、私くらいじゃないかって考えていただけに、藤花のことを知って、この時に自分が如何に浅はかな人間なのかを痛切に感じていた。
そんな私の様子に、今度は心配げな表情で声を掛けてきたので、私は慌てて微笑みを作りつつ、同意を示したのだった。
それでも何か異変を感じ取った藤花は、ツカツカとピアノの側により、カバーを開けて、
「何か弾いて聞かせてよ?」
と言ってきた。私が呆気にとられていると、
「…私の秘密を教えたお礼にさ?」
とまた意地悪げにニターッと笑いつつ言った。
それが藤花なりの気遣いだとその時察した私は、「やれやれ…」と口に出しつつ、ピアノの前に座った。
…何を弾いたかまでは覚えていない。それだけ当時、頭がいっぱいいっぱいになっていたのだろう。それでも覚えているのは、弾き終えた後恐る恐る振り返ると、藤花がさっきの様に真ん丸に目を開けて固まった姿だった。私が声を掛けると、ハッと気づいた表情を見せたかと思うと、途端にテンション高く、座ったままの私に抱きついてきたのだった。思い出補正かも知れないが、その時藤花は「琴音凄い!」と連呼していたのを覚えている。この話は以前に軽く触れた事だ。初めて藤花が私の名前を呼び捨てで呼んだ日でもある。
…余談のつもりで軽く触れるはずだったが、ついついこの通り事細やかに描写してしまった。いつも…特に藤花の話をする時は、毎回長くなっている様に…それは自覚している。まぁ…開き直るつもりは無いが、長くなる理由は何度もさせて頂いているので、今更何も言うことはない。ただ一重に、話を聞いてくれてる皆さんの心の広さに対して、感謝を述べたいとは思う。
話をググッと戻そう。
「さてと…。これからどうしよっか?」
「そうだねぇー…またあの御苑近くのに行く?」
紫に裕美が答えた。一年の時によく行っていた、御苑近くの喫茶店だ。一年生の間だけ、同じ学校の生徒や先生に見られない様にと、バレー部の律の先輩に教えて貰った”隠れ家”だった。当初は、一年生の間だけ一時的に使って、それ以降は学園の近所に行こうと話していたのだが、中々妙なもので、不思議と一駅分という微妙な距離にあるこの喫茶店に愛着が湧き、二年に上がった今でも、何かとここを利用していた。静かで落ち着きのある店内が、皆共通して気に入ってたみたいだった。
「そうしよ、そうしよ!」
藤花はその場で飛び跳ねるんじゃないかって程にテンションを上げ気味に言った。爛漫な方の藤花だ。
「うん、いいよ」
と素っ気なくボソッと言うのは律だ。
と、そう言い終えると、律は私に顔を向けてきた。何も言わなかったが、意見を求めてくる時の表情だった。気付くと、裕美も笑顔でこちらを見てきていた。…いや、結局皆して私の方を見てきていた。
さっきも言ったが、久し振りだったのですぐに返答しようとしたその瞬間、不意に頭の中に、コンクールの課題曲が流れてきた。それも、今まで自分の中で消化仕切れていなかったパートだった。私はすぐに口を塞ぎ、黙ったままそのメロディーに耳を傾けていた。他のみんなは、そんな私の様子を、キョトン顔で見つめてきていたが、それには気を止める事なく最後まで聞いていた。
…これは…
「…と、…ょっと、ちょっと琴音!」
「…わっ!な、何!?」
私は不意に強く揺すられたので、びっくりして声を上げた。私を揺らしたのは、裕美だった。私が気付くまで一瞬険しい表情を浮かべていたが、呑気な調子で返すと、裕美は大きくため息をつきながら、声も呆れ調で話しかけてきた。
「何?じゃないよぉー…どうしたの?急に惚けちゃって」
「え?あ、いや…」
何だか気まずくて裕美から視線を逸らすと、他の三人も私に心配げな、もしくは怪訝な表情を向けてきていた。
それを見てまた気まずく思い、裕美に視線を戻して言った。
「あ、いや、何でも無いんだけれどさー…あの、みんな?」
私は少し溜めてから、また裕美を含む皆に視線を回して、それから顔の前でパンと両手を打つと、目をギュッと瞑りつつ、如何にも申し訳無さそうな表情を浮かべつつ「ゴメンっ!」と声を張った。
「せっかくだけれど、今日この後用事があったのを思い出したわ」
それを聞いたみんなは、一瞬キョトンとした表情を浮かべていたが、
「…えぇー!」とまず紫が声を上げた。顔中に不満を表している。
「今更ー?折角良い調子で盛り上がっていたのにぃ」
「本当にゴメン」
私はまた顔の前で両手を合わした。
「本当だよぉー」
と次に声を出したのは藤花だった。藤花も藤花で、不満げな表情を作っていたが、正直出来は良くなかった。目の端と口元が、若干緩んでいた。そもそも、そういうタイプでは無い…のがこういう点からもよく分かるだろう。
律の方をチラッと見ると、律は表情を変えないまま、事の成り行きを静観していた。ふと私と目が合うと、律は片方の眉だけクッと上げて、何とも仕方ないって言いたげな苦笑を浮かべていた。何も言っていなかったが、一応私に同情してくれていた様だった。
「まぁまぁ、お二人さん」
と、律とはまた違った方式で今まで静観していた裕美が、ワーワー騒いでいる紫と藤花を宥めに入った。この瞬間、私は裕美に感謝をしそうになったが、どうやらそれは甘い考えの様だった。
何故なら、
「琴音の口からその訳を聞いてからにしましょうよ?」
と言ってから、私に意地悪そうにニヤケ顔を向けてきたからだった。
裕美ったらー…この裏切り者!
と心の中で悪態をついたが、この間に言い訳を考える時間が取れていたので、私は渋々それを話すことにした。
「聞いてからにしましょうって…まだ何かするつもりなの?まぁいいわ。実はねー…私の師匠、ピアノの先生ね、師匠に与えられた課題を済ませて無いのに気付いたのよ。明日の日曜がレッスン日なんだけれど、それまでに終わらせとかなきゃいけないの…。だから、今からお家に帰って、急いで済まさなきゃ…」
「…」
我ながら”らしい”言い訳を思いついたと思った。内容としても、殆どの嘘は入ってない。師匠の下りの所くらいだ。
私の話を聞き終えたみんなは、一瞬間が空いた後、それぞれ側の人と顔を見合わせたりしていたが、
「…それじゃあ、仕方ないねぇ」
とまたさっきの様に、まず紫が声を出した。一つ違ったのは、表情が苦笑気味の呆れ笑いだった点だ。
「そうだねぇー」
と続いて言った藤花の表情も、紫と似たり寄ったりだった。
「私も練習が佳境に入ると、ついつい籠りがちになっちゃうし…」
「…仕方ない」
と、律はようやく口を開いたかと思ったら、少し優しげな微笑みを見せつつそう呟いた。私は少し呆気にとられて、何も言わず苦笑で返すのみだった。
ふとここで裕美の方を見ると、私と目が合ったが、一瞬こちらに不審に思っている様な視線を向けてきていた。だが次の瞬間、裕美は紫と同じ様な表情とテンション、そして口調で私に話しかけてきた。
「…仕方ないなぁー、今日の所は許すけど、次からはもっと早めに言っといてよねぇ?」
と言い終えると、いつものニヤケ面を向けてきたので、私も冗談交じりに、また顔の前で両手を合わせて「ふふ、本当にゴメン」と返すのだった。
それからはみんなで一頻り笑いあった後、私を除いたみんなで取り敢えず喫茶店に行くと言うんで、地下鉄連絡口の階段の上から、皆が降りて行くのを見送った。最後はお互いに笑顔で両手を振り合ったのだった。
見えなくなると、私は一人息を吐き、それから普段の帰宅ルートに足を運ぶのだった。この頃には、すっかり裕美が一瞬見せた不審げな表情を浮かべていた事を忘れていた。というのも、見送った後で慌ててさっき頭に流れたメロディーを思い出していたからだった。私はホームに着くまで頭の中で反芻し、ちょうど電車が来たので乗り込むと、早速カバンからいつものメモ帳を取り出すと、簡単に五線譜を描いて、そこに音符を書き入れ、余白に解釈を書き入れたりしていた。ある程度、仮に後で間が開いたとしても思い返せば鮮明に思い出せる程度にメモした時には、気付けば地元の駅に降り立っていた。その事実に自分で驚いた。全く道中を、どう歩き、いつ乗り換えたのか、その記憶がアヤフヤだったからだ。それだけ良く言えば集中していたという話だが、よく考えたら色々と危なかったなと、駅から自宅までの道のりを、一人苦笑しながら帰ったのだった。
家の前に着き玄関を開けると、中はシーンと静まり返っていた。どうやら、お母さんはどこかへ出ているらしい。
私は特段感想を持たずに、早足で自室のある二階に上がり、気持ち早く普段着に着替えて、一階にある、防音を施されたグランドピアノの置いてある練習部屋に早速入った。
…いつだったか、私がこの部屋で練習している時に、内線を鳴らされて如何の斯うのといった話をしたと思うが、折角なので、少しだけ細かく触れようと思う。これはお父さんとお母さんに、それぞれ聞いた話だ。家自体はお父さんが建てたらしいが、土地に関しては私のお爺ちゃんの持ち物だったらしい。私が生まれるかどうかって時だった様で、つまりこの家と私はほぼ同い年という話だ。あまり話したくない話題だが、便宜上触れると、立地を言えば、地元でもそこそこのお金を持った人が住む地区だった。この家も大きく広かったが、周囲の家も大きめの家が多かった。それなりに車通りのある道が目の前なのも理由だろう。そうは言っても、夜になると車も疎らで、とても静かだった。何でこんな話をしたかというと、お父さんの趣味でも無いのに、なんで防音を施された一室と、グランドピアノがあるのかの理由を話さんがためだ。それは…お爺ちゃんが深く絡んでいる。というのも、グランドピアノは元々お爺ちゃんの持ち物だった。何十年も前に買ったもので、ここで細かく言っても仕方ないが、ドイツの名門老舗メーカーが作った一級品だった。他のピアノを弾いて見るまでは分からなかったが、とても強いクセを持っていた。軽く分かりやすいところで具体的な点を一つ述べると、鍵盤の一つ一つが異様に固いのだ。結構力を入れないと、思った様な綺麗な音を鳴らしてくれない。子供ながらに弾くのが大変だっただろうが、こんなものだと思っていたので、当時は気にしていなかった。師匠の所のピアノも、あれは師匠の所有する一つだが、アレも家にあるのほどではないにしても、中々に固い代物だった。まずは家ので練習して、それから師匠のを弾くと、力を入れなくても綺麗な音が鳴るから、力まずに具合良く脱力出来るので指がスムーズに動いて、思った以上に綺麗に弾けてしまうので、幼い頃は師匠の所で弾くのが楽しみだった。ただ勿論、強弱のつけ方に関しては、毎度毎度師匠に注意されていたのは言うまでもない。
さて、少し話を戻して、ここで下世話な点にも触れれば、当時のレートと今とでは違うから一概に言えないが、簡単に言えば、この一台と平均的な高級外車の値段が同じくらいだったらしい。義一が表現した様に、私のお爺ちゃんは粋人なのかも知れないが、それでもそんな高価な買い物をしてしまうなんて、その域を越えている事くらいは、いくらまだ幼い私でも分かった。義一が言うには、お爺ちゃんはピアノを弾けないって事だから、尚更理由を知りたくなったが、その訳を聞こうにもお爺ちゃんは既に亡くなっていたし、お父さんに聞いても、そして義一に聞いても、ピアノをわざわざ買った理由を二人とも知らなかった。
お父さんの話では、今では少し古ぼけてしまったこのピアノに対して深く入れ込んでいた様で、土地の所有権の移譲、相続税の減税などなど、そんなの聞いても私にはチンプンカンプンだったが、兎も角お父さんに都合の良い提案をする代わりに、新しく建てる家の一室に、このピアノの部屋を設けてくれと頼んだようなのだ。お父さんは『そこまでこのピアノが大事なのか…?』と呆気に取られたらしいが、条件はすこぶる良かったし、古ぼけていてもグランドピアノだから、持っているだけでそれなりの財産だろうと思ったらしく、快く条件を飲んだようだ。そのお陰で、こうして我が家に環境の整った部屋と、クセの強い頑固なピアノがいる訳だ。
話を戻そう。部屋に入ってからどれほど経ったか、メモ帳を取り出し、それを実際の楽譜の余白に書き込んで、それを実際に弾いてみたりした。この部屋は壁一面が防音してある関係か、一枚も窓が無かったので、今が夜なのかどうなのか直ぐには判断出来なかった。それでも一応時計が壁に掛けてあるので見てみると、七時半を指していた。まさか朝では無いだろうから、言うまでもなく夜だった。部屋に入ってからゆうに四時間が経つ計算になる。ずっと八小節の部分と、その前後数小節を何度も繰り返し弾いてのこの時間だ。我ながらよく飽きずに弾いたなと思ったが、自分で言うのもなんだが、とてもしっくりきて、抽象的で悪いが『これだっ!』と思える、珍しく自分で自分に満足のいく仕上がりになっていた。
一度指を休めて伸びをしながら、「一刻も早く師匠に聞いて貰いたいなぁ…」と独り言を言いながら、明日の事を色々と想定して妄想していたその時、部屋の内線のベルが鳴った。これが何時に鳴らされるかで、大体何の合図か分かるようになっていた。今回の場合は、ズバリ夕食の合図だ。
私は軽く鍵盤を専用の布で丁寧に拭いてから、細長いカバーを敷いて、蓋を閉め、これは私特有のクセらしいが、黒光りする蓋上面も、先程の専用の布で労わるように拭くのだった。
こうして練習後に拭いたり手入れをするのは、習いたての頃に師匠に言われた一番最初の教えだった。『道具を大事にするっていうのがね、上達への一番の近道よ』…そう言った後に『まぁ根拠は無いんだけど』と悪戯っぽく笑って見せていたが、まだ小学二年生に上がったばかりの私には、凄くその話が頭に残って、それ以来ずっと教えを守っているのだった。
拭き終えると、私はまた一度伸びをして、それから部屋を出て居間に向かった。

居間のドアを開けると、夕食の良い香りが鼻に入ってきた。と同時に、途端にお腹が空いてくるように感じた。考えてみたら、今日は土曜日だから弁当を持って行ってはおらず、裕美たちとご飯を食べにも行かなかったので、昼ご飯を食べていなかったのにこの時初めて気づいた。私はいつもピアノの練習の後は、手を洗うのが習慣となっていた。ピアノを弾くのに、ある意味ずっと指を動かすという、師匠に言わせれば指のスポーツでもあるので、少なからず手に汗をかくのだ。だから終わった後に拭くのもその為だ。この場合は食事前だから当たり前は当たり前だが、それ以外でも手を洗うのは、ただ単に汗が気持ち悪いという理由だった。それは兎も角、普段通りふらっと台所のシンクに向かうと、視界の隅にお父さんの姿が見えた。テレビの前のソファーに座っていたが、テレビは点けずに新聞を読んでいた。
「…あ、お父さん、お帰りなさい」
と一度足を止めて挨拶すると、お父さんは新聞を畳みながら「うん、ただいま」と表情は少なかったが、それなりに微笑みつつ返してきた。私はそれを聞くと、改めてシンクに向かうのだった。

週に平均して二度か三度ほどの、親子三人での夕食を終え、私は風呂に入る前に一度自室に入る事にした。何しろ早くピアノを弾きたくて仕方なかったので、ロクに整理をしていない事に気付いたからだ。
私のお母さんは、呉服屋の娘という家庭環境が作用しているのかどうだか知らないが、綺麗好きな上に整理整頓が行き届いていなければ我慢がならない性質だったが、それが遺伝したのか何なのか、私もこうして一つの事に気をとられると、ついつい散らかしてしまう癖に、散らかった状態を見るのが耐えられない性格でもあるので、ほっとくといつまでも頭にその事が残って、酷い時にはそれに頭が占められてしまうので、こうして予めに対処しておくのだった。
ベッドの上に散らして置いたカバンなどを整理し終えると、ふと目に、光を点滅させるスマホに気づいた。誰かが私に連絡を入れたようだった。開いて見ると、SNSには六通来ており、そしてこれが凄く意外だったが、義一から電話が来ていた。それも断続的に三度も。先に履歴を見てみると、夕方の五時あたりにして来ていたようだった。
何故だかこれを見て、漠然とした胸騒ぎを覚えたが、この時はとりあえず保留して、まずメッセージの方から確認した。開いて見ると、裕美たち四人からと、これまた意外に美保子と百合子からも来ていた。それも同時間に。義一の電話とも近かった。それで益々不安にも似た感情に胸が占められていったが、順番的に、まず四時あたりに一斉に来た裕美たちの方から確認した。見ると、四人ともにそれぞれの個性に沿った文面を送って来ていたが、内容的には共通していて、私がいない分楽しんでいるといった調子だった。私はそんな冗談混じりの文面を苦笑しながら見ていると、ふと画像ファイルが添付されていたので開いた。それはあの御苑近くの喫茶店で、パフェなり何なりという多種多様なスイーツにがっつく、四人の写真だった。四人とも写っているという事は、店員さんに撮ってもらったのだろう。その図々しさにまた呆れた笑いが自然と漏れたが、すぐに誰に撮ってもらったか理解した。あまり重要では無い情報だが、このお店には大学生の女性が一人バイトとして勤めていて、何とその女性は私たちのOBだった。向こうから親しげに話しかけてきた。私たちの制服を見て、この近辺ではまず見ないし、それ故に懐かしくなり思わず話しかけたとの事だった。それからは、たまたま彼女のシフトと私たちの都合があった時などは、お店が暇だという条件付きで、一緒にお喋りをしたりするのだった。今日はそんな日だったのだろう。それぞれがそれぞれのスタイルで、おちゃらけ気味にカメラ目線で写っていた。
私は四人それぞれに、冗談ぽく恨み節を書いて送り終わったちょうどその時、ふと電話が鳴った。表示されているのは『義一さん』の文字だった。
私はすぐには取らずに、ソッと忍び足でドアに近付き、静かに開けて、廊下を左右見渡し、誰もいない事を確認すると、またそっとドアを閉めて、ベッドの上に腰をおろし、ようやく取った。
「はい」
「あ、琴音ちゃん?今大丈夫?」
義一の声は心配げな声音だったが、それと同時に少し焦っているようだった。
「あ、うん…大丈夫だけれど、どうしたの?珍しいね、電話なんて」
「…うん、さっき夕方辺りにも電話したんだけれど、出なかったから、多分練習をしているのかとは思ったんだけれども」
「うん、その通り、その時はちょっと籠って練習してたんだ。…で?何かあったの?」
「…」
私がそう聞くと、電話の向こうの義一はほんの数秒ばかり黙り込んだ。そのお陰で、向こうの環境音も小さく微かにだが聞こえていた。テレビが点いているらしい。
義一は少し溜息を漏らすと、静かな口調で言った。
「…今君は家にいるの?」
「う、うん」
ヤケに真剣な口調なので、戸惑いつつ答えると、義一はさらに深刻そうな調子で続けた。
「…ちょっとテレビを点けて見てくれるかな?どのチャンネルでもいいから」
「え?…あ、あぁ、うん、分かった。じゃあ少し待ってて?」
私は万が一お母さんが部屋に入ってきても見られないように、スマホを引き出しの奥に隠してから、一階の居間に降りた。
テレビの前には、先程のようにお父さんがソファーに腰を下ろし、新聞をまた読んでいた。
「お、琴音…どうかしたか?」
「え?あ、いや、なんか暇つぶしにテレビでも見ようかなぁって…」
「ふーん…お前にしては珍しいな」
我ながら咄嗟に上手い対処が出来なかったのに心の中で苦笑いしたが、お父さんはそんな私を訝しむこともなく、軽く流した。
「暇つぶししてるなら、早くお風呂に入っちゃいなさーい」
と台所で作業をしていたお母さんの声がしたので、「後でー」と間延び気味に答えつつ、テレビの電源を入れた。しばらくすると画面一杯に画像が流れたが、丁度国営放送のチャンネルだった。
と、その時、流れている映像にも驚いたが、画面の端に踊る文字にも尚更驚いた。そこに出ていたのは『落語界の名人にして最後の鬼才、〇〇さん死去』だった。この〇〇には私に馴染みのある名前が入っていた。そう、”師匠”だった。
「…え?」
私はそう声を漏らすのが精一杯だった。
突然のこと過ぎて、この時初めて頭が真っ白になる感覚というのを体験した。私は前のめりになって画面を見つめた。
そこには昔の師匠の映像が流されていた。大体三十代から四十代くらいから、師匠自身が認めていた全盛期の六十代までの、数少ないテレビ出演部分や、高座の姿だった。国営放送のその番組は、師匠を偲んでという冠を掲げた臨時番組のようだった。VTRが終わるとスタジオに画面が移り、そこには私はよく知らないアナウンサーと、後は師匠と親交の深かった、師匠より少し後輩の落語協会の現会長が出ていた。アナウンサーがまず師匠が”心筋梗塞”で亡くなった旨を伝えると、その後に色々と如何にも台本通りだといった風な話を振っていた。すると現会長は努めて穏やかな笑みを浮かべながら、師匠の芸名の後に”兄さん”と付けながら、昔の思い出話をしていた。色々興味深いことを話していたが、『兄さんほどに芸を愛し芸に徹した芸人は、後にも先にも現れない』と力強く熱っぽく言った言葉が、特に当時の私の耳には残った。私はこの人の芸は口当たりが良すぎて、そこまで好きな芸人では無かったが、それでも師匠の方でも気に入って可愛がっていたのを、書かれた本などを読んで知っていたので、そんな会長の話を聞いていると、ふと目頭が熱くなるのを覚えていた。でも放送時間との兼ね合いがあったのか、アナウンサーが無情にも会長の話を途中でぶった斬り、そして自分でも感想を述べていたが、とても在り来たりな内容過ぎて、虫酸が走った。「落語界の宝がまた一人消えた」とか、そんな類のことを、仕事柄だからなのか、次から次へと言葉を吐いていたが、そのどれ一つを取っても中身のあるのが皆無だった。ただ言葉を垂れ流しているだけだった。
…私も終に高座を直接見る機会は無かったけれど、一度も落語を聞いたことすら無いくせに、恥も外聞も無く、よくもまぁここまでしおらしくそれらしくコメント出来るものだな…。
そう感想を持ちつつ、私は途中からイライラしてきていたが、ちょうどその辺りで不意に、
「…あぁ、こいつなぁー」
と、今まで黙ってテレビを見ずに新聞を読んでいたお父さんが、もう読み終えたのか新聞を折りたたむと、ソファーに深く座り直しながら声を漏らした。
「最近テレビで見ないと思ったが…まだ生きていたんだなぁ」
「…お父さん、この人の事を知ってるの?」
お父さんのそんな言い草に、益々イライラが募っていたが、なんとか抑えて、この際だからお父さんが師匠のことをどう思っているのか聞いて見たい衝動に駆られて、私も師匠の事を知らないフリをしながら聞いた。もちろん頭の中に、義一が言った、人を見る時の一つの指標の事を頭に浮かべながら。
「あぁ、知ってるよ」
お父さんはテレビとソファーの間に置いてあるテーブルの上から、晩酌用のコップに入ったビールを手に取り、一口飲んでから言った。
「昔はよくテレビで見ていたんだがなー…ここ十年以上テレビで見なくなったから、人気が無くなったんだろうねー…。色々と破天荒な事をやって見せたりしててな、何だか奇抜な事をして世の注意を引こうとするあの態度が、俺には我慢がならなかったよ。…何だか、そんなこいつの態度のどこに惹かれたのか、結構熱烈な信奉者もいたらしいが、まぁ”通ぶっている”奴らには、御誂え向きだったんだろう。…ふーん、享年七十八歳か…まぁ悪童世に憚るとはよく言ったもんだが、こいつはまぁ…このくらいで死んで良かったんじゃないか?…ん?どうした琴音、そんな怖い顔をして?」
「…え?」
突然話を振られたので、私は慌てて自分のホッペのあたりを大袈裟に撫でながら言った。
「そんな怖い顔をしていた?」
「あ、あぁ…。まぁ…何でも無いならそれで良い」
お父さんは少し私の事を奇異な物でも見るかのように見てきたが、それからは呆れ笑いを浮かべながら、チャンネルを変えた。しかしどの局でも師匠の死去について特集を組んでいたので、お父さんはフンッと不満げに鼻から短く息を吐くと、テレビを消してしまった。私はこの時、例の物体を胸の辺りに感じて、息苦しくなっていた。それでも何とか平静を装いつつ、「じゃあそろそろお風呂に入るね」と声を掛けてから居間を出た。そのモノの”重さ”は風呂に入っている間も続いた。頭は真っ白のまんまだった。
ほとんど夢遊病のように、無意識のままに寝支度を済ませ、最後にまだ居間に残っていたお父さんとお母さんに挨拶をしてから自室に入った。
そのままベッドに入ろうとしたその時、ふと義一との電話の途中だったことを思い出し、慌てて引き出しの奥を弄り、そこからスマホを取り出した。見ると電話は切れていた。それはそうだろう。あれからゆうに二時間は経っていた。と、メールが一通来ていた。義一からだった。
すぐに読もうと思ったが、まず美保子たちの方から見た。内容は予想通り、師匠の訃報についてだった。私は一応今情報に触れた旨を書いて、そして驚いたとの感想も入れて二人に返信した。そして次に義一からのを見た。要約すると次のような物だった。
師匠が亡くなった事、死因は心筋梗塞で、今朝中々起きて来ない師匠を心配して家族が寝室に行って見ると、既に事切れていた事、最初の報道があったのは夕方頃で字幕スーパーに流れた事、それにより義一たち含む関係者達も初めて知った事、葬儀は遺族だけで執り行われる事、お別れの会は別にするとの事、それには”数寄屋”に集う”オーソドックス”に所縁のある面子が出席するとの事等々、まだまだキリがないが、事細やかに書かれていた。
私はその文面を何度か見返し、義一にも返信しようかと思ったが、やはりそれはダメだと思い留まり、今度は私から電話を掛けた。さっきの様に周りに注意は払わなかった。
突然の電話だというのに、義一は呼び出し音が二度鳴ったくらいで出た。声は静かだった。
「…見た?」
義一は前置きを置かずに端的に言った。
私は見えていないのは重々承知で、その場でコクっと頷いてから返した。
「…うん、今見た…」
「そっか…」
義一はそう短く返すと、そのまま暫く二人の間に沈黙が流れた。私もそうだったが、こういった場合、何て言えば良いのか困っている様子だった。…いや、この場合の義一は、言葉は持っていても、それを私に掛けるべきかどうかで悩んでいるようにも見えていた。この様な時の義一の”優しさ”は、普段以上に暖かく感じられて、無言が流れる重々しい空気の中にいるはずなのに、少し緊張が緩むのだった。
それからはメールに書かれていた事を繰り返し聞かされた。新しい情報としては、お別れの会の内容は概ね既に決まっていて、平日の午後に、師匠の事を尊敬し慕っていた、当代きっての実力があると評価されている歌舞伎役者がホストを買って出て、歌舞伎座でやる事に、今日の今日で決まったらしい。義一も当然行くとの話だった。私は行けないのが心から残念だと訴えると、義一は電話口で力無く笑うのだった。この事については、改めて後日私の暇な時に”宝箱”で話し合う約束をして、電話を切ったのだった。
それからすぐにベッドに入ったが、中々すぐには寝付けなかった。
今日も目一杯練習したから体は疲れていのだが、頭…精神は興奮状態になっている様で、首の後ろ辺りが火照っているのを感じていた。胸に重くのしかかっていたアレは、今ではまた収まっていたが、相変わらず存在感だけは残していた。その代わりと言っては何だが、その隙間を埋める様に胸を深く冷たく占めたのは、如何ともし難い寂寥感だった。瞼を閉じてみても、あの数寄屋での師匠の様子が浮かぶばかりだった。どれも照れからくる苦笑いだったが、愛くるしく可愛らしい笑みだった。その様な表情で最初の方で『もう十分生きた…』と何気無く言った言葉だとか、最後の方で苦しそうに咳してから力無く繰り返し言った『もう良いんだ』という言葉も、繰り返し耳の奥で木霊していた。この晩は夢を見なかった。

「…うん、いいんじゃない?」
家に着くなり早速ピアノに向かい弾いて見せると、師匠は明るい笑みを零しつつ私に言った。
あの衝撃的なニュースから一晩明けての日曜日。私は寝不足なのも含めて、若干の気怠さを覚えつつも、こうして予定通り師匠宅にお邪魔している。挨拶もそこそこに、師匠も私と同じ様に若干眠そうにしつつ髪を後ろで纏めている間、私は塾に通っていた時から使っているトートバッグから楽譜を取り出し、早速新しく解釈を施した演奏を聴いて貰っていた。
師匠は今言ってくれた様に、その解釈を褒めてくれた。ここで技術的な話は置いとくとして、簡単に言えば『琴音らしい』との感想を頂いたのだった。ただコンクールの課題曲だったのに、この解釈で良いのかまでは言ってくれなかったが、演奏面だけではなく、師匠の”耳”に対しても絶大な信頼を寄せていたので、仮にこれでコンクールが上手くいかなかったとしても、それで満足だくらいには思っていたので、繰り返す様だが、嬉しかったと同時に安堵した。
何はともあれ、そこから何小節か試行錯誤しつつ弾いていると、あっという間にお昼になった。
この日は手抜き…と言っては悪いが、簡単に作れるシナモンシュガーワッフルを作った。前々回くらいにホットケーキを作ったのだが、その時のホットケーキミックスが余っていたとかで、それをタネに作ったのだ。とても簡単だったが、味は普通に美味しかった。ピアノの練習時もそうだが、こうして一緒にお菓子作りをして、ワイワイと食べてる間は落ち着く瞬間で、この日に限って言えば、師匠の事でナイーブになっていた気持ちが、薄らいでいたのだった。
だが…
「どうしたの琴音?今日はいつになく元気が無いわよ?」
「…え?」
今私たち二人は、ワッフルを食べ終えて、洗い物を済まし、午後のレッスンまでのひと時を雑談して過ごしていた時だった。
師匠から、どういった経緯でそんな解釈が思い浮かんだのか聞かれたので、 昨日たまたま不意に予期せぬ所でメロデイーが流れてきて、 折角の友達との親睦を深める機会を”犠牲に”して、 家に帰って改めて深めた旨を冗談ぽく話していた矢先に、ふとこう聞かれたのだった。
「…そう見えます?」
と少しおずおずしつつ聞き返すと、
「うん、そう見える」
と師匠は肘をつきホッペに手を当てながら、口元を緩めつつ言った。だが、目元は真剣そのものだった。本気で心配してくれている様子だ。
そんな視線に耐えられなかった私は、苦笑い気味に
「何でも無いですって」
と返すのがやっとだった。
「ふーん…」
と師匠は納得いかないと言いたげに、私にジト目を向けてきていたが、フッと表情を緩めたかと思うと、
「まぁ…私が少し”オチている”から、あなたまでもそう見えたのかしらねぇ…」とボソッと、中々真意が計りかねる様な言い回しで言った。
それを聞いた私はすかさず、
「…え?それって、どういう意味ですか?」
と質問した。
「師匠”も”…何か落ち込む様な事があったんですか?」
「…ふふ、”も”って、やっぱりあなたも落ち込む事があったんじゃない」
師匠は力無げだったが、それでも悪戯っぽくニヤケながら言い返してきた。
こりゃ一本取られたと、私も苦笑しつつホッペを掻いていたが、フッと師匠は寂しげな表情で笑いながら話しかけてきた。
「…まぁいっか。大人として、そして何よりあなたの師匠として、まず私から話すのが筋ってものかも知れないわねぇー…ちょっと待ってて?」
「は、はい…?」
私の返事を聞くか聞かないか微妙なタイミングで、師匠は不意に立ち上がり、居間を出て、家の何処かに行ってしまった。
この家は、私が小学二年生になりたての頃から来ているが、今だにこの家の全貌を知れていなかった。私が行った事がある…というよりしょっちゅう行っていたのは、レッスン部屋と、今いる居間と、師匠の五畳ほどの、義一の宝箱とは比べ物にならない量だったが、壁一面に本が並んだ書斎くらいだった。寝室や、別にあると聞いたことだけある師匠個人の練習部屋など、まだまだ未開のエリアがあった。当然というか、ここが私の下卑た点だが、好奇心が”無駄”に旺盛なせいで、何とかそういった師匠のプライベートエリアを覗いてみたいという衝動に駆られていたが、流石にもう師弟の関係になってしまったので、そう易々と頼める感じでは無くなってしまった。 こんな事なら、もっと早めに図々しく頼んでおくんだったと、思わなくもない今日この頃って感じだった。
それはさておき、何処かで物音が聞こえていたかと思うと、師匠が何やら紙の束を携えて戻ってきた。そしてそれを何も言わずに、二人分の紅茶が乗っているだけの食卓の上に、静かにその束を置いた。どうやら今朝の朝刊の様だった。スポーツ紙だ。
新聞だ…ってあれ?
師匠がゆっくりとした動作で座ろうとする間、私はチラッと見えた一面の文字に目を奪われ、思わず師匠に断る事無くその中の一つを手に取った。そこには、昨日テレビで見たのと同じ文句が一面にデカデカと載っていた。
『訃報 〇〇死去』
そう、”師匠”の事が一面全面を占めて載っていたのだ。
…っと、この呼び名では、私の師匠と違いが分かりづらいだろう。かと言って、いくら芸名とはいえここで述べるのは何だか引ける…。という事で、”ピアノの師匠”には悪いが、この間だけ”沙恵さん”と、まるでお母さんが言うように呼ばせて頂こう。弟子が気安く師匠の事を下の名前で呼ぶのは不敬だし、呼ぶこちらとしても呼びづらいといった弊害はあるが、少なくとも師匠は気にしないだろうし、それに仮に気にする様な性格だったとしても、訳を言ったら快諾してくれただろう。…若干ネタバレ感があるが、それはすぐ後の”沙恵さん”が話す内容から分かる。話を戻す。
沙恵さんは座ってからも、何故師匠が一面に載っている今日の朝刊を、それも一社だけで無く何社も買っていて、それをまた私に見せているのか、その理由を言い出さなかった。まぁ私の方で、まずそれぞれの師匠の写真が載っているのを一通り見てから、それから一社ずつ、すぐそばに沙恵さんがいるのを忘れかけて、ついつい細かく読み始めてしまったのもあっただろう。
そんな私の様子を、紅茶を啜りつつ眺めていたが、キリがなさそうだと判断したか、沙恵さんは苦笑気味に話しかけてきた。
「…ふふ、これは予想外の反応ねぇ。琴音、あなたまさか、この方の事知ってるの?」
「…え?」
私はこの時まで夢中で読んでいたので、瞬時に何を聞かれているのか分からなかった。が、すぐに慌てつつ、「え、あ、いやっ!」と言った調子で、しどろもどろになって返した。
そんな私の様子を見て、沙恵さんはまた愉快だと言いたげに明るく笑って見せた。
「ふーん…知ってるんだねぇ」
と今度はしみじみ言ってきたので、ある意味私は観念して「…はい」とだけ静かに返した。
「ふふ、そんな叱ってるんじゃないんだから、そんなしんみりしないでよぉ」
沙恵さんは”そう”思ったらしく、努めて明るくして見せながら言った。
「師匠”も”知ってるの?」
私はまだ頭が軽く混乱しつつ、ついつい師弟関係になる前に時折していた様に、タメ口になってしまった。
それを咎める事なく、沙恵さんは明るい笑顔のまま答えた。
「ふふ、また”も”って言ったわね?いくら成熟の度合いが高いっていっても、この辺はまだまだねぇー?…ふふ、さて、からかうのはこの辺にして…うん、そう、私はずっと昔からこの人のファンだったの。…今の琴音くらいか、もっと前からね」
沙恵さんはそう言うと、束の中から一紙を手に取ると、一面を愛おしげに目を細めつつ見ていた。そこには、紺碧の着物を着て、下にはグレーの袴を履いて、高座を終えた時なのだろう、中腰になって立ち上がりかけの時の写真らしく、顔には満面の笑みを浮かべていた。この間、短い間だったが深い話をさせて頂いた印象が強く残っており、まるでその写真の師匠が『どうでぇ、今日の出来は?良かったろ?』とでも言い出しそうに感じたのだった。
「琴音は、昨日のニュースを見た?」
「は、はい」
「驚いたよねぇー…って、私はまだ、あなたがどれ程にこの人に入れ込んでいるのか聞いてないけど、今は取り敢えず私の事を吐露させて貰うとね、うーん…そりゃ驚いたよ。昔…そうだなぁ、今から二十年も前だったか、”師匠”は何度か癌になってねぇ…何度も手術を受けていたのよ」
「…」
私は何も返さなかったが、紙面に目を落としつつ、大きく頷いて感心している素振りを見せていた。当然…というか、今沙恵さんが述べた情報は私も知っていた。それから…数年前に、とうとう喉に癌が転移して、周りが説得したのにも関わらず、腫瘍を撤去する手術だけは受けなかった事。何しろそれまで切除してしまうと、声が出なくなるのは必至だったからという理由を、何処かに書かれていた。声が出なくなるくらいなら、寿命が縮まっても構わないという信念を、ここ最近まで師匠の本を読み込んでいく過程で、感じたのだった。それなのに結局直接には関係なさそうな心筋梗塞で亡くなってしまうとは、これも人生って所なのだろう。
とここで、一つ…いや二つばかり驚いた事、そして同時に嬉しかった事を述べておこうと思う。まず一つ目は、ただ単純な事だが、尊敬している”沙恵さん”が、”師匠”の事を知ってて、それだけではなく”ファン”だと言った事だ。昨日、お父さんの反応を見た直後だっただけに、感動も一入だった。これに関係するのだが、もう一つの理由…それは、これまた単純だが、私と同じ様に”師匠”呼びをしていた事だった。これは別に私が便宜的に沙恵さんの言葉を編集したわけでは無い。そのまま”師匠”と呼んでいたのだった。
「それからは…あ、そうか、私は高校を卒業とともに、ドイツに留学してしまって、そのまま向こうに数年前まで行ってた話はしたよね?」
「はい、それで戻って着てすぐに、お母さんに誘われて、この教室を開いたと」
そうすぐに答えると、沙恵さんは微笑みつつ、人差し指をビッと勢いよく私に向けて「そして、その生徒の一号が琴音、あなた!そして、弟子一号って訳ね」と、ヤケに底抜けの明るさを演出しながらいうので、思わず私も微笑み返すのだった。
「まぁ一号って言っても、他に弟子とる予定もつもりも無いのだけれど…。いや、それはいいとして、そう、ドイツにそれから十年以上行ってたから、それから師匠がどうしていたのかという情報を得られなかったんだ。当時は今みたいにネットも発達していなかったし、向こうに行ってからも…自分で言うのは恥ずかしいけど、日本にいた時以上に修行に励んでいたからねぇー…日本人だからってナメられない様にってね?」
沙恵さんはここでウィンクしつつ、照れ隠しの意味もあるのだろうが、悪戯っぽく笑った。そして今度は、決まり悪そうに苦笑まじりに続けた。
「だから余計に見る機会が無くてねぇー…で、私のちょっとした不注意で日本に戻って来ることになっても、この家を借りる事になったりと、なんだかんだバタバタと慌ただしく忙しくしていたからねぇ…正直に言ってしまえば、ファンであった筈の師匠の事は、今の今まで忘れてしまっていたのよ…。ファン失格ね」
そう言いつつ寂しげに自嘲気味に笑うので、
「そんな事…」
と言いかけたが、その続きを述べられる程、まだ私には語彙が足らなかった。私が一人気落ちしていると、師匠は長い腕を伸ばし、向かいに座る私の頭を少し乱暴に撫でてから続けた。
「…あなたは本当に優しい子なんだからなぁー… 私の弟子にしとくのが勿体無いくらいに。 …ふふ、そんな変な顔をしないでよ?…さて、それでね、普段私は新聞なんて読まないんだけれど、”ある人”から昨日たまたま電話があってねぇ、その人も私と同じ様に子供の頃から師匠のファンだったって言うんで、海外に住んでいる人なんだけど、向こうでたまたまネットでニュースを見たらしくてね、それで私に電話して来たの。…夜中の一時にね。その人は時差とか考えなしに電話して来る様な勝手な人なんだけれども…」
「…?」
一体何の話だろうと不思議に思っていたが、それでも横槍を入れる事なく黙って聞いていた。沙恵さんは途中から呆れ笑いを浮かべていたが、口調やテンションからは不快さは見えずに、寧ろ愉快で楽しいと全体で表していた。
「でね、会話が終わろうとしたその時にね、不意にこう言ったのよ。『そういえば、何かとダメダメな新聞とかの大手メディアでも、アンタの話を聞く限りじゃ、まだドン底までは堕ちて無いみたいじゃない?何でも、夜のニュースでどこも”師匠”の特集を組むくらいだもの。…ん?あ、いや、何が言いたいのかっていうとね、もしかしたら全国紙、んー…少なくともスポーツ紙はどこも何かしら特集を組んでくれるんじゃ無いかしら?でね、アンタに頼みたい事があるのよぉー…。ほら、私今度近々日本に帰るでしょ?だからアンタに…あ、今日か、今日って日曜日よねぇ…?日曜でも新聞って出るのかしら?…まぁ分からないけど取り敢えず、今日の朝刊が出る辺りに、粗方の新聞を買い漁って欲しいのよ。ちゃんと後でお金は出すからー』ってね」
「へぇー」
へぇーっと思わず口から漏れた。沙恵さんの迫真の演技を見せてもらった感じだ。高飛車なところとか、捲し立てて話すところ、所々で自分で勝手に考え込み、そして自分で自分に突っ込んだりするので全体的に話が右往左往して纏まりが無い感じ…どれも特徴をよく捉えていた。
まぁ、それもそのはずだろう、何せその人と沙恵さんは、お互いにそれ以上の深い繋がりの相手がいないのだから。
…こんな調子で私が話すもんで、聞いてくれてる方の中にはもう察してくれてる人もいるだろう。そう、沙恵さんが説明しなくても、途中から既に、その人が誰だか分かっていた。それを助けてくれたのが、沙恵さんの演技にもよるのは言うまでもない。
「その人って…」
私は話がひと段落ついたと見計らって、口を挟んだ。
「もしかして…京子さん、矢野京子さんの事ですか?」
私がそう言うと、沙恵さんは一瞬満面の笑みを浮かびかけたが、すぐに呆れた様な笑みを顔一面に浮かべながら溜息混じりに答えた。
「そっ!本当にあの子ったら、自分勝手なマイペース女なんだからねぇ、いつも振り回されるこっちの身にもなってよって思うけど…でもまぁ今回に関しては、確かに”珍しく”良い提案をして来たからねー」
矢野京子。前に一度軽く触れたと思うが、ここでは詳しい話はしないでおく。…これを言うと、また軽いネタバレになってしまうかも知れないが、彼女については後々詳しく触れることになるので悪しからず。ただ一つ確認のために話しておくと、沙恵さんと京子さんは、色んなコンクールに一緒に出場して、トップで鎬を削りあったライバル同士でもあり、だからこそお互いの心根を分かり合える親友同士だ。その関係は今でも変わらない。
「…で、確かに京子が言ってたけど、今日は日曜でしょ?私も新聞を買わないから販売しているのか分からなかったけど、今のご時世で、私は未だにアナログ人間だから、考えてみればまずネットで、日曜に本当に販売されるかくらいは調べれば良かったのに、それをしないで、今朝はそうだなぁ…取り敢えず五時に起きて近所のコンビニに行ったの。そしたらこうして販売されてるし、それに京子の推測通り、どのスポーツ紙にも特集が組まれていたし、何よりも驚いたのは、新聞の表紙部分、一面を全部使っていたっていうのに益々驚いてね、嬉しさのあまり、何部かずつ買ってしまったのよ」沙恵さんは少しばかりはにかんでいた。
「その大量の紙の束をレジに持っていったら、店員さん、メンドくさそうな顔と、驚きの顔を織り交ぜた様な表情を浮かべていたなぁー…まぁそんなこんなで」
沙恵さんはそう言いかけると、ふと私に新聞の束を纏めて押し出してから
「私と京子の分以外にもまだあるから…良かったらあなたも貰っていく?」
「え?良いんですか?」
私はそう言いつつ、嬉しさのあまり答えを聞く前に束を纏めて両手で持った。
そんな様子を見た沙恵さんは、肘をついて呆れた顔を見せていたが、笑顔で応えた。
「えぇ勿論!…心配しないで?あなたからはお金を要求しないから」
「ふふ、ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
そうお互いに言い合うと、一瞬顔を近づけて見合わせて、その後にはプッと吹き出すと、明るく笑いあうのだった。
とここで”師匠”は時計を見ると、ハッとした表情を見せて、レッスンの再開を宣言したので、私は頂いた新聞の束を丁寧に揃えると、それを取り敢えず食卓の上に置いた。後で帰る時に忘れない様に肝に命じながら。
レッスン部屋に向かう途中、私は思わず思い出し笑いをしてしまった。前を歩いていた師匠は振り返り「なに?どうしたの?」と半笑いで聞いてきたが、「何でもありません」と、こちらも半笑い混じりに返した。師匠は「変な子」と短く微笑みつつ言うと、また先を歩いて行った。その後を追いつつ、ある事を思い出していた。
それは、さっき師匠が京子さんを演じていた時、京子さんにも”師匠”と呼ばせていた事だった。恐らくこれも、さっきの私と同じで、別に勝手に師匠が編集した訳ではなく、京子さんが本当にそう言ったのだろう事を思うと、我ながら細かいところに目が行くなと思いつつ、またそんな所を発見して嬉しがるなんて、我ながら単純だなぁっという意味での”思い出し笑い”だった事は、内容が内容だけに師匠には言えなかった。
そしていつも通り、レッスン部屋に入るのだった。

あのレッスン日から数週間が経った今日、六月二日、とうとうコンクール本番を迎えた。まだ予選とは言え、これがコンクール初参加の私としては、朝から既に自分でも驚くほどに緊張していた。今日は日曜日。学校をわざわざ休む必要が無かったのは助かった。
私の出る中二以下の出番は夕方の五時半からだったので、午前中は本を読んだりとノンビリと過ごし、お昼を取り、それから一時間ばかり楽譜を確認しながら過ごしていると、そろそろ家を出る時間が近づいてきた。支度の為に自室に入り、フォーマルな服装に身を包んだ。その服は、初めてお父さんに誘われて行った”社交”の場に着ていった物だった。
やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。因みに、そんな良いものでも無かったし、毎度代わり映えしない同じ様なものだったから”敢えて”触れなかったが、あれからも何度か社交に駆り出された。三度の一度は地元にある例のしゃぶしゃぶ兼懐石料理店だったが、それ以外には浅草だったり新宿だったりした。ただ食事の内容は同じ様なものだった。何度か参加した事もあって、顔馴染みになった人も何人か出来た。勿論、最も顔馴染みになったのは、お父さんの大学時代の後輩の橋本と竹下だったのは言うまでもない。 二人は毎回私の姿を認めると、笑顔で近づいて来て、馴れ馴れしく肩をポンポンと叩いたりしてきながら言葉を掛けてくるのだった。私は何とか笑顔を作って対応していた。…いや、何が言いたいのかというと、何度か出向く約束をする度に、何故かお母さんの方が反応を強く示して、同じ服装はアレだからと、私を連れて行きつけの洋服屋さんに連れて行き、そこで新しい外行きの服を買うのだった。だから、この手の服には困ってない…いや、この手の物に疎い私でも分かる程に、あり過ぎるほどにあった。何せ、この為に私の部屋に新たな洋服ダンスが置かれたくらいだったのだ。昔は…それこそ一番初めの頃、そう、法事に行った時にも軽く言ったが、小学二年生あたりまでは、この様な服を着ると、まるでお伽話のお姫様になったかの様な気分になれたので、他の女の子と同様に嬉しかったのだが、いつからか、日を追うごとに年を追うごとに興味を失っていってしまった。だから、お父さんに誘われる度に増えていく豪華な洋服たちを見る度に、溜息が漏れるのだった。
姿鏡の前で、クルッと一回転したりしながら最終チェックをした。
…よしっと。
私は鏡の中で頷く自分の顔をキッと見つめ返すと、足取り軽く自室を出て、私のメイクや髪型をセットする為に待つお母さんの元へと向かった。因みに今着ている服は、コンクール用のではない。その服は別にある。今は玄関先に置いてある、ローマ字で表記されたブランド名が、洒落て書かれた大きめな紙袋の中に仕舞われていた。今日行く予選会場には着替えるスペースがあるとかで、それならわざわざ家から着て行く事もないだろうと、お母さんが判断した。会場までの道中で、何かの拍子に汚れたら堪ったものではないとの考えらしい。まぁ、尤もと言えば尤もだった。
では何故このフォーマルを着ているかというと、それでもやはり普段着で行くのは筋違いだろうという、これまたお母さんの判断だった。まぁ…これは何度も褒めているから今更かもしれないが、こういった物関連の判断に関しては、全幅の信頼を寄せていたので、まるで着せ替え人形状態ではあったが、別段不満などは無かった。私自身に全くこだわりが無いのが良いのかもしれない。
それはともかく、パウダールームに着くと、そこにはもう準備を終えたお母さんが待っていた。今日のお母さんは着物姿ではなく、フォーマルなドレス姿だった。色はネイビーで、ジョーゼット生地のトップスには三段フリルが付いており、フェミニンな印象を与えると共に、Iラインスカートだったので、大人っぽい雰囲気を醸し出していた。今はまだ羽織っていなかったが、七分袖のブラックジャケットも側に掛けてあった。
私が入ってくるなり、早速お母さんに顔を洗う様に言われた。言われるままにヘアバンドをして洗い終えると、普段通りに自分の化粧水と乳液を付けた。
…ここでどこからかツッコミが来てそうなので、慌てて言い訳をさせて頂きたい。確かにこの様な事は、寝る前の準備の中でこなしている…キャラに似合わず。言わせて頂くと、私自身は全く興味が無いのだが、やはりこれもお母さんからの…大袈裟に言えば”命令”の様なものだった。私が小学校五、六年生の頃から続けている。これは正直面倒だったが、慣れや習慣とは恐ろしいもので、今ではこれらを済ませてからでないと、夜に眠れなくなってしまった。…いや、これはどうでも良い話だった。
私がそれらを済ませると、今度はお母さんが私を椅子に座らせ、自分は立て膝になり、顔を近付けてメイクに取り掛かった。
化粧下地をし、スポンジを肌の表面で滑らす様にしながらパウダー状のファンデーションを伸ばしていった。次にはチークをホッペに、ハイライトを所謂Tゾーンにのせていった。アイシャドウはスモーキーという、ややくすんだ、大人っぽい印象を持たせる色合いだった。クチビルは、お母さんが直に指で丁寧に塗ってくれた。その後は言われた通りに上下の唇を合わせて馴染ませた。
…とまぁここまで描写しておいてなんだが、本来はこんなにメイクの描写はいらなかったかも知れない。だが、それだけ手間を掛けてくれたお母さんの苦労を労う意味で、こうして事細やかに話してみた。話を続けよう。
最後の確認なのか、お母さんは真剣な面持ちのまま私の顔の両端を掴み、少し乱暴に右左と向かせた。そしてまた正面を向かせると、すくっと立ち上がり、腰に手を当てると力強く頷いた。
「…うんっ!完成!」
「…終わった?」
私は少しくたびれた調子で言った。
するとお母さんはニコーっと無邪気に笑うと、
「うん、完璧よ!鏡で見てみなさい?」
と言い、私の背中を押して鏡の前まで誘った。
メイクの間はずっと真剣な面持ちのお母さんとにらめっこしていたので、視界にはそれしか入らず、鏡はどうしても今まで見る事は叶わなかったのだ。それでこの時初めて見る事になった。
見てみると…なるほど、『これが私?嘘みたーい!』みたいな典型的な感想は持たなかったが、今着ている服ともマッチした、中々に大人っぽい”私”がそこにいた。自分で言うのは恥ずかしすぎるが、”淑女”といった風貌だった。 ヒロが見たら間違いなく“馬子にも衣装”みたいな、微妙にズレたことを言った事だろう。今ヒロは全く関係ないのだが、そんな事を思い浮かべていたのだった。
社交に出向く時も毎度お母さんが色々してくれていたが、ここまで本格的にメイクをして貰ったことは無かった。いつも普段から、女性としての品格なり作法なりを身に付けていたお母さんの事を、そういう意味では尊敬し誇らしく思っていたが、久々にこうした一面を見せて貰った気がした。
それからは、そのまま鏡の前で髪をセットされた。…いや、セットと言っても、メイクとは違い、こちらは右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものだった。だが、今の大人っぽいメイクと服装には、それがかえって程よく色気を演出していた。
こうして私の準備は終わった。本番に着る服は後でのお楽しみだ。…需要があるか知らないけど。
ここで一つ補足というか、ネタバレを一つさせて頂こう。私はこの時初めてこのメイクをして貰ったのだが、少しして気付いた。このメイクは、何度か見せて貰った、師匠がコンクールに出ていた時のメイクにそっくりだったのだ。これは後で師匠に聞いた話だが、お母さんが私の知らないところで、師匠にどういう格好を私にさせれば良いのか相談していたらしい。それを聞かれた師匠は困った様だ。何故なら、自分がプロのソリストとして活躍していた時のメイクなら教えれるが、子供の頃など、今の私の様に母親にされるがままでいたのだから、教えれる訳がなかったのだ。それでもなんとか答えてあげたかった師匠は、この間私に見せてくれた昔の写真をお母さんに見せて、そして何枚か貸してあげたらしい。 それを見てお母さんは、大袈裟に言えば私に内緒で研究して、それをこうして練習することなくぶっつけ本番で仕上げたのだった。
口では言わなかったが、一度も練習をしなかったのは、少しでも私のピアノの練習の邪魔をしない様にという、お母さんなりの気遣いだったって事は、十何年も娘をしているのだから、それくらいの事は分かった。その化粧の腕もさることながら、その想いについても、この話を聞いた直後には感謝をした。
…とまぁ、そんなこんなで、また少し鏡の前で姿を確認すると、嬉しさを表現するために満面の笑みを浮かべて「ありがとうお母さん!」とお礼を言うと、今度はたまたま家にいて、居間でくつろいでいたお父さんに姿を見せに行った。
「お父さん。…どう、かな?」
私は一度目の前でくるっと回って見せてから、少し溜めつつ聞いた。お父さんはいつもの様に、テレビの前のソファーでまた新聞を読んでいたが、ふと「…おぉ」と声を漏らすと、おもむろに新聞を畳み、それをテーブルの上に置いて立ち上がると、顎に指を当てながら舐め回す様に見てきた。この様な類いの事で声を漏らしたのは、私の記憶が定かであれば初めてだったので、その反応に少し戸惑っていたが、お父さんがまた例の如く写真を撮っていいかと聞いてきたので、頭の隅に『またお父さんの仲間たちに見せるのかな…?』と、ある種の嫌悪感を覚えないでも無かったが、それでもやはり実の父親に、こうして容姿の事とはいえ喜ばれたら、それに対しては悪い気がしなく、むしろ嬉しくもあったので、笑顔で了承したのだった。まぁ尤も、普段からお父さんは、私のことを貶しもしなかったが、褒めもしなかったので、その反動もあるのかも知れない。
お父さんが写真を撮っている間、ふとまた別の一つの情景が胸に去来していた。
それは前回に話した師匠との会話の後、別のレッスン日での一コマだった。その日も午前中の練習を終えて、何かしらのお菓子を作って食べて、午後のレッスンまでの間、また二人で雑談をしていた時のこと、ふと疑問が湧いてきたので、師匠に何気なくぶつけて見たのだった。
「師匠、師匠は何で今まで(落語の)師匠のファンだった事を、私に話してくれなかったんですか?」
私がそう聞くと、師匠は「え?…うーん」と首を傾げつつ悩んで見せたが、苦笑まじりに答えたのだった。
「何でって言われてもなぁー…まぁまず琴音、その事を話したところで、あなたが興味を持ってくれるか確信が持てなかったからねぇー…あなたとは色々な芸能について語り合ったりしてきたけれど、それは主に西洋の、向こうの話が中心だったしねぇー…まぁそれは、私たちがやっている音楽という芸能が、欧州由来なのが一番の原因なわけだけれど。まぁそんなわけで、知らず識らずのうちに、そんな話をしていく中で勝手にあなたが、落語を含む日本文化にそこまで今の時点では興味を持ってないのかな…?って思い込んでね、だったら、別に焦って急ぐ話でもないし、いつかは日本人なら興味を持って欲しいなぁー…今の所はって考えての事だったのよ。…まぁ、もっと単純なところを言えば、自分の好きなものを話したところで、相手が乗り気になってくれなかったら…悲しいじゃない?」
師匠は最後に悪戯っぽく笑って見せた。
師匠の話には、どこにもツッコミどころは見つからなかったので、
「なるほどー…」
と素直に納得して見せた。
そんな私の態度に対して、師匠は笑みを零して見せたが、不意に顔を曇らせたかと思うと、調子も低めに話し始めた。
「…うーん、これをあなたに話すのは躊躇われるけど…うん、あなたならちゃーんと誤解なく受け止めてくれると信じて、話してみようかな?…琴音、実はもう一つ…いや、むしろこれこそが、あなたに中々この事を話せなかった…いや、これに限らず、芸について”深い”話を、私の個人的な心情で話せなかった理由があるの」
「…え?それって…」
いつも快活にズバッと話す師匠が珍しく、口ごもりつつ躊躇う姿を見て、私もいつもと違う雰囲気を察し、合わせる様に真剣味を帯びせつつ声を出した。
「何ですか?」
そう聞くと、師匠はまだ少し躊躇っている様に見えたが、意を決した様に目をギンと力強く開けると、口調は穏やかに話し始めた。
「まぁー…誤解を恐れずに結論から言うとね?今まで言えなかった最大の原因は…あなたのお父さんにあるの」
「…え?私のお父さん?」
意外な人物の名前が出たので、黙って最後まで聞こうと思っていたのに、思わず声が漏れた。
「そう、あなたのお父さん」
師匠は力無く笑って頷くと、視線を私から少しズラし、遠くを見る様にしながら先を続けた。
「あれはー…そう、瑠璃さんに『この家を借りて教室を開けば?』ってお誘いを貰ってからすぐの事だったわ。 瑠璃さんに提案されたからって、この家の持ち主はあなたのお父さん、栄一さんだったから、後日に本格的に話し合って契約するために会ったのよ。栄一さんは最初から無表情で、奥さんである瑠璃さんが紹介する私の事を、まるで値踏みをする様に、遠慮もしないでジロジロ見てきたのよ」
師匠は珍しく嫌悪感を顔に表しつつ話していた。普段は誰かに対して、この様な態度を取るのを見た事が無かっただけに、師匠のその時の感情が余計に際立って感じられる様だった。
「まぁ頼む側の私としては、それに対して抗議出来るような立場では無かったから、されるがままでいたの。その間、瑠璃さんが大袈裟に私の事を紹介してたわ。ドイツを中心にヨーロッパで活躍していただの何だのってね…。それを聞く度に栄一さんの目が、益々強くなっていくのを感じて、私は正直居た堪れなくなっていったわ。瑠美さんの話を聞き終えた栄一さんは、一応表向きは快く承諾してくれたんだけれど…ふとこの時に、何で栄一さんが見ず知らずの初対面の私にそんな態度をとったのか、その訳を察したの」
「…それって?」
私は師匠の話を聞きつつ、その情景を思い浮かべながら、何故だか実際にその場にいなかったのに、まるで昔の嫌な思い出を思い出すかの様な、胸が何かしらの負のエネルギーに締め付けられる様な感覚に陥っていた。今までのお父さんへの想いが関係していたのは言うまでもない。
師匠はここでまた先を言い辛そうにしていたが、私が視線をそらす事なくジッと見つめると、諦めたかの様な笑みを零しながら先を続けた。
「うん…それはね、『あぁ…この人って、所謂”芸能”について関心なんか微塵もなくて、それどころか寧ろ”芸”と”芸人”に対して、生産性もないのに何の為に存在しているんだ?社会で何の役に立っているんだ?って小馬鹿にして、一段どころか何段も下に見てるんだ…』ってね、瑠璃さんの話の後、世間話の体で色々と私に略歴を聞いてきたんだけれど、表情からありありと見えてしまったの…」
「あぁー…」
私は思わず、同意の声を出してしまった。
私も事あるごとにお父さんから、今師匠が述べた様な事は随所で感じられていたからだ。
師匠はそんな私の反応が意外だった様で、ハッと目を見開いたかと思うと、その直後には苦笑を浮かべつつ、口調もそれに合わせた調子で言った。
「まぁそんな訳だったからねぇ…、その娘であるあなたに、中々本質的な”芸論”の様な事を話せなかったのよ。…本当は、前にも言った様に、あなたは私と似ていると初対面時から思っていたから、是非ともお喋りしたかったんだけれどねぇー…あなたと栄一さんが、別に親子だからって同じ性格だなんて、そんな短絡的な事を考えていたつもりは無かったんだけれど、それでも何だか気後れしちゃって話が出来なかったんだ」
「…」
私は何も返さなかったが、静かに微笑みつつ、ただ頷いて見せた。
今言った様な師匠の心情は、弟子ながらにヒシヒシと感じ取っていた。師匠は話せなかったと言ったが、確かに今まで話を聞いてくれた方なら分かるとは思うが、そんなに多くは無かったが、それは義一や数寄屋に集まる人々と比べてという事であって、ここぞという所で芸について話してくれていたので、別に皆無という訳ではなかったし、それに数々の芸に関する珠玉の古典を貸して読ませてくれた時点で、師匠の本心が分からないと言う方が無理があった。
私が頷いたのを見ると、ようやく師匠は明るい微笑みを顔に湛えて、悪戯っぽくため息混じりに言った。
「まぁ繰り返しになるけど、あなたが芸に対してただならぬ程に思いを強く持ってくれている事は知っていたし、それに(落語の)師匠の事を知ってるくらいに日本の文化に興味があったんだったら、もっと早く話してみれば良かったって今思うよ」
「…ふふ」
私はここで、何か気の利いた言葉で返そうと思ったが、特に釣り合った言葉を見つけられなかったので、余計な薄っぺらい言葉を吐くくらいならと、ただクスッと笑って見せた。師匠もそんな私の心情を察したか、同じ様にクスクスと笑うのだった。
一息ついて、師匠はコーヒーを一口啜ると、不意にニターッと意地悪げに笑うと声をかけてきた。
「しっかしなぁー、今更繕う事も無いだろうから素直に言うけど、あのご両親の娘なのに、よくもまぁそこまで芸に興味を持てるねぇー。何か取っ掛かりがあったのかな?」
「…えっ?」
私はドキッとした。
取っ掛かりは勿論、師匠自身にあった訳だが、それはどちらかと言うと”音楽”という狭い範囲の話であって、”芸能全般”という意味においては、勿論義一の影響が大きくあった。…いや、全てが義一由来といっても過言ではないかも知れない。 義一は色々な視点を見せてくれる、友達であるのと同時に知恵や知識においての”師匠”でもあったが、ある種”芸”についても”師”であったのかも知れない。私は”芸”においての師匠を二人持っていたという事になる。今思えば…いや、当時からこの事実に気づいた時には、その幸運に対して、何者かに対して感謝をしたのは嘘も偽りも無い事実だ。話を戻そう。
私はこの話をするとどうしても義一の話をせざるを得ない事に気付き、黙り込みつつ頭の中で話すべきかどうするべきか思い悩んでいた。
そんな様子を黙って見ていた師匠だったが、不意に食卓を挟んで向かいに座り、無造作にその上に投げ出していた私の手をそっと握ったので、少しビクッと反応を示してから顔を上げると、師匠は柔らかな笑みを浮かべつつ、静かに言った。
「…ふふ、まぁ無理して言わなくても構わないわ。でもね…これだけは覚えといて?私は何があっても、あなたの味方だって事…。恐らくあなたには、お父さんやお母さんなどの肉親相手にも話せない様な事があると思う…。まぁ、年頃の女の子なら、誰でも一つくらいはあるもんだけどね?…でもね、中には一人で抱え込むには大きすぎる事があると思う…自覚してなくてもね?そんな一人で抱え込み切れなくなりそうになった時は…その時は遠慮なく私に話してみて?あなたが私の事をどう思っているのか分からないけど、こう見えて口が固いのよ?…もし頼まれたならね?」
師匠はニヤッと笑って見せた。
「両親に話せない様なことでも、絶妙な距離感の私相手なら話せる事もあるだろうしね?だから…今抱えている事を話す気がいつか起きたなら、遠慮なく私に話してね?私は…あなたの師匠なんだから」
「…」
私は師匠の言葉に、ありきたりな感想で申し訳ないが感動していた。そしてその時、ふと義一の事を話しても良いかと思ったが、こうして師匠が真摯に話してくれたのに、そんな簡単に話して良いものかどうか、もう少しちゃんと自分の中で考え抜いて、それから話した方が良いんじゃないかと思い、
「…はい」
と、なるべく満面の笑みを意識しつつ応えたのだった。
師匠もそれ時以上は話す事なく、私の微笑みに微笑みで返すのみだった。
…とまぁ、回想が長くなってしまったが、繰り返すと、お父さんに自分のドレスアップした姿を見せている間、この時の事を思い出していたのだった。
お父さんに写真を撮られた後ちょうどその頃、四時になろうとしたその時、不意に家のインターフォンが鳴らされた。お母さんが応対して、玄関が開けられ、そしてお母さんに誘われて居間に入ってきたのは師匠だった。今日は師匠も、お母さんと一緒に付いて来てくれる手筈になっていた。師匠の格好は、お母さんとはまた別の意味で、大人っぽくシックに決まっていた。師匠が着ていたのは黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスだった。今はアイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットを羽織っていたが、下はノースリーブで、175ある高身長の師匠に、ますます色気と格好良さを際立たせていた。師匠はまずお父さんに気づくと、軽く挨拶をして、深々と頭を下げた。お父さんはそれなりに表情を緩めつつ、当たり障りない言葉を掛けていた。
そんな社交辞令な掛け合いがなされている中、私は私で視線は師匠の姿に釘付けとなっていた。師匠のそんなドレスアップした姿を初めて見たので、ついつい見惚れてしまっていたが、師匠は私の視線に気づくと照れ臭そうに「そんなに見ないでよぉ」とおちゃらけて見せるのだった。そんな師匠の様子をにこやかに見ていたお母さんだったが、ふと時計を見ると私と師匠の方に向き直り、若干明るめに和かに言うのだった。
「では、そろそろ行きましょうか?」

「いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
お父さんが玄関先まで見送ってくれたので、私とお母さんと師匠は靴を履くと一度振り向いて、お父さんに挨拶してから出発した。
六月に入ったばかりで、もう梅雨の時期に入っていたから、天気の心配を軽くしていたのだが、今日に限っていえばこれ以上とない快晴で、オレンジ色に染まる空が頭上に広がり、時々黒い影を作りながら鳥の群れが寝床へ飛んで行くのが見えた。
私は普段使っているミニバッグと楽譜の入ったトートバッグを持ち、お母さんも自分のミニバッグを提げつつ、私の衣装の入った紙袋を持ち、師匠は一番身軽で、これまたミニバッグだけ手に直接持っていた。
仕方ないのだろうが、私とお母さんは、パッと見我ながらキマッていたと思うが、何気に大荷物だったので、チグハグ感は否めなかった。まぁ尤も、そんな事気にする私では無かったが。
会場は巣鴨駅のすぐ脇にある雑居ビル内にある小さなホールだった。なんでも、主催側が持ってるホールらしいが、伝統がある割には、外観からはとてもじゃないがクラシックの演奏がなされる様には見えないと、出演者側からは悪名高いんだと、行く途中の車中で師匠が呆れ笑い気味に教えてくれた。同じく東京出身の師匠も、同じ所で予選を戦った様だ。
その当時の思い出話をして貰っていると、気づくと最後の乗り換え、山手線のホームに着いていた。ここからは後三駅だ。
日曜日という休日にも関わらず、狭いホームは人でごった返していた。まぁこの路線は、平日も休日も関係ないという事なのだろう。
電車を待つ間、ふと師匠が周囲をキョロキョロ見渡したので、
「どうしたの師匠?」
と声をかけた。すると師匠は腰を少し屈めたかと思うと、若干背の低い私の耳に顔を近付けて、そして意地悪な笑みを浮かべつつ答えた。
「いやね、周りの視線を感じたから何事かと思ったら、皆して琴音の事を見ているもんだからねぇー…流石私の弟子、何もしなくても注目を浴びてしまうんだから!」
「あら沙恵さん?」
私がすかさず突っ込もうとしたその時、今度はお母さんが私に視線を向けつつ、これまた同じ様にニヤケながら返した。
「この子は私の娘でもあるんですからね?注目浴びてしまうのは私の功績でもあるのよ?」
「あのねぇー…」
私は堪りかねて、不満げを体全体で表現して見せつつ、ジト目を容赦なく二人に向けつつ言った。
「むしろ注目を浴びているのは、二人の方だからっ!」
…これを聞いた方は、何て下らなく退屈なエピソードなんだと思われたかも知れないが、私自身そう思うのに、不思議とこんな下らない出来事が鮮明に覚えているという事もあるのだ。それだけ、当日は神経が張り詰め、自分で言うのは馬鹿みたいだが、こんな事までずっと覚えているのが、その証拠だと言えなくも無いだろう…。
まぁこんな話はともかく、そんな取り止めのないやり取りをしていると、問題の雑居ビルの前に辿り着いた。
師匠が言った通り、外観はどこにでもある雑居ビルだった。ただ一つだけ違いがあるとすれば、その周囲に私と同い年くらいの、これまたおめかしした男女と、見るからに親御さんだと分かる大人達が、ビルの脇にあるエレベーターホール前で固まっていた事だった。事情を知らない人が見たら異様に映ったことだろう。その陣営へ私たちも入って行った。
ふとその数人が、少し驚いた様な表情でこちらを見てきていたのに気づいた。気づいたのは私だけで、師匠もお母さんも気づいていなかった様だが、私は少しばかり何故か気まずい雰囲気を感じていた。しかし、そんなことで負けてたまるかと、片意地張って俯きそうになる弱気をなんとか奮い起こさせながら顔をまっすぐ前に向けて歩いた。
エレベーターで三階まで上がり、ドアが開くと、すぐ目の前に受付が置かれていて、係員と思しきフォーマルなスーツを着た女性が座っていた。「出場者の方ですか?でしたらまず”参加票”をご提示ください」と言われたので、その通りにミニバッグから参加票を取り出し見せた。すると、係員の女性が今度は、受付のすぐ脇にある掲示板を指差し、「ではこちらで演奏順を確認して下さい」と言われたので、軽く女性にお辞儀してから、掲示板の前に立った。私以外にも、先ほど外で見た数人の男女が睨む様に見ていた。その気迫のこもった様子に少し気後れするのを感じつつ、この中では私が頭一つ分背が高かったので、一つ下がった所から見た。そこには私を含む五名の名前が出ていた。私はてっきりもっと多いものだと思っていたので、
参加者が五名だけなのか…まぁ、他の日にも他の場所でもするみたいだし、今日限定と考えれば、こんなものなのかもねぇ。
とため息も混じりそうになる感想を抱いたが、ふと演奏順を見た時に驚いた。何と私が一番最初になっていたのだ。少し細かく言うと、出場者の内訳としては私を含む女の子三人と、男の子二人という構成になっていた。私は他の子に負けないくらいに、ジッとその掲示板を見ていた。私としては一番最初と最後だけは避けたいと思っていたので、意味がない事と知りつつ見ていた訳なのだが、変化しない代わりに、他の参加者の男女の正体(?)が分かった。どうやら、私以外の子達は、このコンクールを主催している所でやっている、ピアノ教室の生徒達の様だった。それぞれの名前の横に、コンクールの名前のついた教室名の後に、様々な地域の名前が付いていた。
どうやら彼らの出身地の様だった。八王子なり何なりと、都内限定と言えども多岐に渡っていた。どうやら、彼らはそれぞれの教室の代表選手のようだった。当然のように、私の名前の横には何も書かれていなかった。つまりはそういう事なのだろう。
私はこの時に既に、何故私が一番手なのかを理解し、少しつまらないと思いつつ、師匠の元に戻ろうとしたら、何故か師匠は、これまたさっき下で見た、出場者の親御さんと思しき大人達に囲まれていたのだった。何やら質問ぜめにあっていた様で、遠くから見てもタジタジになっているのが分かった。
呆然とその情景を見ていると、師匠が私に気づいて、何か周りに言い訳をしながらかき分けて、私のそばまで歩み寄ってきた。
「ふぅ…参った参った。あっ、琴音、演奏順はどうだった?」
「え?あ、はい…一番手でした」
「え?…あぁ、そっかぁー…一番手だったかぁ」
師匠はわざわざ掲示板を見る事もなく、ただシミジミと天井を軽く見上げつつ言った。
「そっかぁー、まぁ私も部外者だったから一番手だったよ。だから、細かい事は気にせずに、ドンと行こうっ!」
そう言うと、少し強めに私の背中を叩いてきた。それに対して私が大袈裟に痛がって見せると、師匠は心から愉快だと言いたげに笑うのだった。その向こうでチラッと、お母さんが、先ほど師匠を取り囲んでいた大人達と談笑をしているのが見えた。
と、私が早速師匠に、何で取り囲まれていたのかを聞こうとしたその時、係員の声に阻まれてしまった。
「では出場者の皆さん、控え室に集まって下さい。今からコンクールを開催いたします」

「じゃあ私たちは客席で見てるから」
控え室の入り口で、お母さんが紙袋を手渡してきつつ声をかけてきた。
「力まずに”頑張るのよ”?」
「…うん」
私は微笑みつつそう返した。返事を聞いたお母さんも微笑み返し、何も言わずに両手を私の両肩に置いたかと思うと、すぐにその手を離して、こちらに顔を向けたまま後ずさりをして行った。それと入れ替わるように、今度は師匠が近付いてきた。師匠も微笑んではいたが、目付きだけは”マジ”だった。師匠はお母さんとはまた違って、片手だけを私の肩に置くと、静かに言った。
「…ここまで来たら、今更何も言う事は無い。…琴音、あなたはただ何も余計な事は考えずに、コンクールに特化した練習は約半年間という短い間だったけど、あなたはそれ以前からあれだけ練習し、今まで研鑽を積んで来たのだから、その日々を思い出し糧にして、後は指が流れるままに、悔いのないように弾ききって来なさい!」
途中までは静かなままだったが、途中から熱が入り出し、最後には明るい笑みまで浮かべつつ、そう言い切った。
その後で、「…自信を持ちなさい?何たって、私の弟子なんだからっ!」と茶目っ気を入れるのを忘れずに。
その様子に思わず私はクスッと一度笑みを零すと「はいっ!」と師匠に合わせるように返したのだった。師匠は笑顔で何も言わず、掛けたままだった手で肩を何度か上下に摩るのみだった。
私は自分が一番手というのもあって、少し慌ただしく準備をした。十畳ほどの控え室の中に、洋服屋にあるような簡易的な試着室が二つばかり置かれていたので、紙袋を持って中に入った。中には大きな姿見があって、教室の机くらいの大きさのテーブルが、物置として置かれていた。私は早速今着ている服を脱ぎ、時間が限られている中、私が一人暮らしをする準備として、お母さんに特訓されたのが活きたのか、急ぎながらも丁寧に折り畳み、そしてドレスを着込んだ。ドレスに関しては、何度か着てみたので、これも着るのに手間取る事は無かった。…別に誰も待ってはいなかっただろうが、ここでどんなドレスか紹介したいと思う。紙袋から取り出し身に付けたのは、ネイビー一色の、ロングAラインドレスだ。袖は肘より少し上まではあったが、レースで下の素肌が透けて見えて、可愛らしさと同時に大人っぽさを演出していた。同じネイビーなので遠目では分かりにくいが、トップスを中心に上半身部分を覆うように、様々な花が編み込まれたような複雑な柄の刺繍が施されていて、その控え目かつ大胆で凝った模様が、余計にまた大人っぽさを滲ませるのに貢献していた。
…とまぁ、そんなドレスだったが、ここでふと、こんな事を言う人もいるかも知れない。『結果をさて置くとしても、コンクールというものは晴れ舞台なのだから、ここぞとばかりにおめかししなくて良いのか?その様な、こういった場に於いては地味目気味の落ち着いた色合いの単色ドレスで良いのか?』と。これは、後で写真を見せる約束をしている絵里にも言われそうな事だ。確かに、私個人としてはそこまで服装はどうでも良いんじゃないかと思っていたけど、イメージとしては煌びやかな服を身に付けるイメージを持っていたから意外に思ったのは事実だったが、実はこのドレスを選んだのは師匠だった。四月の頭にコンクールに申し込んだ次の週に、私とお母さんと師匠三人で、コンクール用の衣装を買いに行った時のこと。案の定というか、お母さんも例に漏れずに、イメージ通りの如何にもな衣装ばかりを選んでいたが、ことごとく師匠に落第点を貰っていた。師匠曰く、本戦、決勝ならいざ知らず、まだ予選段階で服装ばっかり力入れても仕方ないだろうという、これはある意味で、師匠個人の美意識というか、こだわりだった。お母さんは、これといった具体的な反論をされなかったが故に、少しばかり頑張って説得しようとしたが、結局は師匠に頑固に押し通されて、その売り場にあった一番地味な色合いのこのドレスを買うことになったのだった。
でも一度私たちの家に一緒に帰り、そこで試しに着てみると、先程も述べたが、このドレスは中々に品があって、お母さんもその時になって初めて納得いったようだった。着たまま試しに練習部屋に行き、ピアノの前に座り、軽く師匠作曲のエチュードを弾いてみると、これまた殊の外普段着と変わらない感覚で弾くことが出来た。その事実に、今度は私がこのドレスを本心から気に入ったのだった。
だから、周りがどう思おうが、私には一番のドレスには違いなかった。確かに、私が会場の舞台袖に係員に案内される前に、少しだけ他の参加者が着替えて出て来た姿を見たが、どれもゴテゴテしていて、確かに可愛らしかったりしたが、私個人の感想として、とてもピアノが弾きにくそうに感じられた。…まぁ、余計なお世話だけれど。
もう一つ、その時に感じた余計な感想を述べれば、そんな可愛らしいドレスは、私には似合わないだろうなぁ…といった物だった。先程も軽く触れたように、少なくとも女子の中では、私が頭一つ分大きかったので、そういう点からしても似合わないだろうと客観的に思ったのだった。…まぁ、それだけだ。
係員に促されるままに、舞台袖に立つと、そこから客席がチラッと見えた。この時初めて会場を見たのだが、思ったよりも客席との距離が近いように見えた。袖口で、軽くどのような作法をしなくてはいけないのかを、付け焼き刃的に教えて貰い、出番を待った。
「では演奏番号一番、望月琴音さん、どうぞ」
どこからか声が聞こえて、名前を呼ばれたので、私は静々と舞台袖から会場に出た。
一瞬ライトに目が眩んでしまったが、改めて会場を見ると、何だか私の通う学園の教室ほどの広さしか無かったのに、今更だとは思うが、悪いと思いつつ素直な感想を述べれば、またしても規模の小ささに些かならず驚いた。予想よりも遥かに小さかった訳だが、私が想像する元になったのは、師匠の写真たちだったので、あれは全てが全国大会の写真だった事を、ここに来てまた改めて思い返して、気を取り直してピアノの前まで歩み出て、係員が教えてくれた通りに深々とお辞儀した。そして、これも教えて貰った通りに、ピアノのすぐ脇に設置された長テーブルの後ろに座る男女四人に対しても深々とお辞儀した。どうやら、彼らが審査員のようだ。私はまた一度改めて会場を見渡すと、ほとんどが出場者の関係者で埋め尽くされているのだろうが、その顔々が浮かべている表情は、どれも私を品定めするかの様に、少し顰めっ面の表情が目立っていた。それに気づくと、ここに来て初めて、今朝に感じていた緊張というものがまた湧き上がって来た。自分としては表面だけでも凛として立っていたつもりだったが、正直足がすくむ感覚に陥っていた。
このままの状態で、果たしていつも通り弾けるのかな…?
と不安に思いつつ、我知らずに観客の中に知った顔がいないか探してしまった。と、会場が狭いせいか、すぐに見つかった。お母さんは、ここからでもわかるほどに、心配げな顔をこちらに向けてきていたが、その隣に座る師匠は、あくまで無表情を見せていた。
とここで不意に私と目が合ったことに気付いた師匠は、目付きだけは真剣な眼差しのままに、口元だけをフッと緩ませて見せた。
それを見た瞬間、自分でも確たる理由は分からなかったが、自分でも肩の力が抜けるのは分かった。そして、控え室の前で師匠が私の肩を撫でてくれた事を思い出し、ほぼ無意識にその部分を自分でも数度撫でてから、ピアノの前に座り、一度目を瞑って心を落ち着かせ、精神を集中させてから、静かにゆったりと鍵盤の上に指を置いた。そして指が動くままに演奏に没入して行ったのだった。…
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