【10】
文字数 14,093文字
【6話 學王】
――その船の操舵室には、映りの悪い小さなテレビが置かれていた。
昼前のニュースが、激しいノイズとともに流れている。
『現在、中部から関東地方にかけて、非常に大きい台風十号が上陸し、暴風雨が吹き荒れています。ここ千葉県の太平洋沖にある學門島も、ご覧の通りまともに立っていられないほど激しい……キャッ! クルマもひっくり返りそうなほど、うわっ……』
船着き場の學門の前で、黄色いレインコートとヘルメットを身につけた女性レポーターが、風に吹き飛ばされそうになりながら必死にカメラに語りかけている。
『予報では、台風十号は非常にゆっくりと移動し、本日三十一日の夜には、この學門島からも完全に去って太平洋上に消える予定です。しかし……しかしっ、このあまりの強さがあと半日も続くかと思うと、この島の生徒たちがとても心配になってき……キャッ!』
ひときわ激しい突風がレポーターの体を反転させ、カメラも激しくぶれさせた。
『し、失礼しました、この激しい台風の中、この島の生徒たちに大変なことが起きています。本来であれば、昨日と今日は文化祭が開かれるはずだったのですが、二日前に突如として校長と大剣寺総理から、今年度限りの閉校が宣言されました。生徒たちはそれに抗議し、文化祭を取り止め、さらには島での仕事もボイコットして、校舎に立てこもっています! 昨日取材した彼らの主張をご覧下さい!』
生放送の画面が切り替わり、前日撮影されたVTRが流される。
――台風が近づきガタガタと窓が鳴る教室で、白いヘルメットにゲバ棒を手にした男子たちが、車座になってカメラを睨んでいる。それぞれのヘルメットには、【學閻死守!】や【廃校ダンコ反対!】といったスローガンが書き殴られている。
「俺たち、この學閻を愛してるんすよ!」「こんな理不尽がまかり通っていいわけねぇ!」「急に閉校にするなんてマジ閉口だぜ!ギャハハハハ!」「つまんねーよお前」「真面目にやれ!」「ガッコ潰れたら制服も私服もねえかんな!」
女子たちも、同様のスローガンの書かれたプラカードを手に息巻いている。
「歌胤會長と苑崎団長がきっと不正を証明してくれるはずです!」「大剣寺総理には幻滅しました。明日来校するそうですが、そこで決着をつけるつもりです!」「ちょっと男子、真面目にやってよ!」
――VTRが切り替わり、調理室が映される。籠城戦に備え、エプロン姿の生徒たちが握り飯を作っている。そこにひときわ人目を引く、金髪の美少女の姿があった。
「私、これまでこの學門島で働いたことなかったんです。あ、モデルの仕事はやっているんですけど、普通のバイトっていうか。でもやってみると大変ですね。これまで私服組の人たちは、こうやって働いて奨学金に回してくれてたんですね」
再び映像が切り替わり、生放送で暴風雨に耐える女性レポーターに戻る。
『このように、生徒たちは現在も校舎に立てこもって抗議を続けています。廃校を取り止めない限り、授業もボイコットするつもりのようです。予定では本日、大剣寺総理が學閻祭に訪れるはずだったのですが、この天候ではさすがに来島は不可能と思われます。台風の動向も気になりますが、これからの生徒たちの動向も』
そこでテレビのスイッチが苛立たしげに切られ、画面が真っ黒に沈黙した。
ずっと操舵室に居座っている男が、しびれを切らしたように叫んだ。
「まだ着かないのか! せっかくの休暇が船の中で消化されてしまう!」
渦中の人物――大剣寺熾道だ。
SPも連れず、一人の船客として漁船に乗り込んでいた。
「台風でヘリが飛ばせぬから船にしたが、これほど手間取るとはな!」
「無茶言うねぃ! こんな台風で出港する方がどうかしてんだ!」
必死に操舵する胡麻塩頭の船長が叫び返した。
「なにをこれしき! 政界にはいつも特大の嵐が吹いておるわ!」
「そんなにヒマだったらよう総理! 釣りでもしたらどうでい! 特大のサメでも釣れるかもしれねぇぜ! ガハハ、いま甲板に出たら海に落っこちて終わりだがな!」
「そうだな、久方ぶりにやるか」
当たり前のように答え、大剣寺総理があっさりと操舵室から出て行った。
「アァッ!? おめえなにやってんだァ!?」
船長が慌てて舵を手放し、窓に張りついた。
大波につぐ大波で、船がアトラクションのようにアップダウンする中、甲板に出た大剣寺総理が、暴風雨をものともせず平然と釣り竿を振るっていた。
†
「手土産だ」
――びしょ濡れで玄関口に立った大剣寺総理が、大きなゴミ袋を掲げた。
「こ、これは? だいぶ重いが……」
出迎えた保笑夢が戸惑いながらそれを受け取り、中を覗く。
「……ぬ? ぴにゃぁぁああああっ!?」
そこには、高さ六十センチ以上もある、サメの尾びれが入っていた。
「ここにくる途中、六メートルほどのホオジロザメを釣った。船長によるとこの辺りのヌシと呼ばれていたものだそうだ。フカヒレにするがよい」
平然と告げ、総理は獄舎の玄関のすのこで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。
総理到着の一報を受け、玄関には保笑夢を筆頭に、多くの生徒たちが駈けつけていた。その中には当然、果無と令司の姿もある。果無はいつもの黒いセーラー服、令司はメイド服ではなく、ポロシャツにチノパンツ姿だ。どちらも『廃校反対!』というプラカードを掲げ、ボイコットの先頭に立っていた。
悠然と先を歩いていく宿敵の背中を見ながら、令司は舌を巻いていた。
(こんな状況で本当にやってくるとは……危険なのは台風だけだけじゃない、生徒たちだって殺気立ってるんだぞ)
普段と変わらぬグレーのスーツに赤いネクタイをきりりと結んだ総理は、SPを一人も付けず、水を滴らせながら廊下を進んでいく。
「なんだ、本当にボイコットしているのか。飾りつけや準備も済んでいるようなのにもったいない。ひさしぶりに學閻祭を娯しめると思ったのだがな」
その背中を目で追っていた令司は、やがてはっと気づいて、保笑夢を顧みた。
「か、會長っ、なにしてるんですか! 総理と決着をつけるんでしょう!」
しかし保笑夢は、玄関のすのこで腰を抜かしていた。よほどゴミ袋に入った尾びれがショックだったらしい。金魚のように口をぱくぱくさせて言葉を失っている。
果無が落とされたゴミ袋を覗き込み、
「さすがは大剣寺熾道……といったところね。この尾びれの大きさときたらどう? 味だけならアオザメのほうが上と言われているけど、この威風堂々たるサメの王者のしっぽは、まさに最強の総理大臣の威権をありのままに示しているわ」
「……そうか?」
呆れる令司の足下にいつの間にかベリアルがやってきて、ふんふんと尾びれを嗅いだ。
†
大剣寺総理は懐かしそうに獄舎を一巡したあと、學徒會室に入った。
「ここも懐かしい……この赤い絨毯も、この執務机も……よくここで政務を執ったものだ。ここが私の政治の出発点なのだ」
「それなのに、潰そうとするんですね。母さんとの思い出の詰まったこの學閻を」
令司がその背中に冷たく告げた。
學徒會室には他に、セーラー服の果無と、竹籠を背負った保笑夢がいる。竹籠には登場シーンで使う花束ではなく、スローガンの書かれたプラカードが詰まっている。
「思い出、か……」
総理がふっと皮肉っぽく笑い、
「そんなものより、これから得る利益の方がはるかに重要だ」
「なっ、あなたは、本当に……!」
ずっと握りしめていたハンカチを開き、父の横顔に突きつける。
「母はずっとあなたを愛していた! 触れることのできないあなたを覇王樹 に見立てて、ずっと影からあなたを応援していた! なのに、なのに……!」
「もう終わったことなのだ、なにもかも」
大剣寺総理は冷たく告げ、令司の腕を押し退けて、生徒代表の保笑夢と向き合う。
「獄舎を回り、君たちの意思は十分に確認した。學閻憲法を受け入れるつもりはなく、廃校にも抵抗するのだな?」
「いかにも! 卑怯な大人や、公権力に屈するなど學閻生の名折れ! われ〳〵は断乎最後まで戦い抜く所存である!」
「ほう。これは大きく出たものだ。しかし、そんな手前勝手が通るとでも思っているのか? 学校という場所は確かに生徒のためにあるが、この學閻という施設は、あくまでも大人が金を出し、大人によって運営されているものだ。所有権は君たちにない。子供がいくら騒いだところで、學閻の売却の決定は覆らない」
余裕を崩さない総理に、保笑夢は怒りに肩を震わせながら、
「ぬぅう……! ゼネコンめらと癒着し、母校を売り払って私腹を肥やさんとする売校奴 が若旦那顔 で喋々しおって……! この場で成敗してくれる!」
保笑夢は背中からプラカードを生やした珍妙な恰好で、指揮剣に手をかける。
――そこへ、横合いから手が伸びた。
「待って。この男を斬るのはまだ早いわ」
果無だった。
「大剣寺総理。こちらには、あなたと校長とゼネコンが癒着している確かな証拠があるの。それをマスコミに公表したらどうなるかしら? せっかく前の参議院選挙でも勝って、あと二年も大きな選挙がなく過ごせるのだから、つまらないスキャンダルは起こさない方が賢明ではないかしら?」
令司はそれを聞いて、よしとうなずいた。
(そうだ、こっちにはまだ苑崎のつかんだ奥の手がある。それで取引すれば)
そこでふと、引っかかった。
(苑崎は一体、どこでこの癒着の証拠をつかんだんだ? 一体誰から?)
そう思っている間にも、二人の会話は進んでいく。
「フフッ、癒着の証拠、か。そんなものが本当にあるのなら、確かに少々困ったことになるやもしれぬ。……が、証拠とは開示されなければ証拠にはならないものだ」
大剣寺総理が不敵に笑いかけると、示し合わせたように果無も笑い、
「そうね。表沙汰にならなかった証拠など、歴史上いくらでもあるでしょうね」
そう言って、用意していたA4サイズの封筒を眼前に掲げ、
「この中はまだ私しか見てないわ。これさえ処分すればあなたの政治生命も安泰というわけ。でも、そちらの安泰を保証するからには、こちらの安泰も保証してもらわなければね?」
「生粋の政治屋の私と取引するつもりか」
「生粋の政治屋であればこそ、損得の計算には聡いはずよ。リゾート開発のリベートは多額でしょうけど、政治生命には替えられないんじゃないかしら?」
「口の回るお嬢さんだ。……校長先生は?」
「あなたに一任するそうよ。自分はこの件は知らないって。ここまであけすけな責任逃れの態度を取られると、不潔を通り越して雑菌と呼びたくなるわ」
「フッ……そうだな」
大剣寺総理が仕方なさそうに笑った。
「あの人は私の先輩に当たるが……ああいう手合いを見ていると、學閻というものが輝きを失ったのは、なにも最近のことではなかったという気がしてくるな」
「ええ。総理の在学中からそうだったはずよ。完璧な組織なんて、理想の中にしか存在しないもの。だからあなたは學王となって変えようとしたんでしょう?」
「然り。人間が二人以上集まれば、そこに力関係が生まれる。政治が必要になってくるのだ。それは学校でも国でも同じこと。理想を追求したくば、自ら立ち上がって変えるしかない。君もそう思ったのだろう?」
「そうよ……私はあなたのように〝悪〟を実行してみせるわ、大剣寺総理」
果無は手にした封筒を、大剣寺総理の胸に突き出す。
「……ふん」
大剣寺総理が、無愛想にそれを受け取ろうとした、そのとき――
ノックもなしに、いきなり學徒會室のドアが開かれた。
「會長! 見てますか!?」
部屋に飛び込んできたのは、ミハルだ。
「な、なんだ御御御、いま余は総理と会談を」
「そんなことはあとです! みんなも窓から外を見て! 風車が、岬の風車が!」
「なにっ!?」
真っ先に窓に取りついたのは、大剣寺総理だった。
他の三人も窓から岬の方角を見る。
荒れ狂う風雨を受け、二台の風車は猛烈な勢いで三枚羽根 を回していた。
「ば、バカなっ! 台風対策はどうした!?」
大剣寺総理が叫んだ。
「風車は台風に弱い! 強風が続けば過剰回転を起こし、羽根やベアリングが壊れてしまう! 台風が来たときは対策を講じるのが常識だろう! なにをしていた!」
「い、いまはボイコット中! ……で、ある……」
総理の剣幕に、さしもの保笑夢も語尾がしおしおとなってしまった。
「普段あれは私服組が管理してるんだ。だから制服組のぼくたちは知らなくって」
令司の弁明を無視し、大剣寺総理が駈け出した。
學徒會室を飛び出していく。
保笑夢が「喚犬手 !」と背中の竹籠を外し、腰の指揮剣を押さえて後を追う。
令司と果無も目配せし合い、それに続いた。
†
総理を追って、保笑夢、令司、果無の三人が草原の丘を登っていく。ミハルだけは、このことを他の生徒たちに伝えに行った。
総理はすでに丘を登り切り、岬の風車を見上げている。
三人もあと少しで岬に到着しそうだったが、
「あっ、あれはっ!」
保笑夢が息せき切って、丘の途中にある崖の方を指差した。
崖に沿って設けられた柵に、薄汚れた小さい布が引っかかっていた。
暴風雨の中、令司が目をこすってよく見てみると――
それは、白地に水色の横縞 柄の入った布地だった。
「ま、まさかあれって」
感極まったように保笑夢が「いま行くぞっ!」と柵へ走っていく。
間違いない、あれはパンツだ。紐パンだ。令司が転校した初日に、保笑夢がどこぞに落としてしまったという例のあれだ。
どうやらこの台風で飛ばされて、この柵に不時着したらしい。
「おゝっ、かわいそうに、なんと変わり果てた姿にっ……! いま助けてやる!」
そう言って、保笑夢が柵に引っかかったパンツに手を伸ばした瞬間。
――ずるり、とその足下が崩れた。
地面が水を吸って、すっかりぐしょぐしょになってしまっていたのだ。
「えっ!?」
という短い悲鳴とともに、保笑夢の体が崩れ落ち、柵の下の隙間へ吸い込まれていく。
その先に待っているのは――断崖だ。
世界から音が消えた。
令司は無意識になにか叫びながら、手を差し伸ばしていた。
柵の下に落ちきる直前で、保笑夢の左手をつかんだ。
しかし片手だけでは足りない。支えきれない。
そこへ、同じく駈けつけた果無が、残った保笑夢の右手をつかんだ。
――消えていた音が世界に戻る。
雨音。風音。崖下に波濤の打ちつける音。保笑夢の体が地面とこすれる音。
――悲鳴。
「わっ、わあゝゝゝゝゝっ! 落ち、ちるっ、落ちりゅっ!」
保笑夢は二人に手をつかまれ、万歳する状態でかろうじて地上に留まっていた。
へその辺りが崖の縁に引っかかり、下半身は崖から垂れ下がっている。
「助けっ、くれっ、わあっ!」
「わかってる、わかってるから暴れないで!」
「會長っ、もっと体を前に出せませんか!? くそっ、なんで動かない!? どこか引っかかってるのかっ!?」
二人は尻餅をつき、綱引きのように保笑夢の手を引っぱっているが、一向に動かせない。保笑夢が激しく足をばたつかせたせいで、はいていたパンツの紐が緩み、崖下の海へひらひらとパンツが落下していった。
「うわああっ、また余のパンツがっ……!」
「パンツと命、どっちが大事なのよ!」
「くっ……雨で手が滑って……くそ! どうすれば……!」
――そこへ、背後から泥を踏みしめる音が近づいてきた。
「お困りのようだな」
大剣寺総理の声だった。
一度は丘の上の岬まで行ったものの、こちらに気づいて戻ってきたらしい。
「よ、よかった、手を貸してくれ!」
令司は助けを求めたが――
「独立不羈が君たちの信念ではなかったのか」
返ってきた言葉は、冷淡なものだった。
「ここで私の手を借りるということは、独立の精神に反するのではないか? 普段は大人の手を払いのけるくせに、困ったときは臆面もなく助けを求めるというのか」
「な、なに言ってる! ふざけてる場合じゃないだろう!」
「私は筋を通せと言っているのだ。助けぬとは言っていない。ただ、それを大人に求めるからには、子供の信念を捨てる覚悟が必要だと言っている」
「はっきり言え! なにが望みだ!?」
「どうやら君たちが彼女を引き上げられないのは、彼女の腰の剣が崖に引っかかっているせいのようだ。私の手なら、その指揮剣を外して上げられるが?」
保笑夢が「なんだと!?」と叫ぶ。
「おい、それってつまり」
指揮剣を放棄し、學閻憲法を受諾することを意味する。
「……できぬっ! そのようなこと……みんなへの裏切りだっ!」
保笑夢が恐怖で涙目になりながら、いやいやと首を振る。
「この鬼畜が! 弱みにつけこみやがって!」
「では三人の自主性を重んじ、私は成り行きを見守ることにしよう」
「待って!」果無が苦しそうに首を振り向けた。「……お願い。助けてあげて」
令司が驚いて「苑崎」と呼びかけるのと同時に、保笑夢が大声で「ハカナッ!」と呼ばわった。「駄目だ! 余は許さぬ! 生徒を裏切るぐらいなら余は」
「あなたも生徒よ!」負けじと果無が叫ぶ。「生徒あっての學閻でしょう! あなたを助けるためなら、憲法を呑むことぐらいなんでもないわ!」
「ハ、ハカナぁ……」
保笑夢の顔が感激にぐしゃぐしゃになる。
――そのやりとりを見て令司はかえって冷静になり、頭を働かせることができた。
(ここで學閻憲法を呑んでしまったら、もう俺が學王になるチャンスはなくなる)
(だが、このまま憲法を突っぱねて、歌胤を救えずに死なせたとしたら……)
(歌胤は矜持を抱いたまま死んだ、殉教者になる)
(そして俺と苑崎は、その遺志を受け継ぐことになり……)
(學閻生からの支持は、圧倒的に高まることになる)
(なにより、歌胤を見捨てたこの男の命運は完全に尽きる! 総理大臣どころか、政治家としても一巻の終わりだ! 復讐が叶うんだ!)
(母さんだって、きっとそれを望んで……)
そのとき――
引き寄せられるように、令司の視線が丘の上の岬に向かった。
そこには、数多のサボテンが。
覇王樹という漢字をあてられるサボテンが、あった。
吹きすさぶ暴風雨に負けず、ぴんと前を向くように、それらは岬から海を望んでいた。
「…………」
それが目に入った瞬間、令司の脳髄の計略図が、すべて漂白された。
代わりに浮かんでくるのは、刺々しいサボテンとはほど遠い、女性の乳房だった。
赤ん坊のころに無心でしゃぶりついた、母のやさしい胸だった。
――静かに、令司の心は決まった。
「頼む、父さん」清虚な心境で振り返る。「助けたいんだ」
「……わかった」
令司の目を見て、総理が手を伸ばした。
保笑夢はもう、静かに泣くだけで反論も抵抗もしなかった。
腰にあった指揮剣が総理によって外され、海へと落とされる。
引っかかるものがなくなり、すぐに保笑夢は崖の上へと引っぱり上げられた。
しばらく三人は折り重なるように寝転がり、荒れ狂った呼吸を天に放っていた。
実際にはほんの三、四分の救出劇だったが、永遠にも感じられる長い時間だった。
それは、學閻の一つの歴史が終わるのにふさわしい体感時間だったかもしれない。
「余は……どんな顔でみんなに会えばいいのだ……」
助けられた保笑夢が、果無の畳まれた膝へ泣き伏した。
果無がその頭を、母親のように慈しみのある手つきで撫でている。令司はまた母親のことを思い出しそうになり、気恥ずかしくなって顔を逸らした。
「なにを終わった気でいるのだ」
大剣寺総理が不機嫌そうに三人を見下ろした。
「學閻の象徴はいまも危機に瀕しているのだぞ」
その言葉通り、丘の上の二台の風車は軋みを上げて過剰な回転を続けている。このままでは早晩、修復不可能なまでに壊れてしまうことは自明だった。
「あれを設計したのはあんただろう! 止める機構はないのか!」
「あの《ドン・キホーテ》は、極めて原始的な風車だ。台風対策としては、事前に三枚羽根 を外しておくことぐらいしかない。ここまでスピードが上がってしまえば、もう通常のやりかたでは羽根を止めることはできぬ」
「く……見てるしかないのかよ!」
そのとき、丘の草原の方から、大勢の生徒が風車へ向かって行列を作って行くのが見えた。先頭にはミハルがいる。みんなを呼びに行って連れてきたのだ。
令司と大剣寺総理は、それ以上言葉を交わさず風車へ向かった。
果無と保笑夢も、肩を支え合って後ろからついてくる。
「な、なによこれ……」
風車の下で、ミハルが慄くようにつぶやいた。その声は、すぐ間近でなければほとんど聞こえない。なにしろ五メートル頭上では、猛烈な勢いで風車の羽根が回転して、唸り声とも喘ぎ声ともつかない大声を発しているからだ。
風雨が羽根に当たり、ピッ、ピッ、という鋭い飛沫となって地上へ降り注いでいる。それに当たるだけで皮膚が切れそうだ。
集まった生徒たちの間から、「學閻の象徴が……」と絶望の声が漏れる。
「歌胤會長……一体どうしたら……」
ミハルが、泥だらけになっている保笑夢を振り返った。
「あ、う……」
しかし保笑夢は臆したように、果無の背中に身を隠してしまった。いや、隠したいのは体ではない。腰にあるべき指揮剣がないことを隠したいのだ。つい先ほど學閻憲法を呑んでしまったことを、みんなに切り出せないでいるのだ。
「苑崎先輩、この風車のメンテをしてる人って……」
ミハルの問いに、ハカナが残念そうに首を横に振った。
「……私服組の生徒が担当してるはずだけど……」
ミハルが生徒たちを見回した。
「この中に風車担当の人はいないっ? 風車を止められる方法を知ってたら教えて欲しいの! このままじゃ本当に風車は……風車が……!」
岬には続々と生徒が駈けつけてきていた。制服組と私服組を合わせ、すでにその数は百人以上にも膨れ上がっている。彼らが顔を落としてささやき合う。
\……おい、誰だよ担当は/なんで対策を打たなかったんだ\台風が来るってわかってたのに/お、おれじゃないぞ\私服組の連中だろ/
――それを聞きながら、令司は拳を震わせた。
(これだ。これが大衆の正体だ)
(自分は悪くないという顔をして、誰かに責任を押しつけてばかりいる)
(俺や母さんを迫害した連中とまったく同じだ!)
そのとき、群衆の中から、二人の私服組の男子が飛び出してきた。
「すみませんっ……!」「ぼくたちです!」
ミハルの前に進み出て、土下座せんばかりに頭を下げる。
群衆の冷たい視線が二人の背中に注がれる。
「ま、待って、あなたたちを責めたいわけじゃないの。この風車を止める方法を聞きたいだけなの。なにか方法はないの?」
二人が顔を見合わせて、苦しげにうつむく。
「……対策はありません。これだけ回転が進んでしまうと……」
「台風が来る前に、他の仲間と一緒に羽根を外しておくべきだったんです。でも、みんながサボタージュしてるから、自分たちもいいかなって……」
「なにも、ないの……本当に?」
呆然とミハルが聞き返す。二人はうつむいたまま、答えなかった。
再び群衆から非難混じりの声が溢れた。すぐ後ろの覇王樹園のサボテンのように、それらの声にはどれも棘がある。自分は決して傷つかない、外へ向けた棘だ。自分を守るためなら他人を傷つけても一向に構わないという冷酷な態度だ。
名乗り出た二人が、そんな群衆に「すみません、ぼくたちが悪いんです!」と必死に頭を下げる。しかし群衆は、誰もその謝罪に応えようとしない。
(この……愚民どもめ!)
(こうやっていつも他人に責任を押しつけて!)
(俺が倒すべきクズどもは、まさにこいつらなんだ……!)
「……もう勝手に、滅べ」
令司は口の中でつぶやき、踵を返そうとした。
――が、後ろから肩をつかまれた。
果無だった。
無表情で令司を見据える。
「……離せよ。もう俺はこいつらなんかと……」
そのとき――
「違う……悪いのは二人だけじゃない! おれたちもだ!」
群衆の一人が叫んだ。制服組の男子だった。
すぐに私服組の女子が呼応する。
「そうよ! わたしたちだってこの風車のこと考えてなかったもん! この二人だけを責められないわ! そうでしょ!?」
あとは早かった。
「そうだよ……」「ぼくたちがこうしたんだ」「責任はみんなにあるんだ!」
制服組、私服組問わず、自責の言葉で岬は溢れかえった。
その熱気はすさまじかった。つい先ほどまで、名乗り出た二人を難詰していた言葉とはまったく比べものにならない、身の入った言葉だった。
――令司は呆気にとられながら、その光景を見つめていた。
「……水掛け祭りのときに言ったでしょ? 確執を昇華させれば、左右の垣根を越えた新しい状況ができるって」
令司の肩に手を置いたまま、果無が言った。
「それはホトリ団を支持するものだけじゃないわ。彼ら自身のためのものよ。制服も私服もない、學閻生同士で助け合える新しい状況……」
「…………」
令司が呆然と立ち尽くしていると、視界の端で誰かが動いた。
「みんなっ……すまぬ!」
保笑夢だった。
涙声で叫びながら、地面に両手をついた。
「余は……あろうことか指揮剣を失い、學閻憲法も受け入れてしまったのだっ!」
突然の告白に、生徒たちが「ええっ!?」と裏声になる。
保笑夢は涙ながらに、先ほど起きたことを説明した。
「すべては余の不徳の致すところだ……」
額を土にこすりつけて泣く保笑夢に対し、雑言を投げる者など一人もいなかった。かといって無責任に励ます者もいない。みな、保笑夢に同調していた。學閻の自主独立が憲法で鎖されてしまったことを歎き、自らの無力を恨み、ある者は嗚咽した。
その光景には、令司も思わず込み上げてくるものがあった。
しかしその愁歎場をぶち壊すように、果無があっけらかんと言い放った。
「平気よ、またひっくり返せばいいだけじゃない」
その場に集まった一同が、ぽかんとした顔で果無を見る。
「『 』だったこの私が、こういう事態に備えていなかったと思う?」
果無がニヤリと笑うと、保笑夢がぴょこんとバネ仕掛けのように立ち上がった。
「あ、あるのかハカナ!? 逆転の手立てが!」
「本当ですか!」ミハルも声を弾ませる。
「もちろん。でも、いまはこの人がいるから教えられないわ」
挑むような視線を大剣寺総理に送る。
「ほう、學王と呼ばれたこの私を出し抜く手がある、と?」
「ええ。知恵比べで負けたことがないの」
「ふん、知恵さえあれば万事うまくいくと考えているあたり、まだまだ青い」
「世渡りのことを言っているのかしら」
「違う。覇業を達成するには、力が必要だと言っているのだ。たとえば、いま目の前で暴走しているこの風車を、お前はどう止める? 令司」
急に話を振られ、令司は動揺した。
思わず悪態で返したくなったが、いまは百人以上の目がある。
「こんな状態じゃ止める方法がないって、さっきあなたも言ってたじゃないですか」
「通常のやりかたでは無理といったのだ」大剣寺総理が果無たちを見渡し、「そっちはどうだ? 風車を止める方法が考えつくかね」
「……無理ね」愛想なく果無が答えた。
ミハルも無言で首を横に振り、保笑夢も答えない。
「それがお前たちの限界だ」
大剣寺総理が、スーツの上着を脱いで投げ捨てた。続いてネクタイに指をかけて外しながら、ずんずんと風車の一台へ向かっていく。その方向に連なっていた人垣が、おろおろと割れていく。誰も彼も、総理の言葉の意味をつかみあぐねて戸惑っている。
「総理大臣……否、學王たるもの、風車の一つも止められなくてどうする!」
ボタンを引きちぎらんばかりにワイシャツを脱ぎ去る。
さらしを腹に巻いただけの生身が風雨に晒される。
あっと一同が声を上げた。
四十五歳とは思えぬ隆々たる上半身に――数多の傷痕があったからだ。
刃物で傷つけられたとおぼしきものや、拷問の痕のように皮膚が引き攣っている個所、さらには銃創らしきものまである。
「そ、その傷は……?」
令司の問いかけに、総理が背中で答える。
「暗殺されかかったときの傷だ」
生徒たちが「暗殺っ!?」と騒ぎ立った。
「大したことではない。権力の座につく者、政敵や他国の殺し屋から十回や二十回命を狙われて当然だ。自分の命だけではない。敵はこちらの隙を見つけて、様々な攻撃を仕掛けてくる。周りを巻き込まないためには、決して隙を作らないことだ」
はっと令司は目を見張った。
(ま、まさか……俺と母さんを遠ざけたのは……)
(いや、そんなはずない! この鬼畜にそんな……!)
思わず覇王樹園を振り返った。
――棘で人を遠ざける、母の愛したサボテンを。
「令司!」
「えっ」
顔を戻して見ると、総理が腹のさらしに手をやっている。
そこには木鞘に収められた匕首が挟まれていた。
「邪魔になるゆえ、持っていろ」
匕首を引き抜き、無造作にこちらへ放り投げた。
令司は跳ねる鯉を抱くように、おっかなびっくりそれを受け取る。
「ご、護身用ですか」
「自決用だ」
生徒たちが「自決っ!?」と声を上げる。
「総理として当然の責務だ。もし他国のエージェントに拉致され、日本の国益を損なうような脅しをかけられたらどうする。売国奴に成り下がるぐらいなら潔く自決すべし!」
その気魄に、誰もが絶句した。
「どうせお前は、他人を蹴落とすことしか考えていないのだろう。さしずめ、さかしらな計略だけで學王にのし上がろうとしているに違いない……甘い考えだ」
誰にともなく告げ、総理が風車の下に進み出る。
五メートル頭上を、恐ろしい音と身ぶりで三枚羽根 が過ぎていく。
「……久しいな、ドン・キホーテ。我が前に立ちはだかる巨人よ」
その光景を見守る生徒たちに、同時にある予感が起きた。
まさかという悪い予感だ。
――次の瞬間、それは的中する。
信じられないことが起きた。
「知るのだ令司! 身を抛たなくば人心はついてこぬと!」
総理が駈けた。
風車の白い壁めがけて――
跳ぶ。
「とうっ!!」
壁を蹴り、三角飛びの要領でさらに上空へ。
生徒たちの目にはその光景が、ペガサスが羽ばたくような美しいものに映った。
「目に焼きつけよ! 我こそが學閻の王な」
台詞の途中で、ガンッと激音が轟いた。
総理の体が三枚羽根 に衝突したのだ。
さながら断頭台 に首を差し出すような、圧倒的なまでの自殺行為――
だが総理は死ななかった。
跳ね飛ばされることなく、三枚羽根 のうちの一枚に腹ばいに抱きついたのだ。
羽根と一体となって、扇風機のように総理の体が回転する。
「クォォォォォォォォオオオオオオオオオォォォォォォォォォオオオオオオオオオッ!!」
総理の雄叫びが高音と低音を行き来し、壮絶な響きとなる。
回転によるドップラー効果で、音程が狂って聞こえるのだ。
残像効果によってその体が幾重にも増した。
さながら曼荼羅のごとし――とても現実の光景とは思えなかった。
地上の生徒たちは、唖然と風車を見上げるばかりだ。
令司も、預けられた匕首を胸に、あんぐりと口を開け放していた。
「ぐぉぉぉぉお……!」
総理の狂った音程が、徐々に通常へ戻っていく。――ドップラー効果が切れてきたのだ。それは三枚羽根 の回転が弱まっていることを意味する。
\すごいっ!/風車が弱まってるぞ!\なんて力なの!/
しかし台風の力は半端ではない。数個分の核爆弾に匹敵するエネルギーを持つのだ。
強風が一層強く吹きつけ、またヒュンヒュンと三枚羽根 の速度が増していく。
「ぐぬぅぅうっ!」
何重にもなった総理の残像の中に、苦悶の表情が浮き上がってくるようだった。
\がんばれっ!/総理!\負けないで!/俺たちの風車を!\
生徒が一丸となって声援を送る。
――令司も気づくと、声を張り上げていた。
なにを叫んでいるのか、自分でもわからない。しかし風車と戦っているその姿を見ていると、胸に熱いものが込み上げてきて止まらなかった。
それが自分の父だからではない。総理だからでもない。一人の男の、命を張ってなにかを守ろうと奮闘している姿に、いても立ってもいられなくなったのだ。
台風はさらに激しさを増し、地上にいる者たちを巨大な箒で掃くように吹き飛ばそうとしてくる。小柄な保笑夢なぞ、スカートを手で押さえながら、必死に果無の腰にしがみついている。その果無も、黒髪を振り乱して必死に総理へ声援を送っていた。
勢いを増した風車は、そのまま永遠に回転を続けるかに思われた。
ところが、無数にあった総理の残像が、少しずつ数を減らしていった。
\まさか!/回転が弱まってる!?\まだ風は止んでないのに!?/
「端よ! 羽根の端に移動してるんだわ!」
ミハルが指差しながら叫んだ。羽根の回転が弱まり、残像が減ったおかげで、総理の状態がはっきり視認できるようになっていた。
三枚羽根 の中ほどにつかまっていた総理が、端に向けてずりずりと這い寄っていた。天秤の重りと同じで、端にいくほど中心にある回転軸への負荷が増すのだ。
\さすが元學王!/てこの原理もばっちりだぜ!\てこじゃないけどな!/
生徒たちがホオジロザメの尾びれを王冠のように掲げ、やんややんやと喝采をあげる。その声援に押さえ込まれるように、三枚羽根 の回転は徐々に弱まっていった。
そしてついに――
「……見たか後輩たちよ」
完全に停止した三枚羽根 から飛び降り、足下をふらつかせながら総理は、
「これが學王というものである」
――不敵に笑ってみせたのだった。
狂乱じみた生徒たちの喚声が、火竜のごとく雨空を突き抜けた。
†
――その船の操舵室には、映りの悪い小さなテレビが置かれていた。
昼前のニュースが、激しいノイズとともに流れている。
『現在、中部から関東地方にかけて、非常に大きい台風十号が上陸し、暴風雨が吹き荒れています。ここ千葉県の太平洋沖にある學門島も、ご覧の通りまともに立っていられないほど激しい……キャッ! クルマもひっくり返りそうなほど、うわっ……』
船着き場の學門の前で、黄色いレインコートとヘルメットを身につけた女性レポーターが、風に吹き飛ばされそうになりながら必死にカメラに語りかけている。
『予報では、台風十号は非常にゆっくりと移動し、本日三十一日の夜には、この學門島からも完全に去って太平洋上に消える予定です。しかし……しかしっ、このあまりの強さがあと半日も続くかと思うと、この島の生徒たちがとても心配になってき……キャッ!』
ひときわ激しい突風がレポーターの体を反転させ、カメラも激しくぶれさせた。
『し、失礼しました、この激しい台風の中、この島の生徒たちに大変なことが起きています。本来であれば、昨日と今日は文化祭が開かれるはずだったのですが、二日前に突如として校長と大剣寺総理から、今年度限りの閉校が宣言されました。生徒たちはそれに抗議し、文化祭を取り止め、さらには島での仕事もボイコットして、校舎に立てこもっています! 昨日取材した彼らの主張をご覧下さい!』
生放送の画面が切り替わり、前日撮影されたVTRが流される。
――台風が近づきガタガタと窓が鳴る教室で、白いヘルメットにゲバ棒を手にした男子たちが、車座になってカメラを睨んでいる。それぞれのヘルメットには、【學閻死守!】や【廃校ダンコ反対!】といったスローガンが書き殴られている。
「俺たち、この學閻を愛してるんすよ!」「こんな理不尽がまかり通っていいわけねぇ!」「急に閉校にするなんてマジ閉口だぜ!ギャハハハハ!」「つまんねーよお前」「真面目にやれ!」「ガッコ潰れたら制服も私服もねえかんな!」
女子たちも、同様のスローガンの書かれたプラカードを手に息巻いている。
「歌胤會長と苑崎団長がきっと不正を証明してくれるはずです!」「大剣寺総理には幻滅しました。明日来校するそうですが、そこで決着をつけるつもりです!」「ちょっと男子、真面目にやってよ!」
――VTRが切り替わり、調理室が映される。籠城戦に備え、エプロン姿の生徒たちが握り飯を作っている。そこにひときわ人目を引く、金髪の美少女の姿があった。
「私、これまでこの學門島で働いたことなかったんです。あ、モデルの仕事はやっているんですけど、普通のバイトっていうか。でもやってみると大変ですね。これまで私服組の人たちは、こうやって働いて奨学金に回してくれてたんですね」
再び映像が切り替わり、生放送で暴風雨に耐える女性レポーターに戻る。
『このように、生徒たちは現在も校舎に立てこもって抗議を続けています。廃校を取り止めない限り、授業もボイコットするつもりのようです。予定では本日、大剣寺総理が學閻祭に訪れるはずだったのですが、この天候ではさすがに来島は不可能と思われます。台風の動向も気になりますが、これからの生徒たちの動向も』
そこでテレビのスイッチが苛立たしげに切られ、画面が真っ黒に沈黙した。
ずっと操舵室に居座っている男が、しびれを切らしたように叫んだ。
「まだ着かないのか! せっかくの休暇が船の中で消化されてしまう!」
渦中の人物――大剣寺熾道だ。
SPも連れず、一人の船客として漁船に乗り込んでいた。
「台風でヘリが飛ばせぬから船にしたが、これほど手間取るとはな!」
「無茶言うねぃ! こんな台風で出港する方がどうかしてんだ!」
必死に操舵する胡麻塩頭の船長が叫び返した。
「なにをこれしき! 政界にはいつも特大の嵐が吹いておるわ!」
「そんなにヒマだったらよう総理! 釣りでもしたらどうでい! 特大のサメでも釣れるかもしれねぇぜ! ガハハ、いま甲板に出たら海に落っこちて終わりだがな!」
「そうだな、久方ぶりにやるか」
当たり前のように答え、大剣寺総理があっさりと操舵室から出て行った。
「アァッ!? おめえなにやってんだァ!?」
船長が慌てて舵を手放し、窓に張りついた。
大波につぐ大波で、船がアトラクションのようにアップダウンする中、甲板に出た大剣寺総理が、暴風雨をものともせず平然と釣り竿を振るっていた。
†
「手土産だ」
――びしょ濡れで玄関口に立った大剣寺総理が、大きなゴミ袋を掲げた。
「こ、これは? だいぶ重いが……」
出迎えた保笑夢が戸惑いながらそれを受け取り、中を覗く。
「……ぬ? ぴにゃぁぁああああっ!?」
そこには、高さ六十センチ以上もある、サメの尾びれが入っていた。
「ここにくる途中、六メートルほどのホオジロザメを釣った。船長によるとこの辺りのヌシと呼ばれていたものだそうだ。フカヒレにするがよい」
平然と告げ、総理は獄舎の玄関のすのこで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。
総理到着の一報を受け、玄関には保笑夢を筆頭に、多くの生徒たちが駈けつけていた。その中には当然、果無と令司の姿もある。果無はいつもの黒いセーラー服、令司はメイド服ではなく、ポロシャツにチノパンツ姿だ。どちらも『廃校反対!』というプラカードを掲げ、ボイコットの先頭に立っていた。
悠然と先を歩いていく宿敵の背中を見ながら、令司は舌を巻いていた。
(こんな状況で本当にやってくるとは……危険なのは台風だけだけじゃない、生徒たちだって殺気立ってるんだぞ)
普段と変わらぬグレーのスーツに赤いネクタイをきりりと結んだ総理は、SPを一人も付けず、水を滴らせながら廊下を進んでいく。
「なんだ、本当にボイコットしているのか。飾りつけや準備も済んでいるようなのにもったいない。ひさしぶりに學閻祭を娯しめると思ったのだがな」
その背中を目で追っていた令司は、やがてはっと気づいて、保笑夢を顧みた。
「か、會長っ、なにしてるんですか! 総理と決着をつけるんでしょう!」
しかし保笑夢は、玄関のすのこで腰を抜かしていた。よほどゴミ袋に入った尾びれがショックだったらしい。金魚のように口をぱくぱくさせて言葉を失っている。
果無が落とされたゴミ袋を覗き込み、
「さすがは大剣寺熾道……といったところね。この尾びれの大きさときたらどう? 味だけならアオザメのほうが上と言われているけど、この威風堂々たるサメの王者のしっぽは、まさに最強の総理大臣の威権をありのままに示しているわ」
「……そうか?」
呆れる令司の足下にいつの間にかベリアルがやってきて、ふんふんと尾びれを嗅いだ。
†
大剣寺総理は懐かしそうに獄舎を一巡したあと、學徒會室に入った。
「ここも懐かしい……この赤い絨毯も、この執務机も……よくここで政務を執ったものだ。ここが私の政治の出発点なのだ」
「それなのに、潰そうとするんですね。母さんとの思い出の詰まったこの學閻を」
令司がその背中に冷たく告げた。
學徒會室には他に、セーラー服の果無と、竹籠を背負った保笑夢がいる。竹籠には登場シーンで使う花束ではなく、スローガンの書かれたプラカードが詰まっている。
「思い出、か……」
総理がふっと皮肉っぽく笑い、
「そんなものより、これから得る利益の方がはるかに重要だ」
「なっ、あなたは、本当に……!」
ずっと握りしめていたハンカチを開き、父の横顔に突きつける。
「母はずっとあなたを愛していた! 触れることのできないあなたを
「もう終わったことなのだ、なにもかも」
大剣寺総理は冷たく告げ、令司の腕を押し退けて、生徒代表の保笑夢と向き合う。
「獄舎を回り、君たちの意思は十分に確認した。學閻憲法を受け入れるつもりはなく、廃校にも抵抗するのだな?」
「いかにも! 卑怯な大人や、公権力に屈するなど學閻生の名折れ! われ〳〵は断乎最後まで戦い抜く所存である!」
「ほう。これは大きく出たものだ。しかし、そんな手前勝手が通るとでも思っているのか? 学校という場所は確かに生徒のためにあるが、この學閻という施設は、あくまでも大人が金を出し、大人によって運営されているものだ。所有権は君たちにない。子供がいくら騒いだところで、學閻の売却の決定は覆らない」
余裕を崩さない総理に、保笑夢は怒りに肩を震わせながら、
「ぬぅう……! ゼネコンめらと癒着し、母校を売り払って私腹を肥やさんとする
保笑夢は背中からプラカードを生やした珍妙な恰好で、指揮剣に手をかける。
――そこへ、横合いから手が伸びた。
「待って。この男を斬るのはまだ早いわ」
果無だった。
「大剣寺総理。こちらには、あなたと校長とゼネコンが癒着している確かな証拠があるの。それをマスコミに公表したらどうなるかしら? せっかく前の参議院選挙でも勝って、あと二年も大きな選挙がなく過ごせるのだから、つまらないスキャンダルは起こさない方が賢明ではないかしら?」
令司はそれを聞いて、よしとうなずいた。
(そうだ、こっちにはまだ苑崎のつかんだ奥の手がある。それで取引すれば)
そこでふと、引っかかった。
(苑崎は一体、どこでこの癒着の証拠をつかんだんだ? 一体誰から?)
そう思っている間にも、二人の会話は進んでいく。
「フフッ、癒着の証拠、か。そんなものが本当にあるのなら、確かに少々困ったことになるやもしれぬ。……が、証拠とは開示されなければ証拠にはならないものだ」
大剣寺総理が不敵に笑いかけると、示し合わせたように果無も笑い、
「そうね。表沙汰にならなかった証拠など、歴史上いくらでもあるでしょうね」
そう言って、用意していたA4サイズの封筒を眼前に掲げ、
「この中はまだ私しか見てないわ。これさえ処分すればあなたの政治生命も安泰というわけ。でも、そちらの安泰を保証するからには、こちらの安泰も保証してもらわなければね?」
「生粋の政治屋の私と取引するつもりか」
「生粋の政治屋であればこそ、損得の計算には聡いはずよ。リゾート開発のリベートは多額でしょうけど、政治生命には替えられないんじゃないかしら?」
「口の回るお嬢さんだ。……校長先生は?」
「あなたに一任するそうよ。自分はこの件は知らないって。ここまであけすけな責任逃れの態度を取られると、不潔を通り越して雑菌と呼びたくなるわ」
「フッ……そうだな」
大剣寺総理が仕方なさそうに笑った。
「あの人は私の先輩に当たるが……ああいう手合いを見ていると、學閻というものが輝きを失ったのは、なにも最近のことではなかったという気がしてくるな」
「ええ。総理の在学中からそうだったはずよ。完璧な組織なんて、理想の中にしか存在しないもの。だからあなたは學王となって変えようとしたんでしょう?」
「然り。人間が二人以上集まれば、そこに力関係が生まれる。政治が必要になってくるのだ。それは学校でも国でも同じこと。理想を追求したくば、自ら立ち上がって変えるしかない。君もそう思ったのだろう?」
「そうよ……私はあなたのように〝悪〟を実行してみせるわ、大剣寺総理」
果無は手にした封筒を、大剣寺総理の胸に突き出す。
「……ふん」
大剣寺総理が、無愛想にそれを受け取ろうとした、そのとき――
ノックもなしに、いきなり學徒會室のドアが開かれた。
「會長! 見てますか!?」
部屋に飛び込んできたのは、ミハルだ。
「な、なんだ御御御、いま余は総理と会談を」
「そんなことはあとです! みんなも窓から外を見て! 風車が、岬の風車が!」
「なにっ!?」
真っ先に窓に取りついたのは、大剣寺総理だった。
他の三人も窓から岬の方角を見る。
荒れ狂う風雨を受け、二台の風車は猛烈な勢いで
「ば、バカなっ! 台風対策はどうした!?」
大剣寺総理が叫んだ。
「風車は台風に弱い! 強風が続けば過剰回転を起こし、羽根やベアリングが壊れてしまう! 台風が来たときは対策を講じるのが常識だろう! なにをしていた!」
「い、いまはボイコット中! ……で、ある……」
総理の剣幕に、さしもの保笑夢も語尾がしおしおとなってしまった。
「普段あれは私服組が管理してるんだ。だから制服組のぼくたちは知らなくって」
令司の弁明を無視し、大剣寺総理が駈け出した。
學徒會室を飛び出していく。
保笑夢が「
令司と果無も目配せし合い、それに続いた。
†
総理を追って、保笑夢、令司、果無の三人が草原の丘を登っていく。ミハルだけは、このことを他の生徒たちに伝えに行った。
総理はすでに丘を登り切り、岬の風車を見上げている。
三人もあと少しで岬に到着しそうだったが、
「あっ、あれはっ!」
保笑夢が息せき切って、丘の途中にある崖の方を指差した。
崖に沿って設けられた柵に、薄汚れた小さい布が引っかかっていた。
暴風雨の中、令司が目をこすってよく見てみると――
それは、白地に水色の
「ま、まさかあれって」
感極まったように保笑夢が「いま行くぞっ!」と柵へ走っていく。
間違いない、あれはパンツだ。紐パンだ。令司が転校した初日に、保笑夢がどこぞに落としてしまったという例のあれだ。
どうやらこの台風で飛ばされて、この柵に不時着したらしい。
「おゝっ、かわいそうに、なんと変わり果てた姿にっ……! いま助けてやる!」
そう言って、保笑夢が柵に引っかかったパンツに手を伸ばした瞬間。
――ずるり、とその足下が崩れた。
地面が水を吸って、すっかりぐしょぐしょになってしまっていたのだ。
「えっ!?」
という短い悲鳴とともに、保笑夢の体が崩れ落ち、柵の下の隙間へ吸い込まれていく。
その先に待っているのは――断崖だ。
世界から音が消えた。
令司は無意識になにか叫びながら、手を差し伸ばしていた。
柵の下に落ちきる直前で、保笑夢の左手をつかんだ。
しかし片手だけでは足りない。支えきれない。
そこへ、同じく駈けつけた果無が、残った保笑夢の右手をつかんだ。
――消えていた音が世界に戻る。
雨音。風音。崖下に波濤の打ちつける音。保笑夢の体が地面とこすれる音。
――悲鳴。
「わっ、わあゝゝゝゝゝっ! 落ち、ちるっ、落ちりゅっ!」
保笑夢は二人に手をつかまれ、万歳する状態でかろうじて地上に留まっていた。
へその辺りが崖の縁に引っかかり、下半身は崖から垂れ下がっている。
「助けっ、くれっ、わあっ!」
「わかってる、わかってるから暴れないで!」
「會長っ、もっと体を前に出せませんか!? くそっ、なんで動かない!? どこか引っかかってるのかっ!?」
二人は尻餅をつき、綱引きのように保笑夢の手を引っぱっているが、一向に動かせない。保笑夢が激しく足をばたつかせたせいで、はいていたパンツの紐が緩み、崖下の海へひらひらとパンツが落下していった。
「うわああっ、また余のパンツがっ……!」
「パンツと命、どっちが大事なのよ!」
「くっ……雨で手が滑って……くそ! どうすれば……!」
――そこへ、背後から泥を踏みしめる音が近づいてきた。
「お困りのようだな」
大剣寺総理の声だった。
一度は丘の上の岬まで行ったものの、こちらに気づいて戻ってきたらしい。
「よ、よかった、手を貸してくれ!」
令司は助けを求めたが――
「独立不羈が君たちの信念ではなかったのか」
返ってきた言葉は、冷淡なものだった。
「ここで私の手を借りるということは、独立の精神に反するのではないか? 普段は大人の手を払いのけるくせに、困ったときは臆面もなく助けを求めるというのか」
「な、なに言ってる! ふざけてる場合じゃないだろう!」
「私は筋を通せと言っているのだ。助けぬとは言っていない。ただ、それを大人に求めるからには、子供の信念を捨てる覚悟が必要だと言っている」
「はっきり言え! なにが望みだ!?」
「どうやら君たちが彼女を引き上げられないのは、彼女の腰の剣が崖に引っかかっているせいのようだ。私の手なら、その指揮剣を外して上げられるが?」
保笑夢が「なんだと!?」と叫ぶ。
「おい、それってつまり」
指揮剣を放棄し、學閻憲法を受諾することを意味する。
「……できぬっ! そのようなこと……みんなへの裏切りだっ!」
保笑夢が恐怖で涙目になりながら、いやいやと首を振る。
「この鬼畜が! 弱みにつけこみやがって!」
「では三人の自主性を重んじ、私は成り行きを見守ることにしよう」
「待って!」果無が苦しそうに首を振り向けた。「……お願い。助けてあげて」
令司が驚いて「苑崎」と呼びかけるのと同時に、保笑夢が大声で「ハカナッ!」と呼ばわった。「駄目だ! 余は許さぬ! 生徒を裏切るぐらいなら余は」
「あなたも生徒よ!」負けじと果無が叫ぶ。「生徒あっての學閻でしょう! あなたを助けるためなら、憲法を呑むことぐらいなんでもないわ!」
「ハ、ハカナぁ……」
保笑夢の顔が感激にぐしゃぐしゃになる。
――そのやりとりを見て令司はかえって冷静になり、頭を働かせることができた。
(ここで學閻憲法を呑んでしまったら、もう俺が學王になるチャンスはなくなる)
(だが、このまま憲法を突っぱねて、歌胤を救えずに死なせたとしたら……)
(歌胤は矜持を抱いたまま死んだ、殉教者になる)
(そして俺と苑崎は、その遺志を受け継ぐことになり……)
(學閻生からの支持は、圧倒的に高まることになる)
(なにより、歌胤を見捨てたこの男の命運は完全に尽きる! 総理大臣どころか、政治家としても一巻の終わりだ! 復讐が叶うんだ!)
(母さんだって、きっとそれを望んで……)
そのとき――
引き寄せられるように、令司の視線が丘の上の岬に向かった。
そこには、数多のサボテンが。
覇王樹という漢字をあてられるサボテンが、あった。
吹きすさぶ暴風雨に負けず、ぴんと前を向くように、それらは岬から海を望んでいた。
「…………」
それが目に入った瞬間、令司の脳髄の計略図が、すべて漂白された。
代わりに浮かんでくるのは、刺々しいサボテンとはほど遠い、女性の乳房だった。
赤ん坊のころに無心でしゃぶりついた、母のやさしい胸だった。
――静かに、令司の心は決まった。
「頼む、父さん」清虚な心境で振り返る。「助けたいんだ」
「……わかった」
令司の目を見て、総理が手を伸ばした。
保笑夢はもう、静かに泣くだけで反論も抵抗もしなかった。
腰にあった指揮剣が総理によって外され、海へと落とされる。
引っかかるものがなくなり、すぐに保笑夢は崖の上へと引っぱり上げられた。
しばらく三人は折り重なるように寝転がり、荒れ狂った呼吸を天に放っていた。
実際にはほんの三、四分の救出劇だったが、永遠にも感じられる長い時間だった。
それは、學閻の一つの歴史が終わるのにふさわしい体感時間だったかもしれない。
「余は……どんな顔でみんなに会えばいいのだ……」
助けられた保笑夢が、果無の畳まれた膝へ泣き伏した。
果無がその頭を、母親のように慈しみのある手つきで撫でている。令司はまた母親のことを思い出しそうになり、気恥ずかしくなって顔を逸らした。
「なにを終わった気でいるのだ」
大剣寺総理が不機嫌そうに三人を見下ろした。
「學閻の象徴はいまも危機に瀕しているのだぞ」
その言葉通り、丘の上の二台の風車は軋みを上げて過剰な回転を続けている。このままでは早晩、修復不可能なまでに壊れてしまうことは自明だった。
「あれを設計したのはあんただろう! 止める機構はないのか!」
「あの《ドン・キホーテ》は、極めて原始的な風車だ。台風対策としては、事前に
「く……見てるしかないのかよ!」
そのとき、丘の草原の方から、大勢の生徒が風車へ向かって行列を作って行くのが見えた。先頭にはミハルがいる。みんなを呼びに行って連れてきたのだ。
令司と大剣寺総理は、それ以上言葉を交わさず風車へ向かった。
果無と保笑夢も、肩を支え合って後ろからついてくる。
「な、なによこれ……」
風車の下で、ミハルが慄くようにつぶやいた。その声は、すぐ間近でなければほとんど聞こえない。なにしろ五メートル頭上では、猛烈な勢いで風車の羽根が回転して、唸り声とも喘ぎ声ともつかない大声を発しているからだ。
風雨が羽根に当たり、ピッ、ピッ、という鋭い飛沫となって地上へ降り注いでいる。それに当たるだけで皮膚が切れそうだ。
集まった生徒たちの間から、「學閻の象徴が……」と絶望の声が漏れる。
「歌胤會長……一体どうしたら……」
ミハルが、泥だらけになっている保笑夢を振り返った。
「あ、う……」
しかし保笑夢は臆したように、果無の背中に身を隠してしまった。いや、隠したいのは体ではない。腰にあるべき指揮剣がないことを隠したいのだ。つい先ほど學閻憲法を呑んでしまったことを、みんなに切り出せないでいるのだ。
「苑崎先輩、この風車のメンテをしてる人って……」
ミハルの問いに、ハカナが残念そうに首を横に振った。
「……私服組の生徒が担当してるはずだけど……」
ミハルが生徒たちを見回した。
「この中に風車担当の人はいないっ? 風車を止められる方法を知ってたら教えて欲しいの! このままじゃ本当に風車は……風車が……!」
岬には続々と生徒が駈けつけてきていた。制服組と私服組を合わせ、すでにその数は百人以上にも膨れ上がっている。彼らが顔を落としてささやき合う。
\……おい、誰だよ担当は/なんで対策を打たなかったんだ\台風が来るってわかってたのに/お、おれじゃないぞ\私服組の連中だろ/
――それを聞きながら、令司は拳を震わせた。
(これだ。これが大衆の正体だ)
(自分は悪くないという顔をして、誰かに責任を押しつけてばかりいる)
(俺や母さんを迫害した連中とまったく同じだ!)
そのとき、群衆の中から、二人の私服組の男子が飛び出してきた。
「すみませんっ……!」「ぼくたちです!」
ミハルの前に進み出て、土下座せんばかりに頭を下げる。
群衆の冷たい視線が二人の背中に注がれる。
「ま、待って、あなたたちを責めたいわけじゃないの。この風車を止める方法を聞きたいだけなの。なにか方法はないの?」
二人が顔を見合わせて、苦しげにうつむく。
「……対策はありません。これだけ回転が進んでしまうと……」
「台風が来る前に、他の仲間と一緒に羽根を外しておくべきだったんです。でも、みんながサボタージュしてるから、自分たちもいいかなって……」
「なにも、ないの……本当に?」
呆然とミハルが聞き返す。二人はうつむいたまま、答えなかった。
再び群衆から非難混じりの声が溢れた。すぐ後ろの覇王樹園のサボテンのように、それらの声にはどれも棘がある。自分は決して傷つかない、外へ向けた棘だ。自分を守るためなら他人を傷つけても一向に構わないという冷酷な態度だ。
名乗り出た二人が、そんな群衆に「すみません、ぼくたちが悪いんです!」と必死に頭を下げる。しかし群衆は、誰もその謝罪に応えようとしない。
(この……愚民どもめ!)
(こうやっていつも他人に責任を押しつけて!)
(俺が倒すべきクズどもは、まさにこいつらなんだ……!)
「……もう勝手に、滅べ」
令司は口の中でつぶやき、踵を返そうとした。
――が、後ろから肩をつかまれた。
果無だった。
無表情で令司を見据える。
「……離せよ。もう俺はこいつらなんかと……」
そのとき――
「違う……悪いのは二人だけじゃない! おれたちもだ!」
群衆の一人が叫んだ。制服組の男子だった。
すぐに私服組の女子が呼応する。
「そうよ! わたしたちだってこの風車のこと考えてなかったもん! この二人だけを責められないわ! そうでしょ!?」
あとは早かった。
「そうだよ……」「ぼくたちがこうしたんだ」「責任はみんなにあるんだ!」
制服組、私服組問わず、自責の言葉で岬は溢れかえった。
その熱気はすさまじかった。つい先ほどまで、名乗り出た二人を難詰していた言葉とはまったく比べものにならない、身の入った言葉だった。
――令司は呆気にとられながら、その光景を見つめていた。
「……水掛け祭りのときに言ったでしょ? 確執を昇華させれば、左右の垣根を越えた新しい状況ができるって」
令司の肩に手を置いたまま、果無が言った。
「それはホトリ団を支持するものだけじゃないわ。彼ら自身のためのものよ。制服も私服もない、學閻生同士で助け合える新しい状況……」
「…………」
令司が呆然と立ち尽くしていると、視界の端で誰かが動いた。
「みんなっ……すまぬ!」
保笑夢だった。
涙声で叫びながら、地面に両手をついた。
「余は……あろうことか指揮剣を失い、學閻憲法も受け入れてしまったのだっ!」
突然の告白に、生徒たちが「ええっ!?」と裏声になる。
保笑夢は涙ながらに、先ほど起きたことを説明した。
「すべては余の不徳の致すところだ……」
額を土にこすりつけて泣く保笑夢に対し、雑言を投げる者など一人もいなかった。かといって無責任に励ます者もいない。みな、保笑夢に同調していた。學閻の自主独立が憲法で鎖されてしまったことを歎き、自らの無力を恨み、ある者は嗚咽した。
その光景には、令司も思わず込み上げてくるものがあった。
しかしその愁歎場をぶち壊すように、果無があっけらかんと言い放った。
「平気よ、またひっくり返せばいいだけじゃない」
その場に集まった一同が、ぽかんとした顔で果無を見る。
「『 』だったこの私が、こういう事態に備えていなかったと思う?」
果無がニヤリと笑うと、保笑夢がぴょこんとバネ仕掛けのように立ち上がった。
「あ、あるのかハカナ!? 逆転の手立てが!」
「本当ですか!」ミハルも声を弾ませる。
「もちろん。でも、いまはこの人がいるから教えられないわ」
挑むような視線を大剣寺総理に送る。
「ほう、學王と呼ばれたこの私を出し抜く手がある、と?」
「ええ。知恵比べで負けたことがないの」
「ふん、知恵さえあれば万事うまくいくと考えているあたり、まだまだ青い」
「世渡りのことを言っているのかしら」
「違う。覇業を達成するには、力が必要だと言っているのだ。たとえば、いま目の前で暴走しているこの風車を、お前はどう止める? 令司」
急に話を振られ、令司は動揺した。
思わず悪態で返したくなったが、いまは百人以上の目がある。
「こんな状態じゃ止める方法がないって、さっきあなたも言ってたじゃないですか」
「通常のやりかたでは無理といったのだ」大剣寺総理が果無たちを見渡し、「そっちはどうだ? 風車を止める方法が考えつくかね」
「……無理ね」愛想なく果無が答えた。
ミハルも無言で首を横に振り、保笑夢も答えない。
「それがお前たちの限界だ」
大剣寺総理が、スーツの上着を脱いで投げ捨てた。続いてネクタイに指をかけて外しながら、ずんずんと風車の一台へ向かっていく。その方向に連なっていた人垣が、おろおろと割れていく。誰も彼も、総理の言葉の意味をつかみあぐねて戸惑っている。
「総理大臣……否、學王たるもの、風車の一つも止められなくてどうする!」
ボタンを引きちぎらんばかりにワイシャツを脱ぎ去る。
さらしを腹に巻いただけの生身が風雨に晒される。
あっと一同が声を上げた。
四十五歳とは思えぬ隆々たる上半身に――数多の傷痕があったからだ。
刃物で傷つけられたとおぼしきものや、拷問の痕のように皮膚が引き攣っている個所、さらには銃創らしきものまである。
「そ、その傷は……?」
令司の問いかけに、総理が背中で答える。
「暗殺されかかったときの傷だ」
生徒たちが「暗殺っ!?」と騒ぎ立った。
「大したことではない。権力の座につく者、政敵や他国の殺し屋から十回や二十回命を狙われて当然だ。自分の命だけではない。敵はこちらの隙を見つけて、様々な攻撃を仕掛けてくる。周りを巻き込まないためには、決して隙を作らないことだ」
はっと令司は目を見張った。
(ま、まさか……俺と母さんを遠ざけたのは……)
(いや、そんなはずない! この鬼畜にそんな……!)
思わず覇王樹園を振り返った。
――棘で人を遠ざける、母の愛したサボテンを。
「令司!」
「えっ」
顔を戻して見ると、総理が腹のさらしに手をやっている。
そこには木鞘に収められた匕首が挟まれていた。
「邪魔になるゆえ、持っていろ」
匕首を引き抜き、無造作にこちらへ放り投げた。
令司は跳ねる鯉を抱くように、おっかなびっくりそれを受け取る。
「ご、護身用ですか」
「自決用だ」
生徒たちが「自決っ!?」と声を上げる。
「総理として当然の責務だ。もし他国のエージェントに拉致され、日本の国益を損なうような脅しをかけられたらどうする。売国奴に成り下がるぐらいなら潔く自決すべし!」
その気魄に、誰もが絶句した。
「どうせお前は、他人を蹴落とすことしか考えていないのだろう。さしずめ、さかしらな計略だけで學王にのし上がろうとしているに違いない……甘い考えだ」
誰にともなく告げ、総理が風車の下に進み出る。
五メートル頭上を、恐ろしい音と身ぶりで
「……久しいな、ドン・キホーテ。我が前に立ちはだかる巨人よ」
その光景を見守る生徒たちに、同時にある予感が起きた。
まさかという悪い予感だ。
――次の瞬間、それは的中する。
信じられないことが起きた。
「知るのだ令司! 身を抛たなくば人心はついてこぬと!」
総理が駈けた。
風車の白い壁めがけて――
跳ぶ。
「とうっ!!」
壁を蹴り、三角飛びの要領でさらに上空へ。
生徒たちの目にはその光景が、ペガサスが羽ばたくような美しいものに映った。
「目に焼きつけよ! 我こそが學閻の王な」
台詞の途中で、ガンッと激音が轟いた。
総理の体が
さながら
だが総理は死ななかった。
跳ね飛ばされることなく、
羽根と一体となって、扇風機のように総理の体が回転する。
「クォォォォォォォォオオオオオオオオオォォォォォォォォォオオオオオオオオオッ!!」
総理の雄叫びが高音と低音を行き来し、壮絶な響きとなる。
回転によるドップラー効果で、音程が狂って聞こえるのだ。
残像効果によってその体が幾重にも増した。
さながら曼荼羅のごとし――とても現実の光景とは思えなかった。
地上の生徒たちは、唖然と風車を見上げるばかりだ。
令司も、預けられた匕首を胸に、あんぐりと口を開け放していた。
「ぐぉぉぉぉお……!」
総理の狂った音程が、徐々に通常へ戻っていく。――ドップラー効果が切れてきたのだ。それは
\すごいっ!/風車が弱まってるぞ!\なんて力なの!/
しかし台風の力は半端ではない。数個分の核爆弾に匹敵するエネルギーを持つのだ。
強風が一層強く吹きつけ、またヒュンヒュンと
「ぐぬぅぅうっ!」
何重にもなった総理の残像の中に、苦悶の表情が浮き上がってくるようだった。
\がんばれっ!/総理!\負けないで!/俺たちの風車を!\
生徒が一丸となって声援を送る。
――令司も気づくと、声を張り上げていた。
なにを叫んでいるのか、自分でもわからない。しかし風車と戦っているその姿を見ていると、胸に熱いものが込み上げてきて止まらなかった。
それが自分の父だからではない。総理だからでもない。一人の男の、命を張ってなにかを守ろうと奮闘している姿に、いても立ってもいられなくなったのだ。
台風はさらに激しさを増し、地上にいる者たちを巨大な箒で掃くように吹き飛ばそうとしてくる。小柄な保笑夢なぞ、スカートを手で押さえながら、必死に果無の腰にしがみついている。その果無も、黒髪を振り乱して必死に総理へ声援を送っていた。
勢いを増した風車は、そのまま永遠に回転を続けるかに思われた。
ところが、無数にあった総理の残像が、少しずつ数を減らしていった。
\まさか!/回転が弱まってる!?\まだ風は止んでないのに!?/
「端よ! 羽根の端に移動してるんだわ!」
ミハルが指差しながら叫んだ。羽根の回転が弱まり、残像が減ったおかげで、総理の状態がはっきり視認できるようになっていた。
\さすが元學王!/てこの原理もばっちりだぜ!\てこじゃないけどな!/
生徒たちがホオジロザメの尾びれを王冠のように掲げ、やんややんやと喝采をあげる。その声援に押さえ込まれるように、
そしてついに――
「……見たか後輩たちよ」
完全に停止した
「これが學王というものである」
――不敵に笑ってみせたのだった。
狂乱じみた生徒たちの喚声が、火竜のごとく雨空を突き抜けた。
†