【7】

文字数 4,678文字

 激しい雨に叩かれながら、泥を蹴り上げ、丘を駈け上がる。
 風車と覇王樹園のある、東端の岬へ。
 崖下には、雨で勢いを増した波濤が打ちつけ、浪花を散らしている。
 空も、海も、どこを見渡しても、世界は色を無くしたように灰色がかっていた。そんな中で、ただサボテンたちのみがかろうじてくすんだ天然色を保ち、黙って立っている。
 令司もその仲間になったようにずぶ濡れで立ち尽くしていた。全力で駈けてきたため、ぜえぜえという荒い呼気が雨音に混じって辺りに拡散している。
 その呼吸がようやく正常に戻ったころ、後ろから声をかけられた。
「切野くん」
 令司は振り返らなかった。サボテンの前でうなだれながら、ぽつりとささやく。
「……母も、この學閻の卒業生だったんですよ」
 幼いころ母から聞かされた話を思い出す。
「母と父は、この學閻で知り合ったんです。父が三年で學徒會長をしてるとき、母が高等部に入学したんだそうです。でも、あまりそのころの思い出は話してくれませんでした。ここに覇王樹園というのがあることも、父がこの風車を作ったということも……」
 ようやく振り返る。
 視界に映るのは、傘も差さずにずぶ濡れになった、黒いセーラー服。
 そしてその背後にそびえ立つ、二台の白い風車。
「ぼくは、この學閻が嫌いでした。息子のぼくにすら明かそうとしない、母の青春の思い出の詰まったこの學閻が……大嫌いでした。小さいころから、絶対に學閻になんて入ってやるものかと思っていました。でも、去年の暮れ……」
「お母さんが亡くなったから?」
「……母は、いつも父のことを想っていました。父と過ごした、もっとも美しかった青春を胸に生きていました。この風車と、このサボテンが、きっと母にとっての……」
 令司の手に握られたハンカチから、涙のように水が滴り落ちる。
「お母さんのこと、愛しているのね」
「愛して? は、まさか」
 顔が嘲笑に歪んだ。
「愛してなどいませんよ。あの男が言ったように、ほんとにバカな女です。あの男の頭には権力しかなかった。総理大臣に登り詰めることが最優先だった。地盤も看板もない者が政界でのし上がるには、政財界の有力者の身内にならなければならない。政略結婚ですよ。そこで父は権力をつかむため、長年連れ添った庶民の母を捨てた!」
 慎重にこしらえた演技の殻が、雷鳴とともに崩れ落ちる。
「くははっ、ガキまでこさえたのにな! 有力者の娘と見合結婚しやがった! あの鬼畜が見合結婚だぜ!? 母は態の良い二号に成り下がったというわけさ!」
 ――嗤った。雨粒を弾くように、令司の大声が方々に膨れ上がった。
「本当にバカな女さ! 愛した男に捨てられ、金も受け取らず、デキちまったガキを一人で育てて……世間は冷たいもんさ。『政治家の愛人と、その隠し子』! ……噂ってのはどこまでも広まるもんで、俺たちはどこでも白眼視さ。俺は学校でいじめられ、おふくろはおふくろで何度も職場を変えなければならなかった。親戚なんかも冷たいものさ。一族の鼻つまみ者。俺たちに居場所はなかった。どいつもこいつも糞ったれさ! だが一番気にくわないのは、そんな理不尽に絶え続けたおふくろだ!」
 令司の目にはすでに、果無は入っていなかった。ただ湧き上がる激情を振り回す。
「二号なら二号と割り切って、金と体の関係に徹していればいいものを! なのに……年に数度、あの男と逢い引きするとき、いつも俺を連れて行くんだぜ!? レストランに三人で集まって食事して別れるだけ。男と女の会話なぞありもしない!」
 令司は再び嗤おうとしたが、もううまく嗤えなかった。引き攣ったような、いまにも泣き出しそうな哀れな声が喉から漏れるだけだった。
「……認知してない息子を見せつけられて、あの男もさぞ鼻白んだろう。面倒臭い女だと思われただろうな。本当、バカな女だ。あんな男をひたすら愛して、なに一つ報われないまま癌で…………。死に目にすら会ってもらえず、葬式にも来てもらえなかった! 最後まで付き添ったのは、そんな鬼畜との間にできた、この俺だけだ」
 震える手の平を頭上にかざし、令司は叫ぶ。
「そう、俺はやつらの息子だ! いいように利用されたバカな女と、そのバカな女をさんざん弄んだ男の! 俺のこの体には、どうしようもない血が流れている! これまで何度、この身を忌ま忌ましく思ったことか。何度この身を切り裂いて、あの男の呪縛を解き放とうと思ったことか!」
 だが、と頭上にかざした手を握りしめ、果無に向き直る。
 灰色の乱層雲に稲光が走り、令司の歪んだ顔を紫に照らし出した。
「いまは違う! おふくろが死んで俺は気づいた! 滅ぼすのは自分ではなく、世界の方だと! 復讐だ! 復讐だ! あの男を! あの男を生み出した醜い世界を! これからあの男が作り出す穢らわしい世界を! すべてぶち壊す! 俺の体に流れる穢らわしい血で、この世界を塗り替えてやる!」
 凄絶な泣き笑いを満面に浮かべ、
「俺はやったぞ! 前の学校ではみんな滅ぼしてやった! 友人も、恋人も、教師も! あらゆる連中を誑かし、破滅に導いてやった! ハハッ、俺たちを虐げた世間なんてこんなものさ! 愚民に罰を下してなにが悪い!? 俺はのし上がるぞ! あの男の辿った道をすべて塗り替える! 學王になってすべてぶち壊してやる!」
 洗いざらいすべてをぶちまけ、令司はぜえぜえと肩で息をついた。
 
「すばらしいわ」
 乾いた拍手の音。
 
 上質のクラシックを聴いた後のように、果無が微笑みながら手を叩いていた。
「な……に?」
「あなたのやろうとしていることは、じつに理にかなった『悪』よ」
「悪だと?」
「私はそれを果たしたくて、『 』の立場を捨ててこの下界にやってきたのよ。前に話したわよね? 悪魔になって最高の悪を識りたいって。その言葉に偽りはないわ。なぜなら、あらゆる学問の中で、唯一まともに研究されていないものが、『悪』だから」
 果無の問わず語りに、令司は唖然としたまま耳を傾ける。
「ソクラテスの時代から、『善』については様々な考察が行われてきたわ。古今東西の宗教も、つまるところ〝いかに生きるべきか〟という善の実践といえる。そういった文脈の中で『悪』についても語られてきたけれど、それは本当の悪ではないわ。善を示す上での反対概念にすぎない。仏教の五戒のように、人を殺しちゃいけないだとか、盗みを働いてはいけないだとか、そういう戒めの形で悪の形が示されるだけよ。あるいはハンナ・アーレントのように社会や人間への深い洞察から、『悪なる状態』を提示することはあっても、それは批判的に検討するばかりで、発展させようとはしない。悪を積極的に評価し、それを押し広げるということはしないのよ」
 果無の顔に、これまで幾度か覗かせた堕天使の黒い笑みが浮かぶ。
「私は『 』に選ばれてから、空論城の最上階に閉じ籠もって知識の荒野をさまよった。そしてあるとき、最後に残された未開拓地が、『悪の道』だと気づいたの……あれは衝撃だったわ……すべての学問は、宗教や哲学を含め、〝善〟ばかりが研究されている。誰も積極的に悪を極めようだなんて思っていない。だから世界はいつまでもだらしなく、愚かしさを自覚しない愚民に溢れ、ゴミゴミと中途半端な色をしてるんだわ……いっそのこと、黒い色に塗り潰されてしまった方が、よっぽど美しいのに」
 果無の目に一瞬、陶然とした危うい色が差した。
「研究を始めてからわかったわ。善は抽象概念で示せるけれど、悪は実践を伴わなければ意味がない。それに、善は個人でも可能だけれど、悪は集団でなければ不可能よ。一人ぼっちの世界に悪はない。悪とは社会的な産物で、他者を不幸にしなければならないから。だから私は空論城を出て、ホトリ団を率いて選挙に打って出たの。この學閻のトップに君臨しなければ、巨悪を実現できないから」
「堕天使とは……そういうことか」
「ゲーテの戯曲になぞらえれば、かつての私はあらゆる学問に没頭するファウスト博士だった。でもいまの私は、その博士を悪の道へ進ませる悪魔、メフィストフェレスよ」
 戸惑う令司の目を、果無がまっすぐに見つめる。
「あなたは學王になりたいのでしょう? そのために学園学も研究してるんじゃないの? だったら遠慮なく悪を実践なさい。私は悪を学ぶ者として協力してあげるわ。あなたは私を利用すればいいの」
 軽やかに告げて、天使のようににっこりと微笑んだ。
 本当の堕天使は、いつだって天使のように振る舞う。
 かつて彼女が言い放った台詞が思い起こされる。
〝正義をなすために悪行をも辞さないのが善人であるとするならば――〟
〝私は、真の悪を成就するために善行を積み重ねる堕天使になってみせる〟
「あらためて、手を組みましょう、令司」
 果無が歩み寄り、手を差し出す。
「今回の選挙で私が勝って、悪の実践が済めば、次はあなたの番が来るわ」
「…………」令司は差し出された手を見つめた。
 どの道、正体がばれてしまった令司に拒否権はない。しかも、こうも鮮やかに言われてしまうと、悪魔の誘惑に抵抗する気すら起きなくなる。
 令司の顔に、再び豺狼の笑みが宿った。
「いいだろう。互いの利益のため、互いを利用し合う」
 果無と握手を交わす。
 悪魔との契約だ。
「ええ。あなたはファウスト博士よ、令司」
「ククッ、俺を操って悪を実践するつもりか」
「あなた自身が悪魔に魂を売りたがっているのだから、メフィストフェレスとしてはそれを利用しない手はないわ。大剣寺総理を超えたいのでしょう?」
「そのためにはまず、お前を次の選挙に勝たせなければならない。なにか手はあるのか? 俺が盗聴したあの音声を利用するか?」
「あれはもう高い効果は望めないわ。それより、もう一働きして欲しいの。あなたが仲良くしてる、あの女の子」
「御御御ミハルか?」
「あの子をそそのかして、今度の選挙に立候補させられる?」
「なに? 選挙まであと二週間もないぞ。いまさらそんなことさせて一体」
 はっと思い当たる。
「あのパラドックスか!」
「ふふ、さすが学園学を研究しているだけあるわね」
 悪の契約を交わした二人は、雨の降りしきる中、次なる策謀を語り合った。

   †

 令司が立候補を勧めると、ミハルは思いのほかあっさりと了承した。
 最近の保笑夢の専横には、かねてよりミハルも腹に据えかねていたらしい。騎士団の中にも保笑夢に異を唱える者が増えているという。
「さすがに残りの短い期間で會長に勝つのは難しいと思うけど、私たちプロセント騎士団が會長のやりかたに反対してることを示すだけでも意味があると思うわ。それに、来年の選挙には出るつもりだったしね」
「ありがとう! 御御御さんならきっと學閻を良くしてくれると思ったんだ。ぼくも応援するよ! あ……でもぼくが立候補を勧めたことは會長や団長には……」
「ふふっ、わかってるわよ、切野くんの立場は。でも、もし私が勝って新會長になったときは、いまの微妙な立場から切野くんも解放されるわね」
「そうだねっ、そのときはぼくも御御御會長に協力するよっ」
「切野くんが研究している学園学も実践できるわね」
「うんっ、人道を尊重する、自由で平等な學閻にしたいね!」
 令司はチューリップのように、無邪気に咲った。
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