第6話 二つの事件

文字数 5,851文字

 日曜の朝、いつものように公園で待っていたが、松川師父は一向に現れなかった。
(いくら武術の達人といっても年頃の女の子だしな……)
 試しにSNSを介して連絡してみるが、既読も返信もない。
(変だな。今までこんなことはなかった)
 仕方なく、その日はひと通り練習して帰ることにする。帰宅後、なんとなく新聞を読んでいると、ある見出しに目が止まった。

『トラックから児童を救おうとした女子高生、意識不明の重体』

 そう書かれてあった。気になって読み進めると、明聖女学院の2年生(17)との記述に私は思わず言葉を失う。
(明聖女学院の2年て、まさか松川師父じゃないよな……)
 今度は通話を試してみるが、やはり応答がない。既に夕飯の時間ではあったが、胸騒ぎが抑えられず、ちょっと出かけてくるとだけ言い残すと私は家を飛び出した。
「ちょっと、もうすぐご飯なんだけど!」
 女房の怒る声が聞こえたが、もはや意識には上がらない。確証はないものの、私は市内の救急病院へ向かうことにした。到着するなり時間外受付に急ぐ。
「すみません。こちらの病院に明聖女学院の生徒が入院してませんか?」
 ダメ元で聞いてみる。
「関係者の方ですか?」よし、当たりだ。
「はい、そうです!」
 少なくとも嘘ではない。
「ではこちらに、お名前とご住所をお書きください」
 住所を書くのがもどかしい。構わず殴り書く。
「ICU(集中治療室)は、こちらの通路、突き当り左手の奥の部屋になります」
「ありがとうございます!」
 聞き終わらないうちに私は走りだす。
「病院内では走らないでください!」
 注意する声が聞こえたが、そんなの関係ない。

 ICUに着くと、ガラス越しに松川師父を探すが、見つけるのは容易だった。一人だけ数人の医療スタッフに取り囲まれている患者がいたからだ。そこには包帯と管だらけの変わり果てた松川師父の姿があった。
「松川師父……」
 目の前の光景が信じられない。私の娘と同じでまだ17じゃないか。一体なんでこんなことに。胸が張り裂けそうで思わず涙が滲む。ふと気が付くと、数メートル離れたところに、今にも倒れそうな女性を支える男性の姿があった。きっと、松川師父のご両親に違いない。心中を察するに、かけられる言葉など存在しない。私はただ無事を祈りながら去ることしかできない自分に腹立たしさすら覚える。松川師父の容体を知るすべもないまま出入り口に戻っていると、たまたま通りかかった看護師を呼び止める。
「すみません、松川さんの容体はどうなんでしょうか?」
「松川さん? ああ、昨日の事故の?」
「ええ」
「松川さんなら、ここではなく一般病棟です。病室は受付でお聞きになってください。それでは」
 と言うなり、忙しそうに去っていく。
「一般病棟だって? じゃ、あそこにいる松川師父は誰なんだ?」
 ドッペルゲンガーという単語が頭をよぎる。とにかく、一旦、受付に戻ると、松川師父の病室を聞く。「走らないでください」と再び注意を受けながら病室に向かう。
「三〇二号室、三〇二号室……、ここか?」
 確認すると、名札には松川菜々実様と書かれている。松川師父に違いない。私は恐る恐る病室に入ると、左奥にその姿を見つける。
「松川師父……」
 近づくと、側には中年の女性が付き添っていた。どことなく松川師父の面影がある。きっとお母上に違いない。私の気配に気づいたその女性は私の方を向く。心労のせいか少しやつれて見える。
「あの、先生でいらっしゃいますか?」
「いえ違います。私は竹山と申します。失礼ですが、松川さんですか?」
「はい。菜々実の母です」
「この度は、お気の毒すぎて、おかけする言葉も見つかりません」
 私は深々と頭を下げる。
「あの、お嬢様のご容体は?」
「命には別状はありませんが、左足首を粉細骨折しまして、昨晩、緊急手術をしたところです。今は麻酔で眠っています」
「そうですか、足を……」
 改めて松川師父を見ると、包帯を含めると倍以上に腫れ上がった足からは血を抜く管が出ている。あまりの痛ましさに直視できない。
「手術はどうだったのでしょうか?」
「手術そのものは問題なかったのですが、先生が申しますには、治っても後遺症が残るかもしれないと……。近いうちに再手術をするのですが、状況次第では、最悪、切断もありうるというお話でした……」
 と言うと声を詰まらせた。
「そうですか……」
「あの、失礼ですが、菜々実とはどういう……」
「失礼しました。改めまして、竹山と申します。私は……、なんと申しますか、弟子です」
「弟子?」
 お母上はとても驚いた様に私を見る。
「はい。お嬢様の弟子です」
 私は松川師父に助けてもらった経緯から、今現在、武術を教えてもらっていることなどを伝えた。人に教えているとは聞いていたようだが、まさかこんな中年のおやじだとは想像もしてなかったようだ。
「そうだったんですか。菜々実が色々お世話になっております」
「いえ、お世話になっているのはこちらの方です。無理を言って教えて頂いております。実は、私にも同い年の娘がおりますが、本当にしっかりしたお嬢さんです。足もきっと大丈夫です。どうかお気持ちを強くお持ちください」
「ありがとうございます」
「それでは、今日はこれで失礼します。また改めてお伺いします」
 松川師父に声をかけることができなかったのは残念だが、その日は帰ることにした。

 数日後、病室を訪ねると、松川師父は目を覚まして外を眺めていた。
「松川師父、大丈夫ですか?」
「あれ、おじさん、なんでここに?」
 ゆっくりと振り向いた、そのやつれた表情を見て私は言葉を失う。
「!」
 無理もないが、別人のように覇気がなく、その弱々しい姿に心が痛む。
「おじさん、この間は練習に行けなくてごめんね」
「いや、そんなことはいいんです。今はとにかく怪我を治すことに専念してください」
「でももう、わたし、ツァイクンドーできないかもしれない……」
「なに言ってんですか。そんなことないですよ」
「聞いたでしょ、わたしの足のこと」
「…………」無言で答えるしかなかった。
「後遺症が残るかもしれないし、場合によっては膝から下を切断するかもしれない……。それにあの子だってどうなるかわからない……」
「大丈夫ですよ。きっと良くなります」
「おじさんに何がわかるの? ごめんなさい。一人にしてもらえますか」
 そう言うと、布団をかぶってしまう。
「……どうかお大事に」
 それ以外に掛ける言葉が見つからないまま、私は病室を後にした。今はそっとしてあげることが唯一できることだ。

 数日後、松川師父から、しばらくの間練習できないことに対する謝罪の連絡があった。
(そんなことはどうでもいいんだ……)
 私は、松川師父が見せた武術家としての気概に触れたようで、目から溢れるものを抑えることができなかった。
 検査の結果、膝下の切断は免れたようだが、事故後以降よく眠れない日々が続いているようだ。おそらく、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だろう。無理もない。いくら武術の達人とはいえ、今回の事故は17歳の高校生には受け止めるにはあまりにも大きすぎる。このまま重症の生徒にもしものことがあれば、松川師父は立ち直れないかもしれない。
(また、一人で練習か……)
 松川師父の復帰はいつになるのか分からない。とにかく、今は言い付けを守って、ひたすらフットワークと右ストレートの練習をするしかない。
(今は凡事徹底あるのみだ)
 武術とは、行き着くところ殴って蹴るだけだ。ただ、それを並外れてうまく行うことと言える。カンフー映画と同じで、孤独に耐え、徹底的な反復練習以外に習得の道はない。私は、朝は主にフットワークを中心に基本動作を練習し、夜は自作の練習器具を使った打撃練習を行うメニューを続けた。

 後日、新聞に今回の事故の詳細が記載されていた。交差点の監視カメラの映像には、松川師父がギリギリまで二人を救おうと奮闘している姿が映っていたようだ。記事によると、事故当日、青信号で横断中の小学生に信号無視のトラックが向かっていた。そのことに気づいた明聖女学院の生徒が小学生を助けようとするが、トラックを前に動けなくなってしまう。そして、トラックが衝突する直前、凄まじいスピードで二人に追いついた松川師父は、小学生を抱えて歩道側へ飛ぼうとするが、足が竦(すく)んで動けない女生徒だけが残る形となってしまう。
 松川師父本人は覚えていないのかもしれないが、歩道へ飛ぶ直前に、動けない生徒を少しでもトラックから遠ざけようと、足で蹴り飛ばしていた。ただ、小学生を救出した直後、青信号側を走行中のバイクがトラックと衝突し、弾け飛んだバイクが運悪く松川師父の左足首を押しつぶしてしまった。警察関係者もそのとっさの機転で二人の命が救われたと語っていたそうだ。さすがとしか言いようがない。その功績から、埼玉県警から感謝状が授与されると書かれてあった。また、重症の生徒も無事意識を取り戻し、予断は許さないものの命の危機を脱したとのことだ。
(松川師父、あなたはちゃんとあの子を救ったんだよ)
 私は思わず目頭が熱くなった。

 1週間後、再び病室を訪れると、私は松川師父の左足を見て言葉を失う。その足首には何本もの金属の棒が突き刺さっていた。
「松川師父、これは……」
「ああ、これ? 折れた骨を固定するための創外固定器って言うんだって。なんか足から金属の棒が生えていて笑える」
 なんとか笑おうとするが長くは続かない。
「でも、最悪は回避できたのは本当に良かったです」
「うん。リハビリ頑張らなきゃ」
「そうですね」
 少しずつ自分らしさを取り戻しているようで、私はほっとした。
「おじさん、ちょっとお願いがあるんですけど」
「私にできることなら」
「あの子の、私が助け損なった子のところへ連れて行ってもらえますか」
 私は車椅子でICUへ連れて行く。到着すると、松川師父はガラスに手をついてしばらく無言で生徒の様子を見ていた。
「――あの時、トラックにはねられそうになった男の子を助けようとして、駆け寄ったあの子がそのまま立ち往生しちゃって、わたし、なんとかしようとしたんだけど、男の子しか助けられなかった……」
「でも、意識も戻ったし、容体は安定しているようですよ。いやー、あの時は驚いたのなんのって、新聞に松川師父の高校の名前と年齢があったので、てっきり……」
 以前なら名前も掲載していたはずだが、個人情報保護法とやらで個人名が載らなくなった弊害だ。
「母が言ってました。あなたの弟子が来たわよって」と、少しだけ微笑む。
「ええ。もしやと思い、取るものも取り敢えず駆けつけました。とにかく、命が無事で何よりでした。松川師父」
 その直後、キッとこちらを向くと、なぜか手招きするので、顔を近づけると不意に耳打ちする。
「ここで師父はやめてもらえませんか」
 ほのかな髪の香りと体温を感じた気がして、私は年甲斐もなくどぎまぎしてしまう。
「ああ、すみません……」
「でも、こんなことになっちゃって、わたし悔しい……。それにすごく後悔しているんです。もう少し上手くやれば、ひょっとしたらあの子も、もう少し軽症ですんだかもしれない……」
 ICUの方を見ながら絞り出すように言う松川師父は、心なしか震えていた。
「松川し……さん、それは、たらればです。考えてもどうどう巡りするだけですよ。早く元気になって、また、ツァイクンドーをやりましょう」
「でも、ほんと、悔しい……」
 そう言うなり、松川師父は下を向くと、本当に悔しそうに涙を流す。なすすべがない私は、思わず抱きかかえてしまった。
「大丈夫、大丈夫……」
「菜々実〜」
 お母上が松川師父を呼ぶ声が聞こえて慌てて松川師父を離したが、少し見られたかもしれない。
(誤解されたかもな……)
「お母様も来られたし、今日はもう……」
 そう言うのが精一杯だった。
「竹山さん、菜々実も疲れてますので、今日はこれで失礼させて頂きます」
「そ、そうですね」
 お母上はそう言い残すと、松川師父の車椅子を押して病室へ戻っていた。
「どうかお大事に……」
 そのいつもの彼女とは思えない弱々しい後ろ姿に、今の私には練習を誓うことしかできない。


 夜の練習が終わったある日、自宅へ向かっていると、高架線の下の空き地でなにやら騒がしい音が聞こえる。覗いてみると、案の定、高校生同士の喧嘩の真っ最中だった。だが、よく見ると一人対多人数だ。しかも、全員がバットや木刀を持っている。
「あれは!?
 それは紛れもなく梅本君だった。多人数相手に互角の戦いをしているが、徐々に劣勢になりつつある。さすがに大勢の武器を持った相手では分が悪すぎる。しかも、この状況ではさすがに助けにも入れない。
「お、おまわりさーん、こっち、こっちでーす!」
 私は一か八か狼少年作戦に出る。
「こっちでーす! ここで喧嘩してまーす!」
 大げさに手招きのジェスチャーを見せる。
「やばい、お巡りが来るぞ!」
「おい、逃げるぞ!」
 高校生たちは潮が引く様に去って行く。私はそこに膝をついて残る彼に走り寄る。
「梅本くん、大丈夫か!?
 彼は激しく肩で呼吸している。その様子が激闘を物語っていた。
「――僕に構わないでって、言ったじゃないですか……。僕は、あんなやつらには、絶対負けない!」
 呼吸の合間に絞り出すように語る彼は、私の知っている彼ではなかった。
「何を言ってるんだ。冷静に考えてみろ。あの人数相手ではいくらなんでも無茶だ!」
「もう少しで、あんなやつら、全員ぶっ倒せます!」
「わかった、わかったから少し落ち着け」
 よく見ると、結構やられている。逆にバットや木刀相手にこの程度で済んでいるのが不思議なくらいだ。とりあえず、彼を自宅まで連れて行くことにした。
「梅本くん、まだわからないのか? 暴力は暴力しか生まない。今ならまだ間に合う。もうこんなことはやめるんだ。いいね」
「…………」
 彼は答えなかった。しかし、もう気づいているはずだ。
「また、一緒に練習しよう。あ、そうだ。今、本物の師父に教えてもらってるんだ。よかったら君も一緒にどうだ?」
「……考えさせてください」
「そうだな。ああ、いつもの時間、いつもの公園でやっているから。気が向いたら来ればいい」
「今日はありがとうございました」
 彼はそう言い残すと自宅のドアを開けた。何やら家の中が騒がしくなるのを聞きつつ、私はその場を後にした。
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