第3話 いじめ

文字数 5,046文字

 ツァイクンドーの練習を始めて2ヶ月が経過した。その後、東京本部には2回しか参加できていない。やはり、日曜というのがネックで、営業という仕事柄そうそう通うことができない。ただ、渡部先生の丁寧な指導のお陰で、少しずつではあるがにツァイクンドーらしくなってきたと思う。動きがまったく違うとは言え、少年時代に空手をやっていたのも少しは助けになっているかもしれない。子供の頃に身につけた基礎というのは、案外大人になっても体が覚えているものだ。
 正直なところ、体力的には厳しいものがある。特に練習を始めた頃は激しい筋肉痛と疲労感に襲われた。ただ驚いたことに、続けていくうちに体が慣れていったことだ。気のせいか体も軽く感じる。自分の体を通して実感したのは、人間はいくつになっても成長できるという希望だ。
 いつものように練習を終えた帰り道、なにやら騒がしい音を耳にする。またオヤジ狩りか? 
(今の自分なら何とかなるかもしれない)
 音のする方へ向かうと、高架線の下の空き地で、高校生らしき少年が数人からいじめを受けている最中だった。今度は無様にはやられないという覚悟のもと、私は叫んだ。
「おい、おまえたち! なにやってんだ!」
「やばい! 逃げようぜ!」
 一人が叫ぶと、少年たちはあっけないほどにあっさりと退散する。
「え?……」
 ある意味、虚をつかれた。とは言え、未成年相手に喧嘩はさすがにまずい。その点では助かったのかもしれない。とりあえず、私はいじめにあっていた少年の方へと向かう。
「おい、君、大丈夫か?」
 少年はぐったりと地面に座り込んでいた。私の声に振り向き、立ち上がろうとするので手を貸すと、少年は下を向いたまま力なく立ち上がった。私は彼の服に付いた砂を払ってやり、落ちていたカバンを渡す。
「あ、ありがとうございます……」
 小さくそう言うと、少年は頭を下げてその場を去ろうとする。
「あ、君、ちょっと待ってくれ。実は今、武術の練習をしていてね。練習相手が欲しいと思っていたところなんだ。よかったら一緒にやらないか?」
「いえ、僕、いいです」とだけ答えると走り去ってしまう。
「おい、君!」
(無理もないか。突然、見ず知らずのおやじに一緒にやらないかと言われてもな……)
 とは言え、一人での空打ち練習もそろそろ限界だ。教則本にも二人一組でのミット打ちが基本とある。そろそろミットを待ってくれる練習相手が欲しい。
「せっかくミットも用意したのに出番がないな……」一人ぼやく。
(ないないと言っていても何も始まらない)
 私は気を取り直して考える。そう言えば、数々の映画の中で、ジャッキーも様々に工夫して一人で練習していたことを思い出す。
(そうだ。一人でも練習できるような器具を作ればいいんじゃないのか?)
 家に帰る道すがら色々考えているうちに、いくつかのアイデアが浮かぶ。興奮が収まらない私は、家に着くなり夕食も摂らずにノートを広げると、いくつかの器具の構想をまとめた。
「何とかなるかもしれないな……」
 確証はないが、可能性は見えて来た。
「あなた、仕事もいいけど、ご飯冷めないうちに食べてよ。いつまでたっても片付けられないじゃない」
「ああ、すまん」
 夕食を摂り始めると、玄関が開く音がする。
「だれだこんな時間に?」
 時計を見るとすでに夜の9時を回っている。
「ただいま〜」娘の江梨子だった。
「ちょっと遅いんじゃないのか? えり」
「そう?」
 いつも通り目を合わさない。江梨子はそれ以上何も言わずに私の横を通り過ぎると、無造作に制服を椅子にかける。
「ご飯はいらない。何か飲み物ある?」
「冷蔵庫にあるわよ」
 どうせ言っても聞かないから、最近ではあまり言わないようにしているが、さすがに腹に据えかねて小言を言おうとした私は、何気なく目に入った娘の制服を見て釘付けになった。思わず立ち上がると、娘の制服を手に取っていた。
(この制服は、あの時、助けてくれた女子高生が着ていた制服と同じだ……)
 なんで今まで気づかなかったんだ。確かに娘の制服なんてまじまじと見たことはなかった。
「これはえりの高校の制服か?」
「そうだけど、それがなに? 女子高生の制服に興味あるの? きっも」
 と言うなり、私の手から制服をむしり取ると娘は自分の部屋へ向かった。娘の悪態も気にならないくらいに私は一つの手がかりに心が躍った。ということは、あの女子高生は娘と同じ明聖女学院の生徒ということになる。なんとかコンタクトが取れればいいのだが、さすがに娘には頼めない。
 この明聖女学院は隣の市にある中高一貫のカトリック系の私立の女子校だ。全国的には上の下というところだろうか。この辺では一応名門ということになっている。私は県立でもいいと思っていたが、女房のたっての希望で通わせている。なんでも、自分が少女時代にカトリック系の女子校に通うのが夢だったからだそうだ。当然、私立だけに学費の工面は大変で、女房のパート収入がないと我が家の家計は破綻する。

 その週末、私は一人ホームセンターへ出かけ、手始めに樹脂ロープを購入した。それでミットを木にくくり付けてパンチやキックの練習を試してみる。思ったより何とかなりそうだ。当面はこの方法で代用するしかない。こんなところでカンフー映画が役に立つとは思わなかった。要は気の持ちようだ。何事も諦める前に考えればいくらでも手はある。
「誰かが言ってたな。お前の頭は何のためにある? ただの帽子かけか、だっけか……」
 それからというもの、週末はホームセンターに行くのも日課になった。もちろん、練習器具の構想を実現するためだ。パンチ用にはサッカーボールをネットで包み、強力なゴムバンドで枝から吊るし、地面に2箇所のペグでテンションを持たせた。ローキック用には鉄パイプに発泡ウレタンを巻き付けたものをロープで木の幹にくくり付け、地面にペグを打ち込んで固定した。ちなみに、フックパンチのディフェンス練習用には樹脂パイプにヒンジを付けてゴムの弾力で戻るようにしたものも作った。ちょっとした工夫だが、俄然、練習が楽しくなる。
(確か、ブロンソン・リーもたくさんの練習器具や道具を開発したと本に書いてあったな)
 本でも紹介されていたが、ブロンソン・リーが香港で学んだ詠春拳に伝わる「木人」という中国武術の伝統的な練習器具も存在するが、あくまでも詠春拳の練習器具であり、ツァイクンドーでは使っていない。ツァイクンドーではフォーカスミットを使った実践的な練習がメインになっている。動かない木人では活きた練習にはならないとブロンソン・リーは考えたようだ。
 とは言え、練習相手がいない今は自分でやれることをやるしかない。私は練習器具をどんどん改良しながら練習を続けた。意外にも、この改良がなんともDIYっぽくて楽しいというのが嬉しい発見だった。

 しばらく経ったある日、日課となったツァイクンドーの練習の帰り道に、再び高校生がいじめに合っているところに出くわした。
「おまえたち止めるんだ!」
 例によって叫ぶと、前回と同様、あっけないくらいに逃げ足は早い。今回も拍子抜けだ。私は地面に倒れ込んでいる少年に近づくと助け起こした。
「なんだ、また君か……」
 その少年は、つい数週間前いじめにあっていた高校生だった。今回は発見が遅かったようだ。かなりやられていて少年は泣きじゃくっていた。
 私は彼の涙と泥でグチャグチャになった顔を拭きながら問いかける。
「君はこのままでいいのか?」
「…………」
 少年は無言のまま立ち上がると、ずっとうつむいている。
「なあ、君、一緒に武術の練習をしないか?」
 しばらくうつむいていたかと思うと、彼は狂ったように走り去っていく。
「この近くの公園で夜の7時くらいから練習しているから!」
 遠ざかる彼に向かって叫ぶが、声が届いたかどうかは分からない。

 数日が経ち、忘れかけた頃だった。いつものように練習するために公園に向かうと、私に近づいて来る高校生らしき姿が目に入った。ただならぬ雰囲気に一瞬、私は身構える。
「…………」
 少年は数メートル手前で立ち止まると、ただ無言でうつむいている。
「君は……」
 その背格好には見覚えがある。霞のかかった記憶の断片を手繰り寄せる。
「……あの、僕、強くなりたいんです」
 少年は唐突に言葉を発する。
「ああ、君か。待っていたよ」
 うつむいた少年の目には、微かな闘志が宿っているのを感じた。
「私は竹山と言うんだ。君は?」
「……梅本です」
「そうか、梅本くんか。よく来たね。聞くまでもないけど、練習しに来たんだろう?」
「はい、そうです。あの、僕に武術を教えてください」と、頭を下げる。
「私には教えることなんてできないが、そうだな、一緒に練習して強くなろう」
「はい。よろしくお願いします」
 梅本君の気持ちは痛いほどよく分かる。彼は市内にある県立高校の1年生で、高校には入ってからいじめに合うようになったということだ。確かに、彼は色白で体も細く、ゲームばかりやっていてあまり体を動かしてこなかったタイプだろう。身長は170ちょいか。見るからに気弱で自信なさげに見える。
 その日から二人で練習する日々が始まった。基本的な動きは、直接、教えたり、DVDを貸したりして伝えた。ミットを持ちながらの練習も始め、やっとツァイクンドーらしくなってきた。難しいのはミットもただ持てばいいというのではなく、ミット位置の正確さはもちろん、打たれた相手の反応を正確にシミュレートしなければならない。確かに、渡部先生もミットホルダーがうまくないと打つ方も上達しないと言っていた。


 梅本君と練習を初めてから3ヶ月が過ぎ、その年の夏も終わろうとしていた。友人がいなかったり、一人でいるといじめを受けやすいという話を聞いていたので、なるべく友人と帰るようにとアドバイスした。それが功を奏したのか、あれ以来、いじめには合っていない。
「やっぱり若いってのはすごいな」
 とにかく私と比べると、動きを覚えるのが数倍、いや数十倍早い。彼は家でも暇さえあれば練習しているらしい。それに自信が付いてきたせいか、表情がどんどん明るくなってきた。
「最近は練習するのがすごく楽しいんです!」
「そうか! それは良かったな」
 私も励みになっている。そういえば、最近は寝つきもよく、体調もいい。
「そういえば、梅本くんは何か格闘技を習おうとは思わなかったのか?」
「もちろん、竹山さんに声をかけてもらったというのもありますけど、格闘技とかそういうのは、あいつらみたいなやつがやってそうなので」
 と言って、何か思い出しているようだった。
「確かに、なんか格闘技をやってそうなやつがいたな」
 これからは教則DVDにあった、対他流派の練習をメニューに加えよう。

 ところが、2学期が始まってすぐ、なぜか梅本君は練習に来なかった。休むときは必ずスマホに連絡してきたが、今日に限って連絡がない。
(まさかな……)
 少し気になった私は、以前、彼がいじめられていた高架線の下の空き地に向かうことにした。その場所に近づくとなにやら騒がしい音が聞こえる。
「梅本くん!」
 まさに彼がいじめに合っている最中だった。今回も止めに入ろうとした私はふと足を止めた。よく見ると、以前とは明らかに様子が違う。彼は相手の攻撃を上手くかわしたり、ガードしつつ、決定打は喰らっていない。
(なんてことだ。やれてるじゃないか!)
 梅本君は必死に闘っていた。何度、殴られて蹴られても決して逃げなかった。それどころか確実に防御しつつ、攻撃するタイミングをうかがっているようだ。そんな攻防の中、ふいに彼のバックフィスト、いわゆる裏拳打ちが不良の顔面を直撃する。「吠えよ! ドラゴン」で敵に使った、ツァイクンドー最速パンチだ。
「やった!」私は思わずガッツポーズをとる。
 そこからは見ものだった。彼は次々とパンチを決め、気が付けば、不良たちは方々に逃げ出し、最後に立っていたのは彼だった。私は思わず走り寄る。
「梅本くん、すごいじゃないか!」
「あ、竹山さん、ぼ、僕、やりました! あいつらをやっつけました!」
「あ、ああ! しっかり見ていたよ。やったな!」
 私は自分のことのように嬉しかった。
「梅本くん、今日はお祝いだ。今から飯でも食いに行こう!」
「はい!」
 その日は飯を食べながら武術について熱く語り合った。そして、彼は年の離れた友人となった。
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