一、タレ

文字数 6,681文字

 京浜東北線で都内へ出て、そこから山手線。都心の一等地にある、聖理華総合病院が、山口猛の職場だった。
 時間は早朝四時を回ったところ。五〇一号室の個室に、年配の医師である竹内とともに立っていた。ここに寝ている患者は、今、臨終のときを迎えたばかりだ。
 寝台にいる亡くなった女性の周りには、その夫と高校生くらいの娘息子、そして喪服姿の三人の女性の姿があった。
「よく頑張ったな、お前は自慢の妻だ」
「お母さん、本当にありがとう」
「私、お母さんの娘で幸せだったよ」
 三人は涙を我慢して、ずっと笑顔を故人に向けている。それとは対照的に大泣きしているのは、喪服の女性たちだ。
「姉さんったら、こんなに若くして……」
「心臓病なんて、急過ぎよ」
 嗚咽を漏らしている女性もいる。
 それを見ていた竹内は、一礼すると個室を出た。猛もそれを追うと、廊下に出たところで竹内が呟いた。
「人は、亡くなる人間の近くにいればいるほど、笑顔で送り出すんだな」
「長田さんの旦那さんと、お子さんですか?」
「ああ。それに比べて姉妹のほうは、しっかりドレスアップしてきていた上に、大泣きだ」
 竹内の皮肉に、猛は頷いた。喪服を着てきた理由はわかるが、まだあの姉妹が来たとき、長田さんは生きてらっしゃった。それなのに、自分の死をわざわざ知らせるように、黒装束で現れるなんて。ご家族にとっても失礼だし、何よりも死の淵にいた長田さんはどう思ったのだろう。いや、そんな余裕などないか。彼女も、世界で一番大事な夫と子どもとの最期の時間を、精一杯過ごすことしか頭になかったはずだ。
 廊下を歩き出す竹内と猛。まだ早朝なので、起きている患者は老人が二人ほど。それと看護師が長田さんの部屋の近くを動き回っているくらい。
「あそこの奥さんの子どもたちは、まだ学生なのにしっかりしてたよ。最期まで母に涙を見せず、ずっと感謝の言葉を送ってたんだから」
「そうですね……」
 高校生で、まだ母親に頼りたいところや孝行したいこともあっただろう。母親を早くに亡くすなんて、辛すぎる。だが、二人の子どもたちは、しっかりと覚悟を決めて笑顔を見せていた。亡くなった長田さんはきっと、素晴らしい母親だったのだろうとそれだけでわかる。
「ですが竹内先生、ここでそう言った話をするのは……」
「わかってる。ところで山口、今日はこれであがりだろ? これ」
 渡されたのは、二千円。白衣のポケットに入っていた、茶色い折り畳み財布の中から出てきたものだ。
「長田さんの旦那たちに、栄養ドリンクとサンドイッチか何か買ってきてやれ」
「いいんですか? そんな特別扱い」
 なかなか受け取らないでいると、ため息をついて、ぐいと手に押しつけた。
「俺の単なる気まぐれだ。不本意だけどドレスのご婦人方にもな」
「領収書は……」
「ばぁか、いるかよ。じゃ、お疲れ」
 竹内は疲れているのか、ふらふらした足取りでその場を去っていく。それもそうだ。先ほど一人看取ったあとだ。疲れないわけがない。自分だって、精神的にはもうギリギリだ。
運がよかったのは、このあと家に帰れること。夜勤だったのはラッキーだった。医師である限り、人の死に関係しないことはまずない。だが、慣れることもない。『慣れろ』という上司もいるが、そこまで割り切れるほど自分はまだ経験を積んでいない。
先輩の医師は、人情あふれるいい医師だ。だからこそ、この大きな病院の中で出世できないのだろうが。
猛は二千円を握りしめると、病院内にあるコンビニで、言われた通りに差し入れを買った。

 猛の家は、さいたま市内にある古めの一軒家。外壁は白く、築年数は二十五年。猛が六歳の頃に購入した物件だから、よく覚えている。
 夜勤明けで眠い目をこすりながら外の門を開ける。ボストンバッグのポケットから鍵を取り出すと、玄関を開けた。
「ただいま」
 声を上げると、一番によたよたと寄ってきたのが愛犬のタレだった。タレは十四歳の老犬で、歩みがぎこちない。それに、身体が大きいので、のそのそと移動するのも大変そうだ。
 猛が靴を脱いでいると、すんすんと鼻を近づけてくる。そんな仕草は幼い頃から変わらず、愛らしい。頭を軽くなでながら、猛はタレに声をかける。
「留守番ご苦労さん。家は変わりなかったか?」
 瞬きをひとつ。犬は人間の言葉を理解しているのか。実際のところはわからないが、こうしてアイコンタクトが通じてしまう気がするのは、犬バカな飼い主だけじゃない。
 靴を脱ぐと、バッグを持ってダイニングへ。タレもよたよたとした足取りで自分に寄り添う。そんな愛犬も、猛にとっては大事な家族の一人だった。
 ダイニングに入ると、テレビの大きな音が聞こえる。バラエティ番組なのか、出演者の笑い声。それとともに、ボリボリとせんべいをかみ砕くサウンド。味は醤油だな。香ばしいにおいでわかる。
 部屋には不似合いで、その場のノリで買ってしまったであろうロココ調のソファから手の届く範囲に、テレビとエアコンのリモコン、せんべいの袋、携帯電話が置かれている。
 そのソファにごろんと寝そべっているのが、猛の母、美佐子だった。
「お帰りなさい、猛」
 手だけ挙げて挨拶はするが、視線はずっとテレビに向けられている。三十過ぎの実家暮らし。引っ越しの予定も結婚の予定もないと、さすがにこんな扱いだ。
 実家から出られないわけは、純粋に忙しいから。医者になってしばらく経つが、わざわざ部屋を借りるのもバカらしくなるくらい、家に帰る暇がない。恋人もいないとなると、自然と実家暮らしが楽になってしまう。まだまだ健在の両親がいるから聞いてもらえるわがままだとも自覚しているが、もうしばらく甘えさせていてほしい。
それに、実家には大事なタレがいる。もし、自分が一人暮らしを始めたとしても、老犬のタレの面倒を見てやることはできない。なんだかんだ言ったところで、一番の理由はタレなのだ。
「もうタレったら、ずっとお兄ちゃんのこと待ってたのよ」
 母に言われてタレを見ると、潤んだ瞳で見つめてくる。頭をなでてやると、目を細める。この表情を見るだけで、救われた気持ちになる。
「それは嬉しいけど、また散歩連れてってないの?」
「行ってないと言っても、一晩よ?」
「タレにとっての一晩は長いの」
 どうせ昨日の夜も遅くまでテレビを見ていて、朝も起きられなかっただけだろうな。母の行動はわかりきっている。
「父さんは?」
「昨日は早期退職者の集まりで、酔っ払って帰って来たの。夜、散歩に連れて行ってたら、タレに引きずられてたわ」
「タレにはもう、そんな力はないよ」
「何か言った?」
「なんでもない。タレ、俺と散歩、行くか?」
 タレが瞬きすると、猛は急いでネクタイを解き、ワイシャツを洗濯機の上に置いた。

 マンションが多く並んでいる隙間にある川沿いの歩道。そこがタレの散歩道になっている。春には有志や小学生が植えた花や桜が咲き、夏にはひまわりが大きく育ち、秋には紅葉が見られる。冬だけは少し寂しい場所になってしまうが、冷たい木枯らしが吹くと『冬』を体感できる。
 タレもこの道がお気に入りだった。よちよち歩いていた子犬時代から、ずっと変わらず
二人で歩く場所。十四年経っても景色は毎年同じままだ。
 タレは老犬だから、さっさと小気味よく歩くことはできない。よたよた、ふらふらと歩くが、気持ちはまだ若いらしく、楽し気に見える。犬の表情はわからないが、なんとなくだ。
 季節は二月後半。まだまだ寒いが、咲き終わった梅の花びらが川に落ちて、ゆらゆら揺れる。少しずつ色づいていく春を感じていると、タレが歩みを止めた。
「ん? どうした、タレ」
「わぁ、大きなワンちゃんですね!」
 顔を上げると、前から歩いてきていた男が、こちらを満面の笑みで見つめている。薄茶色の髪に、シャツ。ネクタイはつけていないが、洗練された格好に、高価な腕時計をしている。
「触ってもいいですか?」
「いや、こいつ大きいんで、危ないですよ」
「でも、おじいちゃんでしょ? 大丈夫ですよ!」
 男は勝手にタレの頭をなでようと、目線を合わせるためにしゃがむ。しかしタレは、猛のうしろに逃げてしまった。
「あれぇ、嫌われちゃったかな」
「いつもは人懐っこいんですけどね」
 自分の袖口をすんすんと嗅ぐ男を見て、猛は不審に思った。こいつは大丈夫なのだろうか。あまりこの道で見かけたことはないが……怪しい人物では?
 訝しむ猛とは違い、男は明るい顔で笑って見せた。
「もしかしたら、他の犬のにおいがついてるからかな」
 確かにこの男からは何か香る。だが、悪いにおいじゃない。他の犬のにおいでもない。まるで花の香りのような。気のせいだろうか、と猛は首を軽く振る。
「それにしてもイケメンくんですねぇ! 名前はなんて言うんですか?」
「えっと……『タレ』です」
「たれ?」
 変な名前にぎょっとする男。それもそうだ。普通だったらこんな名前、家族につけないだろうな。でも、この名前はタレが家族であるから……猛の弟だからこそ、付けられた名前なのだ。それはここで、わざわざ知らない男に言うことではない。普段通りの説明を、猛はした。
「ほら、目が垂れてるでしょ? だから『タレ目』の『タレ』」
「あはは、タレくんかぁ。犬種はなんですか?」
「雑種です。あ、今はミックスっていうんでしたっけ? 確かアラ、なんとか……ハスキーに似た……」
「アラスカンマラミュート、ですか?」
 男の言葉に、猛は強く頷いた。
「ああ、そう! それ。普段『雑種』って言ってるから、咄嗟に出てこなくて」
「アラスカンマラミュートとは珍しいですね。しかも大型犬なのに長生きだ」
「あの……」
 すでに五分くらい、こうして雑談しているが、一体彼は何者なんだ? 犬が好きなただの通りすがりなのか。それにしては詳しい気もする。だが、犬も連れていないし、まるで今から外出するかのような格好だ。
 じっと猛が男を見つめると、焦ったようにポケットから名刺を差し出した。
「すみません。僕はこういう者です」
 名刺には、『ソフィア動物病院副院長』という肩書と、名前――『犬飼慎一』が書かれていた。
 肩書を見た猛は、少しばかり安心した。ただの犬好きな変人ではない、きちんとした人だ。獣医であれば、タレに興味を持ったのもわかる。だが、この辺にソフィア動物病院などない。
「失礼ですが、お住まいがこの辺なんですか?」
「ええ、引っ越してきたばかりなんです。動物病院は一駅先の場所にあって、父の代からやっているんですが、この度救急外来やペットホテルも開くことになりまして……僕が夜、働くことに」
「なるほど」
 犬飼も自分と同じような立場なんだな、と猛は親近感を覚えた。診る動物が、ペットか人間かの違いだ。
「そうだ、SNSもやってるんで、よかったら。行き場のなくなったワンちゃんをかわいがってくれる人をいつも探してるんです」
「そういうことなら。あ、申し遅れました。俺は山口といいます」
「山口さん、お散歩中失礼いたしました。またお会いするかもしれませんが、そのときはタレくんに挨拶させてください。またね、タレくん」
 犬飼はタレを見て微笑むと、一礼して去っていく。猛はもう一度名刺を見つめてから、呟く。
「ふうん……犬飼さんか」
タレに目をやると、つまらなさそうな、不満げな顔をしている。これは待たせすぎてしまったようだ。
「散歩、中断してごめんな? 行こうか」
 タレも猛を見上げると、またよたよたと歩き出した。

 カチャカチャと食器と箸が触れ合う音がする。その音を出している息子を、ムッと見つめる美佐子。猛は気にせず、テレビのニュースに目をやる。
『墨東光栄総合病院では、前にも似たような医療ミスがあり、警察は他にも事実を隠蔽しているのではないかと捜査を進めています』
 今晩の食事は、ご飯と大根の味噌汁、筑前煮に白菜の漬物、焼鮭。それに箸をつけながら、山口家の家長、山口雄二は息子に何気なくたずねる。
「猛、お前のところは大丈夫なのか? その……医療ミスとか」
「大丈夫だって。みんなしっかり自分の仕事をこなしてるし、万が一何かあっても、フォローできるようにしてるから」
 おかずの筑前煮を口に入れると、ご飯をかきこむ猛。できるだけ早く食べようとしてしまうのは、仕事のくせだ。
それを見ていた美佐子は、ただため息しか出てこなかった。せっかくおいしく作っても、息子には味がわかっていない。夫も新婚当時は「うまい、うまい」と褒めてくれたのに、自分の食事が当たり前になってからは、テレビとにらめっこ。食事についての感想なんて、言ってもらってない。「おいしかった」という言葉は、いつから聞けなくなったのだろう。
「ごっそうさん」
「五分三十秒。タイム更新ね」
 そんな皮肉を言っても、鈍感な息子は気づかずに、満足そうな顔をしている。美佐子は諦めて、猛の前のご飯茶碗と味噌汁のお椀を片付けだす。鮭はまだ残っているので、そのままだ。
 猛はもぐもぐと口を動かしながら、雄二に先ほどの話の続きをする。
「あのは、いふら俺がまだ新米だからって、ほんなミフはひないって」
 そうしゃべる猛のひざに、タレがふんふんと鼻を寄せてくる。最初はにおいだけ嗅いでいただけだったのに、今はあごをぺたんと乗せて、上目遣いでこちらを見つめている。
「なんだ? タレ、自分のご飯、残ってるだろ?」
「ふふっ、タレは最近、みんなと同じものを食べたがっちゃってねぇ。そんな顔されたらタダメって言えなくて、あんたがいないとき、ついあげちゃってたのよ」
「そういうのはよくないって、何度も言ってるじゃないか。タレの健康を損ねる」
「だけど、我が家の末っ子だからなぁ」
 雄二も美佐子に同意する。それでもタレはずっと猛のことを見つめている。困ってしまったのは猛だ。
「……わかったよ、もう! 鮭の皮でいいか?」
 猛が自分の皿から皮をつかみ、皿にのせると、それをタレは嬉しそうに食べる。満足そうに舌なめずりまでするところを見ると、どうしようもなくかわいくて困る。両親のことを犬バカだとは思っていたが、自分も見事にそれに当てはまっている。
 猛の様子を見て笑っていた雄二は、タレを見ながらビールをごくりと飲む。
「タレももう十四歳だ。人間にしたら、俺くらいか?」
「あら、あなたよりタレのほうがイケメンだと思うけど?」
「お、おい!」
 美佐子の突然の口撃に、雄二が慌てる。こういうところを見ていると、二人は仲がいいなと思える。若いときだったら「子どもの前で惚気るな」と言ってしまっただろうが、この年齢になると微笑ましくさえ思えてしまう。そのとき、偶然先ほどの犬飼のことを思い出した。
「ああ、イケメンと言えば……さっき獣医さんに会ってさ。『ソフィア動物病院』の副院長さんが、この辺に住んでるんだ。それでさっき会ったんだけど……タレのこと、イケメンって言ってた」
 話のネタになっているタレは、満足したのか自分のベッドにうずくまっている。雄二はそれに近づくと、背をなでた。
「はは、やっぱりこいつはイケメンなのか。長男のほうは、完全に婚期を逃している上に、彼女もいないのにな?」
「あのな、医者がどれくらい大変か、わかってる? 彼女作る暇なんてないから」
 最後に緑茶をすすると、今度は美佐子が口を出してくる。
「獣医さんがタレのことをイケメンっていうくらいなんだから、この子は相当な美少年よ? さすが私たちの子ね」
「バカだな、もう十四なんだから、じいちゃんだ。なぁ?」
 雄二は自分の息子であり、歳の近い友達として、タレの毛づくろいをする。ぽそっと簡単に毛が抜けた。
 そんな父を見た猛も、タレの近くへ来て腹をなで始める。
「まったく……人間はくだらないよな、タレ。だけどあの獣医さんも、どことなく不思議な感じがしたな」
 その言葉に過剰反応したのは、両親だった。
「もしかして、その獣医さんって女性?」
「そういうことだったら、話は変わるよな、母さん」
 猛は髪をかきあげながら、面倒くさそうに訂正する。
「あー違うって。犬飼先生は男だよ。ただあの人、どことなく嗅いだことのある香りがしたような気がしたっていうか」
「獣医さんなら、動物のにおいか?」
「そういうんじゃないな。なんだろう、あの香り……」
「はぁ、やっぱり女性の獣医さんだったらよかったのに!」
 ぷうっと頬を膨らませる美佐子は、六十を過ぎても愛らしい。
 猛とその場に居合わせたタレは、呆れたようにふん、と鼻を鳴らした。
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