第7話 同門の絆

文字数 3,903文字

 その後、週一のペースで松川師父を見舞いに行ったが、その回復力は凄まじく、通常の倍近いペースとのことだ。医者も理学療法士も半ば呆れていて、単に若いからだけではなく、やはりただ者ではないということがいみじくも証明された。
 一方、梅本君からは何の連絡もなく、私は一人寂しく練習を続ける日々を2ヶ月あまり続けていた。右ストレートは、もはや何万回打ったか分からない。でも相変わらず、松川師父が言っていた無意識で打つということを理解できないままでいた。
(さすがに一人だけの練習では限界があるな……)
 帰ろうとした時だった。
「おじさん、もう帰っちゃうの?」 
「えっ?」
思わず振り向くと、そこには松葉杖をついた松川師父が立っていた。
「せっかく練習しに来たのにな……」
「松川師父! 練習って、もう大丈夫なんですか?」
 いたずらげな笑みを見せる彼女は、よほどリハビリが大変なせいか、少し痩せたようにも見える。
「まあなんとか。実は……、昨日退院したの」
「そうですか。退院、確か来週でしたよね? でも、おめでとうございます!」
「まあ、こんな体になっちゃったけど、わたしなりにぎりぎりの状況でベストを尽くしたと思えたから」
「そうですね。それにあの生徒さんも一命を取り留めましたし」
「うん。それから、病院の先生もびっくりするくらい早く骨もくっついたし、ほら、創外固定器も外したところ」
 包帯が痛々しいが、あの忌々しい金属棒は生えていない。
「それは良かったです。あと一息ですね」
「だいぶ休んじゃったけど、おじさんの頑張り見てたら、わたしも負けてられない。もうちょっとだけ練習しませんか?」
「ええ、もちろんです。よろしくお願いします!」
 やっと日常が戻ったと、そう感じた。
「今日は陰(いん)の練習をするね」
「陰の練習ですか?」
 何のことかまったく想像もつかない。
「そう。まず、目をつむって、心を無にして」
 言われた通りに目をつむる。一体何をやるつもりなんだ?
「わたしが手を叩いたらパンチを打って」
「わかりました」
 私はひたすら松川師父の合図を待つ。
「ゆっくり呼吸して……」
「スー、ハー……」
 言われた通りにできる限りゆっくりと呼吸する。そうして何分が経過しただろう。体の輪郭が拡張して、徐々に周りの空間と溶け合うような、不思議な感覚が私を包む。そして、その時は唐突に訪れた。

 パンッ!

 私は、気が付いたらパンチを放っていた。
(パンチは勝手に放たれる……)
 自分の意思とは関係なく、パンチが勝手に飛んで行く感じだ。
(これが無意識で打つということなのか?)
 教則本には、打撃の秘訣は打とうと意識せずに打つことと書かれていた。なぜなら、打とうと思った時点で、それは無意識に体に現れてしまうからだ。
「おじさん、少しつかんだみたいだね」
 松川師父の声が聞こえる。
「その感覚を忘れないで。考えないで感じるの」
「……わかりました」
(あの映画の中で聞いたセリフだ……)
 放心状態の中で思い出す。それはとても不思議な感覚だった。禅に近い感覚だろうか。水のように流れるがまま、そこには何の作為も意図も存在しない。まさに無為自然の境地と言える。
「じゃ、今日はこれで帰るね」
 と言い残し去っていく後ろ姿からは以前のようなキレが感じられない。弟子としてはそのことがとても辛いが、松川師父はもっと辛いはずだ。

 その夜、松川師父から連絡があり、重症だった生徒も起きられるようになり、少しずつリハビリを始めたとのことだ。
(あの生徒さんもリハビリは大変かもしれないが、若いから大丈夫だろう)
 その後、松川師父も松葉杖をつかないでも歩けるようになり、再び日曜の朝の練習にも来られるようになった。まだリハビリは継続中だが、徐々に本来のキレを戻しつつある。ただ、時々痛むようで、足を引きずることがある。
 一方、梅本君の方は不良狩りを止めたそうだ。そのきっかけになったのが、多人数相手に自分は一切攻撃せず、フットワークだけで2時間の乱闘を乗りきったことだ。ある意味、伝説を作ったのだろう。その一件がこの辺の不良の総元締めの耳に入り、度胸と心意気が気に入られて不良狩りの一件は不問にしてもらったそうだ。
 そして、日曜の早朝練習に梅本君も時々加わるようになった。再び、本格的にミット練習ができるようになり、練習が進むのがなんとも嬉しい。青春が戻ったような、なんとも楽しい時間が訪れる。一人でも続けてきて本当に良かった。今は素直にそう思える。

 しばらくした日曜の朝、梅本君とのミット練習もだいぶ様になり、シングルアタックからより実戦的なコンビネーションの練習を、それこそ実戦さなからに行うようになっていた。
「はい、じゃ、次のコンビネーションね」
 いつものように松川師父が実演をしていると、見るからに柄の悪い男たちが近づいて来るのが見えた。その男たちは数メートル手前まで近づくとおもむろに口を開いた。
「トモヤ、こいつじゃね?」
「だな。すげー探したっつーの。おまえ」
 トモヤと呼ばれた男は明らかに松川師父の方を見ている。
「君たちはなんだ?」
 私は、松川師父をかばうように間に入る。
「この前の礼をしたくてさ。ほら、俺たち真面目だから」
 甲高い笑い声が公園内に響き渡る。
「人違いだ。君たちの事は知らない」
「は? なにおっさん。こっちは知ってるつーの。俺らそっちのねーちゃんに用があんだけどさ」
「…………」
 松川師父はただ黙って男たちを見ている。
「あれ、覚えてないの? ほら、去年の2月頃、すごくかわいがってくれたじゃんか」
 ひょっとして、この男たちはあのときの連中か。
「ダチから連絡があってさ。日曜の朝、この公園で格闘技っつーの? 練習しているバカがいるってさ。その中に強そうなねーちゃんがいるって聞いて来てみたら、ビンゴじゃん」
 その男はくちゃくちゃガムを噛みながらにやけて言う。
「これは格闘技じゃない。れっきとした武術だ!」
「そんなのどうでもいいんだよ!」
 と言うなりつばを吐く。
「警察に通報するぞ!」
「すればー。その代わり、そっちのねーちゃんちがどうなっても知らねーけどな」
 脅しか。おそらく、松川師父の後をつけて自宅を突き止めたのだろう。
「君たちもよく考えた方がいい。そんなことしたら犯罪だぞ」
「んなの関係ねーんだよ! ただ、礼がしたいだけなんだからさー」
 だめだ。話して通じるような相手じゃない。
「今日の夜9時に、この近くの高架線の下に来いや。たっぷりと礼をするからさ。ま、さすがに、俺らも女一人で来いとは言わねーからさ」
 にやけた笑いが聞こえる。行かなければ、松川師父の家族に危害が加わるかもしれない。
「じゃあ、待ってるからよ」
 と言うなり、手を上げて去っていく。

 この状況では行かないという選択肢はなさそうだ。
「わたしさ、あーゆーやつら、許せないんだよね……」
 松川師父がぼそっと言う。その横顔を見た瞬間、思わず鳩尾(みぞおち)が凍りつく。
(なんて目をしてるんだ!)
 その目には冷たい闘志がみなぎっていた。本気だ。彼女は本気でやろうとしている。
「松川師父、ここは警察に行った方がいい!」
「それじゃだめ。あいつらをますます付け上がらせるだけ。ここは正々堂々と思い知らせるしかない」
 確かに、警察を呼んだら、あいつらにまた理由を与えるようなものだ。しかし……。
「わかりました。松川師父、私も行きます」
「え、でもこれ、わたしの問題だし」
「元はと言えば、私が助けてもらったのがきっかけですし、これは私の問題でもあります」
「あの……、僕も行きます。僕もああいうやつらは許せないので」
「本に書いてあったが、同門の絆は血の次に濃いと言うしな」
「それ、おじいちゃんも言ってた」と言って少し笑うと、急に真顔になって続ける。
「みんないいの? 結構危険だよ」
「だからじゃないですか」と、私。
 松川師父は、二人の覚悟を確認するかのように交互に見つめる。私と梅本君の決心は変わらない。強くうなずいて答える。
 それに松川師父はまだ本調子とは言えない。ベストコンディションならともかく、正直なところ、今の状態ではあまりにも危険すぎる。一人だけで行かすわけにはいかない。梅本君もそう思っているはずだ。
「そうと決まれば準備しましょう。奴らのことだ、どんな卑怯な手を使ってくるか分からない。さすがに丸腰でいくのは危険すぎます」
「私は拳を痛めないようにグローブだけでいくつもり」
「いや、松川師父、最低限のプロテクターだけは着けて行きましょう」
「え、例えば?」
「そうですね。グローブの他に、胴当て、脛当て、肘当て。ヘッドギアもあった方がいいでしょう。それに男ならファウルカップもですね」
 プロテクターを着けていくことを強く提案するも、松川師父はいまいちピンときていないようだ。
「残念ながらプロテクターは二人分しかありませんので、今から松川師父のプロテクターを買いに行きましょう」
「でも、少しでも動きづらかったら着けないからね」
「それでいいですから、とにかく行きましょう」
 私たちはプロテクターを買いに、近くのスポーツショップヘ向かった。松川師父は色々試着してみたものの、どれも気に入らないようで、とりあえず、簡単な脛当てと肘当てだけ購入した。
「最低限、胴当てもあった方がいいと思いますが……」
「それはいらない」
 動きづらさというよりは、着けたっときの見た目で決めているような節がある。
「それでは、一旦、8時半に手前のコンビニで落ち合いましょう。何か連絡がある場合は、グループチャットの方に」
 私たちは一旦そこで別れた。
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