【9】

文字数 15,027文字

 えらい目に遭った、とよろよろになりながら教室を出ると、果無と保笑夢が廊下に席を置いて、ボードゲームをしていた。
「ふふっ、これでこの陣地の黒はすべて私のものね」
「ぐわっ、積み上げてきた白が丸ごとっ……!」
 なにやら盛り上がっている。令司は無性に腹が立った。
「……なにしてるんですか」
「あら、終わったの? あんまりあなたが長いから、オセロをしてたのよ。ルールは私が考案した立体式のものだけど」
 ボードには、オセロの駒が賽の河原のように積み重ねられている。通常のオセロと違い、縦方向の駒も挟んで取るルールらしい。
「もう一回、もう一回だ!」
 ボードに突っ伏すようにして保笑夢が食い下がる。
「何度やっても同じよ。昔からこの立体オセロで私に勝ったことないでしょ。今日は仕事が一杯あるんだから、もう戻りましょう」
「むぅ……また勝ち逃げか」
 余裕綽々であしらう果無と、すねたように膨れる保笑夢。
 この瞬間だけを見れば、仲のよい友人同士に見えなくもない。
 いや、かつては本当に友人だったのだ。去年のいまごろは、二人は選挙に勝つために協力していた。しかし保笑夢が學徒會長になったあと、なぜか果無は『 』を辞めてしまった。そしてホトリ団に入って、保笑夢と対立するようになってしまったのだ。
 ほんの一時とはいえ、オセロをする二人は一年前の関係に戻ったのかもしれない。
(苑崎はどうして歌胤に敵対するんだ?)
(ただ悪を実践するためなのか?)
 まだ果無の秘密のすべてがわかったわけではなさそうだ。
「切野一年生、どうだった革命喫茶は?」
 ボードに伏せていた保笑夢が顔を起こした。
「あ、はい……なんというか、革命的でした」
「うむ〳〵、さゝやき喫茶などには負けぬぞ。それ、せっかくだからもう一つの喫茶店にも入ってみるがよい。名づけて『海賊喫茶』である!」
「もう喫茶店はお腹一杯です」
「なにっ! おぬしは海賊王になりたくないのかっ!」
「もうその台詞でなんとなく内容が予想できますから! というか、同じ階に喫茶店が二つも三つもあってどうするんですか?」
「はっ……!」
 保笑夢の顔が子供の落書きのようになる。
 一番基本的なところを考えていなかったようである。
「もういいでしょ。まだまだ演出しなくちゃいけない教室が残ってるんだから、これ以上令司を取らないで欲しいわ」
 果無が席を立ち、一緒にいたホトリ団のメンバーたちに「お願いできる?」とオセロの片づけを頼んだ。
 そのとき、保笑夢の広いおでこが、なにか閃いたようにきらりと光った。
「切野一年生、来いっ!」
「わっ!?
 保笑夢に腕を取られ、ずるずると廊下の端へと引きずられていく。
「ぼくは海賊喫茶には興味が」
「そうではないっ」
 果無や取り巻きたちから十分に距離を置き、保笑夢が声を潜めて言った。
「おぬし、ハカナからなにか聞いておらぬか? 投票方式の変更を申し出たろう」
「あ、はい……」
 近ごろ保笑夢と話す機会がなかったためすっかり忘れていたが、令司はスパイとしてホトリ団に入っていることになっていたのだった。
 令司は、あらかじめ果無と打ち合わせておいた『偽の理由』を話す。
「苑崎団長としては、最初に歌胤會長と御御御さんで一騎打ちさせて、制服組を分裂させる狙いのようです。それで負けた方の票が自分に流れてくればいいと……」
 保笑夢は単純だから、この理由で騙しおおせると思ったが――
「うゝむ……本当にそうであろうか」
 口元に手を当て、納得いかないような顔をする。
「と言いますと……?」
「いや、御御御がな。なにやら気になるというのだ。それで今晩の演説会で……」
「えっ?」
「いや、余もよくはわからぬが……まぁよい。密偵のおぬしがそう言うのであれば、きっと杞憂であろう」
「令司!」
 廊下の先から果無が呼んだ。
 令司は行こうとするが、また保笑夢に腕を引かれた。
「ま、喚犬手(まて)、もう一つ」
「まだなにか?」
「おぬし、ハカナとの関係はどうなっておる……?」
「は?」
 保笑夢の顔が、気恥ずかしそうな色に染まる。
「さ、さっきからハカナに〝令司〟と呼ばれているだろう。いつからそんな親密な関係になった? よもやおぬしたち……」
「えっ? ち、違いますよっ!」
「本当だろうなっ、ハカナにいやらしい真似を致しているのではあるまいなっ!」
「い、致してませんよっ。苑崎団長は知り合いのことを下の名前で呼ぶんです。歌胤會長だって、保笑夢って呼ばれてるでしょう?」
「う、うむ。まぁそうだな。それもそうだ。うむ」
 保笑夢が羞恥をごまかすように咳払いする。
「いやなに、べつにハカナがどうなろうと余の知ったことではないがな。なんというか……そう、自堕落な真似をされると『 』の権威が落ちてしまうゆえな」
「はぁ、権威が」
「うむ、余はあくまでも『 』のことが心配なのだ。うむ〳〵」
 自分を納得させるようにしきりにうなずく。
(なんというか……色々と入り組んだ関係なんだな)
 好きの対義語は嫌いではなく、無関心とはよく言ったものだ。
 見ている令司の方が気恥ずかしくなってしまう。
「それじゃぼくはこれで」
「う、うむ、ハカナとはこれからも清く正しくつきあうようにな」
(スパイなのに清く正しくもないだろう)
 つっこみたくなるが、令司は保笑夢に会釈して、果無のもとへ向かった。
「ハカナ! 今晩の演説会から逃げるでないぞ!」
 保笑夢が大声で呼ばわった。果無も同じく大きな声で、
「こっちの台詞よ! 格の違いを教えて上げるわ!」
 と、返した。これまで幾度となく繰り返された丁々発止だが、どうにも令司には痴話喧嘩のような茶番に感じられてしまい、体が脱力するのを抑えられなかった。

   †

 前夜祭の目玉の一つは、講堂での決起集会だ。ステージに、學閻祭の各部門の責任者たちが出て、催し物について最後の注意喚起と鼓舞を行うのだ。
 そのあと、選挙に出馬する會長候補生たちの演説会が開かれる。
 今年は、立候補した三人がどれも美少女かつ有名人ということで見物人の出足が増え、講堂に立ち見が出るほどの盛況となった。
 各候補者が一人ずつ登壇し、マイクで演説する。

 ――歌胤保笑夢。
【余はこの一年で行った改革を、さらに前進させるつもりである!】

 ――苑崎果無。
【私はかつて『 』を任された経験と、ホトリ団での経験を活かして、生徒がより過ごしやすい學閻を作りたい。學徒會長こそ、みんなにご奉仕する存在であるべきよ!】

 ――御御御ミハル。
【まだ一年生の私がどうして立候補したかというと、もっと中道な政策が必要だと思ったからです。歌胤會長のように制服組に偏り過ぎたものではなく、苑崎先輩のように叛骨に傾き過ぎるのでもない、『普通』の學閻にする必要があると思ったからです】

 それぞれの候補者の一挙一動に、聴衆が熱い視線を注ぐ。
 ここまでは取り立てて波瀾もなく、例年通りに進行していった。
 しかし、三人がステージに会して討論を行う段になったとき、異変が起きた。
【ところで、ここで私から一つ提案があるのですが、よろしいでしょうか?】
 ミハルが、進行予定にないことを言い出したのだ。
【苑崎先輩。あなたは歌胤會長に、選挙での投票方式の変更を申し出ましたね?】
【……そうだけれど、それが?】
 ステージで椅子に腰かけた果無が、怪訝そうに隣席のミハルを一瞥した。
【初めての投票方式なので、きっと生徒たちも戸惑うと思います。本番で投票ミスが起きないように、今日ここで投票の練習をしたいと思うのですが?】
 会場がざわついた。
 果無が不愉快そうに眉をひそめ、「投票の練習?」と聞き返した。
【うむ、本番と同じやりかたで投票を行い、現在の支持率を見てみようというわけだな】
 椅子に座った保笑夢が、待ってましたとばかりに口を挟んだ。
【やってみようではないか。まず選挙の一回戦は余と御御御であったな。みな、學閻手帳を出すがよい! 全島放送を流して、ここにいない者にも伝えろ!】
 急な提案に、果無が「待って、そんな急に!」と焦る。
【學徒會長である余の、今期最後の指揮剣命令だ。よいではないか、あくまでも練習だ。學閻祭を前に、現時点での支持率を知るのも一興であろう】
【でも……】
 なおも抗弁しようとする果無を無視し、保笑夢が話を進めた。
【それではみな、準備はいいか? 余と御御御のどちらを支持するか、學閻手帳の入力で決めるがよい! 端末表示の……】
 學閻手帳は電子式で、ネットワーク機能を持っている。電子マネー機能を使って島内の買い物をすることもできるし、選挙の電子投票もこれで行える。
【それでは投票するがよい! 余か、御御御か!】
 ――数分後、集計作業をしていた選挙管理委員会の生徒から、結果が出たとの報告が入った。ステージの奥に張り出た巨大な液晶スクリーンに、その結果が表示される。

〔 一回戦結果 歌胤保笑夢1459票――御御御ミハル1585票 〕

 えっ、と講堂がどよめいた。
【そ、そんな! 余が御御御に負けた……だと?】
 思わず椅子から立ち上がった保笑夢が、貧血のようにふらつく。
 ミハルが静かに口を開いた。
【やはり、私と歌胤會長では票を食い合う結果となりましたね。投票の合計数が全生徒の数と合わないのは、この島を離れていたり入院していて投票できない者がいるせいでしょう。歌胤會長、どうか気を落とさないで下さい。二日間の學閻祭のプロデュースの出来次第で、きっと生徒たちの印象も変わるでしょう】
【う、うむ……】
【問題はむしろこれからです。続いて二回戦に行きましょう。私、御御御ミハルと、苑崎先輩のどちらかに投票してもらいます。私に入れる人は端末表示の……】
 ――やがて、二回戦の投票結果が集計され、スクリーンに映し出された。

〔 二回戦結果 御御御ミハル1451票――苑崎果無1593票 〕

 ――講堂が割れんばかりの驚きに包まれた。
 勝利した果無はしかし、苦い顔で椅子に腰かけたまま、なにも語ろうとしない。
 そんな果無を見ながら、ミハルが嫌みな口振りで言った。
【もしこれが本番だったら、苑崎先輩が新會長になってしまってましたね】
【そんな……余を倒した御御御が、ハカナに負けるとは……では、三人の中では余が一番人気がないということか……】
 がっくりと肩を落とす保笑夢に、ミハルが言った。
【そうとばかりは限りませんよ】
【なに?】
【私の予想が正しければ、これからもっと面白いことがわかるはずです。では次に、これまでのことはすべて流して、また一回戦からやりましょう。今度は組み合わせを変えて、『苑崎果無VS歌胤保笑夢』からです】
【なんだと? さっきの結果からすると、余がハカナに勝てるわけないではないか?】
【いいですから。みなさん投票をお願いします】
 ミハルの指示で、再び投票が行われ、結果が開示される。

〔 一回戦結果 苑崎果無1334票――歌胤保笑夢1710票 〕

 この意外な結果に、客席のあちこちから悲鳴に近い声が上がった。
【なっ、なんで余が勝つのだ!?
 勝った保笑夢の方が驚き、敗れた果無は動じることなく黙りこくっている。
 ミハルが納得したようにうなずき、
【やはりこうなりましたか。では続けて二回戦を行いましょう。一回戦で勝った歌胤會長とこの私のどちらを支持するか。みなさん投票して下さい】
 ミハルの指示で二回戦が行われ、結果が出る。

〔 二回戦結果 歌胤保笑夢1461票――御御御ミハル1583票 〕

 保笑夢がさらに怪訝が深まったように首を捻る。
【今回は御御御が優勝……? なんだこれは? なにかおかしいぞ?】
【では最後にもう一度だけ、べつの組み合わせで一回戦からやってみましょう。今度の一回戦は、御御御ミハルVS苑崎果無です。投票をお願いします】

〔 一回戦結果 御御御ミハル1429票――苑崎果無1615票 〕

 保笑夢がスクリーンを見上げて、混乱したように頭を抱える。
【ハカナが御御御に勝つ……? それではもしや、二回戦のハカナと余では?】
 すぐさま二回戦の投票が行われ、結果が表示された。

〔 二回戦結果 苑崎果無1322票――歌胤保笑夢1722票 〕

【余が優勝!? 始めは余がビリだったではないかっ! 一体これはなんなのだっ!?
 保笑夢がしびれを切らしたように説明を求める。
【それではご説明しましょう】
 ミハルは涼やかに笑うと、係の者に指示を出し、ステージに移動式のホワイトボードを持って来させ、フェルトペンを手にした。
【いまみなさんが目にしたのは、『コンドルセのパラドックス』というものです。コンドルセは十八世紀の人で、数学者でありながら社会学の開祖でもありました。政治家としても活躍した彼は、選挙の投票方式について数学的な研究を行いました。その成果の一つが、投票の順番によって勝利者が変わってしまうという、このパラドックスです】
 ミハルはそう説明しながら、ホワイトボードにペンを走らせた。
【説明しやすくするため、學閻生三千人を、A・B・Cという三人の投票者に変えることにします。この三人は、それぞれこのような順番で候補者を支持しています】

 Aの好きな順番――苑崎>御御御>歌胤
 Bの好きな順番――御御御>歌胤>苑崎
 Cの好きな順番――歌胤>苑崎>御御御

 保笑夢を始めとする講堂の生徒たちは、まじまじとホワイトボードを注視して、ミハルの解説に聞き入っている。果無だけが、そちらを一瞥もせず仏頂面でいた。
【この好き嫌いの順番を『選好順序(せんこうじゅんじょ)』と言います。この一覧を見ながら、さっきの投票を思い出して下さい。最初の一回戦は私と歌胤會長でしたね】
【うむ、余はここで御御御に負けたのだ】
【このA・B・Cの三人の選好順序を見て下さい。この私、御御御の方が歌胤會長より上位に位置することが多いのがわかると思います。私の二勝一敗ですね。だから私は一回戦に勝つことができたのです。では、私と苑崎先輩の場合はどうでしょうか?】
【ひい、ふう……おおっ、ハカナが二勝一敗で御御御に勝つぞ!】
【よくできました。では、歌胤會長と苑崎先輩ではどうでしょう?】
 ミハルが小学校の先生のような口調で保笑夢に訊く。
【余とハカナでは……余の二勝一敗だ! なるほど、これは三すくみの関係だ!】
【そうです。これはジャンケンのような関係なんです。一人が他の二名を圧倒するのではなく、それぞれ勝てる相手と勝てない相手がいる……この関係の場合、戦う順番によって優勝者が変わるのがわかりますか?】
 う、うむ? と保笑夢がわかっていない顔をする。
【二回戦から入るシードの人が、必ず勝つようにできているんです。最初にグーとチョキが戦った場合、二回戦でパーが勝つ。最初にチョキとパーが戦った場合、二回戦でグーが勝つ。最初にグーとパーが戦った場合、二回戦でチョキが勝つ……】
 保笑夢が両手をそれぞれグーチョキパーの形に変化させて戦わせ、「おお、なるほど……!」と目を輝かせる。
【投票ごとに投票者の気まぐれで選好順序も変わるでしょうから、毎回同じ結果が出るとは限りません。でも今回は、おおむねこの関係が成立しましたね。もしこのまま選挙を迎えていたら、シードだった苑崎先輩が新會長になるところでした】
 そう告げて、ミハルが険のある眼差しを果無に向けた。
【苑崎先輩はこのコンドルセのパラドックスを悪用して勝つため、投票方式の変更を申し出た。違いますか?】
 講堂の空気が重くなり、数多の鋭い視線の矢が果無一点に注がれた。
 しかし果無は、ふっと笑って美しい黒髪を振り、
【いいえ、まったく知らなかったわ。そんなパラドックスがあるなんて】
【と、とぼけるの!? 元『 』だったあなたが知らないわけないわ!】
【知らなかったわよ。『 』だからといってなんでも知っているわけじゃないわ。優秀な學徒會長の保笑夢だって知らなかったのだから】
 視線の矢が今度は保笑夢に向かい、うぐっと彼女が口をへの字に曲げる。
「こほん……余は文系の天才ゆえ」
【ね? 理系の御御御さんだからわかったのよ】
「……!」
 ミハルが悔しそうに口を結ぶ。これ以上、果無の不正を追及する手立てはない。なにしろ証拠が一切ないのだ。偶然であると開き直られたら手も足も出ない。
 果無がマイクを握ったまま立ち上がる。
【あらぬ疑いをかけられるのは残念だわ。新方式の方がわかりやすいと思って提案したのだけれど、それに問題があるというなら、本番では元の方式に戻しましょう。さっ、辛気臭い演説会はもう終わりにして、前夜祭を愉しみましょう!】
 元気よく告げて、場の空気を一新させた。
 生徒たちが祭りの昂揚感を取り戻し、「おおっ!」と両腕を突き上げ、客席が剣山のように派手に盛り上がった。
 ちゃっかりと最後の締めまでかっさらっていった果無は、そのまま舞台袖へと歩き去っていった。保笑夢とミハルが、口惜しげにその背中を見送る。

   †

 舞台袖の暗所で、令司は一連のやりとりを眺めていた。
(御御御ミハルめ……まさかコンドルセのパラドックスを事前に見破られるとはな)
 親指の爪を噛み、湿った舌打ちをする。
 そこへ、果無が引き上げてくる。
「やられたわ」
「やられたな」
 顔を合わすなり、暗闇で言葉を投げ交わす。
「だが、うまく機転を利かせたな」
「アドリブなんかじゃないわ」
「想定してたのか」
「とぼけ方ぐらい、考えておくものよ」
「『 』の習性か」
「女の習性よ」
 暗闇の中に、彼女の得意顔が透けて見えるようだった。
 令司は一つ息をつき、話を変えた。
「それでどうする? 他に策はあるのか?」
「そうね、あとは……」
 そのとき――
 ブツッと講堂のスピーカーがオンになった。
【みなさんっ、どうかまだ帰らないで下さいっ! ただいま、校長先生より緊急放送の要請がありました! これより講堂のスクリーンに生中継を流します!】
 放送係の切迫した声に続き、ステージのスクリーンが再び明るくなった。
 五十代後半の、血太りした平凡な顔立ちの校長の上半身が映し出される。
 どうやら校長室の執務机にカメラを置いて、自撮りしているようだ。
【こんばんは、學閻生のみなさん。前夜祭で盛り上がっているところ申し訳ないが、校長の私から二つばかりお知らせしたいことがあります。とても大切なお知らせです。講堂で見られない生徒は、どうか學閻手帳の画面でこの放送を見て下さい】
 ただならぬ雰囲気に、客席の生徒たちが顔を見合わせてざわめく。
 令司と果無も、舞台袖からステージへ戻り、スクリーンを見上げた。
【一つ目のお知らせは、學閻祭についてです。現在、この日本列島に大型の台風が迫っています。本土から離れたこの學門島も、明後日の深夜から、明明後日の朝にかけて暴風域に入るそうです。しかも、台風の逸れていく方向はこの學門島の方角だというから、長期に渡って嵐にさらされることになるでしょう。……そこで提案ですが、今年の學閻祭は中止にしたらどうでしょう。開催しても本土から来場者が来るとは思えない】
【そうはいかぬ!】ステージの保笑夢がマイクを握って言下に応じた。【學閻祭の伝統を、たかが台風ごときに潰されてたまるか! たとえ客が一人も来なかろうと、我ら學閻生は堂々と學閻祭を開催してみせる!】
 講堂が歓呼に沸き立った。
 令司も声こそ上げなかったものの、この威勢の良い啖呵には舌を巻いた。
 校長室の校長にはこちらの光景は届いていないだろうが、その耳にはイヤホンが嵌められているため、マイクの音声は届いているようだ。
【わかりました。學閻祭はあくまでも生徒諸君のお祭りだ。危険のない範囲であれば、なにも言うことはありません。……これが最後の學閻祭になるわけだしね】
 \え?/どういう?\
 ――二種類の驚きが生徒たちの口から漏れた。校長があっさりと台風下での學閻祭を認めてくれた驚きと、最後の言葉に対する驚きと。

【二つ目のお知らせは、もっと大切なことです。私は校長として、来年の三月でこの學閻を閉鎖しようと考えています】

 今度は、どこからも声は漏れなかった。
 誰もが言葉をなくし、窒息しそうな沈黙が場を支配した。客席も、ステージも。
【驚くのも無理ないが、これは私の単なる思いつきではありません。去年の暮れから各関係者と協議を重ね、先日もOB会会長の大剣寺総理に相談しました。閉鎖の理由については、先ほど総理からビデオメッセージが届いたので見て下さい】
 そうして校長はノートパソコンの画面をカメラの方へ向けた。パソコンで動画が再生され、どこかの部屋の執務机に陣取った大剣寺総理の姿が流される。
 令司は思わず歯ぎしりした。
【大剣寺熾道である。このビデオを見る諸君は私の後輩に当たるため、先輩として口を利かせてもらう。すでに校長先生より話があったと思うが、この學閻を今年度までで閉鎖する案がある。私はOB会の会長として先日相談を受けた。閉鎖の理由は、生徒の自主性が強くなりすぎ、教師の手に負えなくなってしまったからだ】
 呆然自失の生徒たちは、ここに来てようやく思考力を取り戻し始めた。
 保笑夢が窒息に抗うように苦しげに、「じ、自主性のなにが悪い!」と声を振り絞る。
【諸君も知っての通り、學閻では生徒の自主性を涵養するために、昔から大学のような自治権を認めてきた。戦後の学生運動の時代も、學閻生たちは教師や官憲と激しくぶつかったものだ。しかし近年はあまりに無軌道な抵抗が目につくようになってしまった。自由と放埒を履き違えた戦後民主主義の暴走と言える】
「履き違えてなどおらぬ! 余はただ」
【その責任の一端は私にもあろう。かつて學王と呼ばれた私に憧れ、王のように振る舞う學閻生もいると聞く】
 うぐっ、と保笑夢が絶句し、羞恥に顔を染めた。
【問題は、生徒たちが奔放に振る舞い過ぎた結果、學閻全体の評判が落ち、生徒たちの成績も停滞してしまっていることだ。とくに私服組の生徒が深刻だ。學閻の競争制度は本来、下の者が奮起して立ち直ることを期待して作られたものだ。それがここ数年、制服組と私服組の立場が固定し、いがみ合ってばかりいるとの報告を受けている】
 講堂の生徒たちが、気まずそうに目配せし合った。
【今年度で廃校というのはいかにも急なようだが、そんな状況を長く続ける方が生徒のためにならぬ。決めるなら早いほうがよい。無論、中等部も高等部も、生徒たちの転校先は我々が責任をもって斡旋する。諸君は来年の四月から、各人の成績に応じた本土の学校へ通うことになる。その転校先を見つける時間を確保するためにも、この夏が終わるまでに結論を出さなければならない】
 その言葉尻を聞き、保笑夢が急き込んで「廃校はまだ決定ではないのかっ!?」とスクリーンに尋ねた。隣の果無が冷静に「録画だから反応ないわよ」と突っ込むが、しかしビデオの大剣寺総理はまるでそのやりとりを見ているかのように、
【おそらくこの話を聞いて、みな大いに動揺していることであろう。絶望して泣き出している者もあるやもしれぬ。だがまだ廃校は決定ではない! 少なくとも、決定を一年延ばすことは可能だ。しかしそのためには様々な改革をしなければならない。まずは暴走しがちな學徒會の行動を制限するため、『學閻憲法』を制定し、學徒會長を始めとする権力者はこれを遵守するよう定めなければならない!】
 仰々しい『憲法』という響きに、不穏なざわめきが講堂に広がった。
 ミハルが、「それって校則とどう違うの?」と敬語を忘れて保笑夢に訊くが、保笑夢も呆気にとられたように首を横に振るばかりだ。
 大剣寺総理はまたもやこちらの反応を見越したように、
【憲法と聞くと、どうしても生臭い政治の世界を想像してしまうことだろう。諸君の不安は重々理解できる】
 総理が一度大きくうなずいて、間を取った。
【……が、憲法について誤解があるようだ。憲法とは本来、生徒を縛るものではなく、権力を縛るものなのだ。生徒を縛るものはあくまでも校則であり、その校則を制定する権力者、つまり學徒會や教師などを縛るものが、憲法なのである】
 憲法学によると、憲法とは『公権力を縛るために国民が交わした契約書』である。それを遵守する義務があるのは政治家を始めとする公務員であり、一般市民は、労働の義務や納税の義務などの例外を除いて、基本的に憲法の束縛を受けない。
【いわば憲法とは、国家の暴走を食い止めるための安全装置なのだ。それを學閻にも制定したい。憲法を定めるのであれば、本来であれば社会契約説を理解した上で、市民の自由な話し合いのもとに条文が決められるべきだが……今回は時間がないため、私と校長によって条文を作らせてもらった。これから読み上げよう】
 大剣寺総理が、手元にある紙を朗読する。
【學閻憲法序文、『學閻の便益は、所属するすべての生徒に資するべきであり、一部の人間が壟断してはならない。生徒の代表は、民主主義的な手続きによって選ばれた者が期限付で務め、學閻憲法を遵守して職責を全うする義務を負う』……】
 霞ヶ関の官僚が作ったような遠回しでわかりづらい文ではあるが、學閻憲法を要約すると、次の四点となる。

 ①學徒會の無害化。學徒會長は指揮剣を取り上げられ、通常の学校の生徒会長と同程度の力しか持たないようになる。予算配分もすべて校長の承認が必要になる。
 ②制服組と私服組による対立を解消するため、現在の不公平な税制制度を廃止し、徴収税額を一律とする。
 ③プロセント騎士団という特待制度を廃止し、同じく特権である『 』も廃止する。
 ④今後は學閻祭などのイベントも、生徒の自主性に任せきるのではなく、教師たちが一定の管理を行い、風紀に気を配ったものにする。

「こっ、こんな内容が呑めるわけないではないかっ!」
 保笑夢が半狂乱で叫んだ。
「独立不羈の理念はどこへ行ってしまったのだっ!? これでは學閻生に死ねと言っているのと同じ! 教師の言うことにハイハイ従うだけのうらなりしか育たぬ! それのどこが學閻生か! 自主性のある人材を育てるのが學閻の目的ではなかったのか!? 総理は……大剣寺総理はそれを実践したのではなかったのか……!?
 保笑夢の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。
「保笑夢……」
 果無が彼女の後頭部に手をやり、慰めるように撫でた。保笑夢は果無の胸に抱きついて泣きじゃくりながら、言葉にならない声を上げ続ける。
 令司は呆然とつぶやいた。
「……『 』を廃止する……? それでは俺は學王になれない」
 ――取り殺しそうな目つきでスクリーンを睨みつける。
(大剣寺……熾道! 貴様、また奪うつもりか!)
(母さんの心を奪って捨てただけじゃ飽き足らず、今度は俺の野望まで!)
【生徒諸君にも不満はあろう。しかし自由と放埒を履き違えてはならない。秩序あっての独立不羈。もし不満があるというのなら、學閻憲法とはべつの、独自の秩序を提示してみせるがよい。それこそが學閻の精神ではないかな?】
 挑発するように薄い唇を歪めて一笑し、銀髪を掻き上げる。
【ちなみに、二日目の日曜の學閻祭には、私も夏休みを取って行くつもりだ。どうやら台風が近づいているようだから、そちらも十分に備えるがよい。では】
 ビデオが終わり、それを映していたノートパソコンが、校長によって取り下げられた。ステージのスクリーンには再び校長だけが映される。
【以上です。総理の仰ったように、まだ廃校は決定ではありません。學閻憲法をみなさんが受け入れれば、少なくともあと一年は學閻を存続し、様子を見ることができます。憲法を受け入れられないのなら、残念ながら廃校にするしかありません。歌胤さんを中心に、ぜひこのことを話し合って下さい。なにか質問はありますか?】
 そんなもの、あるわけがなかった。
 そこにあるのは、静寂。
 呆然自失。
 思考停止。
 絶望。
 温い夏の夜の空気。
 講堂だけではなく、放送を聞いていた島のすべての生徒が、静止していた。
 ただ一つ、すすり泣く保笑夢の声がステージを低く這っていた。
 校長はしばらく平凡な微笑を浮かべてスクリーンに映り続けていたが、なにも反応が返って来ないことを確認すると、勝ち誇ったように笑みの柄を大きくした。
【では、私からの放送を終えたいと思います。みなさん台風に備えてしっかりと】
 そこへ――
【待ちなさい】
 あの、声。
 雨に濡れた、黒御影石――
【あなたは私の虎の尾を踏んだわよ、校長】
 苑崎果無が、マイクを握ってスクリーンの校長と対峙していた。
【その声は……確かホトリ団の苑崎さんだったかな?】
 校長がイヤホンを耳に押し込み直し、気を取り直すように言った。
 その余裕たっぷりの顔へ、
【不潔な老人】
 果無が吐き捨てた。
 スクリーンの校長の顔が「なに?」と強ばる。
【それなりに努力して現在の地位についたのでしょうけれど、せいぜいが一つの学校の長に収まる程度の器。でも、そのささやかな責任すら放擲し、後輩である総理大臣の威権に頼らなければ廃校という決定の一つも満足に下せない。いつもなにか問題が起きないかとびくびくし、そのくせ自分の利益についてだけは抜け目なく汲々とする、救いようのない小人(しょうじん)……】
 校長が取り乱して「なっ、なっ」と絶句する。
 傍らで見ている令司も、これには唖然となった。保笑夢もぽかんと口を開けている。
【校長。あなたもここのOBだそうだけど、どんな青春を送っていたか当ててあげましょうか? 独立不羈とは正反対の、群れて蠢いているだけの青春よ。進学校であればどこにでも転がっている、教師の言うことをなんでもハイハイと聞く〝よい子〟。いわば形だけは綺麗に揃ったジャガイモね。せいぜい料理に使われやすいという利点しかないくせに、形が整っていることが最大のプライドで、同じようなジャガイモ同士で群れ合って、仲良くダンボールという名の獄舎に収まっていたはずよ。そしてそんな湿った暗所に長くしまわれていたものだから、緑色の芽を吹いてしまったのよ。ソラニンという毒を含んだ芽をね。でもその毒はせいぜいお腹を壊す程度のささやかなものでしかないから、形の整ったジャガイモはそこで初めて劣等感を抱いて、もっと強烈な毒を外部に求めたのよ】
【な、なにを……!】
【でも、あなたはいつの間にかジャガイモのまま年を取り、もう煮ても焼いても食べられない醜い老人と成り果てた。せっかく芽吹いた毒もすっかり立ち枯れてしまっている。そこへ大剣寺熾道という猛毒が現れた。あなたはいま、総理と組んで學閻を廃止することを進めるのが愉しくって仕方ないはずよ。でもわかっているかしら?】
 そこで果無は一拍置き、スクリーンで真っ赤になっている校長の顔を愉しげに眺める。
【あなたみたいな小人(しょうじん)の謀略なんて、とうの昔に私に見抜かれていることに】
【なにっ……!?
 \えっ/嘘っ!\ほんとに!?
 驚愕の声が、校長と生徒たちの双方から上がった。
 果無が客席に向き直って説明する。
【この學門島は、以前からよくゼネコンによるリゾート開発の候補に挙げられてきたわ。本土から近い島だし、ビーチが綺麗で、監獄島時代の古くて珍しい施設も多く残されているから、観光にぴったりなのよ。とくに好き勝手に増改築を繰り返した空論城なんて、長崎の軍艦島に匹敵する名物になるわ】
「り、リゾートだと!? 學閻を潰してそんなものを!」
 保笑夢が怒りに声を震わせる。
【八十年代のバブル時代から何度も案が出されてきたのよ。でもその度に、いま保笑夢が怒ったように、學閻生とOB会の反対にあって頓挫してきたのよ】
「当然だ! そんなもの許せるはずがない!」
【でも、今回の校長は本気よ。インセンティブがあるもの】
 そこで果無は再びスクリーンの校長を見上げ、
【廃校は生徒のためとか抜かしていたけど、大嘘よ。この學閻を廃した暁には、校長、あなたはリゾートの名誉職につくことがすでに約束されているわね? 去年の十二月、そういう密約が校長と総理とゼネコンの三者の間で結ばれたのよ】
【な、な……!】
 校長が唇を戦慄かせる。
「そんなっ、さっき大剣寺総理がもっともらしく語っていたことはなんだったのだっ! 貴様たちは、カネのためにこの學閻を売り払う腹づもりだったのか!」
 泣き腫らした顔で、保笑夢が指揮剣を抜刀する。もし目の前に校長と総理がいれば、すぐにでも斬りかかっていそうな剣幕だ。
 校長は、【違うんだ、待ちなさい】弁明しようとするが、果無は止めない。
【去年の暮れに、私はその情報をつかんだわ。でも……みんなに話しても信じてもらえるとは思えなかった。なにしろ私は空論城に閉じこもっているだけの空虚な『 』だったから。それに、本当にみんなが廃校に反対するかもわからなかった】
 果無が、スクリーンから客席へゆっくり向き直る。
【廃校の情報をつかんでから、しばらくぶりに空論城を出てみて……愕然としたわ。悔しいけれど、大人たちの言う通り、いまの學閻は異常だと思った。制服組は志を忘れて私服組を見下し、私服組は向上心を忘れて卑屈になっている……みんな自分のことしか考えてない。こんな状態じゃ、愛校心なんて持てるはずがないわ】
 生徒たちが決まり悪そうにうなだれた。
【下を向かないで! 私が『 』を辞めてホトリ団に入ったのは、みんなに力を合わせてもらいたかったからよ!】
 鼓舞するように語気を強める。
【私が學徒會と対立してきたのは、制服組優遇政策に異論があるからだけじゃないわ。忌憚のない意見をぶつけ合うことで、みんなに目を覚ましてもらいたかったの。みんな、異常な状況に慣れ切ってしまっていた……制服組は制服組のことだけを、私服組は私服組のことだけを考えて、誰も相手のことを考えなくなってしまっていた。でもそれはおかしいわ。私たちは同じ學閻生……仲間なのよ!】
 うなだれた客席が、そろそろと顔を上げる。
 ――徐々に、静かに、講堂が熱を帯びていく。
【不満があるなら、胸襟を開いて話し合うべきなのに……互いによそよそしくするばかりで、喧嘩すら起きない有様だった。だから私は、保笑夢との選挙戦を通じて、みんなに奮い立ってもらいたかったの。とくに、私服組からも見捨てられていた周縁窟の人たちに誇りを取り戻して欲しかった! みんな同じ仲間なのよ! だから一緒に困難に立ち向かえるようになってもらいたかった! だってこの學閻は……私たちの大切な居場所なんだもの……!】
 いつもの彼女からは考えられない、喉の奥から振り絞るような悲痛な声だった。
 保笑夢が呆然と「そうだったのか……」とつぶやき、新たな涙を流した。
 令司は感動するというより、果無の遠大な計画に圧倒されていた。一介の女子高生がいまの展開を見越して、九ヶ月も前から計画を始めていたのだ。――學閻を守るため、『 』という特権を捨ててまで。
(苑崎が悪にこだわるのも、校長という悪を知っていたからだったのか)
(俺が大剣寺熾道という巨悪を憎むように……)
(悪に対抗するには、さらなる悪を用意するしかない)
(お前はそんな孤独な戦いをずっと続けていたのか……)
 そしてそれは、確かな効果を生み出した。
 静まり返っていた講堂の生徒たちが、次々に声を上げ始めたのだ。
 激情だ。
 戦う意思、鬨の声だ。
 \やるぞ!/立ち上がれ!\學閻を守るんだ!/おれたちの居場所を!\
 果無が手にしているマイクに客席の叫び声が飛び込み、何倍にも増幅されて耳を聾さんばかりに高まった。それをイヤホンで聞いている校長は苦しげに顔をしかめて、
【そ、それは誤解だ! 私はあくまでも、學閻が廃校される場合に備えて、事後のことを業者と話し合っていただけだ! 密約などない!】
【しらを切るというのね? ならいいわ、私たちは徹底的に戦う! この學閻を絶対に明け渡さないし、學閻憲法も拒否する! まずは明日から學閻祭をロックアウトするわ! いいわねみんな! 卑怯な大人たちから學閻を守るわよ!】
 果無の呼びかけに、服装の垣根を越えて講堂中が一つになって応えた。
 學閻すべてが、このとき一つとなったのだ。
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