【8】

文字数 6,437文字

【5話 學閻祭】

 御御御ミハル出馬の一報は、すぐさま學閻中を駈け巡った。
 中等部のころより、その美貌と知性はあまねく學閻内に知れ渡っていた。現役の雑誌モデルという経歴もまた異色で、ファンクラブまであるほどなのだ。
 選挙出願の届け出を見ながら、學徒會室で歌胤保笑夢は一人溜息をついた。
「うゝむ、よもや騎士団から離反が出るとは……」
 保笑夢にとっては、まさに寝耳に水の事態であった。
「しかもあの御御御ミハルとは……神武以来の美少女と謳われた余には劣るにしても、學閻生からの人気はなか〳〵のもの。ぬう、どうしたものか……」
 學徒會室にノックの音が響いた。
 入るがよい、と保笑夢が告げると、美しいブロンドが姿を現した。
「會長、お呼びですか」
 緊張した面持ちで御御御ミハルが入室してくる。
 會長席に座った保笑夢は、「ま、楽にするがよい」と心安く笑い、
「なにもそなたを難詰するつもりで呼んだのではないのだ。たゞ、どうして急に出馬を決めたのかと思ってな。なにか思うところでもあったのか?」
「それはご自分の胸に聞いてみるのがよいでしょう」
「うぐっ」
 保笑夢はごほんと咳払いし、動揺をごまかす。
「く、くだんの貼り紙のことを言っておるのか? た、確かに風呂場で冗談交じりに予算のことを話した気がしなくもないが……あくまでも冗談だ! 真に受けられては困る! ……ハッ、よもやあの貼り紙の犯人は……?」
「私ではありません。お風呂場で歌胤會長の冗談を聞いた人の仕業でしょう。きっとその犯人は、歌胤會長の冗談が冗談に聞こえなかったのでしょうね」
「そうだ! 勘違いだ! あれは粗忽者の勘違いなのだ! アハヽヽヽヽゝッ!」
 保笑夢は余裕を見せようと呵呵大笑した。
 その様子を、ミハルの碧眼がジトッと見下ろす。
「しかし御御御よ、本気で余に勝つつもりか? いくら騎士団が味方についても、余の地盤を切り崩せるわけがなかろう。しかも、すでに學閻祭のプロデュースは學徒會とホトリ団で二分しておる。おぬしが入りこむ余地はない」
「そうですね。でも敵失によって消去法で私に票が集まるかもしれませんよ。私と歌胤會長の支持層はかなり被っているはずですから」
「ぬ……確かに支持層は被っていそうだが……おゝ、そうだ〳〵」
 保笑夢は大事なことを思い出し、執務机の抽斗から罫紙を取り出す。
「昨日、ハカナから電話があってな。御御御が新しく立候補したことを受けて、投票のやりかたの変更を求めてきたのだ」
「投票のやりかたを……?」ミハルが紙を受け取る。
 そこには、新しい投票方式の提案がメモ書きされていた。
「簡単に言えば、投票は三人のうちの誰かに一票を入れて決めるのではなく、一騎打ち方式を二回くり返すというものだ」
「一対一で戦って、どちらかに投票してもらうということですか?」
「うむ。一回戦は『歌胤VS御御御』だ。學閻生はそのどちらかに票を入れる。そして勝った方が二回戦のハカナと一騎打ちし、そこで學徒會長が決まるわけだ」
「待って下さい、それでは苑崎先輩だけがシードになるじゃないですか」
「確かにそうだが、ハカナいわく、これは御御御のためでもあるそうなのだ」
 今回の選挙は、終盤に立候補したミハルが圧倒的に不利だ。しかも、ミハルと保笑夢とでは立ち位置が近すぎて、生徒たちには政策の違いがわかりにくい。そこをはっきりさせるため、まずはミハルと保笑夢でじっくりと論戦を行い、両者の違いをアピールしてはどうか、と果無が提案してきたのだ。
「二回戦うのが必ずしも不利になるわけではなかろう? 一回戦の勝利者は、二回戦でまた自分の主張を述べられるのだ。アピールという点ではむしろ得と言える。それに、三人の中から一人を選ぶ投票方式では、制服組の票が余とおぬしで割れてしまうだろう。ハカナのみが私服組の票を独占し、当選してしまうことになりかねぬ。まず余とおぬしで戦い、制服組の票を一本化して次のハカナ戦に進んだ方が良いのだ」
「…………」
 ミハルはしばらく、メモ書きに目を落として黙っていた。
「まったく、ハカナも間抜けなやつだ。従来の投票方式の方が、まだ勝ち目があったろうに。『 』の座を離れたせいで気が抜けたのか、知性が鈍っておるな」
 得意げに笑う保笑夢に、ミハルがぼそりとささやいた。
「……そうか、歌胤會長は文系でしたね」
 保笑夢が「ぬ?」と目をぱちくりさせる。
「會長、學閻祭の前日に、生徒だけの前夜祭が開かれますよね?」
「う、うむ、出馬するわれ〳〵の演説会も行われるが?」
「お願いがあります。その演説会のときに……」

   †

 學閻祭を明日に控えた、八月二十九日。
 學閻ではこの日も、平常通り授業が行われる。しかしさすがに生徒たちの気はそぞろだ。無理もない。夏休みのない學閻生にとって、この祭りは貴重な青春のイベントなのだ。
 放課後、生徒たちは方々へ解き放たれる。
 學門の構える船着き場へ行き、あらかじめ本土に注文しておいた資材を受け取る者。所属する部活へ行ってユニフォームに着替える者。教室をデコレーションする者――
 明日からの二日間、生徒の身内を始めとする観光客が続々と来島するが、それに先立って、これから夜遅くまで生徒だけの前夜祭が開かれるのだ。
 何事も始まる前が一番楽しい。學閻生にとって、もっとも胸躍るときだ。
 例年と違い、今年は実行委員が二つできている。
 學徒會とホトリ団は、それぞれ担当する部署に出向いて、出し物の演出を行う。
「そこの飾り、ちょっと派手過ぎるわね。この喫茶店はなるべく質素にしたいの。教室をもっと暗くできないかしら。カーテンもしっかり閉めて……蝋燭の灯りでようやく見える程度に……エアコンの風量もちょっと落とした方がいいわね」
 果無がてきぱきと教室で指示を出している。季節外れの黒いセーラー服が、ここでは監督の威厳となっていた。その傍らには、メイド服の令司がついている。
「それじゃ一度、テーブルセッティングしてシミュレーションしてみましょうか。私がお客の役をやるから、令司が店員役をやって」
 机を四つ固め、黒いテーブルクロスをかけ、グラスやカップを配置する。部屋を閉め切って薄暗くし、蝋燭を立てる。
 客役の果無が席につく。店員役の令司がそこへ歩み寄る。着席した果無のすぐ間近に立ち、果無の頭に顔を近づけ、「いらっしゃいませ。なにになさいますか?」
「声が大きすぎるわ。もっと小さくささやきなさい」
「あ、はい……でも、声がお客さんに届かないんじゃ?」
「その分もっと顔を近づけるのよ。耳元に。あなた、お客やりなさい」
 令司を座らせ、果無が店員となる。
 一度離れた果無がゆっくりと歩いて来て、腰をかがめ令司の耳元に口を近づける。
 彼女の長い髪が垂れ、首元に触れてくすぐったかった。
「……いらっしゃいませ」
 耳たぶに唇が触れそうな距離で、そっとささやかれた。
 ――硬質で艶やかな声が、冷たい吐息とともに耳底の奥へと吹き込まれた。
 ぞくりとうなじが震え、「うわっ!」と令司はたまらず身を反対へ倒した。
「……お客様、お静かに願います。この〝ささやき喫茶〟では、大きな声を出すことは禁じられております」
 果無が変わらぬささやき声で注意した。ホトリ団がプロデュースする喫茶店のうちの一つが、このささやき喫茶だった。店員も客も、声量を絞って過ごさなければならない。
 令司がサイダーを注文すると、果無が間仕切りの向こうへ下がって、よく冷えて表面に汗をかいた水差しを持ってきた。中に入っているのは市販されているサイダーに過ぎないが、客の前でコップに注ぐことで特別感を出すわけだ。
「……どうぞお飲み下さい」
 サイダーを注いだあと、再び果無が令司の耳元でささやく。その声もさることながら、長い髪が垂れ込めて首筋を冷たく撫でて来るのがたまらなかった。女性に慣れているつもりの令司をもってしても、胸を昂ぶらせる官能がそこにはあった。
 令司は無性に喉が渇き、シミュレーションであることを忘れて一気にサイダーを呷った。喉が灼けるように熱くなって、けほけほと咽せた。
 令司がコップを置くと、再び後ろから果無が顔を近づけきて、
「お客様、お代わりはいかがでしょうか?」
 と、ささやいてくる。顔のすぐ横に、あの蠱惑的な熱のある質量を感じる。
 令司は思わず「はい」と答えてしまった。
 すかさず果無がコップにサイダーを注ぎ、催眠術を解くようにパンと手を叩いた。
「――という感じで、客にお代わりをさせて稼ぐのよ」
 いつもの調子に戻って、この喫茶店をやる生徒たちに告げた。
 ほうほう、と生徒たちが感心する。
「わかってると思うけど、男性客には女性店員が必ず当たるように。でもカップルなどの場合は適宜柔軟に対応すること。いいわね?」
 はーい、と生徒たちがささやき声で返し、それが自分たちでもおかしかったのか、きゃっきゃとはしゃぐ。その中には制服組も私服組もいる。
 あの水掛け祭りから、着実に制服組と私服組の垣根は低くなっているようだ。
 ささやき喫茶の指示を終え、果無と令司は次のプロデュース先へ向かう。
 しかし廊下に出たところで、二人は保笑夢とばったり出くわした。
「む」
 取り巻き連中と上機嫌で歩いていた保笑夢が、二人を見るなり口をへの字に曲げる。
「なんだハカナ、一丁前に監督面をしているではないか。その教室の出し物はなんだ? さゝやき喫茶だと? ふはっ、ホトリ団らしい面妖な喫茶店ではないか!」
「あなたこそ、お子様喫茶の演出はうまくいっているのかしら?」
「お子様喫茶だと? たれがそんなものをやると言った!」
「あなたがプロデュースすればなんでもお子様っぽくなるということよ」
「おのれ愚弄するかッ!」
「か、會長っ、団長も! こんなとこでケンカしちゃ駄目です! みんな見てます!」
 令司は二人の間に割って入った。
「ぬう……それもそうだ。どの道、二日後の選挙でどちらが正義かはっきりするのだからな。ハカナの吠え面を見るのはそのときまで取っておくとしよう」
 保笑夢が余裕を見せつけるようにふふんと笑い、構えを解いた。
(ククッ、俺たちが仕掛けた選挙の罠にも気づかず、暢気なもんだ)
「ふん、せっかくだから余のプロデュースする喫茶店を見ていくがよい! まずはこちらの『革命喫茶』からだ!」
 保笑夢がのりのりで教室のドアを開いた。
 中を覗いて、さしもの令司もぎょっとした。
 真っ赤なのだ。壁紙が赤い。照明が赤い。店員の恰好も赤い。赤い人民服。
 血の部屋、収容所の拷問部屋、といった恐ろしい連想が駈け巡る。
 \よくぞ来た革命の同志よ!/
 \資本主義と帝国主義に立ち向かうため、ともに労働歌を合唱しよう!/
 \革命的情熱をもって君を抱擁するッ!/
 いやに目を爛々とさせた生徒たちが、令司を引きずり込もうと触手のようにワラワラと手を伸ばしてくる。
「ひっ、いいですっ! ぼく革命とかしませんっ!」
 メイド服のカチューシャに手を当てて身を引くと、赤い男たちの表情が一転した。
 \なにをっ! さては貴様、反動分子だな!/
 \体制にこびへつらうプチ・ブル日和見主義が!/
 \シベリア送りだ!/
 口から赤い火でも吐きそうな勢いで難詰してくる。
「ひぃ!?」と肩を丸めて後じさる令司の前に、果無が割って入った。
「待ちなさい。この子の恰好をよく見るがいいわ。メイド服を着ているでしょう? つまり、あなたたちと同じ、労働者階級(プロレタリアート)ということよ」
 赤い人民服たちが、ぬうと口ごもる。
 令司は安堵した。メイド服で助かるのは情けないが、これで解放されると思った。
 ――が、
「だから令司、なにも引け目に感じることはないわ。同じ労働者同士、思う存分彼らと革命トークに花を咲かせてらっしゃい」
「なにっ!?
()ってらっしゃい」
 後ろから、どんとスカートの尻を蹴り飛ばされた。
 令司はつんのめって教室に入り、赤い人民服に迎え入れられた。
 \おお同志よ!/同志よ!\来たれ人民戦線へ!/
「え、苑崎ぃ!」
 振り返って睨みつけるが、果無は薄笑いを浮かべて敬礼し、
「切野団員の奮励努力に期待する」
 彼我の境界線を引くように、教室のドアを激しく閉てた。閉まりきる直前、腕組みした保笑夢が「うんうん」と満足げにうなずいているのも見えた。
(なにが『うんうん』だ! あの女ども!)
 赤い部屋に取り残された令司は、人民服によって強引に着席させられた。
 爛々とした目に囲まれ、たまらず身が縮んだ。
 \なんでも注文したまえ同志!/遠慮はいらぬ!\レッドパージ・トマトジュースはいかが?/労働者が手塩にかけて作ったポテチも召し上がるがいい!\
「あの……このプロレタリア・ブラックコーヒーというのはおいくらですか?」
 尋ねた瞬間、人民服の表情が一変した。
 \値段だとっ!/貴様、資本主義の犬かっ!\自己批判しろ!/
「ええっ!? だ、だって値段がわからないと注文できないんじゃ……?」
 \この厳しいインフレ時代、紙幣は紙くずほどの価値しかないのだ!/
「インフレ!?
 そんな馬鹿なと抗弁するが、彼らはまったく聞く耳を持たない。
 \すべては拝金主義者のせいである!/そうだ!そうだ!\資本家どもは労働者から搾取し!/権力者はグローバル・コングロマリットと癒着して私腹を肥やすのみ!\そうだ!そうだ!/ゆえに我ら人民が直接行動に打って出て!\封建体制を打破するしかないのだ!/そうだ革命だ!革命だ!\おおおおおおおお!/
 サッカーのフーリガンのように教室中が波打って熱狂する。
 しかし令司はふと素朴な疑問を抱いた。
「でも……この喫茶店って歌胤會長のプロデュースですよね? 學徒會って、この學閻で一番の権力者なんじゃないですか?」
 くわっ、と人民服たちの血走った目が限界まで見開かれる。
 \なにをっ! さては貴様、反動分子だな!/
 \体制にこびへつらうプチ・ブル日和見主義が!/
 \シベリア送りだ!/
「だってそうでしょう!? どうして体制側の會長が革命喫茶なんてやるんですか? つじつまが合ってない! あなたたちもそんな恰好してるけど制服組でしょ!」
 \うるさいうるさい!/ぽえぽえは我々パルチザンの書記長なのだッ!\彼女こそが真の革命闘士である!/ぽえぽえ万歳!\万歳!/万々歳!!
 なにかをごまかすように、口々に引き攣った叫びを上げる。
 狂信的に振る舞ってはいるものの、本当は彼らも矛盾に気づいているのだろう。しかし一旦それを認めてしまうと、心が二つに引き裂かれ、認知的不協和に陥ってしまう。それを恐れ、矛盾を見て見ない振りをしているのだ。
(哀れな……あのお子ちゃまのガバガバな設定に振り回されて……)
 令司は不憫に思いながら、出されたプロレタリア・ブラックコーヒーをすすった。中途半端に温い他は、普通のコーヒーだった。
 \途上国の労働者を酷使して収穫されたコーヒー豆の味はどうだ?/
 \まさにブラック企業の味がするだろう?/
 \フェア・トレードなんて糞食らえという資本家たちの高笑いが聞こえてこないか?/
「まずくなるので黙っててもらえますか」
 そのあとも、無政府組合主義(アナルコ・サンディカリスム)がどうのとか世界同時革命がどうのとかいう話をえんえんされそうになったが、「仕事が残ってますので」とにべもなく告げて席を立った。
 \お会計は四十五万六千円となります/
「ハイパーインフレっ!?

   †
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