unluck see

文字数 1,030文字

 数日後、スーツを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくった状態で帰ると、テレビを見ていた美佐子と再就職が決まった雄二が、ダイニングでテレビを見ていた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「犬飼先生……あんな人だったとはな」
 ビールを飲みながら、テレビを見る雄二。アナウンサーは事実だけを淡々と告げる。
『犬飼慎一は、多頭飼いに失敗したブリーダーの家族に、致死量の睡眠薬・ペントバルビタールナトリウムを……』
 猛は聞かず、自室へ向かう。
「ただいま、タレ」
 棚に置かれているタレの骨壺に挨拶する。横には元気だった頃のタレと、猛のツーショット。置かれているのは赤い花。
「やっと泣けるよ」
 今までタレの前で我慢した分、猛は泣き崩れた。

 閉院した、ソフィア動物病院と併設している犬飼家の寝室では、慎一の部屋にいた母・沙雪が眠っていた。今も点滴がぽつ、ぽつ、と狭い水面を揺らしていた。その横に立っていたのは、総一だった。
「沙雪、すまなかったな。慎一のために生きてもらっていて」
 呼吸器を取ると、点滴のチューブに注射を刺して薬物を流し込む。
「もう疲れただろう。ゆっくり休みなさい」
 心電図が止まった。ツーという音を確認すると、総一は赤い花を妻に捧げた。
「お前が慎一に教えた言葉だったな……ありがとう」
 その後の総一の行方について、誰も知るものはいなかった。

――埼玉県のとある駅。ホームには人が溢れている。いつもと同じ混雑具合。そして、いつもと同じ格好の自分。片手にあるのは何となく買ったニーチェの言葉。時間つぶしのための道具だ。
 事故を冷たい目で眺めていた。
また死を選んだ人間がいた。
人間の特権は、死を選べることだ。だから今日もこうして命を捨てる人間がいる。でも……。
ぐっとカバンを持って、前に進む。後に退くことは考えていない。わからないなら突き進むのみ。
「すみません、どいてください! 私は医者だ! ケガ人はどこだ! ケガ人は――」
 人ごみをかき分け、線路に降りる。必死にケガ人に声をかける。これしかできない。自分には選択する勇気はない。
人は死を選ぶことができる。だが、ミスを犯すのも人間だ。間違って死を選ぶことを選択するかもしれない。自分ができることは、できる限り、ミスを訂正していくことだ。義務を果たさず、権利だけ主張してどうする。まずは果たせ。俺がすべて見ててやる。

俺はもう――誰の死からも目を逸らさない。
                                     【了】



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み