【1】

文字数 21,455文字

 かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって(おど)すのみ。西洋の(ことわざ)に「愚民の上に(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く(わざわい)なり。
                      ――福沢諭吉『学問のすゝめ』――
 
【1話 學門島】

 夏であった。暑かった。
「そう……よく獲ったわね。こんなに大きくて立派な……フカヒレ」
 街宣車として使われている、軽トラックの荷台の上でのこと。
 先ほどまで選挙演説をぶっていたセーラー服の少女が、それを恍惚と讃えた。
 彼女の眼前には、高さ五十センチはありそうな、三日月形のサメの尾びれ。
「まだ生のままだからフカヒレと呼ぶのは間違いかしら? これはなんの? ……アオザメ? 形の整った良い尾びれだわ。日乾しして排翅(パイツー)にしたらさぞ豪勢でしょうね。でもアオザメという名のわりには色が黒っぽいわね。触り心地は……」
 差し出された尾びれに、少女が艶めかしく指を這わせる。
「鮫肌ね。実に鮫肌だわ。ザラザラ、ボツボツとして、指がすり剥けそう……猫の舌のようでもあるわね。きっとワサビ下ろしとして使うのに最適よ」
 そう評すと、耳にかかる長い黒髪(かみ)をしとやかに掻き上げ、品よく鼻を近づけた。
「あぁ、やはりサメならではのアンモニア臭がするわね。でもこの悪臭と黒い鮫肌の下に、醇としたゼラチン質がひそんでいるのね?」
 少女が顔を上げる。――一人の少年が、緊張した面持ちで尾びれを捧げ持っている。
 二人が乗っている軽トラックの荷台の周りには、多くの生徒が寄り集まっていた。
 みなこの《學閻(がくえん)の生徒であるが、制服を着ることの許されない《私服組》と呼ばれる劣等生たちであり、《ホトリ団》という自治組織を奉じていた。そして、この荷台に立つ少女こそがそのホトリ団の団長であった。彼らは、この街宣車でホトリ団の遊説を行い、敵対するエリート集団の《學徒會(がくとかい)を選挙で倒すために活動をしていたのである。
 しかし、この尾びれを捧げ持つ少年だけは――そんなつもりがあってここに来たのではなかった。つい先ほどここに到着したばかりの、ただの転校生にすぎなかった。
 それが、なりゆきでこの少女と出逢い、演説の荷台(だんじょう)に乗せられてしまった。
「清少納言は、『小さきものはみな美し』と言ったけれど」
 黒セーラー服に黒髪の彼女が、堕天使のような黒い笑みを顔に貼りつけて――
「私にとっては、『黒きものはみな美し』なのよ。この尾びれのように」
 そういってホトリ団団長――苑崎果無(えんざきはかな)は、少年の頭を抱えて優しく愛撫した。
「いい子……よく頑張ったわね」
「――あふ」
 やわらかい胸の狭間で、彼女の鼓動を頬骨に熱く受けながら、少年はうめいた。
 一体どうして、こんなことになってしまったのか――彼女の穏やかな鼓動が次第に、少年が二時間前に耳にした、けたたましい船のエンジン音へと変わっていく。

   †

 ドルドルドルと、紺碧の海原に、ディーゼルの野卑な音が轟いていた。
 それは漁船というより、さながら沖波を刈って進む巨大な芝刈り機のようだった。
 千葉県東端の銚子港を出帆して一時間。未だ目的地の島は見えない。あるのは、七月に入ったばかりの青空、入道雲、太陽、若い風――そして油のように照っている海面だけだ。そこを漁船が低速で進み、舳先に白い飛沫を立てている。
 甲板に仁王立ちしているのは、色黒の肌に白いタンクトップが眩しい中年の船長だ。
「こんな時期に転校生たぁ、珍しいべや。まだ高一なんじゃろ?」
 船長が語りかけた先には、一人の少年が所在なさそうに立っている。
「は、はい。家庭の事情で……あの、わざわざ島まで送ってもらってすみません」
「んや、オレは島のお抱えの漁師みたいなもんじゃて、あんたもお客さんじゃ」
 はぁ、と少年は曖昧に返す。甲板が揺れるたび、その体が右へ揺れ、左へ揺れ、時にぴょんと踵が跳ねる。少年の体つきが小柄で華奢なせいだ。その顔立ちも、とても男子と思われないほどかわいらしい。眼球の円みが外からでもわかるような、皮膚の薄い二重まぶた。肌は白く、処女の内股を思わせるほどすべらかで、とくにその頬は特筆すべきやわらかさを湛えている。分度器で製図したような整った鼻梁は、鼻という機能を超えたモダンなオブジェのようだ。官能的に膨らんだ下唇は、言葉を発するときにいつも不安げに痙攣した。色素の稀さゆえか、髪は染めているわけでもないのに茶色っぽく、軽く癖がかったそれを、耳が隠れるほどの長さまで伸ばしている。
 船が大きく揺れ、波飛沫が勢いよく甲板を襲った。
 やにわにそれを顔面に受け、少年が「ぴちぃ!?」と鈴のような可憐な悲鳴を上げる。
「おいおい、平気かい」船長が苦笑する。
「ごほっ、こほ……う、しょっぱいです」制服のシャツの胸ポケットからハンカチを取り出し、濡れ顔を吹いた。「……あの、《學門島(がくもんとう)に着くのは後どれぐらいで?」
「もうちっとじゃ。もうちっと」
「たしか島までは一時間ぐらいで着くと聞いていたのですが」
「まっつぐ行きゃあの。んが、まだ獲物が獲れとらんで」
「獲物……? あの、さっきから気になっていたのですが、それって……」
 少年は船の手すりに設置されたものを指差した。
「見りゃわかんべ。竿よ。手土産を一本釣りにして持たせちゃる」
「いえ、べつにそんなのなくっても……それにさっき、釣り針にサバを丸ごとつけてましたよね? それで釣れる魚ってかなりの大物なんじゃ?」
「ったり前じゃ、ちっこいのはお前さんだけで十分じゃ」
 船長の豪快な笑いに合わせるように、また船がガクンと大きく揺れ、少年が「きゃっ!?」と甲板に倒れ伏した。船長が呆れたように腕を組んで見下ろし、
「あんた、なんていったか? レイ……」
「れ、令司です。切野令司(きりのれいじ)
「レイ子ちゃんよ、そんなんで《學閻(がくえん)でやっていけるんかい? あっこはバケモンみたいなエリートの集まった巣窟じゃ。並大抵の根性じゃついてけんぞ」
 ――千葉県東端より三十キロメートルの沖合に浮かぶ、學門島。
 総面積三十平方キロメートル、島の周囲は四十キロほどの、小さな島だ。人口は約六千名。そのうちの三千名超が、私立の中高一貫校である學閻の生徒である。學門島の名の通り、島全体が學閻の施設となっており、本土の膝下を離れてやってきた中高生たちが寮生活を送りながら勉強に励むのだ。戦前に創設されて以来、全国でも指折りのエリート校で通っており、出身者名簿には各界の著名人がひしめく。
「ま、あっこの生徒になるからにゃ、おつむのほうはいいんだろうが……もっとシャキッとせんと、みんなに喰われちまうんじゃないかや」
「く、喰われちゃうって……」
「レイ子ちゃんはめんこいから、とくに注意せんとな。溜まっとる男どもも多いけ」
「ひっ!」
「おう、そうだろお前ら!」
 船長が胡麻塩頭を返して呼ばわると、操舵室や甲板で作業していた三名の若者が、どっと湧いた。どれも船長のように浅黒く陽に灼け、潮気と骨気に満ちた男たちだ。
「あいつら、あれでも學閻じゃ上半分の成績の《制服組》のやつらじゃ。今日みたいに休みの日にバイトしてもらっとる。働かざる者、喰うべからずってやつでな」
 \おやっさん、『働かざる者~』云々はマルクスの言葉だぜ/共産主義者かよ\バッカ、それは聖書の言葉だよ。マルクスはそれを引用して……/そもそも一神教的な観念だと、労働は原罪の結果のはずで――\
 作業していた乗組員たちが、なにやら学術的な議論を始める。
 船長は欧米人のようにわざとらしく肩をすくめて令司に向き直り、
「お前さんも学費やら寮費やらを稼がにゃな。うちで働くかい?」
「い、いえ、ぼくは体力に自信がないので……それに一応、特待生なので学費が免除になるんです。住むとこも《空論城(くうろんじょう)というところで無料になるみたいで」
「ほうっ、あんた空論城の住人になるんか!」
 \空論城だって!?/プロセント騎士団?\まさか學徒會に入るんじゃ/
 船長と乗組員たちが目を見張る。
「い、いえっ、まだ詳しいことは生徒会長……學徒會長(がくとかいちょう)さんに会ってお話を伺わないとなんですけど」
「そう謙遜すんねい。空論城に入れる特待生は、三千人の生徒の中でも上位一パーセントだけじゃ。だから《プロセント騎士団》って言うんじゃろ? そっから學徒會のメンバーも選ばれるんだから、お前さんはエリート中のエリートってわけだ」
「そんな……うちは親がいなくって貧乏だから、特待生になるために必死に勉強しただけです。前の学校をすぐに辞めて転校したのも、学費が払えなかったからで……」
 船長が、しかつめらしい顔つきになった。「……レイ子ちゃんなんてからかって悪かったな。そんだけ苦労してまで勉強するんはまさに(オトコ)じゃ。見直したぞい」
 \おう、がんばれよ後輩!/応援するぜ!\學閻じゃなにを研究するんだ?/
「ありがとうございます。學閻では社会科学系を研究できたらなと……いちおう、《学園学》っていうのを考えてて……」
「ほう、学園学? 無学なオレじゃわからんかな」
「いえ、難しくはないはずです。ようは、学園という場所を、この社会を区切るもう一つの小さな社会と考えるんです。そして学園の特徴を研究して、そこへ既存の社会科学の手法を応用して分析するんです。たとえばパーソンズの『構造­機能分析』とか、『シンボリック相互作用論』などですね。さすがに経済学の一般均衡理論みたいな方程式は取れないでしょうが、学園を学園たらしめる変数と因果関係を分析できれば、そこから帰納的に法則性のようなものが導き出せるんじゃないかと」
「う~む、まったくわからん!」船長が身を丸めて腕組みし、ダルマ顔になった。
「す、すみません、でも一番大切なのはその目的でして……」はにかむように半袖シャツの襟をいじりながら、「ようするにぼくは……生徒みんなに幸せになって欲しいんです。いじめや疎外のない……みんなが希望を持って学校に行って、一緒に青春を愉しんで、夢に向かって努力する……そんな人道に即した学園であって欲しいんです」
「うむ、それならわかるぞ! ガッハッハッ!」
 椰子を割ったような白い歯をのぞかせて船長が壮快に笑い、令司の背中を叩く。
「頑張って励めよ! お前さんならきっと、學閻のみんなを幸せにできるだろう!」
「は、はい」
 笑い合う二人。――しかし、三人の乗組員たちが不安そうにささやき合った。
 \でも、いまの學閻は……/あぁ、そうなんだよなァ\あの問題が/
「え? あの、なにか?」
 \いや、君はまだ知らないのだろうが/じつはいま、あの島ではな\
 乗組員がなにやら重々しく言葉を紡ごうとした、そのとき――
 複数設置された竿のうちの一本が、大きくしなった。
「かかった!」瞬間、海の男たちが勇躍する。
 威勢のいい漁りの鯨波を発しながら、それぞれの分担に走る。船長が竿をしゃくり、リールを巻き上げる。しかし魚の勢いによってリールのドラグ機構が働き、歯ぎしりのような音を立てて糸がどんどん吐き出されていく。
「おうっ、こりゃあ……!」大物の到来を予感させる高波がうねり、船が大きく揺れる。
 令司は手すりにすがりついて「あの、あのっ、ぼくはなにをしたらっ」と叫んだ。
「しっかりつかまっとけ! 落ちたら喰われっぞ!」
「く、喰われる!?
「フカじゃ!」船長が叫ぶのと同時に、遠くの海上が噴水のように急速に膨れ上がった。
 釣り針に喰らいついた巨大な魚が、身をくねらせてザバンと盛大に飛騰した。
 全長三メートルはあろうかという、俊敏そうな紡錘形のサメだった。
「アッ、アオザメじゃ!」昂奮する船長のもとに、乗組員たちが気負い込んで集まってくる。めいめい、鋭い銛や、棘のついた剪定ばさみのような取込道具を構え、海面に狙いをつけ、「おやっさんもっと引け!」「狙いよし!」「宜候(ヨーソロ)!宜候!」と口々にがなり立てる。
 ――そうして、長い長い死闘の末、
「獲ったぞ――――――――――――――ッ!!
 勝ち鬨を上げる男たちの手に、切り取られたヒレが誇らしげに掲げられたのだった。

   †

 いやいや無理です、そんなの渡されても困りますって。
 そう令司は抗弁したのだが、猛った海の男たちには通じなかった。
「ワハハハッ、こりゃ立派なフカヒレになんぞ! 中国四千年もびっくりじゃ!」
 ほれ、とビニール袋に突っ込まれた尾びれを押しつけられた。全部は入りきらず、袋の口から二股にわかれた尾の一部がピョンと突き出ていた。
 長き寄り道が終わり、漁船は目的地の學門島に到着した。
「そいじゃ、勉強がんばれよお! 強く生きろよお!」
「…………はい。みなさんも、引き続きサメの解体がんばって下さいね……」
 令司はビニール袋の重みにズズンと肩を落とし、すごすごと下船した。
 港の先には、島の玄関口として、高さ十メートルばかりの朱色の門が建っている。鳥居に似たこれは《學門》と呼ばれ、観光客を出迎える島の名所となっている。しかし元々は《獄門》と呼ばれ、囚人たちのくぐる門であった。実はこの島は、學閻が作られる前までは《監獄島》と呼ばれる流刑地だった。多くの懲役囚が送り込まれ、鰹節工場などで苛酷な労働についていたのだ。そのころの施設は現在でも残されており、學閻の一部として受け継がれている。生徒たちも、数多ある校舎のことを《獄舎》と呼び、数年間この島に閉じ込められて勉強することを懲役刑のように捉えているらしい。
 學閻の〝閻〟という漢字は〝ちまた〟を意味し、島の市井すべてが学び舎であることを示しているのだが、生徒たちは『學閻の閻は閻魔の閻』と自虐的に解釈している。
 令司はこれから、その閻魔のような強大な力を持つ《學徒會》の會長と会うことになっていた。生徒数三千名を誇るこの島では、學徒會こそが最大の権力であり、実質的に島の行政をも取り仕切っているのだ。
「午後二時前……か。約束まで、もう少しあるな」
 學徒會長から送られてきた手紙には、『三時に講堂に来るように。あなたを制服組の生徒たちに紹介しよう』という趣旨のことが記されていた。島の高台に建つ學閻へは、學門をくぐって坂を道なりに行けば到着できるらしい。令司は、「少し下町でも見物していこうか」そうつぶやいて、坂道を逸れて未舗装の枝道をとぼとぼと辿っていった。
 それが自身の運命を変えることになるなど、知る由もなく。

   †

 學門島は、時の流れに合わせて、まとった衣の色直しを行う。平日の日中は閑寂としたモノトーンだが、今日のような休日ともなれば一転して島のあちこちに生徒や観光客が溢れ、お祭りのようなカラフルな賑わいを見せる。
 島を彩る生徒たちは客としてだけでなく、その相手をする店員にもなる。
 先ほどの漁船の乗組員のように、生活費を稼ぐために働くのだ。〝独立不羈の人材を育てる〟という教育方針により、本土の親元からの仕送りが制限されているためだ。
「うわぁ……本当に生徒ばかりだ」
 下町の目抜き通りには数多くの店が建ち並び、人々が行き交っていた。そのほとんどが令司と同じ子供たちだ。青果店の軒先でバナナの叩き売りをしているのも、道ばたにムシロを敷いて怪しげな民芸品を並べ売っているのも、クリーニング屋でシャツにアイロンを這わせているのも、どれも生徒たちだ。
 他にも、服屋、本屋、喫茶店、仕出屋、駄菓子屋、理髪店、ラーメン屋、牛丼屋、乾物屋――様々な匂いが溢れ、混ざり、夏の湿気に蒸れ、むうんと鼻孔を侵してくる。
 高等部だけでなく、中等部の子も働いている。この島全体が學閻の施設ということもあり、特別に労働基準法の規制を外されているのだ。島の一部では農業も行われ、牧畜もされているらしい。さらに驚くべきことに、島の各種発電施設――ディーゼル、風力、太陽光、ダム水力――の運営にも生徒が携わっている。水道やガスについても同様だ。無論大人の管理者つきだが、子供たちも多く働いている。
 令司はうそうそと目抜き通りを進んでいく。新しい建物は少なく、電柱も時代がかった木製のものが未だに使われており、どこかセピア色に時降りて見える風景だった。
 ドン、とふとももに衝撃。
 あっ、と下を見る。路肩に駐車されているバイクのフェンダーにぶつかってしまった。それは派手派手しい色でペイントされ、フロントカウルが大きく張り出した、ジャングルの奥地の洞窟に巣くう肉食獣のような獰悪なものだった。
「オイてめぇ、俺の命になにしやがる!」近くに立っていた大柄の男が寄ってきて、令司の肩を小突いた。ドクロやヌードの描かれた革ジャンをまとい、髪を汚く染め上げている。近くには同様の身なりをした男たちがとぐろを巻いていた。令司は「すみません、すみません」と何度も頭を下げながら、そのとぐろの隙間を抜けていった。背中にねっとりとした嫌な視線が浴びせられ、「ケッ、気をつけろバカ」と悪態が注がれた。
 そういえば、と令司は思い出す。この學門島には、優秀な生徒のみならず、よそで問題を起こした不良少年なども送られてくるという。娑婆と切り離されてひたすら勉強と仕事に就かされるため、矯正には最適なのだろう。かつての監獄島の機能を引き継いでいるとも言える。
 しかし、この島における真の〝闇〟は、もっとべつのところにある。
 ――令司はふと、これまでとは雰囲気の違う場所に来ていることに気づいた。
 どうやら島の外れに来たようだ。店の数はめっきり少なくなり、代わりにアパートや仕舞屋が多くなっている。どれも築三十年は経っていそうな古びたものばかりだ。それが稠密しているため通りは陰り、風が淀み、活気が感じられない。トタン屋根についたソーラーパネルがいかにもとってつけたように場違いに感ぜられ、余計に風景を寂れて見せている。生気のない顔をした生徒らが、そこをすり足のようにひっそり歩いていく。その恰好はどれも、安手の私服だ。先ほどの活気ある目抜き通りにも私服はいたが、制服の姿も多くあった。しかしこの日陰の集落には、私服しか見受けられない。 
「ひょっとしてここは……話に聞いていた《周縁窟(しゅうえんくつ)ってところか」
 劣等生である私服組の中でも、さらに下位の者たちが集まる場所。
 別名、ホトリ。
 立地的にも立場的にも、文字どおり周縁(ホトリ)に追いやられている爪弾き者たちの住処だ。
 令司は、どこかから漂ってくる、ふすべた蚊遣の白煙をくぐって進んだ。赤錆びたバラックの向こうに夏木立の鮮やかな緑が覗き、蝉たちの声が虚しく蒼穹(そら)を叩いていた。
 その蝉時雨の間隙からかすかに、拡声器を通した女性の声が響いてきた。
「…………」
 令司は無意識に、その声のする方へ足を向けていた。――もうすっかり存在を意識しなくなっていたが、ビニール袋のフカヒレはこの陽気で不気味に温まっていた。

   †

 江戸長屋のように軒を争っている周縁窟(ホトリ)にも、広場のような場所があった。
 もっともそこは、昔あった大きな工場が解体されてぽっかり更地になっただけのような殺風景なところで、噴水もなければベンチの一つも置かれてはいなかった。
 しかし人はいた。それも大勢、踵を接して。
 古びた軽トラックを取り囲むように立ち並んでいる。
 様々な私服が寄り集まっているため、統制のない雑駁な雰囲気だった。
【私たち《私服組》、とりわけこの周縁窟の人々は、不当な扱いを受けているわ】
 軽トラの荷台には少女が立っており、メガホン型の拡声器を持って演説していた。
 美しい少女だった。日本人形のように切り揃えられた長い髪が目を引く。夏の陽射しを受け、頭の円みに合わせてぐるりと〝天使の輪〟という放射状の髪艶が浮かび上がっている。切れ長の二重まぶたに、伏せ気味の長い睫毛が、どこか物憂げな雰囲気を醸しだしていた。もう七月に入っているというのに冬服の黒いセーラー服を着て、黒ストッキングにガラスレザーの黒いローファーという、黒ずくめの恰好だった。
【身を粉にして働いているのに、成績が下位というだけで評価されず、あろうことか給金までも搾取されているわ。『奨学金』の名目で、學徒會やプロセント騎士団にお金が流れているのよ……こんな搾取がまかり通っていいわけがないわ】
 少女は聴衆に語りかけるように演説する。女子にしてはやや低くて硬質な声質だった。けれども母音はしっとりとして艶がある。令司の脳裡に、雨に濡れて冷えた黒御影石のイメージが浮かんだ。墓標に使われる、あの黒い石のような声。
【學徒會長の歌胤保笑夢(うたたねぽえむ)は、現状を改善するどころか、いっそう弱者への苛斂誅求に之繞をかけているわ。より強者が肥え太る政策を! 學徒會やプロセント騎士団を筆頭とする《制服組》の連中は、搾取することしか考えていないのよ! 〝制服〟を着ていることは、私たちを〝征服〟していることの証に他ならない!】
 聴衆たちが「ひやひや(Hear Hear)!」と腕を振り上げて呼応する。
【状況を変えるには、二ヶ月後の選挙で私たちホトリ団が勝利するしかないわ! 連中の制服を脱がすのよ! ホトリ団団長、苑崎果無(えんざきはかな)に改革の一票を!】
 万丈の気焰に触発されて、下から盛大なシュプレヒコールが湧き起こった。
 \異議なし!/少数派にも自由と平等を!\ホトリ団万歳!/
「これは……そうか、さっき船で聞いた『問題』ってこれのこと……」
 この學門島は徹底した格差社会である。独立不羈と言えば聞こえはいいが、それは明確な自己責任の世界であり、自己責任は容赦のない競争につながる。
 優劣を分かつ基準は〝学業成績〟しかない。
 テストの結果と、自主研究の成果との総合で、それが決められる。
 中高合わせておよそ三千名の生徒のうち、上半分の成績の者は《制服組》と呼ばれ、學閻の制服を着ることが許される。さらにそのうち、上位一パーセントの者は《プロセント騎士団》に入団でき、労働が免除されて《空論城》という高台の城で暮らすことができる。返済義務のない奨学金ももらえる。
 逆に、成績の悪い者は、労働によって上位者に貢献することを強いられる。稼いだ収入のうちの数パーセンが、學閻税として徴収されてしまうのだ。成績が下位の者ほど取られる割合は多くなる。その税金の行く先が學徒會であり、プロセント騎士団の奨学金というわけだ。通常の税制とは逆の、底辺に厳しい累進税と言える。
【みんな知っての通り、私もかつては空論城の最上階に住んでいたわ。でも一パーセントの上位者によって、九十九パーセントが犠牲になるのは間違いだって気づいたの。私は天空の少数派でいることが嫌になって、〝堕天使〟になることを決めたのよ】
「堕天使?」
 どうやら彼女は、學徒會を始めとする空論城の人々を『天空­神』と捉え、そこを裏切ってホトリにきた自分のことを『下界­堕天使』になぞらえているらしい。
【私たちホトリ団は、校務員として學閻の清掃や保守管理をしているわ。みんなと同じように、自分たちの仕事に誇りを持っている。なにもしないで学問を弄んでいるだけの空論城の住人とは違うわ! 私たちこそが人道に即しているのよ!】
 人道という言葉を聞いて、思わず令司は吹き出した。
 漁船のなかで、自分が語った学園学の理想にも、その言葉が出てきたからだ。
 令司の笑い声を耳にして、蝟集した人々がカチンときたように振り返った。
 無数の視線の茨に絡めとられ、令司は「うっ」と身をすくませた。
 \なんだこいつ/見ない顔だな\制服のシャツを着てるぞ!/敵方のスパイか!?
 どよめきが幾何級数的に連鎖して広がり、あっという間に広場が蝉噪に包まれた。
 群衆の警戒の目はやがて、令司の手にしている物体に移っていった。
 \やや!?/あれは!?\臭い、臭いわ/化学兵器か!?\學徒會による白色テロだ!/
「い、いえ、違います! これはサメのヒレで……」
 令司はビニール袋を広げて弁明するが、かえって逆効果になってしまった。あまりにグロテスクなそれを見て、群衆から悲鳴が上がる。それはさながら、敵対する組織に動物の生首を送りつける残虐なマフィアのやり口を思わせた。
 \みんな下がれ!/黙ってやられるホトリでないわ!\返り討ちじゃ!/
 赤ヘルをかぶり、ゲバ棒を手にした強面の人々が、渦巻くように令司を取り囲んだ。
 たまらず令司は「ひぃっ!?」と身をすくめた。
【待ちなさい!】
 ――青空に、凜乎とした声が響き渡った。
【その人は敵ではないわ。だって見覚えがないもの】
 荷台に立つセーラー服の少女が、切れ長の目を細めて令司を見据えた。
【間違いないわ。その人は學閻の生徒じゃない。ここの生徒三〇五二名の中に、その人の顔はないわ。私は一度見た人の顔と名前は忘れないから】
 恐ろしいことをさらりと言ってのけ、彼女は拡声器を持たない方の手を差し伸べた。
【そこのあなた、こっちにいらっしゃい。一体なにを持っているの? なにやら袋から私好みの黒い色が飛び出しているけれど?】
 彼女が片笑むと、軽トラを取り囲んだ人垣がしずしずと割れ、一筋の道ができた。
 令司は気遣わしげにおどおどと進み、そして――
「そう……よく獲ったわね。こんなに大きくて立派な……フカヒレ」
 そして令司は荷台に上げられ、尾びれを褒められ、彼女に頭を抱かれたのだった。

   †

 ――けたたましい船のエンジン音の記憶から、再び彼女の胸の鼓動へと令司の現実は帰ってきた。苑崎果無の方が上背があるため、令司は頭を押さえつけられるように彼女の胸へ顔をうずめていた。下にいる私服組の男子から「ずるいぞ!」と声が上がる。
「あらごめんなさい。つい嬉しくなってしまって」
 さも非難が自分に向けられているかのように答えて、果無が体を離した。
「あなた、どこの子?」
「あの、あの、今日からこの學閻に転校してきました、切野令司といいます……」
 やわらかい黒の谷間から解放され、令司は頬を染めて唇を震わせた。
 果無はそれをじっと見つめ、
「ふふっ、うまく赤くなるものね」
 ――令司にだけ聞こえる程度に、そっとささやいた。
 手品の種を暴いてみせたような、不敵な笑みで。
「え」令司は思わず一歩下がった。
 顔に滞留した血が統一を失い、頬を筋張らせた。
「なあに?」果無の顔が、再び眉を開いた心安いものに戻る。
 その一連の変化に気づいたのは、おそらく目前の令司だけだっただろう。
 明るい調子を取り戻した彼女が大きな声で、
「寮はもう決めた? まだなら紹介するわよ。この周縁窟なら家賃も安いし、もしホトリ団に入るなら、學閻奉仕の仕事と引き換えにただで《住庭館(すみにわかん)で暮らせるわ」
「いや、ぼくは……あっ、そうだ!」
 令司は急き込んで腕時計を見た。「も、もう三時! 講堂に行かなくちゃ!」
 \講堂だって!?/あそこではこれから……\やっぱりこいつは學徒會の!/
「みんな待って! 講堂へ行きたいのね?」
「はい、でも道順が……」
「案内をつけてあげるわ。ベリアルっ!」
 果無が辺りに呼びかけると、小さな生物が荷台にひらりと飛び乗ってきた。
 若い黒猫だった。美しいサファイアブルーの瞳をし、首にはやや大ぶりな赤い首輪が巻かれている。しかしそれ以上に人目を引く特異な部分が、その背中にあった。
 カラスのような黒い翼が生えているのだ。
「こ、この猫は!?
「私がホトリ団の副団長に任命したベリアルよ。綺麗な黒でびっくりしたでしょ?」
「いや、色じゃなくて、この背中に生えてる翼は一体?」
「生まれつきこうなの。見た目だけじゃなくて、頭脳の方も猫とカラスを合わせたみたいに抜群にいいのよ。黒と黒の二乗効果ね。やはり黒は素晴らしいわ……」
 うっとりと讃歎する彼女。令司は反応に窮した。
 ベリアルが尾びれの入った袋を見上げ、口を開いて牙を覗かせた。
『カァ、カァ』
「なっ、鳴き声までこんなっ!?
「あらベリアル、これが気に入ったの? 切野くん、この尾びれはどうするつもり?」
「どう……したものか、と考えていたところです」
「よかったらベリアルにあげない? そうすればお礼に講堂まで案内してくれるわ」
「それはいいですけど……猫が案内?」
 果無はスカートの後ろを畳んでしゃがみ込むと、ベリアルの頭をぐりぐり撫で、「いい? 講堂に行くのよ、こ・う・ど・う」と、くどく言い聞かせた。
 それを理解したのかどうか、ベリアルが『カァ』と平坦に返し、荷台からぴょんと跳び下りる。そして、令司を誘うように長いしっぽを立て、ちらりと振り返る。
「さぁ、ベリアルについていけば大丈夫よ」
 令司は半信半疑ながら尾びれを彼女に預け、荷台から下りた。私服組による数多の冷視線の中で肩身を狭くしながら、黒猫のしっぽを追いかけていく。
「またね、切野令司くん」
 最後に後ろから声をかけられた。振り返らなかったため、彼女の表情はわからない。
 けれど、黒御影の墓石声(ぼせきごえ)は、ニィと――よこしまに嗤っているようだった。

   †

 猫なのかカラスなのかそれとも悪魔(ベリアル)なのかわからない翼の生えた不思議な生き物。
 ちゃんと、講堂まで案内してくれた。
『カァ、クカァ』
 最後にベリアルはあくびのように鳴き、四つの踵を返して飄々と去っていった。
「…………ほんとなんなんだ、あれは」
 令司は首を捻りながら、両開きの扉を押し開けた。階段状になった客席には、多くの生徒が居並んでいる。これから始まるイベントに胸を躍らせるようにして、めいめい談笑していた。そのどれもが制服姿だ。高等部の制服は男女とも、旧海軍士官のような白を基調としたものだ。それに混じって、少し形の違う中等部の制服も垣間見える。一方、私服の姿はまったく見受けられない。
 ――不意に、講堂の照明が落とされた。
 ざわついていた場内が、天井から降ってきた闇に押さえ込まれたように静まり返る。
 同時に、場内に設置されたスピーカーから、大音量でクラシックが流される。
 この溌剌と高鳴るリトルネロ主題を知らぬ者はいないだろう。
 ヴァイオリン協奏曲『四季』第一番、『春=La primavera』。
 その快速調(アレグロ)の力強い総奏(トゥッティ)は、踊り好きの妖精(ニンフ)たちのようにあちこちに跳びはね、立体的に反響しながら、客席をあまねく包み込んだ。
 突然のことに、誰しもが困惑したように周囲を見回している。
 そんな中、ステージの中心に、一筋のスポットライトが照射された。雲の切れ目から降り注ぐレンブラント光線のような、神々しい輪光がステージを照らす。
 そこへ向かって、舞台袖の暗闇から、ひそかに一人の女子生徒が進み出てくる。
「とうっ!」
 掛け声とともに、女子生徒がスポットライトへ向けてジャンプ――フィギュアスケーターのように宙空で旋転しながらキラキラと姿を現す。
 丈の短いスカートを靡かせ、片膝をついてドンとステージに着地し、手刀を薙ぎ払って見得を切り、シャキーンと凜々しく微笑む。
 戦隊物のヒーローがポーズを決めるような、外連味たっぷりの登場であった。
 おおっ、と喫驚のどよめきが場内に溢れ、音楽がしずしずとフェードアウトする。
「またせたな、諸君!」
 自信たっぷりの顔で、すっくと女子生徒が立ち上がる。
 その右腕には《學徒會長》と書かれた腕章が。
 次の瞬間、会場のボルテージが一気に膨らんで弾けた。
 \キター!/待ってました!\會長っ!/結婚してくれーっ!\
 \會長様ぁっ!/お久しぶりですぅ!\こっち見てぇっ!/かわいーっ♡\
「學徒會長? あんな小さな子が?」
 とても高校生には見えない。中学生、いや小学生と言われても信じてしまいそうだ。二次性徴を疑うほど体の起伏に乏しく、スカートから伸びる脚も棒のようだ。
 しかしその顔容は、息を呑むほど華々しい。軽やかにウェーブのかかった長い髪。前髪の分け目から覗く、つるんとした広めの額。凜々しく角度のついた眉の下には、目尻の広く持ち上がった子鹿のような瞳が輝いている。両目の間からは、かわいらしい鼻が上昇志向を現すようにツンと上向いて伸び、口角が下がり気味のあどけない唇へと至る。
 小さな顔の中に、秀麗なパーツが機械式時計よろしく整然と凝縮されている。
 しかし、彼女が特別なのはその容姿だけではない。
 さらに人目を引く、突飛な部分があった。
「……あ、あの恰好は?」令司は驚きに目を瞬かせた。
 彼女はなぜか、その華奢な腰に、長い剣を下げていた。
 スカートの上からベルトを巻き、剣士のように帯剣しているのだ。その剣はどうやら西洋式のもので、華美な装飾のほどこされた白い鞘に収められている。
 もう一つ、さらに奇妙な点が彼女の背後にあった。
 やわく癖がかった長髪の後ろに、あるものを背負っているのだ。
 ――花。
 そう、いくつもの花だ。花火のように派手なひまわり、赤や白の四季咲薔薇、ツツジやカーネーション等々、多彩な花々が後光(アウラ)となって背中から咲き乱れている。
 見ようによっては大きな蝶の翅のようでもあり、メスにアピールする孔雀の飾り羽のようでもあり、千手観音の手のようでもあった。サンバの踊り子もこんな感じだ。
 霧吹きされているのか、スポットライトを浴びて花々はキラキラ輝いており、彼女はそれに負けないぐらいの明度でシャキーンと得意げに咲っている。
 \會長~!/写真いいですかー?\超綺麗です~!/マジ輝いてる!\
「うむ、うむ」
 彼女が上機嫌に手を振って応える。さながら奇抜なファッションショーのようだ。
 一通り撮影が終わると、彼女はゆっくりと中央のスタンドマイクへ進み出た。
【……こほん。制服組の諸君。本日はよくぞ参集してくれた。余が第一二五代學徒會長のウタヽネポエムである。歌の落とし胤と書いて《歌胤(うたたね)、夢で笑みを保つと書いて《保笑夢(ぽえむ)だ。余のことは〝會長〟と呼びたまえ。敬称に〝様〟や〝閣下〟をつけるかどうかは各人の賢明な判断に任せよう】
 貫禄を持たせるために声のトーンを落としているようだが、見た目そのままの、まだ変声期を迎えていないような幼い声音だった。
【あらためて自己紹介をしたのは、本日はここに新しい仲間を招いているからである。それはまたおい〳〵紹介するとして、まず集会の趣旨を説明しよう。もっとも、この學閻の上位を占める優秀な諸君らのこと、すでに内容は察している(かも)しれぬな。然り! 二ヶ月後の《學閻祭(がくえんさい)で行われる、會長選挙のことである!】
 客席がどよめきに波打った。
【諸君も知っての通り、學閻祭には本校の卒業生を始め、本土から多くの観光客が訪れる。學閻生はこの晴れの舞台で萌黄顔(ほがらか)に光躍し、ドキ〴〵、ワク〳〵、笑い(あり)泪蟻(なみだあり)、お色気(あり)の殷賑を極める魅力的な祭りに盛り立て、學閻の威信を天下に示さなければならぬ。そして祭りの最後に、次の學徒會長を決める選挙が行われる。余も去年、一年生ながら冠絶絶後の才覚によって圧倒的な票を集め、會長に当選した。爾来、嶄然とした指導力をもって生徒を嚮導しているという声誉は、あまねく都鄙に高まるばかりである】
 生徒たちは固唾を呑んで、保笑夢の難解な自画自讃に聞き入っている。
【二年生となった今年も、余は磐石の統治を目指すつもりである! 独立不羈を旨とする學閻生を、より革新的に導くことを約束しよう! 余はいまこゝに、選挙に出馬して再選を勝ち取ることを宣言する!】
 瞬間、巨大な歓呼が沸き立った。
 \やった!/ぽえぽえーっ!\絶対再選っ!/応援しますっ!\
 その反応に気を良くしたのか、ステージの保笑夢が拳を振り上げて声を熱くする。
【本日はいわば決起集会に当たるが、余はこゝで諸君の支持を取りつけようと阿るつもりは毛頭ない! よいか! こゝでは余の存在は絶対だ! この學徒會に代々伝わる《指揮剣(しきけん)はその象徴! これを抜いて下した命令は、たれであっても拒否できぬ! 校則も思いのまゝだ! 余が死ねといったら死なゝければならない!】
 本来ならば生徒を圧倒する台詞なのだろうが、少々舌ったらずなため、〝死ね〟が〝ちね〟と聞こえてしまうのが滑稽だった。
 しかも熱弁を振るう中、徐々にその体が斜め後ろに傾いてきた。
 どうやら後ろの花々が重いらしい。
【いわば余は、この學閻を総攬する者である! 何人(なんぴと)も、……も? も? も?】
 背中の重みに負けて、ふらふらとスタンドマイクから遠ざかっていってしまう。
 客席から「がんばれーっ!」と声援が飛ぶ。保笑夢は手をばたつかせてなんとか踏ん張ると、海老反りになって背中にある花々を外そうとする。どうやらランドセルのように竹籠を背負い、そこへまとめて花を差していたらしい。
 首をふりふりしながら竹籠を外すと、上気した顔で再びマイクの前に立ち、
【……こほん、今日初めて顔を合わす転校生がいるため、演出として、少女マンガの登場シーンにならって花を背景にしてみたが、重量配分を少々間違えたようだ。この唯一絶対の天才的指導者の歌胤保笑夢にもケアレスミスはあるということだ】
 そうか、あれは少女マンガの背景をイメージしたのか、と令司はやっと得心がいった。確かに美形キャラが登場するときに、煌びやかな花が背景に描かれることがある。
【ではこゝで、われ〳〵の新しい仲間を紹介しよう。……来たれ! 転校生よっ!】
 講堂が申し合わせたようにシーンと静まり返った。
 急にこんなことを言われても、令司はまごついてしまう。
【どうしたっ!? 早く上がってくるのだ!】
 令司は仕方なく、肩を狭めておずおずとステージへ歩き出した。
 その背中に向けて、好奇の視線の矢が次々に射られる。
 新たなスポットライトが令司に照射され、ともに移動していく。刻み足でステージに上がる。保笑夢と令司に向けて照射された二つのスポットライトが、双円を描くようにステージ上で重なった。保笑夢が満足そうにうなずき、令司の背に手を当てて並び立ち、
【我らの新しい仲間の切野令司一年生だ! 急な転校希望であったが、成績が極めて優秀であるため、余の権限で特例で転入を許可した。彼の学力はこの學閻でも上位一パーセントに属するゆえ、余は彼を、プロセント騎士団に入団させようと思う!】
 保笑夢の力強い宣言に、再び客席が沸き立った。万雷の拍手に向けて、令司は縮こまりながらぺこぺこと何度も頭を下げる。
【このフレッシュな仲間を陣営に迎え、余は選挙戦を勝ち抜くつもりだ! 制服組諸君! 頽落や怯懦を唾棄し、孜々として刻苦勉励に邁進せんとする抜山蓋世の者たちよ! ともに次の選挙を戦い、新たな栄光を勝ち取ろうではないか!】
 保笑夢は獅子吼しながら、腰の指揮剣に手をやり、すらりと抜剣して客席へ掲げた。
 スポットライトを浴びて、鏡面仕上げの両刃が宝石のように炯々と煌めく。
【歌胤保笑夢が教導しよう! すばらしき學閻生活へ! 選ばれし者のみが辿りつける赫耀たる青春へ! 放恣な日々を送る自堕落な連中に、青春を謳歌する資格などない! それを擁護するホトリ団など言語道断である! 鎧袖一触にしてくれよう!】
 \嗚嗚嗚(オオオ)――――――ッ!!
 生徒たちの歓呼が講堂を震わせた、そのとき――

「そうはいかないわ!」
 黒御影石の声が割って入った。 
 
 講堂の出入口の扉が全開にされ、四角い光がぶしつけに射し込んでくる。
 その光を背にし、黒い人影が仁王立ちしていた。
「ハ……ハカナっ!」保笑夢が引き攣った叫びを上げた。
 その人影――苑崎果無は堂々と通路を進んでステージに登ると、保笑夢の前に立った。
 灼けるようなライトを浴びて、彼女の頭に綺麗な〝天使の輪〟が輝く。
 しかし彼女は、天使ではなく堕天使を自称している。
 上位一パーセントの天空に弓を引く、ホトリ団の団長なのだ。
「な、なんの用だハカナ! 貴様を呼んだ覚えはないぞ!」
「この講堂はすべての學閻生のものよ」
「いまはわれ〳〵が使っているのだ! 私服組は出ていくがよいっ!」
「ご挨拶ね。誰のおかげで會長になれたと思っているの?」
 果無の冷笑に、保笑夢の顔が強ばった。
「し、若旦那顔(したりがお)をしおって、貴様、いつまでも『 』のつもりでいるなよっ! 空論城から逃げ出したのは貴様の方だ! いまは學徒會長の余が、學閻の頂点なのだ!」
「それもあと少しよ。次の選挙では、私たちホトリ団が勝利するから」
「貴様たちが勝利を……? できそこないどもが、われ〳〵に勝つというのか!」
 保笑夢が喉を反らせて大笑した。どこか演技じみて、虚勢を感じさせる笑いだった。
 果無は暗闇のような無言で、じっと保笑夢を見つめていた。
 令司はその両者の間で、石膏のような色のない顔で立っていた。
「出ていけっ! 命令である!」
 保笑夢が指揮剣を抜き、煌めく白銀色を果無の鼻先に突きつけた。
「言われなくたって出ていくわよ。目的を果たしたらね」
 果無はふっと笑い、ぽつんと所在なく立っているスタンドマイクへ進み出た。
【ごきげんよう、制服組のみなさん。いきなり割り込んで悪かったわね。私は今日、二つの宣言をするために来たの。まず一つ。みんなは選挙では保笑夢に投票するつもりでしょうけど、これからの私たちの選挙運動をよく見てから決めて欲しいの。つまり、私たちホトリ団は、あなたたち制服組の支持を取りつける自信があるということよ】
 不遜な宣言に、客席がざわつく。
 保笑夢が「なにを言うかっ!」と食ってかかるが、果無は手を突き出して制し、
【どこに投票するかは、それぞれの生徒の自主判断にかかっているわ。いくら學徒會長とはいえ、内心の自由には介入できないはずよ。独裁者じゃないんだから】
 むっ、と保笑夢が口ごもる。
 果無は突き出した手を引き、頬にかかる黒髪(かみ)を泰然と耳にかけ、
【とにかく、これからのホトリ団の活動に注目して欲しいの。本当に保笑夢を再選させてもいいのか、じっくりと考えるべきよ。私は必ず、二ヶ月後までにあなたたちの支持を取りつけてみせるわ。その手始めに、新しくやってきた制服組の生徒をホトリ団に引き入れることにするわ。これが今日の目的の二つめ。つまり、あなた】
 果無がスタンドからマイクを外し、それを手にしながら背後を顧みた。
 そこには、置物のように直立不動となっている、令司の姿が。
【あなた、切野令司くんを、ホトリ団に迎え入れることを宣言するわ】
 ――それは唐突な、誰も予想しえない提案だった。
 保笑夢を始め、その場に居合わせた者たち一同、驚きに唖然とした。
 果無は令司へと手を差し伸べて、にこりと笑っている。
 いや、にやり、と表現した方が適切かもしれない。
 なにかをたくらむような、よこしまな色をその顔に湛えていた。
 それは芝居がかっていて、功利的で、妖しくて――それゆえに美しかった。
 見る者を魅了し、悪の道へとそそのかす、堕天使の笑顔だ。
 それを受け、令司の口元にも、にやりと――
(なるほどな、確かにこいつは、悪魔だ)
 ――令色を解いた、豺狼の笑みが走った。
(こんなにも初々しく善良そうに見せている俺を、反体制側のホトリ団に引き入れようとするなんざ、悪魔以外の何者でもない。まさかこいつ、俺と同類か?)
 ならばなおのこと、向こうには同類だと気づかれるわけにはいかない。
 すぐに元の気弱な少年の態度に戻す。
「そ、そんな……ぼくがホトリ団に入るだなんて……」
 わじわじと小動物を思わせる唇を震わせながら、不安そうに胸の前で手を合わせる。
 しかし果無は、ふっと嗜虐的な色を口元に浮かべ、
「かわいい子ぶってるわね」
 ――寸鉄のようなささやき。
 ここに来る前、軽トラックの上でも似たことを言われた。
(この女、まさか俺の演技を!?
 令司の脊柱に冷たい戦慄が走る。
 果無が薄く笑いながら、令司の制服のシャツに手を伸ばした。
「こんなかわいい柄のハンカチなんかつけて、異性の気を引こうとしてるの?」
 令司の胸ポケットに畳んで差してあったハンカチをつまみ上げた。
 それは、淡紅(ピンク)色の生地に、二種類のサボテンの図柄が小紋染めされているものだった。
 果無がそれを軽やかに振り、
「ふふっ、それとも気を引こうとしているのは異性じゃなくて同性のほうかしら? あなた、男の子にも人気がありそうだものね?」
(なんだ、かわいい子ぶるというのは、ハンカチのことか)
 どうやらこの弱者の演技がばれたわけではなさそうだ。
 令司は安心して、か弱い少年の演技を続ける。
「そんなっ、からかわないで下さいっ!」
「こんな趣味を見せつけて、かわいい子ぶってるんじゃないの?」
「違いますっ、それは他界した母のっ、形見なんです……!」
 令司がいかにも哀れみを誘うように言うと、静まり返っていた講堂がざわついた。
 客席から、「ひどいぞ!」「私服は帰れ!」と果無へ罵声が浴びせられた。
 保笑夢も食ってかかる。
「な、なにをしているのだハカナッ! その者をホトリ団に入れるだとっ!?
「どこの団体に入るかは本人の自由意志でしょ?」
「許さん! そんな勝手は許さんぞ! おぬしはどうなのだ!?
 子鹿のような瞳がキッと令司を見据えた。
「そ、そんなこと急に言われても……ぼく貧乏なんで、下宿代とか払えないんです。だから無料の《空論城》に入ろうかと……そこで暮らしてる優秀な人たちに研究の相談もしたいし……ぼく、『学園学』っていう研究がしたいんです」
「研究のことなら私に聞けばいいわ」
「え?」
「私は、『 』(カッコ)だったから」
 カッコ――と令司が鸚鵡返しすると、保笑夢が膨れて割り込んできた。
牛鳴()~っ、もういゝだろうっ! その者は余が特例で入学させたのだっ!」
「そうやって飼い殺しにするの?」
「うるさい〳〵っ! ()ね! 颯冴(さっさ)と失せろ! 命令だッ!」
 手にした指揮剣の切っ先を、再び果無の眼前に突き出した。
 この學閻において、指揮剣による命令は絶対だ。
 ――その神聖な剣の切っ先に、やおら果無が手を伸ばした。
 五指を広げて、くっと無造作に両刃を握りしめたのだ。
「わっ、わあっ!?
 保笑夢が指揮剣を手放しながら、あたふたと身を引いた。
「ぅきゃっ!?」バランスを崩し、ころんとステージの上に尻餅をついてしまう。
 果無の指先に指揮剣だけが残された。
 保笑夢が尻餅をついたまま果無を見上げ、泡を食ったように叫ぶ。
「あっ、あっ、危ないではないかっ! おぬし怪我をしたらどうするっ!?
「こんなナマクラで怪我なんかしないわよ。…………ん?」
 そのとき、保笑夢を見下ろした果無が、不思議そうに小首を捻った。
 ぐっと眉間を曇らせ、目を細め、保笑夢の下半身の辺りを注視する。
「な、なんだ?」立て膝をした保笑夢が、臆したような顔をする。
「…………」
 果無が指揮剣を正しく持ち替え、ついと切っ先を伸ばした。
 立て膝になった保笑夢の股の間に刃を割り込ませる。
「なゝゝっ、なにをすりゅっ!? 報復か!? 恥辱か!? 拷問か!?
 冷たい白銀を内股に当てられ、保笑夢が怯み顔で首を振る。
「ま、喚犬手(まて)っ! 話せばわかるっ! 無体をするでないっ!」
 果無は無言のまま、保笑夢の股に差し入れた剣を動かした。
 切っ先が、保笑夢のプリーツスカートの端を控えめに持ち上げる。驚きと羞恥に「うにょっ!?」と保笑夢の口元が波打つ。驚いたのは客席の生徒たちも同じだ。客席の角度からでは保笑夢のスカートの中は覗えないが、あまりのことに総員色めき立つ。
 果無の顔に、ぴくりと不快そうな紫の影が走った。
 剣を引っ込め、ぼそりと、なにかをつぶやいた。
 ――それを聞いた保笑夢の表情が激変した。
馬声()!?
 絶句したその顔に、みるみる動揺の波が押し寄せた。
 慌ててスカートの上から股を押さえ、両膝を曲げて女の子座りする。
 ふとももをすり合わせ、きゅっと身を縮こませる。
「なっ、なっ、なぜだっ!?
 引き攣った声で叫び、ぶんぶん首を振る。
 \?/?\?/?\?/?\?/?\
 他の者たちには状況がつかめない。訳がわからない。
 芥子粒のようになった保笑夢に代わって、果無がマイクで状況を伝えた。
 呆れたように、溜息を漏らしながら。
【保笑夢が……またパンツを落としたわ】
 ぴたりと――講堂の空気が、静止。
【穿いていた紐パンをどこかに落として、それに気づかないでここに来たみたい】
 瞬間、「はぁぁあああ~~~~っ!?」と生徒たちの頓狂な叫びが解き放たれた。
「パンツって落ちるものなのか!?
 思わず令司も叫んでしまった。紐パンというものは、ようはゴムの代わりに紐を結んで固定するものだろう。日常の動き程度でほどけるものなのだろうか。
 あるいは、腰に帯びている指揮剣がスカートの上から深淵な圧力をパンツの結び目にかけ、その落下現象を起こすのに一役買ったのかもしれぬ。
 然らずんば、摩擦か――
 仮に紐がほどけなかったにしても、摩擦係数の減退という物理法則の魔の手が、保笑夢とパンツの仲を引き裂いたのかもしれぬ。
 とまれ、実際にどのような経緯でパンツが落ちたかは、不可知に類することだ。
 確実に言えることは、いま保笑夢のスカートの下にはなにもなく、代わりにこの學門島のどこかに場違いな遺失物があるということだけだ。
 果無がマイクを両手で握り、放送室のある二階を仰ぎ見て、
【放送室の人。これから私の話すことを、全島放送に切り換えてちょうだい】
 すぐに、島のあちこちに設置された島内スピーカーに果無のマイクがつながった。
【全島に告ぐ。緊急事態よ。學徒會長がパンツを落としてしまったわ】
「よっ、余計なことを言うでないっ!」
 女の子座りした保笑夢が、真っ赤になって絶叫した。
【落としたのは、白地に水色の横縞(ボーダー)の入った紐パンよ。保笑夢の勝負パンツだから】
「言うな――――――――っ!!
 涙目で首を振る彼女に構わず、果無は冷静に続けた。
【パンツを発見した人は、學徒會に届けてあげて。とくに周縁窟のみんなは會長を見返すチャンスよ。一刻も早くパンツを見つけて、ねんごろに扱ってあげるといいわ】
 最後に、にやりと――墓石のような声に、黒い笑みを貼りつけた。

   †

 \なにィ!? 會長閣下がパンツを落としあそばされただとぉう!?
 \イベントキタ――――――――――っ!/
 \これは選挙の前哨戦だ! 早く會長のパンツをお救い申し上げるのだ!/
 \ぽえぽえのぱんつ! ぽえぽえのおぱんちゅぅぅぅぅううう!/
 \苑崎団長の台詞を忘れるな! 制服組のやつらに先を越されてはならん!/
 \ぽえぽ……ごほんっ、仇敵・歌胤保笑夢の下着をゲットし、弱みを握るのだ!/
 \そ、そうだ! 決して敵のパンツが欲しいわけではない! 戦術的鹵獲なのだ!/
 \ねんごろにすりゅ! おぱんちゅをねんごろにすりゅっ!!
 \うぉぉぉぉおおおおおおお!!
 島内放送とともに、獄舎のあちこちから野獣のごとき咆哮と熱気が迸った。
 人を押し退け、なりふり構わず、鵜の目鷹の目、山野を跋渉、波を掻き分け、パンツを捜す。あちこちで制服組と私服組がとっくみ合いを始める。
 學門島はこの日、パンツ競争ならぬ、パンツ狂躁に明け暮れたのだった。
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