第2話 ZKD(ツァイクンドー)

文字数 5,370文字

 どうも病院は好きになれない。今日もよれた白衣の医者は、しきりにパソコンに映るレントゲン写真を眺めている。
「竹山さん、経過は順調ですよ。そうですね……、この分なら予定より早くギプスを外せますよ」
 珍しくこちらを向くと、医者は何やら嬉しそうに言う。
「そうですか。ありがとうございます」
 ここは一応礼儀としてお礼を述べることにする。
「いやいや、礼を言うならご自分の体に言ってください。何か特別なことでもやられてるのですか? 年齢のわりに骨がつくのが早いので、学会で発表したいくらいですよ、ハハハ。それではお大事に」
 今日は左腕のギプスをいつ外すかを判断するために病院で診察を受けた。頭の怪我はほぼ完治し、骨折の痛みもなくなっている。
(このまま家に帰ってもな……)
 私は病院の帰りに久しぶりに映画館へ寄ることにした。会社復帰後は、残務で散々な目にあいつつ、数日おきの通院も重なりあっという間に2週間が過ぎてしまった。いつもように時間を潰すつもりで行きつけの古びた映画館に入館する。そう、家に私の居場所はない。
「やあ、館長! お久しぶり」
「竹ちゃん、最近来ないと思ったら、どうしたのその腕と頭!」
 さすがに左手のギプスは目立つようだ。
「ああ、これ? ちょっと年甲斐もなく、はりきっちゃってさ……」
「なに、喧嘩でもしたの? 竹ちゃんも歳なんだから気をつけなきゃでしょ。まあ、うちのお客さんには多いんだよね、その手の話。ところで、今日はちょっと毛色の違うやつなんで、ぜひ観ていってよ」
 そう言われ、掲示板にあるポスターを確認する。
「吠えよドラゴンか……」
 確か前にテレビで観たことがある。ブロンソン・リーという香港の往年のアクションスターが主役のカンフー映画だ。一般的なカンフー映画とは違う印象だったと記憶している。
「これさ、うちには珍しく型のシーンがないんだよ。舞台も現代だしね」
「館長、それってカンフー映画とは言わないんじゃなかったっけ?」
「まあ、そうなんだけどさ。強いて言えば、現代版カンフーアクションかな。たまには風変わりなのもいいでしょ。実はさ、若い頃のジョニー・チェンもエキストラで出てんのよ。そのシーンを当てたら一回サービスするからさ」
「わかったよ。観てく、観てく」
 この映画館で上映する作品の特徴は、基本的に『なんとか拳』と付くものと言うと分かりやすい。いわゆるベタなカンフー映画だ。劇中に武術を習得するための套路(とうろ)、いわゆる型を練習するシーンがないとNGというのが館長のこだわりだ。ただ、館長の趣味でジョニー・チェンが出演する作品だけは、カンフー以外にも例外的に現代アクション物も上映している。

 いつもの昭和なブザーとともに上映が始まる。この作品では主人公はすでに達人という設定だ。
(すでに達人じゃ、ますますカンフー映画とは言えないな……)
 ところが、映画の所々で見せる主人公の動きに、私は二重に衝撃を受ける。
(この動きは!? もしかして……)
 まず、ブロンソン・リーの技の速さにも驚いたが、何よりも、あの女子高生が使っていた技によく似ている。
(ブロンソン・リーは思いつかなかった。俺は根っからのジョニー・チェン派だからな……)

 興味をそそられ、翌日も立て続けに観に行く。
「あれ、竹ちゃん今日も? ドラゴン、結構いいでしょ?」
「ああ、館長。すごくいいよ。なんて言うか、鳥肌は嘘をつかないね!」
「へえー、竹ちゃんがそんなに気に入るとは思わなかったな、正直なところ。じゃ、今日はサービスということで」
「ありがとう! 館長」
 ブロンソン・リーの動きに目を奪われ、結局、ジョニー・チェンの出演シーンは分からなかった。ただ、あの女子高生と同じ流派だということは、私の中ではもはや確信に変わった。なんでこんな埼玉の郊外に伝承されているのか好奇心を掻き立てられる。私は家に帰るなり、早速インターネットで検索を試みる。
(ブロンソン・リーの流派は……)すぐにヒットした。

 直拳道

(ツァイクンドーっていうのか……)
 なんとなく聞き覚えのある名称だ。そう言えば、少年時代に習っていた空手道場にブロンソン・リーの真似をする先輩がいて、ツァイクンドーと言っていた記憶が蘇る。
(そうか、あれがツァイクンドーだったんだな)

 それからとういうもの、『ツァイクンドー』という単語が頭から離れない。ネットで検索したり、ブロンソン・リーの生前の映像を観たり、書籍も購入して、怪我が治るまでの間、私は調べに調べまくった。映画のDVDも購入し、繰り返し何度も、何度も観た。

 ツァイクンドーを習いたい!

 心の底からそう願うようになった。うだつの上がらない人生の中で、あの女子高生が見せた動きに感情が激しく揺さぶられた。
(俺がやりたかったのはこれだ。これだったんだ! なんで今まで気づかなかったんだろう)
 私は単にカンフー映画が好きなだけだと思っていたが、そうではなく、本当は武術がやりたかったんだ。自分の本当の願望に気づけないまま、五十になってしまった。
(今からでも間に合うだろうか……)
 いや、間に合う、間に合わないの問題じゃない。何より、私自身の心が渇望している。それだけで十分だ。
 道場もネットで片っ端に探してみたが、そもそも知る人ぞ知る流派のようだ。
「東京だと高田馬場に本部があって、支部が北千住か。埼玉だと大宮。群馬、千葉、栃木にもあるな。東京はさすがに通うのは無理だな……」
 調べた限りでは、通える範囲に道場はなさそうだ。一番近いところでも埼玉の大宮支部だ。予想はしていたが、空手や合気道のような全国展開は期待できない。
 私はとにかく見学することにした。しかし、なかなか連絡する決心がつかない。
(若い人ならともかく、俺なんかが連絡したら迷惑じゃないだろうか……)
 そのことが私の決心を鈍らせた。熱い思いとは裏腹に、年齢という見えない壁が立ちはだかる。決心のつかないまま数日が過ぎる。

(とりあえず自分だけでやってみるか……)
 情けないことに見学に行く決心がつかない。練習したい気持ちはある。しかし、いい歳したおやじがいまさら武術をやりたいなどと、どう考えても一笑されるのが目に見えている。私は見学を諦めて個人練習を始めることにした。とりあえず、基礎体力をつけなければならない。私は猛烈にリハビリに打ち込んだ。しばらくするとリハビリではなく、ほとんど筋トレになってしまい、理学療法士からは再三注意された。その甲斐あって、私は医者が驚くほど早く回復し、予定より1週間以上も早く完治を告げられた。
 日本のツァイクンドー第一人者と言われる渡部先生の教則本とDVDは手元にある。あの動きを知ってしまった今、やらずにはいられない。怪我も完治したので、私は本格的にツァイクンドーの練習を始めることにした。
 会社を早く上がれた日は、練習のために自宅の近くの公園へ向かうのが日課となった。それを境に自然と映画館には通わなくなってしまった。今はとにかく時間が惜しい。
「まずはオンガード・ポジションという構えか……」
 教則本の解説では、右利きの人はサウスポーで構えるとある。つまり、体の右側が前に向く。
(おいおい、逆に構えるのかよ)
 ブロンソン・リーの説明では、一番器用でパワーのある利き腕と利き足を、相手の一番近いところに持ってくるとある。そういえば、あの女子高生もサウスポーで構えていた。そのため、右手のパンチは空手で言う順突きに近い。しかも、ほとんど右側の手足だけで戦うスタイルのようだ。
(なんて不安定な立ち方なんだ)
 しかも、後ろの左足は爪先立ちだ。解説ではフェンシングの立ち方を参考にしているとあるが、不安定でちゃんと立っていられない。こんな構えではまともに戦える気がしない。そして、次にフットワークだ。解説書には、もっとも重要な技術と書かれている。
(カンフーで言うところの歩法だよな)
 カンフー映画でもよく取り上げられているので、歩法が重要なことくらいは知っている。
(でも、武術である以上、殴って蹴れなければ意味ないだろ)
 地味なフットワークの練習は早々に切り上げて、私は基本の6種類のパンチと3種類のキックの練習を始める。教則DVDはほぼ毎日観ているので、動きは完璧に頭に入っている。そして、実際に動いてみた。自分でも案外いけてるんじゃないかと思う。それからというもの、来る日も来る日も、パンチとキックの練習に明け暮れた。たまに興味本位で見たり、笑っていく輩がいるが、笑いたければ笑え。

 一人で練習を続けていくうちに様々な疑問が頭の中に渦巻き、収拾がつかなくなってしまった。この動きは本当に正しいのか。このやり方で合っているのか。本やDVDは説明しているだけでチェックまではしてくれない。
(やはり、ちゃんとチェックしてくれる人がいないとダメだ)
 このままではらちがあかない。これが個人練習の限界ということなのだろう。
(やはり、百聞は一見にしかずだな……)
 再び見学しようと思い始めた私は、気が変わらないうちに問い合わせることにする。ツァイクンドージャパンという団体のホームページに掲載されている東京本部では、第一人者のヒロ渡部先生が指導している。何事も初めが肝心だ。まずは本物に触れるべきだろう。
 とにかく、気が変わらないうちに恐る恐る電話をかける。年齢的に断られるかもしれないという予想に反して、見学したいと申し出ると、快く応じてくれたのはとてもありがたかった。渡部先生曰く、武術はいくつからでも始められるとのこと。その一言にとても救われた思いだった。最終的には、せっかくだから見学ではなく、体験してみてはどうかと勧められた。練習日は毎週日曜日の朝9時半からだったので、週末にお伺いするとお伝えした。
「はぁー」
 電話を切ると、私は深いため息をついた。渡部先生からはツァイクンドーに対する真摯な情熱が伝わってきた。正直に言うと、恥ずかしいくらいに緊張していた。しかし、今は連絡できた自分を素直に褒めたい。

 週末、私は家族には内緒で早めに起きると、ツァイクンドーの体験のために高田馬場へ向かった。行きたい気持ちと不安とが入り混じった複雑な思いがつきまとう。そうこうしているうちに現地についてしまった。もう行くしかない。私は腹を決め、扉を開けた。開始時間の少し前だったが、すでに中には生徒が集まっていた。
「失礼します。あのー、本日は体験に伺いました、竹山と申します」
 生徒の方々が挨拶してくれる中、一人の人物が近づいてくる。
「体験の方ですね。初めまして、インストラクターの渡部です。確か、お電話をくださった方ですよね?」
「はい。先週お電話した竹山と申します。本日はよろしくお願いいたします」
「それでは、竹山さん、練習を始めますので準備してください」

 渡部先生から一通りツァイクンドーの説明を受けると、いよいよレッスン開始だ。まず立ち方とフットワークを習う。先生の動きを実際に見ると、あまりに見事な動きに、思わず見とれてしまう。
(なんてことだ、これがツァイクンドーのフットワークか! 同じ人間の動きとは思えないぞ)
 やはり実際に見ると迫力がまったく違う。とにかく速い。とてもできる気がしない。こんな動きをされたら、当てることもできなければ、こちらは一方的にやられるだけだ。フットワークが最重要技術というのがやっと理解できた。
 実際に初心者のグループに混じってフットワークの練習を行うと、先生の目が少し鋭くなったように感じられた。
「竹山さん、どこかでツァイクンドーを習ったことがありますか? 初めてじゃないですよね」
「はい。あの、本やDVDを観ながら個人的に練習してました」
「そうですか。とても初めてとは思えない動きなので驚きました。普通、いきなりここまではできませんよ」
「あ、ありがとうございます!」
 自分の努力が認められたようで、正直、嬉しかった。
「ただ、個人練習だけではどうしても限界がありますから、できれば定期的に通った方がいいですね」
「はい。私もそうしたいと思っています」
「ツァイクンドーの場合、フォーカスミットを持ってもらいながら二人で練習しないと上達しませんし、どんなに本やDVDで学んでもミット練習はできませんからね」
「確かにそうですね」
「特にミット練習は実際に習いに来ていただかないと、伝えられない部分もたくさんありますので」
「はい。分かります」
 確かに、本やDVDだけで習得できる武術なんてこの世には存在するはずがない。
「でも、たいしたものですよ。一人で練習したにしては十分なレベルです。この調子で続けてください」
「はい、頑張ります」
「はい次、ミットを持ってシングルアタック!」
 一通り練習を行うと、私のノートには当面困らないだけの課題がびっしりと書き込まれた。練習生たちも熱心に取り組んでいて、とてもいい雰囲気だ。そのせいか、初めてとは思えないほどに雰囲気に馴染むことができた。初めは怖い印象があったが、渡部先生の人柄が影響しているのは間違いない。
(今日は参加して本当に良かった)
 何事も勇気を持って飛び込めば、それに見合うものを手に入れることができる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み