【5】

文字数 11,206文字

 令司とミハルが駈けつけたときには、すでにグラウンドは多くの生徒で満ち溢れていた。さながら、地面に落ちた角砂糖に蟻の軍隊が群がっているようだ。
 この場における角砂糖は、保笑夢と果無が立っている特設演壇だ。
 一メートル半ほど高くなったそこで、二人が角を突き合わせている。
「この水掛け祭りのせいで、私たちホトリ団の仕事がまた増えてしまうわ!」
 果無が、手にしたモップをドンと演壇に打ちつける。
「そろそろボイコットをやめようかと思っていたらこの騒ぎよ! 外で水を掛け合うのはまだいいわ。でも、校内では禁止して! 掃除するの私たちなのよ!」
「なにを言うかっ! 室内でのぶっかけ合いこそが醍醐味ではないかっ! 神聖なる学び舎を清めるためにも禁止など論外である!」
 保笑夢も負けじと、鞘に収められた指揮剣の切っ先を演壇に激しく打ちつける。
 \そうだ!祭りの伝統を守れ!/なら制服組も掃除しろ!\ホトリ団の仕事だろうが!/せめて場所は自重して!\がたがたいうな!/ボイコットしてるくせに!\ぽえぽえのスク水!/堕天使も水着になるべきだ!\なるべきだ!/なるべきだ!\
 壇下では、私服組と制服組とが渾沌と入り乱れ、喧々囂々の騒ぎとなっている。
 ここ二週間に渡って過熱していた両派のいさかいが、最高潮を迎えていた。
「指揮剣をいいことに、こんな理不尽な命令ばかり下されてはたまらないわ! そもそも指揮剣は、教師や外部の権力から生徒を守るために、生徒の総意を剣の形にして學徒會長に託したもの! ただの気まぐれで扱っていいものではないわ! 権力の壟断とはまさにこのこと。かくなる上は、私があなたを倒して特権を廃止してやる!」
「減らず口を! おぬしの揚言は衆愚政治への道だ! 平等や権利などという言葉は、怠惰な連中の耳に心地良い綺麗事にすぎぬ! この學閻を學閻たらしめる最大の特色は、独立不羈のエリートを育むことではないのかっ!? 世間並の俗事に汲々としている大衆は、独立不羈とは背馳の世界を彷徨うしかない! 他律的な運命に引きずられるばかりで、真の自分というものがないからだ! しかし余には」
「それがある、というの? まさに独裁者の妄言ね。かつてヒトラーは裁判でこう自己弁護したわ。『独裁者になるよう生まれついた者は、そうなることを強制されるのではない。自らそうすることを欲するのだ。ひきずられて前進するのではなく、自分自身をひきずってゆくのである』とね。あなたの考え方はまさにそれと同じ。ヒトラーとドイツ国民が歩んだ破滅の道を進んでいるのよ!」
 ぬう、と保笑夢が口をへの字に曲げる。
「……やはり決闘で黒白(こくびゃく)をつけるしかないようだな。學閻名物(くれなゐ一騎撃ち)にて、おぬしのその増上慢を(あけ)に染めてやろう! 例のものをここへっ!」
 保笑夢が指を鳴らすと、二人の生徒によって二台の台車が運ばれてきた。
 二台の台車には、それぞれ二丁ずつ、計四丁の水鉄砲が載せられていた。
 加えて、小さな帽子のようなものが二つある。それは薄い赤紙を折って袋状にしたもので、頭の上にちょこんと乗せて、顎紐で固定できるようになっているらしい。
「まずはこの赤帽を被るがよい」
「言われるまでもないわ」
 保笑夢と果無が、儀式のように粛々と帽子の装着を始めた。
(い、一体これからなにが起きるんだ……!?
 初めて見る令司は戸惑うほかない。隣に立つミハルや、他の生徒たちには意味がわかるらしく、固唾を呑んでその光景に見入っている。
 顎紐を結んで装着を終えると、二人の頭に赤帽がちょんまげのように乗っかった。寿司ネタのマグロがちょこんと乗っているようにも見える。あるいは天狗の帽子か。笑いを取りに来ているようにしか見えないが、二人は大まじめだ。
「紙で作られたこの赤帽には食紅が満載されている! もし帽子が水で濡れた場合、食紅が溶け出して血のように滴り落ちる仕儀となる! 畢竟、互いに水鉄砲を撃ち合い、先に相手の帽子に当てて紅に染め、鹿歯哭(しかばね)にすれば勝ちというわけである!」
 戦慄のどよめきが群衆から溢れた。
「いや、そんな妙な恰好で偉そうに言われても……」
 令司の冷静なつっこみは、誰に届くこともなく虚しく空に立ち消えた。
 演壇の保笑夢は、対峙する果無へぴしゃりと指を突きつけた。
「これは文字どおり決闘だ。負けた方は死を……政治的な死を迎えることゝなる。もし余が勝った暁には、おぬしがいま手にしているそのモップをもらい受けよう。ホトリ団の職務を象徴するそのモップを手放すということは……わかるな?」
 壇下に集った私服組がぴりりと緊張した。果無は表情を変えず、
「ええ、団長を辞めるわ。その代わり、私が勝ったときはその指揮剣をもらい受けるわ。二十日後の選挙を待たずして、ここで結果が出るというわけよ」
 そんなバカな、といった声が制服組から上がった。令司も内心、身のほどを知れという気持ちだった。ホトリ団と學徒會では賭けるものが違いすぎる。
 しかし保笑夢は悠然と手を上げて非難の声を制し、
「よかろう。誇りと信念をかけた決闘は、それぐらい潔くなければならぬ。この場に集った諸君が立会人だ! 決着までつきあうがよい!」
 太っ腹な保笑夢の態度に、反対していた制服組も手を振り上げて賛同に転じ、私服組も敵ながらあっぱれというように拍手と声援でそれに応えた。
 保笑夢は満足げにうなずくと、指揮剣を持って演壇の隅に向かった。そこにはスタンドに挿された天鵞絨の校旗が、大らかに風にたなびいていた。保笑夢はその校旗の根方に、指揮剣を預けるように立てかけた。果無を見やる。
 果無もうなずいて、そこへ歩み寄り、手にしていたモップを預けた。
 學閻の御旗の下、勝利した方がこの二つを手に入れるということだ。絵になる光景ではあるが、気障ったらしい顔でこのセレモニーを行っている二人の頭にマグロの切り身のようなものが載っていることを忘れてはいけない。
 手が空いた二人は再び演壇の前方に戻り、先ほど運ばれてきた二台の台車を挟んで向き合った。台車には二丁ずつサブマシンガン型の水鉄砲が載せられている。
「決闘のために、水鉄砲は四丁用意した! しかし使用するのは一丁ずつだけだ。不要な二丁は回収する。おぬしに選ばせてやろう。どれか一つを指差すがよい!」
「私が?」
「銃を用意したのは余だからな。公平を期すため、おぬしに銃を選ばせてやろう。必要のない銃は下げさせる。まずはどれか指差せ」
 果無が、片方の台車に乗った水鉄砲の一つを指差した。
「うむ、そっち側の台車は必要ないか。では回収しろ」
 保笑夢の指示で、果無が指差した銃の載った台車が、生徒によって後方へ下げられる。
 残ったもう一つの台車に、二丁の拳銃が載っている。
「では残った二丁のうち、どちらかを指差せ」
「こっち」果無が片方の銃を指差した。
 保笑夢は一瞬、難しそうな顔をしたあと、
「わかった。その銃も除けよう」
「除ける?」
「最初に台車ごと除けた二丁と同じく、その銃もいらぬということだろう。消去法で残された最後の一丁がおぬしのものというわけだ。余の銃は、おぬしがいらぬと除けた三丁の中から選ぶことにしよう」
 保笑夢はそう言って、最初に下げられた台車に載った一丁を手に取った。
「いざ、正々堂々と決闘しようではないか! 来るがよい!」
 武者振りに声を張り上げて身を翻す。
「待って、みんなの前でもう一度ルールを確認したいわ」
「なんだ? 先に相手の赤帽を撃った方が勝ちという、シンプルなルールだぞ」
「戦う人間は私とあなたの二人だけよね?」
「当たり前だ。一騎撃ちで他人の手を借りるなど言語道断!」
「そうね。でも、事故ということもありえるわ。誰かが悪気なく誤射してしまったり、いきなり雨が降ってきて赤帽が濡れちゃったりした場合は?」
「誤射であれなんであれ、人間の手によって放たれた水は無効だ! それ以外の、自然現象などで濡れてしまった場合は負けとする」
「わかったわ」
 それだけ確認すると、果無は保笑夢と並んで演壇を降りた。

   †

 集まった生徒たちが示し合わせ、決闘の邪魔にならぬよう二人から距離を取る。
 グラウンドの中心に、ぽっかりと大きな空白地帯ができあがった。
 そこへ、銃を持った二人が静かに進み出て、炎天下で対峙する。
 果無は、いつもの黒いセーラー服。しかし足下はローファーではなく動きやすいスニーカーだ。コンバースのワンスター。色はやはり黒なのが彼女らしい。
 保笑夢は、スクール水着の上に制服のブラウスを着て、スカートを穿かないで脚を根元まで曝け出している。足下は素足にクロックスの白いサンダル。
「覚悟はよいか、ハカナよ。真っ赤な血の色に染まる覚悟は」
「どうせ違う色に染めるなら、真っ赤じゃなくて真っ黒にしてやりたいわ」
「黒は……裏切りの色だ。なにものにも染まらぬくせに、あらゆるものを自分の色に染めようとする……余を裏切った、悪魔の色だ!」
 ――銃身、一閃。
 互いに構える、片目をつぶる。
 照準(ねらい)は敵の頭上、赤帽。
 同時に引き金をひく、水が吹く。
 ――異変。
 発射されたのは、保笑夢の銃のみだった。
「っ!?
 果無が髪を翻して伏せる。頭上すれすれを水が過ぎる。
 すぐさま立って、あらためて銃を撃つ。
 ――が、やはり不発。
 わずかに銃口から水が垂れ落ちるのみ。
「そんな、タンクに水はあるのに」
「ポンプです! 団長!」
 令司は思わず叫んだ。水鉄砲はポンプに空気を送り込まなければ発射できない。
 果無はポンプのレバーをカシャカシャと引き、空気を貯めにかかった。
「ふはゝゝゝゝ! なにを小火小火(ぼやぼや)している!」
 保笑夢が駈け出しながら攻撃を仕掛ける。
 果無は逃げながら、空気を入れるレバーを動かし続ける。
 そしてもうレバーが引けないというぐらいまでポンプの圧力が高まったところで、振り返りざま引き金をひいた。が、やはり水はちょろちょろとしかでない。
「そんな、圧力が伝わってない!? まさか」
「はゝゝゝゝっ、壊れているようだな! よりにもよってこの大一番に不運なことだ! 日頃の行いが悪いせいではないか!?
 保笑夢が果無を追いかけながら容赦なく攻撃を続ける。
 果無は赤帽を濡らさないよう、前かがみとなってジグザグにグラウンドを走った。すでに背中は保笑夢の水鉄砲が当たって濡れている。
「このっ、ちゃんと動きなさい!」
 走りながら銃を振ったり叩いたりしているが、一向に故障は解消されない。
 令司は親指の爪を噛みしめ、必死に考えを巡らせる。
(あれはポンプ系の故障か? だとしたら致命的だ、武器なしで勝てるはずがない)
(ここで苑崎が負けて選挙に出られなくなってしまったら、俺がこれまでやってきた作戦はまったくの無駄になってしまう……!)
 反撃の心配がないため、保笑夢は思うさま果無を追いかけ回せばいい。一方的な展開だ。二人が進む先の人垣が割れ、群衆が左右から口やかましく騒ぎ立てる。
 \いいぞぽえぽえ!/黒セーラーめ覚悟!\覚えたか私服めら!/うぬ、なんという不運……!\諦めるな団長!/銃が故障してるのに卑怯だぞ歌胤!\そうだ卑怯だ!/旧スクの水抜きスリットに指を突っ込んでおしおきだ!\おしおきだ!/だ!\
「卑怯だと!? 運も実力のうちだ! せっかく四丁も用意してやったのに、壊れた銃をハカナ自ら選んだのだ! 自己責任であろう!」
 保笑夢は開き直ったように攻撃を続ける。
 ――しかしその台詞によって、令司の中で疑念が生じた。
(そうだ、確かに運が悪すぎる。たまたまあの一丁だけが壊れていたなんて)
「まさか!」
 令司は駈け出した。――二人が進むのとは逆側の、この決闘の開始地点である演壇へ。
 それまで一緒に成り行きを見守っていたミハルが、「切野くんっ!?」と声を張り上げたが、令司は無視して人混みを掻きわけて進む。
 無人となった演壇には、まだ台車が二台とも残されていた。
 令司はスロープを駈け登って、台車に載った二丁の銃を手に取った。
(ひょっとして、始めから歌胤によって仕組まれていたんじゃないか?)
(たとえば四丁のうち、まともな銃は一丁のみで、他は故障していたのでは? その中から苑崎に選ばせれば、四分の三の確率で故障したものを選ぶことになる)
「だったら残ったこの二丁も!」
 引き金をひく。
 が、予想に反して、二丁とも正常に水を発射することができた。
(ちっ、俺の思い過ごしだったか?)
 令司は銃を戻そうと、台車に目を移した。
 そして、妙な据わりの悪さ、違和感を覚えた。
「……待て、どうして台車が二台も必要だったんだ?」
 四丁の銃は、その気になれば一台の台車に乗せきることもできたはずだ。それをわざわざ二台に二丁ずつ分載したのは、なにか不自然に感じられた。
 それに、いまから思えば果無が銃を選ぶときの手順にも妙な回りくどさがあった。
「……そうか、そういうことか」
 死蔵されていた古い記憶が、目蓋の裏に弾けて広がった。
「あのトリックか……」
 昔、手品のトリックを明かすテレビ番組で、『マジシャンズ・チョイス』と呼ばれるテクニックが紹介されていた。マジシャンは巧みな話術を使い、客が選ぶものを誘導することができるのだ。そのやりかたは様々だが、もっともシンプルなケースとして、二つのうちのどちらかを選ばせるときのやりかたがある。
 AとBのうち、客にAを選ばせたいとする。そのとき、マジシャンは客に対して、「どちらかを指差して下さい。必要のない方は下げます」と指示を出すのだ。
 この際、「どちらかを選んで下さい」と言ってはならない。あくまでも、ただどちらかを指差すように言うことが重要だ。
 客がAを指差したとする。その場合マジシャンは、「ではそのAを手に取って下さい。Bの方は不要なので下げます」と言って、目当てのAを客に取らせる。
 逆に、もし客がBを指差した場合は、「Bの方がいらないのですね? それではBを下げますから、Aの方を手に取って下さい」と言って、やはりAを客に取らせるのだ。
 このもっともシンプルな二者択一のやりかたでも、マジシャンがうまく会話の流れに乗って誘導すれば、客は疑念を持つことなく従ってしまう。
 今回保笑夢が行ったのは、四つの中から一つを果無に選ばせる方法だ。
 A台車に『①・②』の銃、B台車に『③・④』の銃が載っているとする。
 保笑夢が果無に選ばせたいのは、『①』の故障した銃だ。
 始めに保笑夢は「どれか指差せ。いらないものは下げる」と指示する。もし果無が、最初から①の故障した銃を指差した場合は、「ではその銃を取るがよい」と言えばいい。
 もし果無が②を指差した場合、「こちらのA台車がいいか? では、いらないB台車を下げよう。あらためて、A台車の①と②のどちらかを指差すがよい」と続きの選択を促す。次に果無が①を選んだ場合、その銃を取らせる。もし②を選んだ場合、「ではその②も下げよう。消去法で最後に残った①がお前の銃だ」と言って、①を渡すのだ。
 今回、実際に果無が指差したのは、B台車の③か④の銃であった。
 保笑夢は、「ではB台車を下げよう」と言って、③と④を排除した。そして残ったA台車からあらためて果無に選択させ、①の故障した銃が彼女の手に渡るよう誘導したのだ。
 このように、マジシャンズ・チョイスは相手の選択に応じて続きの言葉を変え、さも客が自由意志で物を選んだかのように印象づけるのだ。
 選択の流れがわからないまま選ばせるところに成功の秘訣がある。そのため、マジシャンズ・チョイスを使ったマジックは同じ相手に繰り返し行ってはならない。
 マジック界には、ハワード・サーストンというマジシャンが唱えた『サーストンの三原則』というものがある。『マジックの現象を先に説明するな』・『同じマジックは繰り返すな』・『トリックは明かすな』という原則だ。これらの格言には多様な意味が込められているが、まさしくマジシャンズ・チョイスにも当てはまるといえよう。
(歌胤のやつめ、ちゃっかりと卑怯なことを)
 だが保笑夢は一つミスを犯した。先ほど、群衆の野次に応えて『果無自身が銃を選んだ』ことをさかんに強調してしまった。もし本当に公平な選択であるなら、そこまでむきになる必要はないはずだ。令司はそこに不審を感じたのだ。
 マジック界の格言には、『追われてもいないのに逃げてはならない』というものがある。マジシャンがハンカチを取り出して「このハンカチにはタネも仕掛けもありません」と口上を述べるのは良くないのだ。観客が疑ってもいないのに自分から弁明を始めるのは、疑念を抱かれるきっかけになる。保笑夢も同じ轍を踏んだのだ。もし彼女が余計なことを言わなければ、令司も疑問に思わなかっただろう。
「……だが苑崎。目の前でやられたお前は、このトリックに気づけなかったのか?」
 いま令司が立っている演壇からは、群衆の黒山ごしに、二人の移動する赤帽を眺めることができた。いまから追いかけても決着には間に合うまい。そもそもマジシャンズ・チョイスの不正を証明することは難しい。令司の打てる手はない。
「歌胤がいかさますることも想定しないで、手ぶらで決闘に臨んだのか? だとすればお前の底は見えたぞ、苑崎」

   †

八十一(クク)ッ、どうした黒ウサギよう、もう追いかけっこはおしまいか?」
 水鉄砲を構えた保笑夢が、余裕そうにせせら笑った。
「ほら〳〵、もっと逃げぬとオオカミに食べられてしまうぞう! クハヽヽヽヽッ!」
「……三下の笑い方がやけに板についてるわね。學徒會長なんかにしておくのはもったいないわ。選挙に負けて重荷を下ろした方がいいんじゃないかしら?」
 果無は肩で息をしながら、不遜な台詞を吐く。
 しかしそれが虚勢であることは、誰の目にも明らかだった。
 決闘開始からここに至るまで、追う者と追われる者の関係が逆転することはなかった。果無はオオカミに追われてひたすら脱兎になるしかなく、ついにグラウンド端のフェンス際に追いつめられた。いまは、立ち並んでいるポプラの木々のうちの一つを楯に取り、幹の影から用心深く保笑夢を窺っている。
「戯言も聞き飽きた。祭りもそろ〳〵仕舞いにするか。覚悟するがよい」
 保笑夢が銃を構え、悠然と歩を進める。
 果無の顔が、ポプラの裏へ引っ込む。再び逃げるにしても後ろにはフェンスがあるため、横方向にしか逃げられない。しかしそれでは保笑夢の恰好の的だ。
「さあ、どちらへ逃げるのだ? 一か八かやってみれば逃げられる(かも)しれぬぞ?」
 \団長を嬲る気かっ!/武器の使えない相手に卑怯な!\それでも學徒會長か!/
「うるさい〳〵っ! 壊れた武器を選んだのはあいつの自己責任だと」
 保笑夢が後ろの野次に気を取られたその刹那、ポプラの裏から果無が飛び出した。
 手にした物体を、水平に振るった。
 帯状に広がった水が、保笑夢を襲う。
「なっ、に!?
 銃は故障しているはずでは、という保笑夢の思いがありありと顔に浮かぶ。
 確かに果無の銃は壊れたままだ。
 しかしタンクには水が満載されている。
 そのタンクを外し、保笑夢に向けて水をぶちまけたのだ。
「くぅう!?
 身を下げる、地面を転げる。
 ばしゃんと水音が響く、野次馬がどよめく。
 音という音はすぐに立ち消え――まさに水を打った静けさが訪れた。
 砂埃の舞う中、うつぶせになった保笑夢が、怖々と頭に手を伸ばした。
 赤帽は無事だった。
 静寂の空気を、保笑夢の哄笑がつんざいた。
「フハヽヽヽヽヽッ! 残念だったなハカナ!」
 ペンギンのようによちよちと立ち上がり、幼い胸を張る。
 果無は空になったタンクを落とし、臆したように後じさる。
 勝ち誇った薄笑いとともに、保笑夢が銃を突き出して悠然と果無を追いつめる。
 やがて果無の背中が、がしゃんとフェンスについた。
 そのとき果無がなにか叫んだが、保笑夢の声が打ち消した。
「命乞いは聞かぬぞ!」
 銃口から迸った水が、果無の赤帽を撃ちぬいた。
 薄紙でできた赤帽にたちまち水がしみ込み、どろどろと食紅を溶け出させた。
 果無の端正な顔が、血にまみれたように紅に染まっていく。
「か、勝った……! ついに余がハカナに!」
 喜びに打ち震える保笑夢。
 ――が、そのつるんとした額に、ツゥと液体が垂れ落ちた。
「?」保笑夢が袖口で額をぬぐう。
 そして真っ赤に染まった袖口を見て、悲鳴を上げた。
「なっ、なっ、血っ!? 十六々々(シシシシ)っ、死っ!?
「死ぬわけないでしょ食紅で」果無が呆れ顔で言った。
 いつの間にか、保笑夢の赤帽も水に濡れていたのだ。
「ば、莫迦なっ、果無からの攻撃はなかったはずだ!」
「私じゃないわ。上をご覧なさい」
 果無の視線を追って、保笑夢が空を見上げる。
 そこにはポプラの枝々が張り出しており、一羽の黒いカラスが留まっていた。
 ――いや、カラスではない。翼は生えているが、赤い首輪をしたべつの生き物だ。
『クカァ!』と、その生き物が二人を見下ろして牙を覗かせた。
「あ、あれはホトリ団の化け猫!」
「副団長のベリアルよ。あらかじめ待機させていたの。そして私の合図とともに、用意してあった水袋をベリアルが落としたってわけ」
 果無の言うように、保笑夢の近くには小さなビニール袋が落ちていた。
「ここに待機させていただとっ!? 莫迦なっ、あらかじめ余がここに来ることを知っていたというのかっ!? 蟻焉(ありえん)!」
「誘導したに決まってるでしょう。この私がなんの目算もなく逃げ場のないフェンス際までやってくると思ったの?」
「なんだとっ、ではその銃が壊れていることも始めから」
 はっと保笑夢が口をつぐむ。
 取り巻いていた野次馬たちが、ジトッと疑いの目を向けた。
 ごまかすように慌てて咳払いし、
「し、しかしこれは卑怯だ! 正々堂々の一騎撃ちに、他人の手を借りるなぞ!」
「他人の手は借りてないわよ」
 果無が招くように指を動かすと、枝に留まったベリアルが翼を広げて幹を駈け下りてきて、ひらりと果無の肩に飛び乗った。
「借りたのは、猫の手だもの」
 果無が得意顔で告げると、その場が一瞬静寂に包まれた。
 肩のベリアルが、夕暮れを告げるように『カァ~』と鳴いた。
 ――爆笑。
 制服組も私服組も関係なく、取り巻いた野次馬たちに笑顔の華が咲いた。
 ぎすぎすした空気が一新され、両派の垣根の崩れる音が、がらがらとした野太い笑い声となって空に響いていた。
 笑わずにいるのは、保笑夢とベリアルと、もう一人のみ。
 演壇からここまでやってきた令司は、一連の光景を見て呆然としていた。
(みんな、あの女の狙い通りに事が運んでいる……?)
 計算づくの策略。
 彼女の思うままに世界が進むような、予定説じみた全知感。
 悪魔じみたカリスマ性。
 それはまさに、あの男と同じ――學王の資質だ。
(バカな、あの男に匹敵する力があるというのか)
(仮に……仮にだ)
(俺と苑崎が戦うことになった場合、果たして勝つのは……)
「どっちだ!?
 保笑夢の絶叫に、令司の肩がびくりと跳ねた。
「余とハカナのどちらが勝ったのだ!?
 周囲に呼びかけるが、誰もが顔を見合わせるばかりで答えようとしない。保笑夢は制服組を次々につかまえて「余の勝ちだろう!」と迫るが、やはりみな曖昧に返すのみだ。
「引き分けってとこかしら」
 果無が小さなタオルで顔を拭きながら言った。
(いや、苑崎の勝ちだ。勝負の行方なんてもう関係ない)
 生徒たちの反応を見ればわかる。これまでであれば、きっと両派とも黙ってはいなかっただろう。制服組は保笑夢の勝ちを、私服組は果無の勝ちを主張して譲らなかったに違いない。それが、もう勝負の行方を詮索するのは無粋という空気が蔓延している。
 天秤が壊れたのだ。
 果無の思惑通り、確執が昇華され、互いを隔てていた垣根が壊された。無論、両派がこれですべての蟠りを捨てられるわけではないだろうが、新たな『言葉』が作られるはずだ。これまでは実体語も空体語も『敵を討て!』というものだったが、少なくとも実体語については変わるだろう。建て前としては引き続き反目するだろうが、本音では互いを同じ學閻生と認めるはずだ。戦略を達成したという意味で、果無の勝ちなのだ。
「残念ね、保笑夢。この決闘でけりがつくと思ったけれど、勝負は持ち越しね」
「むぅ……仕方あるまい。どちらが上か、學閻祭の選挙で思い知らせてやろう」
「それについて提案があるわ。近年の學閻祭はマンネリ化してると思わない? それを解消するために、実行委員会を二つにわけるというのはどうかしら? ホトリ団実行委員会と、學徒會実行委員会が、それぞれ出し物をプロデュースするの」
 周囲が顔を見合わせた。
 果無の提案はこうだ。これまでは各クラスや部活ごとに出し物を決めていたが、次の學閻祭では二つの陣営にわけて、出し物を競わせるのだ。
 たとえば教室で喫茶店をやるにしても、學徒會が演出したクラスと、ホトリ団が演出したクラスとでは、出来映えや集客に差が生じるはずだ。
「學徒會長に求められるのは指導力でしょう? それを測るために、學閻を二つにわけて出し物の成功を競うのよ。きっと投票の参考になると思うわ」
「いゝだろう! 學閻祭で最後の対決だ!」
「決まりね。それと」
 果無は振り返り、グラウンドに集まった生徒たちに呼びかけた。
「ここに集まった人の中に、きっと弾劾状を貼った人たちもいると思うの! もちろん名乗り出ろなんて言わないわ! 話を聞いて欲しいの!」
 グラウンドが静まる。果無は隅々まで届くよう声を張って、
「正直なところ、弾劾状にはとても腹が立ったわ。でも気づかされたの。私たちにも問題があったって。みんなに認められたいと思って急ぎ過ぎていたわ……それを教えてくれたことに、いまは感謝してる。私たちはこれを機に変わりたいと思ってるの」
 ざわめきがあちこちで起きた。
「だから、弾劾状を貼った人たちも學閻祭に協力して! きっと成功に導いてみせるわ!」
 果無の真摯な呼びかけに、生徒たちが揃って拍手と声援で応えた。
 \見直したぞ!/心を入れ替えて頑張れよ!\これからも応援します!/
 制服組も私服組もすっかり感心する中、令司は一人冷笑していた。
(いるはずのない犯人に呼びかけるなんて、よくやるぜ)
 しかし次の瞬間、その冷笑が凍りついた。
「ホトリ団は、みんなに奉仕する組織に生まれ変わるわ! その象徴が彼よ!」 
 果無が芝居がかった仕草で、ビシッと指差した。
 ――メイド服でびしょ濡れになった令司を。
 数百の熱い視線が、令司の五体にねっとりと注がれた。
 \メイドっ!?/男の娘!\はぐはぐ!/ぺろぺろ!\
「お姉兄(ねにぃ)さま~~~~っ! わたしの愛の白濁液を~~~~~~~~っ♡」
「……!」
 令司はスカートをつまみ上げ、孔雀のように逃げ出した。
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