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文字数 18,187文字

【3話 水掛け祭り】

 あお。
 気温三十七度に抗議するように涼と世界を彩る、様々な、あお。
 深々と濃い、万年筆のブルーブラックインキが酸化して定着したような夏空(あお)
 離島ゆえに汚染のない、浅瀬から沖にかけて美しくグラデーションのかかった碧海(あお)
 夏空(あお)碧海(あお)を自在に行き来するウミネコの、翻る翼に見え隠れする青灰色(あお)
 浜辺に設けられた海の家の、風通しの良いベンチの上に誰かによって置き去りにされたラムネ瓶の、その中に閉じ込められたビー玉の円い瑠璃色(あお)
 匂い立つ肥沃土からたんまりと養分を吸って潑溂と伸びる雑草の縹色(あお)
 アパートのベランダに干された洗いざらしのジーンズの(あお)
 やけにのんびりと色が切り替わる、街角の錆びた信号機の青緑(あお)
 遠い海からやってきた潮風によって、くらげのように膨らむ教室のカーテンの淡青(あお)
 ――そのカーテンの内側に立って世界を眺望する少女の、そのつるんと広めの額に貼られた涼感シートの水色(あお)
「夏である!」
 大粒の汗をだくだく流しながら少女が叫んだ。
「恋の燃え上がる熱い季節である! が、いくらなんでも暑すぎる!」
 叫んだら余計に暑くなったのか、続く声は一気にトーンダウンした。
「まったく、近ごろの地球はどうなっているのだ……発熱しているとしか思えぬな」
 そう言って、學徒會長――歌胤保笑夢は同意を求めるように振り返った。
 膨らんだカーテンの領域外に控えていた切野令司は、もじもじと答えた。
「ほ、本当ですよね、やっぱり温室効果ガスの影響でしょうか」
「違う」
「……のですか?」
「きっとこの地球も、どこぞの惑星(ほし)に一目惚れして、恋病(こいやみ)にかゝっているのだ……」
 にんまりと、どうだうまいこと言ってやったぞという顔。
(なにを言っているんだお前は。またパンツでも落とせ)
 令司は口をついて出そうになる悪態をなんとかこらえ、
「ははっ、素敵ですね、さすが文芸を愛する歌胤會長です!」
 教室に二人きりな状況のため、他者に話を向けられず、愛想笑いで応じる他なかった。
「うむ、余の詩情は、いまやこの狭い地球を飛び出して銀河系の彼方にまで達しているのだ。……うきゅっ!?
 潮風が止み、膨らんでいたカーテンが萎んで保笑夢の上半身に降りかかった。それが繭のように絡みつき、しばらく彼女はあっぷあっぷと中でもがいていたが、やがて下からのそのそと這い出てきた。ぜえぜえと息を荒らげ、四つ這いから立ち上がり、猫が毛繕いをするように乱れた髪をしきりに手直しし、落ち着きを取り戻す。
「……ごほん。ところで切野一年生、貼り紙の犯人はやはりわからぬか?」
 しでかした醜態に触れて欲しくなさそうだったので、令司は事務的に答えた。
「はい、苑崎団長と一緒に犯人を捜しているのですが、まだわかりません」
「そうか、きっとかなり高度な知能を有している者たちであろう……断っておくが、本当に余ではないからな?」
(当然だ。苑崎の自作自演も見抜けないようなお前に高度な知能があるものか)
「しかし、ハカナがあれほど激烈に反撥するとはな。もっと冷静に対処するものと思っていたが……しかしそのおかげで、騎士団などの間でホトリ団への反感が強まっておる」
「騎士団の人たちも、犯人だと疑われて迷惑してるでしょうしね」
「うむ。そもそもホトリ団に共感する者など騎士団にはいなかったが、ハカナ個人に対しては一目置く者もいたのだ。だが今回の件で、すっかり愛想を尽かしたようだ」
「苑崎団長を尊敬する人もいたんですか」
「うむ。余に憚って公言はせぬが、内心で憧れている者もいたようだ。なにしろ史上最年少の『 』であり、彼奴には、なんというか……人を惑わす魔力がある」
「社会学者のマックス・ヴェーバーが言うところの、カリスマ的資質ですね」
「むっ、そうとは言ってないっ」
 保笑夢が額に貼った涼感シートを乱暴に引っ剥がす。汗だくで紅潮した彼女の顔の中で、シートで冷やされていたその四角面のみが普通の肌の色を保っていた。
「カリスマとは余のような偉材を指すのだ。ハカナはただの煽動家(デマゴーグ)に過ぎぬ!」
 令司は臆したような態度を取りながら、心中あざ笑った。
(やれやれ、苑崎に対するコンプレックスは重傷だな)
「だが、ハカナも今回ばかりは失敗した。余は空論城の大浴場でよく騎士団と語り合うのだが、もうハカナから人心は離れたと言ってよい。ハカナが選挙に勝つためには、騎士団を仲間に引きいれ、その騎士団を支持する制服組の票を獲得しなければならぬはずだ。それがもう叶わぬとなれば、選挙の結果は見えている」
 保笑夢のその言葉を聞いた瞬間、令司の脳髄の計略図に、新たに血が通った。
「歌胤會長は、空論城のお風呂でみなさんと話しているのですか?」
「うむ。文字通り胸襟を開くために、浴場で語り合うのだ。空論城の大浴場は騎士団と學徒會のメンバーしか使用せぬから、重要な打ち合わせをするのにうってつけなのだ。無論、男子とはできぬがな」
(ふうん、重要な打ち合わせを大浴場で、ね)
 この情報は使えると、ついつい令司の顔に豺狼の笑みが漏れてしまった。
 それを見た保笑夢が、はっとなにかを察したように子鹿の目を見開いた。
(しまった、見抜かれたか!?
「お、おぬし、まさか……」
 保笑夢が怯えたように胸の前に手を引き、
「風呂と聞いて、いやらしい妄想をいたしておるのかっ!?
「……は?」
 ぽかんと埴輪のような顔になってしまう。
「余のあられもない姿を想像してニヤついているのではあるまいなっ!? いくら精力のあり余っている十代男子と言えど、欲望に忠実過ぎるはケダモノと同じぞ!」
「なっ、違います! そんな変な妄想なんてしてませんっ!」
 不名誉すぎる保笑夢の勘違いに、令司はちぎれそうなほど首を振る。
「本当だろうな? 悪いことは言わぬ、いくら余が美しすぎるからとて、妙な考えはやめることだ。栄えある學徒會に入りたいのであろう?」
「は、はい。頑張ってホトリ団の潜入捜査をやり遂げて、學徒會に入りたいです」
「うむ。しかしもう潜入の必要性も薄くなったな。敵失により、もう勝負は決まったも当然だ。たれがあんな弾劾状を作ったかは知らぬが、余にとっては好都合であった。……が、學閻全体から見れば、いまの状況は決して良いとは言えぬ」
「制服組と私服組が、いがみあってしまっていることがですか?」
「此度の衝突はかつてないほどだ……學徒會にも事態解決を望む陳情がつぎ〳〵に寄せられている。指揮剣を託されている余としては、これを見過ごすわけにはいかぬ!」
「では対策を?」
「然り!」
 保笑夢が身を翻し、垂れ落ちたカーテンを勢いよく開け放った。
 そして腰の指揮剣を抜刀し、窓から空へ切っ先を突き出した。
「この剣の出番である! 両派の過熱した確執を冷やすため、これより學閻名物(水掛け祭り)を開催する――――――――ッ!」

   †

 あお。
 背中から翼の生えた奇妙な黒猫の、二つの眼窩にある青瞳(あお)
『カァ』と、その青瞳(あお)を閉じて、あくび。
 ベリアルは獄舎の中庭の木陰に座り、後ろ足を開いてぺろぺろと毛繕いを始めた。
 そのとき、耳障りなハウリングが空に鳴り響いた。
 島内スピーカーのスイッチが入れられたのだ。
【指揮剣命令である!】
 毛繕いをするベリアルのヒゲがぴんと張り詰めた。
【全學閻生に命ずるッ! これより、學閻名物(水掛け祭り)を開催するッ! いまから陽の暮れるまで、水ぶっかけ放題である! びしょ濡れ上等である!】
 音割れしそうなテンションで保笑夢ががなり立てる。
【フラストレーションの溜まっている學閻生たちよ! 無礼講である! 水という原始の武器を用い、思うさま憎き敵を打ち据え、荒蜂音(あらぶ)るがよいっ!】
 學閻のあちこちから、「うぉぉおおおお!!」と雄叫びが上がる。
 ベリアルは剣呑な空気を嗅いだように鼻をひくつかせると、中庭のポプラに取りつき、爪を立ててガツガツと登っていった。先客のアブラゼミがジジッと樹皮から逃げていく。
 ベリアルは太い枝に辿り着くと、そこに腰を落ちつけ、前足で顔を洗って一息ついた。顔を下げると、青々と茂った葉群の隙間から、中庭の様子を見ることができた。
【たゞし! 戦いが終わったあとはノーサイド! 手に手を取り合って萌黄顔(ほがらか)に健闘を讃え合うがよい! あと二十日に迫った學閻祭を成功させるため、互いの禍根をこの水掛け祭りで綺麗に洗い流すのだ! では、戦闘開始ッ!】
 ごぉぉおおん! と、中華料理対決でも始まりそうな銅鑼の音が響き渡った。
 ベリアルはミミズクのように目を見張って下界を見つめ続ける。――その青瞳(あお)の表面が水鏡のように煌めき、中庭の光景が左右反転して表面に映り込んでいる。
 賑々しく中庭に駈けつけてくる生徒たち。
 それぞれの手には、水掛け祭りの得物。
 たぷたぷと水を容れたバケツの、群青(あお)
 サブマシンガンを模した水鉄砲のタンクの、空色(あお)
 飛び交う水によって芝生に産み落とされた、幼い虹の、緑青紫(あお)

   †

 ――一瞬だけ視界がぼやけたあと、ざばあん、という盛大な音を顔にぶっかけられた。
 気温のせいでバケツの水も温くなっているため、最初は水をかけられたというより、大きな音の塊をぶつけられたという気がした。ポロシャツの鹿の子生地がぐっしょりと濡れ、肩に重みを感じたところで、ようやく水をかけられた実感が湧いてきた。
「……な、なにを?」
 意味がわからず呆然とする令司に、水をぶっかけた張本人の保笑夢は得意満面で、
「ふはゝゝゝゝっ! 孑孑()~っと油断している方が悪いのだ! もう祭りは開始しているのだぞ! 制服組の余と私服組のおぬしは敵同士であることを忘れたかっ!」
 學徒會室から全島放送を流したあと、保笑夢は更衣室に入ってなにやら支度を始めた。そして出て来るなり、廊下で待っていた令司にいきなり水をぶっかけてきたのだ。
「あの……水掛け祭りとは? 転校生のぼくにもわかるよう説明してくれませんか」
「ぬ? そうか、おぬしはこれが初めてだったな。夏の恒例行事ゆえ、もう十分に知悉しているものと思っていた」
「え、毎年やってるんですか!?
「學閻名物と言ったろう。昔は隔週でやったりしてたぞ」
「……ここって本当にエリート校なんですか?」
 思わず本音が漏れた。
「スポーツの一環だ。イギリスのパブリックスクールでも、ヨットやラグビーが奨励されている。心身を鍛えることによって貴顕紳士が育まれるのだ。この水掛け祭りは、タイの『ソンクラーン』という祭りを模しているらしい。ソンクラーンでは清めの儀式として市民同士で水を掛け合うという。期間中は街のいたるところにウォータースタンドが設置され、見ず知らずの通行人や観光客にも容赦なく水をぶっかけまくるそうだ」
「そんなことされてみんな怒らないんですか?」
「清めの儀式だからな。それゆえおぬしも怒ってはならぬぞ? さっきの放送でも言ったが、二十日後に控えた學閻祭を成功に導くためには、この水掛け祭りで両派の怨念を取り除かなければならぬのだからな」
 保笑夢はそう言って、近くの水飲み場へ向かい、空になったバケツに水を補充した。その背中には、サブマシンガン型の大きな水鉄砲がストラップでくくりつけられている。
「どうした? おぬしも戦に備えるがよい。武器がなければ戦えぬぞ。それと、濡れても平気な恰好に着替えた方がよいぞ」
「濡れても平気な恰好って……歌胤會長は着替えたんですか?」
 普段と同じ制服に見える。違う点があるとすれば、指揮剣がないことぐらいだ。
「さっき更衣室でな。ほれ」
 保笑夢が自慢げな顔で、やにわにスカートの前をたくし上げた。
 張りのあるふとももが、根元まで露わになる。
「うわっ!?
 ふとももの肌色から上は、紺色のすべすべした生地が覗いた。果無いわく、保笑夢が好んではく下着は白地に水色の横縞(ボーダー)の入ったものらしいが、それとは明らかに違う。
「水着……ですか?」
「うむ。これなら濡れても被害は最小限だ」
「だったら水着だけでもいいのでは……? その上に制服を着なくても」
「莫迦者! 栄えある學徒會長が、私服で戦場に立てるかっ!」
 背中から水鉄砲を外し、ぴゅーっと攻撃してくる。
 山なりのそれをあえてよけずに胸に受けながら、令司は冷静に、
「なら、せめてスカートだけでも脱いだらどうでしょう? ウールは濡らさない方がいいですし。上だけでも着ていれば、とりあえず体裁は保てると思いますが」
「おゝっ、そうか、それもそうだな!」
 さっそく保笑夢がスカートを脱ぎにかかった。普段の癖なのか、スカートを下ろして脱ぐのではなく、両手を交叉させてTシャツのように上へたくし上げて脱ごうとする。体の凹凸に乏しいため、途中で引っかかることもないのだろう。
 うっぷと頭からスカートを脱ぎ、ふうと足下を見下ろして、
「うむ〳〵、これなら動きやすいし、學徒會長の威厳も保たれるな」
 と、ご満悦。下半身をよく見ると、彼女の水着はスクール水着であった。それも、腰から下に共布の切替があり、へその下に水抜きのためのスリットが入っている旧式タイプだ。さらに、制服のブラウスが透けて、上半身の水着の具合がわかった。平らな胸に白布の名札が貼られてあり、『五年生 うたたねぽえむ』と丸文字で記されてあった。
(五年!? まさかこいつ、小学生から体型が変わってないというのか!?
「よし、では余も戦地へ赴くことにしよう。ジャンヌダルクのように先陣を切って戦うからこそ、下々の尊崇を集めるのだ! おぬしも早く武器を持って駈けつけるがよい! 次に会ったときは敵同士だがな! ふはゝゝゝゝゝゝっ!」
 保笑夢は水鉄砲を背負い直し、給水を終えたバケツを持ってぺたぺたと素足で駈けてゆく。スクール水着の小ぶりな尻が、コーギーのようにふりふりしている。
 つきあいきれん、と令司は保笑夢とは反対に足を向けたが、
(……あの男も昔は、この學閻でこんなバカげたことをしていたのだろうか)
 ありし日の母の面影が脳裡をよぎり、令司は忌ま忌ましく舌打ちした。
「いいだろう……學王にのし上がるためなら、なんでも利用してやる」

   †

 ――最初てっきり、白いテーブルに異界とつながる穴が空いて、モンスターの黒い触手がずるずると這い出ているのかと思った。
 実際にはそれは人間の黒髪(かみ)で、なぜそんなものがテーブルに広がっているかというと、苑崎果無がそこへ突っ伏しているからである。
 住庭館の一階の、共有ダイニング。果無はボーリング・レーンのように長いテーブルの端に座り、両の手の平を重ねて枕にし、そこへ頬を載せて寝ていた。普段は重力に従ってまっすぐ下ろされている髪は、いまは乱雑に白いテーブルに散らばっている。それが邪悪なモンスターの触手に見えたのだ。
 もっとも、邪悪という点についてはあながち間違いでもない。なにしろ彼女は堕天使を自称し、自作自演によって平然と大衆操作を行うような人間なのだ。だが、長い睫毛を伏せ、すうすうと寝息を立てている無防備なその姿は、あどけなさすら漂うほど邪気がなく、見る者を童話の世界へ誘うような魅力を醸していた。
「…………」
 それを見つめる令司の姿は、未だに濡れたままだ。獄舎を出てからここにいたる道中も、保笑夢の放送を聞いて駈けつけてきた生徒たちによって容赦なく水をかけられてしまった。ゾンビの群れに襲われるような恐怖だった。息も絶え絶えに住庭館に戻り、なにげなくダイニングに顔を出したら、この光景に出くわしたのだ。
「…………」
 令司は手を差し伸ばした。向かう先は、彼女の艶やかな髪。間近で見ると、それは触手どころか、水面を浮動する墨流しのマーブル模様のような雅趣があった。
「…………」
 そっと、くしけずるように指を通す。長い髪束がしなやかに屈曲し、揺動し、黒々と光沢を放ち、一本一本が新たな生命を得たように振る舞った。それを生け捕り、弄ぶ。嬲る。触れた爪の合間から背徳的な快感が突き抜けた。きゅっきゅと音がしそうなほど、その髪の触り心地は素晴らしかった。上質な絹の織物のようだ。
「ぅ、ん……」
 果無が目を閉じたままうめいた。
「こぉ、ら……ベリアル……」
 枕にしていた手が動き、しっしっと机上の邪魔者を退かすように払われた。
 令司はさっと髪を手放し、果無から距離を取った。ダイニングのドアまで逃げたところで、むくりと果無が起き上がった。令司は来たばかりのように振り返り、
「あ、苑崎団長、寝てらしたんですか?」
「………………」ぼ~。
 胡乱な眼差しで、彼女は違う世界を見つめていた。椅子の背もたれにしどけなく体重を預け、いつもならば姿勢よく官能的なS字を描くその背骨は、いまは缶詰にされたサバの中骨のようにやわらかく崩れてしまっている。
 顔つきもしまりがなく、ぬぼ~っとしたカピバラを思わせる。恰好はいつものように黒ずくめなのだが、どこか着色前のフィギュアのような気の抜けた生成りの雰囲気が漂っていた。普段の凜々しい姿からはほど遠い。
 実は彼女は低血圧で、寝起きはいつもこうなってしまうのだった。これでもまだましな方で、朝はもっとひどい。融解する。浜辺に打ち上げられたクラゲめく。初めてその姿を見たときは令司も驚いたものだ。
「…………」
 年代物の扇風機のように緩慢に、彼女が首を左右に振る。
 覚醒しきっていない半眼が、なにかを捜している。
「団長?」
「いま……ベリアル、いなかった?」
「ベリアル?」
「髪にじゃれてたような……」
 令司は無垢な笑みを浮かべ、「夢でも見ていたのでは?」
「そうかしら……」釈然としない顔で髪に手ぐしを通しながら、「舐められたみたいに濡れてる部分があるけれど……」
 令司は無垢な笑みを浮かべ、「夏の湿気のせいでしょう」
「そうかしら……」
 喋っているうちに徐々に意識がしっかりしてきたのか、胡乱だった瞳が定まり、声にも張りが出てきた。
「切野くん、どうしたの。水も滴るいい男になっちゃって」
「放送聞いてなかったんですか?」
 令司は水掛け祭りが始まったことを説明した。
「そんなわけで、ぼくもバケツでも持って戦いに行こうかと。苑崎団長もこんなところでもたもたしてると、水掛けられちゃいますよ。それじゃ着替えてきます」
「待って。どうせ着替えるのだったら」
 
 十五分後。
 そこには、メイド服をまとった令司の姿があった。
 
 しゃらら~ん♪ という変身の効果音がどこかから聴こえてきた。
「こ、この服は……」
「知っての通り、ホトリ団は學閻の管理をする組織よ。つまりメイド。學閻と生徒たちにご奉仕する役目なのだから、それにふさわしい恰好が必要よ」
「……わざわざ作ったんですか」
「學閻の予算で作ったわ」
「私服組の血税でなにしてるんですかっ!?
 叫んだ拍子にフリルつきのカチューシャが落っこちた。果無がそれを拾いながら、「メイドがそんなはしたない声を出してはいけないわ」と言って、再び令司の頭に優しく装着した。令司は長いスカートの根をぎゅっと握って羞恥に堪えながら、
「どうしてぼくがこんな……」
「ランチェスター戦略よ」
「……?」
「この機会に、次の作戦に移行するわ」
 果無はこのイベントを利用して、実体語と空体語の両方を変化させることにしたのだ。
 制服組と私服組の激情が臨界点に達したあと、両派に訪れるものは虚脱だ。もうどんな激しい言葉をぶつけたところで、それが天秤に乗ることはない。
 その瞬間を狙って、新しい価値観を提出する――いわば天秤自体を新しくするわけだ。それは、學閻の言語空間を、果無にとって都合の良いものに塗り替えることを意味する。
「過熱し合った言葉が雲散霧消して、人々が新たな価値観を求めたとき、學徒會よりも先に私たちが新しい価値観を示さなければならないのよ」
「それがこのメイド服なんですかっ!?
「ランチェスター戦略の要諦は、局地戦と接近戦に勝利することよ。そのためには、わかりやすくて潜在的ニーズのあるアイデアを投入しなければならないわ」
 ランチェスター戦略は世界的に有名な経営戦略だが、元々は戦争のために編み出された軍事法則だった。イギリス人のフレドリック・W・ランチェスターというエンジニアが、第一次世界大戦の際に『戦闘機の多寡×戦闘機の性能の優劣』の関係によって敵への損害が決まるという『ランチェスターの法則』を提唱した。それを、日本人の田岡信夫(たおかのぶお)が経営戦略として応用し、発展させたのだ。
 ランチェスターの法則によって導き出される戦い方は、『強者』と『弱者』によって大きく異なる。兵力数が多く、優秀な武器を持っている『強者』は、数と力に物を言わせて広域戦を仕掛け、敵を木っ端微塵に打ち砕けばいい。
 ランチェスターの法則によれば、多人数が一斉にぶつかり合う広域戦の場合、 
 ●戦闘力=武器効率(質)×兵力数(量)の二乗
 となるという。
 たとえば、五人の陣営と三人の陣営が、同じ武器で戦うとする。
 単純な引き算でみれば、両者の差は『2』しかない。しかし広域戦に発展した場合、五人の戦闘力は二乗した『25』となり、三人の戦闘力は二乗した『9』となる。
 これに武器の性能差まで加われば、さらに戦闘力に差がつく。
 このように、『強者』は広域戦や遠隔戦で戦うべきなのだ。
 逆に、『弱者』はそういう戦い方は避けねばならない。
 太平洋戦争の日本軍はその選択を誤り、連合国相手に広域戦と遠隔戦を仕掛け、敗北した。日本軍は武器の性能においては勝っている部分もあったが、兵力数と武器数においては圧倒的に劣っていたのだ。
 それでは、『弱者』はどのように戦うべきか。
『強者』とは逆の戦略だ。
 広域戦ではなく局地戦、遠隔戦ではなく接近戦を選ぶべきなのだ。
 そして、一騎打ちだ。
 機関銃などで複数の敵に攻撃を仕掛ける『確率戦』は、弱者が取るべき戦略ではない。あらかじめ「この相手と戦う」と決めて戦う、一騎打ちに持ち込むべきなのだ。
 これを経営戦略に応用した場合、弱小企業がすべきことは『差別化』だ。大手と競合しない差別化した商品や販売地域を設定し、そこへ戦力を集中して『部分的に勝つ』ことが重要なのだ。決して敵の土俵に上がらず、得意な部分で一騎打ちに持ち込む。
 これはマーケティングの世界でも言われていることだ。
 著名なマーケターであるアル・ライズとジャック・トラウトが書いた『ボトムアップ・マーケティング戦略』によれば、弱者が強者に対抗するためには、まだ強者の行っていない一つの隙間的(ニッチ)なアイデアを打ち出し、宣伝でそれを強調することが大切だという。
 強者が『なんでも売っているデパート』ならば、弱者は『専門店』であるべきなのだ。
 ――『マーケティングとは、単純なアイデアが複雑なアイデアを打ち負かすゲームであり、たった一つのアイデアが多様性を打ち負かすゲームだ』と彼らは言う。
 欲張って複数のアイデアやメッセージを入れるべきではない。――『自らが発したメッセージが矛盾する場合、自分自身と競争していることになる。つまり顧客が混乱することになる。一つのものに二つのポジションを与えることは強い違和感を与える』からだ。
「私たち弱者が勝つためには、一つの隙間的(ニッチ)アイデアを前面に打ち出して敵と差別化を図り、局所戦に勝たなければならないわ。幸いなことに、保笑夢は支持率の高さに慢心して、具体的な選挙公約を掲げていない。『この學閻をより良くする』といったような、全方位に曖昧に打ち出すようなアピールを選んでしまっている」
「でも、學徒會は強者ですよね? 広域戦を選ぶのは理に適っているのでは?」
「もしこれが長期戦ならそれでいいのよ。學徒會は強者として勝ち続けるでしょうね。でも、選挙は短期戦の一発勝負なのよ」
「あ……」
「短期かつ局所の戦いなら、弱者にも勝つチャンスが生まれる。もっとも、国政選挙みたいに広い選挙区と多数の市民を相手にする場合なら、幅広い戦略を取れる強者の方がやはり有利ではあるわ。でも學閻選挙ぐらいの規模なら、短期的に潮目が変わるし、大衆はより具体的なインパクトを持つ方を信用したくなるものよ」
 果無は青磁めいた神秘的な笑みを浮かべ、指先でテーブルをなぞる。
「私はこれまで、あえて制服組を敵視する言動を繰り返してきたわ。でもそれでは制服組の支持は得られない。かといって制服組におもねるような政策案を出すと、支持地盤である周縁窟にそっぽを向かれてしまう」
 テーブルの指先が迷うように、右と左を行き来する。
「そこで、右と左をシャッフルすることにしたの。ここ二週間以上に渡って両派を煽り立てて争わせたのはそのためよ。狙い通り、実体語と空体語は重くなり続け、それを載せる天秤はもう崩壊寸前。それを今日のイベントでついにぶち壊すのよ」
「ぶち壊すって……」
「ふふっ、もっと上品に『確執を昇華させる』と表現した方がいいかしら? そうしてから、私たちホトリ団が新しい道を示す。それによって……」
 指先でテーブルに大きく×の字を描き、指を放して宙空に小さな○を描く。
「右や左の垣根を越えた、新しい支持層が空中に出現するのよ」
「そのための……メイド服ってことですか?」
隙間的(ニッチ)ですぐれたアイデアというのは、決して専門的なものだけじゃないわ。人々が潜在的に持っているニーズを呼び起こすことが大切なのよ。階層を越えた幅広い人々が無自覚に持っている、隠れた願望や欲求ね」
 果無が爽やかに微笑む。
「だから、切野くんにはメイド服を着てもらって、男子からも女子からも狙われて欲しいの。あなたが犯されれば犯されるほど、私の支持も膨らむわ」
「いますごく話が飛躍しましたよね? 飛躍しましたよね?」
 真顔で詰め寄った。
「冗談よ、冗談。本気なのは半分だけ」
 果無は椅子から立ち上がると、芝居がかった仕草であさっての方角を指差し、
「私たちが新しく打ち出す方針は、ずばり『學閻にご奉仕するホトリ団』よ!」

   †

 そうして學閻メイドとして出陣した令司は、たちどころに血走ったゾンビたちに追いかけ回され、容赦なく水を掛けられ続けた。制服組も私服組も関係ない。男も女も関係ない。なにか性的なものを込めるように、令司の顔めがけて発射、発射、発射――
 \メイドぉ!/謎のメイドっ子キタコレ!\うぉぉおおおお濡れ濡れじゃあ!/
「ま、待って下さいっ! ぼくは男です! ホトリ団の、うゎっ!?
 \ボクっ子だとぉ!?/男の()よ!\ぺろぺろしたいぺろ!/ちゅっちゅしゅる!\
(どうかしてんじゃねえかこいつら!?
 令司の任務は、メイド服を着てホトリ団のイメージアップを図り、新しい方針を生徒たちに示すこと。
「み、みなさんっ! 話を聞いて下さい、ぼくはホトリ団の団員として、うきゃっ!? 掃除を、みなさんが濡らした場所を綺麗にするために、ぴちぃっ!?
 濡れた廊下などを綺麗にするため、一応モップも手にしているが、すでにそれもびしょびしょになってしまって意味がない。四方八方からバケツや水鉄砲の攻撃が飛んでくる。ある者なぞ水道にホースをつないで引っぱってきて、消防官気取りで放水してくる。
 \ヒャッハー! メイドは濡れ濡れだ~っ!!
 中には、ただの水では飽きたらず、涼感を増すためのメンソールパウダーを混ぜた液体をペットボトルに詰め、しゃかしゃかと振りかけてくる者もいる。白濁した液体がさらに劣情をそそるのか、昂奮に顔を染め、ハァハァというケダモノの息遣いで舌をぺろぺろ出した中等部の女子に追いかけ回されたりする。
 \お姉兄(ねにぃ)さま~~~~っ! わたしの愛の白濁液を受け取って下さあいっ♡/
 令司は、濡れて足に吸いつくメイド服のスカートをつまみ、トラに追われる孔雀のごとく死にものぐるいで逃げるしかできなかった。
「犯されるっ! 本当に犯されてしまう!」
 もはやホトリ団のイメージアップどころではなく、あちこちから飛びかかってくるゾンビの魔の手をかいくぐるのに手いっぱいだった。
 制服組と私服組は、最初こそ確執をぶつけ合うように組織的に争っていたものの、互いにひとしきり濡れたあとは、もう相手構わず手当たり次第に無差別攻撃することに関心を移していった。まだ濡れていないうぶな者。事情を呑み込めていない観光客。気にくわない教師。好きなあの娘を集団で。――惨劇はとめどなく島中に拡大していく。もはや祭りの趣旨など忘れて下町で西部劇ごっこをして遊ぶ者多数。
 他のホトリ団員たちも、令司と同じく掃除道具を手にイメージアップ作戦を行っているはずだったが、メイド服は令司しか着ていない。――あなたを団のマスコットにしたいの。みんなからねんごろにかわいがられるマスコットに、とは果無の弁。
「苑崎め……この貸しはあとで万倍にして返してもらうぞ!」
 令司は悪態をつきながらひとけのない場所をめざして駈ける。スカート+ガーター+パンプスのせいか、ついつい内股になってしまうのが情けなかった。
 島端の岬に出た。
 學閻の獄舎が建ち並ぶ高台から、さらに草原の丘を登ってゆくと、そこにはとても目立つ建造物がそびえ立っていた。
「風車……」
 令司はそれを前にして、思わず惚けた顔で立ち尽くした。
 高さ二十メートルはありそうな風車が、威風堂々とそそり立っていた。それも二台。まったく同じ(なり)のものが神社の狛犬のように並んで、海を見つめている。
 風車というと、北欧などに見られるような煉瓦造りの小屋を想像しがちだが、あれは羽根の回転を動力として石臼を回し、中で製粉作業などをするためのものだ。ここにある風車は発電用で、無駄の一切そぎ落とされたモダンな形状をしている。スリムな三枚羽根(ブレード)が、いまも潮風を受けて緩やかに回転していた。
 船でこの島に来るときも、獄舎の窓から外を眺めるときも、この岬の二台の風車はとても目立っていた。しかし実際にここまで足を運んだのはこれが初めてだった。
 草原に人の姿はないが、柵で囲われた牧場があり、ときおり牛や豚の鳴き声が低く響いてくる。他にも、潮風が草木を撫でて起きる擦過音や、崖の下に打ちつける波音、そして巨人のように立ちはだかる風車たちから、羽根の風切り音とまでは言えない微妙な音の圧が届いてくる。普段の獄舎や下町では味わえない賑やかさだ。
 岬の突端には、木の柵とともに無数のサボテンが植えてある。
 電柱のようなのっぽから、イソギンチャクのようなものまで、物は様々だ。花をつけているのもある。どうやら崖があることの警告もかねて植えられているらしい。数百数千の棘が、ここから先へは行かさんと通せんぼしているようだ。
「…………」
 令司はしばらく、そのサボテンたちを呆然と見つめていた。やがて、もうすっかり冷えきってしまったはずの胸に、サボテンの花のような暖色のぬくもりが点された。
 亡き母との、在りし日の思い出だ。
 ――母はいつも、安い賃貸アパートの部屋の窓辺に、鉢植えのサボテンを並べていた。どれも数百円から数千円であがなえるような安いものだ。母は貧しかった。いつもパートに出て、幼い令司を養っていた。その母の唯一の趣味がサボテン栽培だった。愉しそうに鉢植えに水をやる母を、令司はいつも不思議な思いで見つめていた。反応が返ってくるわけでもなく、棘のせいで触ることもできないようなものを、どうしてかわいがるのか。
 いつだったか、訊いてみたことがある。
〝お母さんは、どうしてサボテンが好きなの?〟
 母は痩せた笑みを湛えて言った。
〝似ているのよ、あの人に〟
 それが誰のことなのか、幼き令司にもすぐに察しがついた。
〝もう忘れなよ! あの人はもうお母さんのとこには帰ってこないよ! だから〟
 ――代わりにぼくが、お母さんの側にいて守ってあげるから、と。
〝ありがとう、令司。私の優しい子〟
 パートの仕事であかぎれ走った手が、令司の頭を優しく撫でる。
〝でも、いいのよ。なにも言ってくれなくても、棘があって触れなくても〟
〝え……?〟
〝それでも私は愛しているの。あの人を。あの人に似た……サボテンも〟
 言葉を失う令司を前に、母は痩せた、けれども少女のような微笑みで、
〝サボテンには別名があるのよ。まだ令司には難しい漢字だけど、それはね……〟
覇王樹(はおうじゅ)
 不意に後ろから女性の声が聞こえ――はっと令司は我に返った。
 一瞬それが母の声に聞こえた。
「お母さ」
 振り返った令司の顔に、水鉄砲の一撃が飛んできた。
 視界が滲み、鼻の奥がつーんとした。
 令司はなにもできず、顔を濡らしてただ目を見開いていた。
「あはははっ、やっぱ切野くんだ。なあに、そのカッコ! 男の子のくせにかわいすぎるものだから、ついに女の子になることにしたの?」
「御御御……さん」
 彼女は大きな水鉄砲を手に、ひまわりのように咲っていた。
 令司はしばし呆気にとられ――やがて、怒りにも似た猛烈な羞恥が湧き起こってきた。
 強ばる顔を必死になだめ、困ったように微笑む。
「そのう……これにはちょっと事情があって。ところで、さっき覇王樹って……」
「覇王樹園っていうのよ、ここ」
 ミハルは水鉄砲の筒先で、令司の後ろのサボテンたちを指し示す。
「園といっても、ただ柵と一緒にサボテンが植えてあるだけなんだけどね。切野くん知ってた? サボテンって漢字では覇王樹って書くらしいわよ。私、理系だから漢字の由来とかあまり興味ないんだけど、棘があって強そうだからかしら?」
「……触れることができないから、覇王なんだよ。……あの男のように」
 ミハルが「え?」と眉を上げた。令司は「ううん?」と笑顔で応える。――激情が行き場を失い、爪が手の平に刺さりそうなほど食い込んだ。
「御御御さんはどうしてここに?」
「逃げてきたのよ。まったく、會長のお祭り好きにも困ったものよね。濡れてメイクが崩れたら女子はヒサンよ。一応ウォータープルーフに替えたけど」
「ここへはよく?」
「べつに? いつも人いないから、ここなら襲われないかなって。あ、でも雑誌のロケで何度か使ったかな。撮影には向いてるのよね、岬だから見晴らしがいいし」
「サボテンと風車って組み合わせも……」
「そうそう、珍しいし。ここのサボテンって、昔から學閻生に受け継がれてきたものらしいわよ。サボテンって数十年も長生きするんだって。入学式で校長が熱弁してたわ」
 ミハルがマイクを持った手つきをして、校長の物真似を披露する。
「校長の私が願うのは、新入生諸君も覇王樹園のサボテンのように、野にあってもたくましく育って欲しいということです! しかし棘を外に出して人を傷つけてはなりません! 棘はいつも自分自身の弱い心にこそ向けられるべきであり……」
「あはは……」
「体育会系のノリか知らないけど、私そういうの苦手。一応学者の家系だから、進学校って聞いてここに入ったんだけど……」
「後悔してるの?」
「ちょっとね。高等部に進級するとき、本土へ転校する手もあったかなって。やっぱちょっと特殊すぎよここ。みんな感覚が麻痺ってるんじゃない? 私みたいに仕事を通じて本土と交流があれば、どれだけ異常か気づくと思うんだけど」
「ぼくも最初驚いたよ」
「とくにいまの會長は……なんていうか、子供っぽすぎるっていうか……今日みたいにへんなイベントを始めちゃうし。いくら慣習的に指揮剣の命令は絶対であるといっても、ね。まっ、ちゃっかり武装して参加しちゃってる私も私だけれ、ど!」
 強めた語尾とともに、再びミハルが水鉄砲を構えて令司めがけて発射してきた。もうすっかり濡れきっている令司だが、お愛想で「きゃっ!」と嫌がってみせる。
「ふふっ、ほんと女の子みたい。そのカッコはなにかの罰ゲーム? また會長が無茶ぶりしてきたの? 切野くん、女子のことが苦手だっていうのに、困った人ね」
 ミハルが呆れ顔をする。やはり、この前の令司の作戦は効果があったらしい。ミハルは令司をかばい立てするように、保笑夢の批判を始めた。この恰好になるよう命じたのは保笑夢ではなく果無なのだが、令司は黙っていた。
「會長の強引なやりかたには、騎士団でも不満を持ってる人は結構いるわ。もっと普通に學閻運営できないかしら。歌胤會長だけの責任じゃないけど、ここ最近ずっと學閻のレベルって落ちてるのよね。全国模試の平均とか、一流大学への進学率が下がりっぱなし。入学希望者だって昔より減ってるっていうし」
「みんな……面白さ優先で會長を選んじゃってるのかな」
「それもあるし、會長になりたがる人が英雄志向すぎるのよ。OBの學徒會長にカリスマ的な人がいて、その人が政界で目立ってるものだから、みんなそれに影響されて派手に振る舞おうとするの」
「え……」
 ――どくん、と胸が震えた。
「學王って言われたらしいわ。會長と『 』を兼任してね。そうそう、この風車もその人が作ったみたいよ。いまから三十年ぐらい前? 島の電力不足を解消するために、その人を中心に自分たちで作っちゃったらしいわ」
「この、風車を……自分たちで?」
 令司はあらためて二台の風車を振り仰いだ。確かに相当古びていて、最近のものとは思えない。言われてみれば、素人らしい粗も見えてくる。二十メートルという高さは、普通の建造物であれば十分に立派だが、風力発電用の風車としては小ぶりだ。風車は大きければ大きいほど発電量が増すため、最新のものは五十メートル以上の高さを誇るものも珍しくない。
「その人が資料を取り寄せて、一から設計を始めたらしいわ。最初はみんな、そんなこと不可能だって笑ってたみたいだけど……その人だけは諦めないで、資材を運び込んで加工して、結局一人で最初の一台を完成させたんだって。それを見て感動した生徒たちが次々に協力して、二台目が作られたって言うんだけど……ねぇこの話、信じられる?」
 令司は、相槌すら打てなかった。――背後には、母の愛したサボテンが。それと向き合うように、あの男が作りあげた風車がある。ミハルが感心したように腕を組んで、
「それ以来、この風車が學閻の象徴になったのよ。自主独立の精神を体現してるってね。さすが、この国の総理にまで登り詰めるような人は立派な」
「違う!」
 令司の叫びに、ミハルがびくりとする。その反応を見て、はっと令司は我に返った。
「あ、いや、……ごめん、大きな声を出しちゃって……」
「も、もう切野くん、政治に関心がある人だったの?」
「あはは、いやあ……」
 令司の手の平に、再び爪がきつく食い込んでいた。 
 記憶の中の母の面影が紅蓮に包まれ、代わりに銀髪のあの男の姿が立ち上る。
「べつに、総理なんかに興味ないよ。ほんと、全然……ただ、御御御さんが楽しそうに男の人の話をするから」
「え? やきもち焼いちゃった?」
「そ、そうだよ。だって、やだもん、御御御さんがそんな……」
 おどおどとした令司の表情の裏側に、赤々とした情念がたぎっていた。
 暴力的な衝動を抑えられない。誰でもいい、無茶苦茶にしてやりたかった。
「なあに? いくら女の子に慣れたいからって、私を口説くつもり?」
 ミハルが挑発するように笑いながら、
「そういうのはね、その女の子みたいなカッコをやめてからすること、ね!」
 再び令司に向けて水鉄砲を発射した。
 しかし今度はただ受けるだけではなく、令司は水に向けて突進した。
 驚く彼女の手から、さっと水鉄砲を取り上げた。
「バカにしないでよっ! ぼくだって、ぼくだって!」
 ミハルの体めがけて、シュカシュカと発射していく。
「きゃあっ、もうっ、濡らさないでよう!」
 ミハルが笑いながら背を向けて逃げていく。彼女はいつも通りの制服姿だが、足下だけは素足にミュールという水はけのよいものに替えていた。
 二人は戯れながら追いかけっこし、やがてミハルは疲れて風車の壁に背を預けた。
 令司は手を緩めず、正面からミハルの体に水を掛け続けた。
「きゃははっ、ちょ、ちょっと切野くん、だめっ! 降参! 降参するからぁ!」
 やがてタンクの水が尽き、令司は肩で息をつきながら水鉄砲を捨てた。
 ミハルはびしょ濡れになった金髪を手で絞りながら、
「もうっ、こんな怒んなくってもいいじゃない。べつに私」
 髪を絞る手が、目前に迫った令司によって、ひしとつかまれた。
「切、野くん?」
「御御御さん……ぼくも、ぼくだって……」
 令司は意を決した顔を作って、ミハルに接近した。
 ミハルは壁に背をつけているため逃げられない。令司を拒絶しようにも両手をつかまれている。形の良い唇が二の句を失って宙に浮いたように半開きになっている。
 二人の濡れた体が密着する――互いの吐息、鼓動すら感じられる。
 走り回っていたため体温が高い。熱い。触れ合う肌がひりつきそうだ。
 彼女がいつも使っている萌黄色のフレグランスが、いっそう強く薫った。
「ぼく、御御御さんのこと……」
「え……」ミハルの顔にみるみる朱が差す。
 ひとけはない。風車の影にもなっているため、行為を覗かれる心配はないだろう。
 ただ覇王樹(サボテン)たちだけが、見ていた。
(落とすにはまだ手順を踏むはずだったが、もういい)
 ――気が荒んでいた。誰でもよかった。この激情をぶつけて鎮めたかった。
「ま、待って、私は」
「ぼくのことなんか、嫌いなの……?」
「嫌いっていうか」
「やっぱり、気持ち悪いかな……?」
「そういうわけじゃっ」
 令司は殊勝な顔で迫りながら、やはりな、と内心嘲った。
 つじつま合わせの心理が働いているのだ。罪悪感に基づいた認知的不協和を恐れ、ミハルは令司の言いなりになるしかない。
(ふん、さんざん男と遊んできた女だ。いまさら抵抗もあるまい)
「御御御さん、ぼくだって……男なんだよ?」
 つかんだ彼女の手を大きく左右に広げ、蝶の標本のように壁に釘づける。
 彼女の脚の間に、ぐいと膝を割り込ませる。
「あっ……」
 押さえつけられたミハルが、首を振って悶える。
(落ちたな)
「やっ……いやあっ!」
 普段とは違う、甲高い悲鳴が上がった。
 ミハルが身をくねらせて令司の体を強引に振りほどいた。
!?
 予想外なうぶな反応に、令司は思わず身を引いてしまった。
「ま、待ってよ、急にそんなこと言われても、私……」
 彼女がおびえるように体を掻き抱き、唇を震わせる。
(チッ、ここまできて拒絶しやがって!)
 ムードを壊された以上、もう強引に押し切ることはできない。
「違うんだ、ぼくそんなつもりじゃ……ただ、女の子に慣れたいと思って、御御御さんだったらふざけてこれぐらいやっても許してくれるかなって……」
 なんとも苦しい言い訳だった。少しでも男性の本能に触れたことのある者なら、とてもこんな理由は信じないだろう。しかしミハルは、
「う、うん、わかってる、ちょっとびっくりしちゃって……」
 と、疑う素振りを見せない。
(こいつ、さては処女か)
(処女の分際でビッチそうに振る舞いやがって、これで落とすのが面倒になった)
 令司は舌打ちをこらえて、「本当ごめん、御御御さん、ぼく……」とうなだれた。
「ううん、こっちこそ……」
 ミハルは未だ緊張が解けていないように、胸の前で腕を組み、どぎまぎしている。
 気まずい空気が流れた、そのとき――
【決闘である!】
 ――遠くのスピーカーから、エコーのかかった保笑夢の声が響いてきた。
【これより名誉をかけて、余と苑崎果無が學閻名物(くれなゐ一騎撃ち)にて雌雄を決する! 學閻生よ、高等部の第二グラウンドに集うがよいっ!】

   †
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