三、医療ミス

文字数 12,275文字

 夜勤が終わり、帰る途中。
 猛は電車が来る前に、手帳を確認していた。本日、三月二日に休み印。二日間休んで、また三連勤。
「ふう……」
 ため息が自然と出てしまう。医師になってしまえば、こんな勤務体系でも仕方がないのだが、もう少しまとまった休みがもらえたらな、とも思ってしまう。そうすればタレと一緒に、少し遠くまで散歩に行ける。
 ……休みがあっても、考えるのはタレのことだけか。思わず猛は笑ってしまった。三十代の男が、友達や恋人との約束もなく、年老いた愛犬と遊ぶことしか考えていないとは、情けない。それでもいいかと思っている自分も問題だ。
「電車到着します。白線の内側までお下がりください」
 アナウンスを聞き、手帳を閉じると電車がくる方向を見る。そのとき、些細な違和感を抱いた。隣に立っている男に目が行く。灰色のスーツを着ているが、手ぶらでネクタイもしていない。目には生気がなく、うつろな表情だ。
 男は、電車が構内へ入ってくる瞬間、ホームへ飛び出そうと身体を傾けた。
「危ないっ!」
 咄嗟に男をうしろから抱え込むと、駅員が緊急停止ボタンを押し、電車が止まる。
「大丈夫ですか!」
ホームの上で何とか取り押さえた男に声をかけると、耳元でか細く呟いた。
「……死なせて欲しかった」
 男は背後の猛の顔を見ることもせず、ただ脱力するだけ。猛は口を真一文字に結んだ。

「ただいま」
「あら、ずいぶん遅かったわね」
「……ちょっとね」
 自殺志願者を助けていたとは言えなかった。結果として、猛は一人の男の命を救った。だが、本当に救ったことになったのだろうか。彼は死にたがっていた。どんな理由かはわからない。しかし、簡単に自分の命を手放そうとは思わないだろう。考えて、考え抜いて、自殺するしか選択肢がなかった。彼が救われる手段は、自分が死ぬことだったのだ。そう考えると、自分は彼を救ったことにはならない。でも、医師として見逃すことはできなかった。
 暗い顔で靴を脱いでいたら、息遣いの荒いタレが猛のそばへゆっくりと歩いてきた。猛は気分を変えるように、元気に呼びかける。
「お、タレ! ただいま。母さん、散歩ちゃんと行ってくれた?」
「それが……」
「ん?」
 口ごもる母は、頬に手を当てると、心配そうにタレを見つめた。
「少し息苦しそうにするのよね。だから、途中で引き返すようになっちゃって。でも、お兄ちゃんと一緒なら大丈夫かしら」
「そっか。ま、様子を見ながらのんびり行くよ。タレ、待ってろ。今着替えてくるからな」
 タレはじっと猛を見上げた。

 いつもの散歩道。梅の花はすっかり見頃を終えてしまったが、今度は歩道に置かれた花壇の花たちが蕾をつけている。桜も、もう少しすれば咲きはじめるだろう。
のんびりと、タレの様子を見ながら歩くが、いつもよりもさらに歩くスピードが遅い。
「タレ、どうしたんだ? なんか変なものでも食ったか?」
 一度立ち止まると、息を切らせるタレ。これか、母親が言っていた異変は。さすがにタレも老犬だ。もう長距離の散歩は難しいのかもしれない。
「今日はもう帰るか?」
 立ち止まると、申し訳なさそうにその場にしゃがみ込む。これは少し困った。タレは中型犬……ペットシャンプーの店では場合によって大型犬扱いされる。そんなタレを抱っこして帰るのはかなりの重労働だ。
 少し休んだらまた歩いてくれるだろうか? 自分もその場にしゃがんで様子を見る。すると、声がかかった。
「山口先生、どうかしましたか?」
 顔を上げると慎一がいた。駅側のほうから帰って来た途中らしい。どうやら慎一も、猛と同じく夜勤だったようだ。
「犬飼先生……数日前からタレの様子がおかしいみたいで」
 簡単に説明すると、慎一はいくつかたずねた。
「タレくんは今年十四歳でしたよね。健康診断などは?」
「フィラリアやダニの薬はもらってました。狂犬病予防も。でも、健康診断は最近やってなかったかな」
「だったら今から診ましょうか? 年齢もそうですけど、何かあってからじゃ遅いですから」
 慎一の言葉は嬉しかったが、猛はどうしようかと迷った。検診をしてくれるのはありがたいが、夜勤明けでまた病院に戻ることになる。知り合ったばかりの他人に、そこまで世話を焼いてもらうのも申し訳ない。
 困り顔でいると、慎一はくすりと笑った。
「そんなに気にしないでください。僕もタレくんは好きですし、長生きしてもらいたいだけなんです。タレくんはうちの車で運びましょう」
 猛はただ、黙って頭を下げた。

 ソフィア動物病院は、改装したばかりだと慎一が言っていた通り、清潔感あふれる場所だった。木材や観葉植物をうまく利用して、病院と言うよりも公園のような待合室になっている。
「おお、猛。ここか、犬飼先生という方が運営している病院は」
「うちが、ずっとお世話になっているところよりもきれいね」
 猛の連絡を受け、遅れて電車で来た雄二と美佐子も待合室を見回す。しばらく三つのイスを占拠していると、慎一が診察室から出て来た。
「お待たせしました、山口先生」
「犬飼先生、タレは?」
「こちらへどうぞ」
 二部屋ある診察室のひとつに通されると、大きな体重計がある。壁には犬のカレンダー。その下にタレは寝そべっていた。
 慎一のあとから反対側の検査室から出て来た熟年の男性は、山口家の面子にお辞儀をした。
「はじめまして、慎一の父で院長の犬飼総一と申します。タレくんのことはかねがね」
 猛たちは同じように頭を下げると、イスを勧められ座った。
 総一はカルテを見ると、タレをそっと見た。
「山口タレくんですが、心臓病を患っている可能性があります。年齢のせいか、進行も速い。ゆっくりですが、散歩も難しくなるでしょう。辛いかもしれませんが……」
「そんな……」
 猛が絶句するなか、美佐子と雄二はタレの頭をなでる。その間もタレは苦しそうにハァハァと息を切らせている。
「我々はどうすればいいんでしょうか」
 雄二がたずねると、総一の代わりに慎一が答えた。
「そのうち、立って排便することや食事をすることも難しくなると思います。その覚悟と……あとはできるだけなでたり話しかけたりしてあげてください」
「それって……」
 猛も医師だ。人間と動物という違いはあるが、その意味は同じ。『最期を看取る準備をしろ』。そう言っている。慎一は猛の目を見て頷いた。ああ、やっぱりそうなのか。タレはもう……。
「うちは二十四時間開けてますから、いつでもご連絡ください」
「ありがとう……ございます」
 猛はそう言葉にするだけで精一杯。雄二も美佐子もショックを受けて黙る。三人は再度深々と頭を下げると、家まで慎一に送ってもらうことになった。
 外に出るとすでに日は落ち、闇に満ちていた。月も星も出ていない。いつの間にか雨雲に変わり、黒が空を覆っている。
目を閉じて、開きなおす。街灯が走り去っていく。どこまで走っても、時間は止まらない。わかっているのにまだもがいているのは、タレではなく猛だった。

「あ、こら! 源八!」
 職場のVIPルームには、いまだにバカ犬とバカ飼い主が居座っていた。普段ならどんな犬でもかわいいと思うはずなのに、タレの調子の悪い今は、この元気さが憎たらしい。愛犬の粗相を叱ることができるのも妬ましい。猛は冷たい視線で一人と一匹を見つめていると、源八はなぜか自分の背後に逃げて来た。
「お、おい……」
「犬は本当の犬好きがわかるってな」
「竹内先生!」
 往診に来た二人をにらみつけると、大黒はごほんと偉ぶった咳をした。それがわざとで、偽物の、何の問題もない咳だとわかる猛は、余計に苛立ちを募らせる。
 自分のうしろにいた源八もその殺気を感じたのか、今度はベッドの下へと隠れた。
「あとで清掃員を呼んでくれ! まったく」
 小さなブルテリアすらままにできない悪徳議員に、竹内は勇気あるひとことをさらっと投げつけた。
「大黒先生。清掃員を呼ばなくても、あなたが出て行けばいいだけなんですよ? こちらも病床が足りないのでね」
「貴様! そんな口をききおって、無能な内科医が!」
「院長が言えないから、無能な内科医である私が言ってるんです。意味を汲んでくださるかと思ったんですが」
 大黒は鼻を鳴らすと、まるですねた子どものように唇を尖らせ、腕を組む。
「あと一週間はいる。その分金も払う! いいだろう!」
 カルテを適当に取り出すと、竹内はつらつらとドイツ語でメモを取り、猛に見せた。
『金の亡者は一週間で必ず追い出せ』
 竹内らしい文句に、イライラしていた猛も思わず苦笑する。
「一週間ですからね。では」
 ボールペンをしまうと、カルテを片手に挨拶もなく個室を出る竹内。猛は軽く会釈をして扉を閉めた。
 あっという間に日が暮れる。夕食の時間が近づき、廊下をせわしなく行き来する看護師たち。もう春なのに、仕事をしていると朝も晩もわからなくなる。自分は夜勤。これから忙しくなる――いや、ならないことを願う。
 窓を見ていたら、竹内に仕事へと引き戻される。
「……ところで昨日のニュースは聞いたか?」
「何かあったんですか?」
「おいおい! ちゃんとしろ!」
 カルテを整えながら聞くと、大げさとも思えるくらいのリアクションを返される。
 昨日はタレのことで家族会議。自分がいない間は、美佐子と雄二がしっかり面倒を見てやると……今までとは違いはないはずなのに、意味が変化した結論に収まったが、ずっと眠れずにずっとタレのそばにいて、寝ずに出勤してきたのだ。ニュースに関しては、テレビがついていたかもしれないが、内容は頭に入ってきてすらいない。
 竹内は猛に近づくように手招くと、耳打ちする。
「医療ミスが起きたらしい。今度は聖ジョアンヌ大学病院でな」
「そう言えば……この間、墨東光栄でもありましたよね。聖ジョアンヌでも?」
 廊下のソファに置かれた新聞をつかむ。患者が売店で買って、そのままにしたのだろう。いつも誰かが放置して、夜、巡回する看護師が回収しているのを猛は知っている。
 竹内からそれを受け取ると、記事に目をやる。
「患者にペントバルビタールナトリウム? しかも致死量を超えて投与って……あり得ないでしょ」
 小声で竹内に告げると、新聞を渡した本人もあごをさすってうめく。猛は気にせず続けた。
「この薬は、もうすでにこの辺りの病院では使われていないはずじゃ? 副作用が大きいからって」
「ラボナ錠があるだろう。精神科だったら置いてる可能性はある。しかし、聖ジョアンヌには精神科がない。そこが不思議ではあるが、墨東光栄での医療ミスでも、この薬が投与されたらしい」
「まさか……」
 竹内は頷くと、はっきりと言い切った。
「医療ミスではなく、殺人事件。しかも連続。その可能性もなくはない。警察は絶対に発表しないだろうがな」
「でもどうして? 死んだ患者に何か関係でもあったんですか?」
 新聞を奪ってカルテの下に隠すと、竹内は頭をかいた。
「さあな。そこまでは知らん。じゃ、今日はあがる。あとよろしくな」
「……はぁ」
 ポンと肩を叩き、すれ違った自由気ままな先輩は、またふらふらとエレベーターのほうへと歩いて行った。

 深夜のナースステーションで、先ほどカルテに隠した新聞によく目を通してみる。沢田と
五反田は自分の仕事をしているが、今はそんなに忙しい時間じゃない。
「ペントバルビタールナトリウム……」
 呪文のように呟いていると、五反田が立ち上がった。
「山口先生、よろしければコーヒーでも買ってきましょうか? 見回りの時間ですし、ついでに。沢田君のも」
 ため息をつくと、自分も財布を取り出した。何度記事を読もうが、この医療ミス事件については何の憶測も立てられない。看護師が間違えた? その前に病院にないはずの薬品だ。だとしたら持ち込まれた? だとしたら誰が?
「……それじゃ、お願いしようかな。ブラックで。沢田と君の分は俺のおごりだ」
 いい加減、考えるのも疲れた。これは警察の仕事だ。自分はまず、目の前の仕事をすべきだ。その前に気分転換。
 おごると言った途端、沢田は手にしていた道具を離し、猛に勢いよく頭を下げた。
「山口先生、あざーっす!」
「お前……患者の前ではあんまりチャラチャラするなよ?」
「わかってますって!」
 胸を張ったところで、この若い看護師が理解しているかどうか。そのうち自分より早く、『患者さんと結婚しちゃいました!』と宣言しそうで恐ろしい。五反田も同じ考えのようで、呆れたように笑うと、ナースステーションを出て行く。
 猛は今度、カルテに目を通し始める。しかし、それもたった数分の出来事だった。ナースコールが点灯するとともに、五反田が走って戻ってくる。
「山口先生! 五○六号室の市川さんが、呼吸停止です!」
「なんだって?」
耳を疑った。確かに昏睡状態ではあったが、先ほどの回診では小康状態を保っていたのに。猛と沢田はナースステーションを出る。五反田もカートを持ち出し、市川の病室へ急いだ。

 市川は心停止していた。脈を取ると、心臓マッサージを始める。電気ショックを与えても反応なし。市川の呼吸は戻らない。
「急いで娘さんを!」
――三十分を過ぎた。人工呼吸と心臓マッサージを繰り返した甲斐もなく、娘の目の前で息を引き取った。
 娘の梨花は無言で母の亡骸を見つめる。卒倒するのではないだろうかと心配しながら、市川の腕の点滴の針を確認する。その横に、紫色のあざがあることに気がつく。点滴のあとではない。もし、看護師のミスで薬液が漏れていたなら、そこが膨れ上がっているはずだ。これは……。
「注射痕?」
「山口! 何があったか説明しろ!」
 呼び出しを受けて飛び出してきた、スーツのままの竹内が怒鳴る。猛は反射的に頭を下げた。
「すみません! 私の処置が遅れたため……」
「山口先生に落ち度はありませんよ!」
 庇ったのは沢田だった。五反田も同意見らしく、竹内をにらむ。怒鳴った本人は、ちらりと梨花を見ると困ったような顔をした。
「謝罪が聞きたいんじゃない。何が起こったのか、はっきり説明しろ」
猛はカルテを再度確認しながら、竹内に状況を話す。
「……市川加奈子は心臓病末期で小康状態を保っていました。先ほどの回診でも変化なし……」
「こちらの処置に落ち度がないなら謝るな。だが、なぜ容態が急変した」
 梨花が死に水を取り、五反田と沢田がその後の処置をする中、こっそりと点滴横にある注射痕を見せる。
「何らかの注射を受けたあとがあります。ですが、カルテには何も書かれてない」
「……冗談だろ」
「ご家族の承諾を得て、解剖する必要があると思います」
 竹内は目を手のひらで覆うと、顔を擦った。
「……わかった。院長に連絡を取る。お前は少し、休みを取ったほうがいい。沢田君と五反田さんも」
 二人は黙ったまま、遺体をそっと運び出す。猛は市川の顔を見た。苦しんだ様子はなく、ぐっすり眠っているようだ。
 廊下にいた梨花が、そっとこぼした。
「お母さん、やっと逝ってくれたんだね」
 手には白い花が一輪。こんなもの、いつ手にした?
 不穏な空気に包まれる室内を、赤い下弦の月が笑いを堪えながらのぞいていた。

「いい休暇になったと思えば?」
「あのなぁ……」
 猛はネクタイを緩めながら、くたりとテーブルにつく。ビール瓶とグラスを運んできた美佐子ののんきさに頭を抱えていると、パジャマ姿の雄二がビールを注いでくれた。無言で口をつけると、泡だけを味わった雄二が静かに口を開いた。
「お前はミスを犯してないんだろ」
 頷いてグラスを一気に空にすると、猛は斬った。
「俺も、看護師たちもミスはしてない。ただ、自然死でもない。気になる点がいくつかある」
 腕の注射痕。安らかな寝顔。ミスのない仕事。二か所で起きた医療ミスは関係あるのか。そして――梨花が持っていた、一輪の白い花。
「あの花は……?」
 その横で苦しそうに横になっているタレ。すべての事件がごちゃまぜになり、黒い糸がぐるぐるとこんがらがっていく。解くことができず、酒に頼ってしまう自分が弱く、嫌になる夜、記憶は消えた。
――夕日が目を刺し、赤い光が辺りを包む。雄二に迷惑をかけたのか。
 猛は一度自室で目覚め、時計を確認する。起き上がろうとするが、カレンダーに目が行った。カレンダーには丸。三月二十日まで矢印が引かれ、『休』と書かれている。酔って、ボールペンで紙をえぐった覚えがある。
「くそっ……」
 再度布団をかぶり直すと、タイミング悪くスマホが震えた。表示には『聖理華総合病院・竹内』。どうすればいいのか一旦戸惑うが、画面をタッチする前に吠えた。
「出りゃいいんだろっ!」

 竹内に会ったのは、それから三日後。上野公園の鳩に餌をやりながら、スーツ姿の竹内はベンチに座った猛に資料を差し出した。
「司法解剖の結果だ。医者つながりである程度出回ってるらしい」
 黙って受け取ると、中身を見るように促される。紙をめくると、目を細めた。
「……体内から致死量のペントバルビタール? こんなことはあり得ないでしょ! うちの病院にこの薬は置いてない!」
「だが、実際にあったことだ」
 白衣を着ていなければ、竹内はただのサラリーマンにしか見えない。ついでに言うなら冴えない部類の。電子たばこをくわえると、興奮している猛に座るように手を上下に振った。
「落ち着け。市川加奈子だけじゃない。噂では、墨東光栄、聖ジョアンヌにもペントバルビタールは置いてなかったらしい」
「墨東栄光は古い病院ですから、残っていた可能性はある。でも聖ジョアンヌは精神科すらない。ペントバルビタールは強度の睡眠薬ですよ? だったら……外部から持ち込まれたということですか?」
「今は防犯カメラなど、警察も調べている。今後、事情聴取もあるかもな。お前はそれまで休日だ」
「……何もできないんですね」
 電子たばこをしまうと、竹内はうなだれる猛を鼻で笑った。
「何も心配するな。今のところ、マスコミにも箝口令が布かれてる。ま、休みが明けたらバンバン仕事してもらうから、覚悟しとけな」
 わきに置いていた餌を最後にバッとぶちまけると、群がる鳩を背に去っていく。竹内は、いつも言いたいことをあっさり言ってしまう。それが目の上の人間だろうが、権力者だろうが、打ちひしがれた後輩だろうが。今の猛には眩しすぎて、にらみつけるしかない。
猛は、そのままぶらりと不忍公園へと足を向ける。平日の午後はこんなにのどかなのか。ここ数か月、昼間は大抵寝ていたか、バタバタと出かける準備をしていたかのどちらか。ボーッとしながら池の前に佇むなんて、ずいぶん贅沢な身分だ。
 自分が復職するのはいつになるのだろう。そのまま濡れ衣を着せられ、最悪クビなんてこともある。何もわからない。市川が死んだ理由も、各所で起きている医療ミスの真実も、自分の今後も。胸がもやもやしても解決はできない。スケジュールは空白。明日からもこんな何もない日々が続くなんて……。
 ポケットの中のスマホを取り出すと、花の画像を検索する。梨花が持っていたあの花は……?
「これだ」
 ふわりとしたレースをまとった黄色い素足。少女の名前はわからない。どこかに載っていないか探す。
じっと画面を見つめていたら、着信が。驚いてスマホを落とすところだった。一体誰からだ? 今日、この瞬間自分が休みだと知っているのは、家族と……。
「沢田?」

 呼び出されたのは地元に近いイタリアンレストラン。店内はほぼ満席で薄暗く、テーブルに置かれているキャンドルにオレンジ色の明かりが灯っている。
「それじゃ、今日の出会いに! かんぱーい!」
 女性三人と沢田は、赤ワインの入ったグラスをかかげる。自分も仕方なくグラスをあげると、不快なのを隠さずたずねた。
「沢田、なんだこれは」
「何って、合コンですよ」
「大事な話があったんじゃないのか? 例のミスのことじゃ……」
「合コンも大事な話でしょ?」
 にこにこ笑っている沢田を見て、猛は頭を抱える。そしてこっそり自分の長財布の中身を確認。上野にいて、『大事な話がある』と急に呼び出されたものだから、格好も適当。話す場所もせいぜい居酒屋だと想像していたものだから、所持金もさほどない。それが合コンって。
 大体自分たちは今、医療ミスを疑われている立場だ。沢田からの呼び出しも、何か気づいたことがあったのかと思ったからわざわざ来ただけ。そうじゃなかったら合コンなんかに出る気分じゃない。タレと家にいるか、布団に籠っていたかった。
 それなのに沢田は女の子との会話をのんびり楽しんでいる。こいつの感覚がおかしいのか、それとも自分が考えすぎているのか、頭痛がする。
「沢田さんは、お医者さんなんですよね!」
「え? 沢田は看護……ぐっ」
 沢田に野菜スティックを口に刺され、目を見開く猛。こいつ、仕事を偽って、女の子たちを集めたのか!
 ボリボリときゅうりを食べている間、沢田は嘘八百を並べ立てる。
「いやあ、まあね! こっちの山口先生と同じでさ。俺は後輩なんだけど」
「沢田、お前……」
 文句をつけても、沢田はニヤニヤしながら肩を抱いて耳元に口を寄せる。
「今日は飲みましょうよ。せっかくの休暇なんです。俺たちはどうあがいても休まされるんですから、楽しんだっていいじゃないですか」
「……」
 むっとしたまま、ごくごくとワインを飲む。この油断もあとから足をすくわれなければいいが。
 そっとスマホを取り出すと、テーブルの下で操作する。美佐子にタレの世話を頼むメッセージを送ると、グラスを揺らしながら中の液体を眺める。やっぱり楽しむ気にはなれない。タレのこともだが、ずっと市川のことが引っかかっている。病院内にあるはずのない、ペントバルビタールナトリウム。死んだ患者たちに共通点はないのか? それと、市川梨花が手にしていた花。
 盛り上がる中無言でいたら、隣の女性が気を利かせたのか声をかける。
「山口先生、どうしたの? ボーッとして」
「あのさ、この花、わかる?」
 先ほど保存した画像を見せると、女性陣たちがこちらに注目する。獲物を狩る目が正直怖い。どうやら女性陣の目的は、チャラい沢田ではなく、無口で難しい顔をしている自分らしい。なぜだかはわからないが、無口故かもしれない。
「ああ、それ知ってる! ポピーって花だよ。母が庭で育ててるの」
「……これを贈るとき、何か意味ってあるのかな」
 単なる呟きだったが、その女性は猛の声を見事に拾った。
「それなら花言葉じゃない?」
「山口先生、その花をもらったとか?」
 めでたく酔っ払ってきた沢田がちゃちゃを入れるが、猛は静かに首を振った。
「違う。病院に持ってきた人がいて、気になったんだ」
「ポピーの花言葉……あった! 『いたわり』『思いやり』だって」
 すぐに違う女性がスマホで検索し、猛の視線を横取りする。花言葉だ、と言った女性が彼女を鋭く見つめ、いちゃもんをつけた。
「でも、花って色によって花言葉が変わるのよ。ポピーも一緒で……」
「へぇ? どんなの?」
 女性同士のにらみ合い。こうなってしまったら沢田もお手上げらしく、酒に逃げている。自分もパスタをひと口食べると、話しを続けるように促す。女性の戦いには興味ないが、ポピーの花言葉は知りたい。市川梨花がこの花を持っていた理由と繋がるかもしれないから。
「赤いポピーは『慰め』『感謝』、白いポピーは『眠り』『忘却』だって」
 猛はあごに手を当てた。梨花が持っていたのは白。『眠り』、『忘却』の花。それに何のメッセージが?
 沢田がグラスにワインを注ぐ。それをいくらあおっても、今夜は酔えそうになかった。

「楽しかったぁ」
 ほろ酔いの女性達と沢田は、連絡先を交換している。
「あ、山口先生も! 今度は二人でお食事に……」
「ちょっと、連絡先は俺のだけでいいっしょ! 山口先生は忙しいの!」
 沢田がそれを妨害する。猛は苦笑いを浮かべた。元から合コンに参加するつもりもなかったし、今は女性と会ったりする時間は取れそうもない。店を出て、緩みそうだった気を引き締め、沢田にも念押しした。
「忘れるなよ。俺達は休暇中じゃない。完璧なクロではないが、病院にとっては限りなくクロに近いグレーの存在だ。この瞬間だって、いつクビが飛ぶかわからないんだからな」
「はぁ、山口先生は少し自分に厳しすぎっすよ……。あんなことがあったから、忘れたいのに」
 沢田がついたため息に、猛はきょとんとした。酔っていて本音が出たのか。沢田が合コンを開いた理由は、『忘れたかったから』。自分達は人間だ。ロボットじゃないのだから、ミスだって犯す。ミスを犯してなくても、明日の生活を脅かされている。それが辛くて忘れたい。沢田の心情はわからなくなかった。だが――
 その時、犬を抱いた男とすれ違った。振り向くと、曲がり角の先へと行ってしまう。見間違いでも、酔って見た幻覚でもない。あれは……。
「悪い! 俺、用事を思い出したから。じゃ、また!」
「あ、山口先生!」
 沢田が名前を呼んだのも無視して、猛は男のあとを追いかけ、小走りになる。
 駅から離れ、住宅街に入ったところで、ようやく足を止めて彼を呼び止めた。
「犬飼先生!」
「……山口先生? 奇遇ですね。こんなところで」
 慎一の胸には、茶色い小型の雑種がいる。目をつぶり、息も絶え絶えに見える。こんな状態で、なんでこんなところに? 慎一は猛が不思議に思っていても変わらず笑顔だ。
「お散歩、ですか? でも抱っこで?」
「この子はもう寿命なんですよ。自分で歩くこともできない。だけど最期に、よく散歩していたこの道ににおいをかがせてあげたくて。獣医としてではなく、人としてね」
 人として、人だから、か。人間は都合のいい動物だ。犬に感情があるかどうかなんて、本当はわからないのに、わかった気になっている。それは自分も同じ。タレと心が通じ合っていると信じている。慎一も絶対。だから人は人であるのだ。
「犬と人は昔からの友人という」
 抱きしめている犬をもう一度抱きなおすと、軽く鼻息が聞こえた。まだこの子は生きている。命の炎が消えかかりそうになりながらも、どうにか少しでも長く燃えていたいと、酸素を取り入れている。それを胸に感じながら、慎一は悲しく言った。
「彼女は僕のパートナーではありませんが、僕が最期を看取る人間ですから」
 犬の頭を優しくなでる慎一を見て、猛は顔をはっと上げた。
「この子、飼い犬でしょう? 犬飼先生の犬じゃないのに、最期を看取るって」
「言いづらいことなんですけどね。うちの病院に来る子の中には、家族が最期を看取れないという子もいるんです」
「どういう意味ですか」
 口に出した言葉には、猛自身も気づかない怒気をはらんでいた。
理解できなかった。これは猛が医師だから、なおさらだったのかもしれない。人間を基準にして考えたら、誰か亡くなるときには人がそばにいるはずだ。犬だったら野良で、野垂れ死んだりすることはある。でも人間はなかなかそうはいかない。路上で死人がいたら、事件になる。事件にならないとしても解剖が行われ、死因ははっきりする。家族がいるなら連絡が行く。それは、日本の制度がそうしているからだ。
 では、家族がいる犬は? 飼い犬だったら、家族が最期まで一緒にいてやる。それ以外の手なんて思いつかない。ある訳がない。あってたまるか。自分の愛した家族だぞ?
 憎しみを含んだ猛の目を見ても、慎一は柔らかな笑みを崩さなかった。
「家族だからです。苦しむところを見たくない。大きな病気になったけど、介護ができない。そう言った理由で、安楽死をお願いしてくる飼い主さんがいる」
「そんなの、人間の勝手な事情じゃないですか!」
「そうですね。人間しか許されない特権だ」
『特権』と聞き、竹内の言葉を思い出す。人間にだけ許された、特別な権利。人は自分で死ぬことができる。そして、自分で死ぬことを選び取れる。だが、これは『人』だけじゃない。他の動物に対しても行使できる権利だと気づかされ、青ざめる。
自分だってタレを最期まで看取れる自信がない。愛する家族を失う瞬間は、もう訪れなくていい。美佐子や雄二だっていつか死ぬ。よくわかっていることだ。時が人を殺す。愛する人を奪う。それに抗うことは誰にもできない。でも、願うことが許されるならば、自分は――
「今の日本は、人間の安楽死は認められていません。ですが、人間と動物には差がある。動物には安楽死が認められています。人の心ひとつで、生か死が決められるんですよ」
 大事そうに小さな命を抱きしめる慎一を見て、猛の方が泣きたくなった。この子の家族は死を選んだ。一緒に暮らした友。親。姉妹。それらに見捨てられたのか? 『見捨てる』という言い方が合っているか違っているかなんてわからない。見たくなかったんだ。彼女が息を引き取る瞬間を。
「僕は彼女がどんな生き方をしたのか知りません。でも、たくさん家族と幸せな思い出を作ったと信じたい。最期はその家族の代わりに、笑顔で送ってあげたいんです」
 猛は自然に声に出していた。
「俺も……なでていいですか? 彼女」
「ええ」
 人間は死を選ぶ権利がある。自分に対しても、愛する家族に対しても。

 家に帰ると、すでに美佐子や雄二は眠っているようだった。ダイニングには誰もおらず、小さくて黄色い電球だけが点いていた。
 静かな息遣いが聞こえる。タレだ。そっと様子を見ると、目が開いていた。
 タレもすっかり弱くなっていた。足腰は立たなくなり、今では排泄も一人でできない。そのためおむつを履いていた。
 慎一の胸にいた犬を思い出す。自分は決して命を手放したりはしない。最期まで、ずっと家族でいるんだ。
 猛は明るくタレに話しかけた。
「おう、タレ。お前は待っててくれたのか。遅くなってごめんな」
 優しくとタレの頭をなでる猛。温かく、柔らかい毛。いつまでもこのぬくもりを感じてい
たい。できることなら、自分の命が尽きるまで、永遠に。そんなことが叶うわけないのに。
「……お前は幸せか? この家に来て。俺や、母さんや父さんと一緒に暮らせて、嬉しい
か?」
タレはわからないような顔をする。猛は思わず涙を流しそうになった。我慢して、誰にも
知られないタレとの一生の秘密の約束を交わす。
「お前は死ぬまでうちの一員だからな。絶対安楽死なんてさせない。約束だ」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み