四、赤い花

文字数 13,476文字

 気づいたら朝だった。
 いつも母が横になっていたソファで眠っていたらしい。こんなこと、研修医時代以来だ。
 部屋の時計を確認すると、すでに午前十時を過ぎていた。ぼんやりとしていたら、頭を新聞紙で叩かれる。雄二だ。
「母さん、コーヒー」
「父さん、起こし方ってもんがあるだろ」
 文句を言うと、キッチンに立っていた美佐子が間に入る。
「ほらほら怒らない! タレが呆れちゃうわよ。 はい、猛にもコーヒー」
「……ありがと」
 ふとタレに目が行く。タレは昨晩と一緒だ。横たわったまま苦しそうに息をしている。起きることはないが、目だけは薄く開けている。
「タレ、この間まで自分で立ち上がってたのにな」
「棚にぶつかりながら立ち上がろうとしていたのも、見ていて辛かったが……」
「なんでこんな急に、ね」
 猛がタレをなでると、前足だけを何とか動かす。意思表示をしようとしているのか。それすら見ていて心が苦しくなる。タレはまだ生きたいと思っている。自分達と一緒にいることを望んでいる。なのに、何もできない。家族なのに。自分は兄なのに。できることなら散歩に連れ出してやりたい。しかしタレの身体は大きく、猛でも抱えきれない。ホームセンターにある台車だったら乗せられるだろうか。でも、ガタガタと揺れるし、タレの身体のことを考えるとそれも無茶な案だ。どうにかしてあげたい気持ちだけが募って、息がつまる。タレの瞳はきらきらと光っている。まだ望みは捨てていない。タレが希望を持っているなら、自分だって。
 美佐子は猛の姿を横目に、食事を黙って置いた。
 ちょうどそのとき、インターフォンが鳴る。美佐子がモニター越しに応対する。ちらりと見ると、中年の男と自分と同じくらいの女性がいた。
「警察のものですが、山口猛さんはご在宅ですか?」
 光るものが見えた。警察バッチだ。いよいよか。猛はタレをもう一度見つめた。
 ダイニングテーブルの上座に、中年刑事の幕張と、若い外場が座る。下座には猛と雄二だ。美佐子は全員に紅茶を淹れた。
「どうぞ」
「いただきます」
 幕張は会釈をしたが、カップには触れない。彼の刑事としての振る舞いは正しい。きっと自分は容疑者だから。その家族が出す茶なんぞ、口にできるか。
 幕張について怒ることはない。問題は外場だった。幕張とともに軽く頭を下げたが、顔をしかめたのを猛は見逃さなかった。彼女の視線の先には、おむつを履いたタレ。餌や水も置かれている。
 猛は外場を精一杯にらむ。雄二は話を切り出した。
「……うちの息子に何か」
 幕張は父である雄二を無視して、いきなり張本人である猛にたずねた。
「猛さん、あなたの勤務している病院で、不審死があったことはご存知ですね」
「ええ」
「その前に起きた、墨東栄光と聖ジョアンヌの医療ミスについては?」
「存じております」
 外場は上司と猛のやり取りを黙って手帳に記す。その間もちらちらとタレに目をやっているのを猛は見逃さなかった。
 いい加減、うちの大事な家族をそんな目で見るな! 声を大にして言いたかった。この失礼な女はなんなのだ。もしタレが人間でも同じ態度を取っただろうか。いや、人間だったらきっとそうはしない。どんな人間でも尊厳はある。刑事であるなら、その尊厳は決して無視できないはずだ。タレが犬だから、彼女は……。
 外場にとってタレが犬であっても、猛には大事な家族だ。それは変わることのない事実であり、人間と同じように尊厳のある命だと信じている。だから、彼女の取る態度は、命に対しての無礼だ。今度同じように顔をしかめたら、はっきりと言ってやる。『俺の家族を侮辱するな』と。猛は心に決めたが、今度はその本人からきつい質問をされた。
「墨東栄光と聖ジョアンヌ。この二件の医療ミスが『ミスではなく殺人だった可能性がある』ということは考えませんでしたか?」
 嘘はつけない。医師として。この冷たく、心のない女をどうにかしてやりたいが、彼女も仕事だ。一呼吸置くと、仕方なくうなずいた。
「……二つの事件の噂は聞いていました。それに、私が市川加奈子の点滴を確認したとき、カルテにない注射痕が」
 幕張は大きく頷いた。墨東栄光と聖ジョアンヌの事件と、自分の勤める聖理華総合病院の事件。どちらにもある共通点。
「ペントバルビタールナトリウム……検出された薬物です。あなたの勤める病院には置かれていないそうで」
「昔は常用されていましたが、古い薬です。それを使ったラボナ錠などもありますが、副作用が大きすぎる。日本睡眠学会でも回避するように言われていますから、うちの病院では。特に私は循環器内科医です。心臓に負担がかかる薬を処方はしません。だから……」
「外部から持ち込まれたと」
 猛は黙った。その可能性しか考えられないが、ずっと自分はナースステーションにいた。市川加奈子の病室には、ナースステーションの前を通らないと入れない。不審者がいたら当然わかるはずだ。
「他に、何か知ってることは?」
「そう言われましても」
 外場はまたタレに目をやると、冷たい視線を猛に送った。
「ペントバルビタールナトリウムは、動物の安楽死の際に使われます。今も動物病院で取り扱いがある」
 安楽死と聞いて、身体中の毛が逆立つ感触がした。この外場という女は、自分達家族がタレを殺すために、ペントバルビタールナトリウムを手に入れたとでも言いたいのか!
 猛だけではない。雄二も美佐子も彼女をにらんだ。大事な家族を守るためのバリアだ。タレを、この子を、殺したりなんて誰も望んではいない。一日でも長く生きて欲しいと願っているのに、自分達がタレを殺す? ふざけるな!
 殺気に気づいたのは幕張の方だった。外場を一瞥で黙らせると、名刺を取り出した。
「何かお気づきのことがありましたら、こちらの名刺の電話番号に。今日のところはこの辺で」
 二人は席を立つと頭を下げて、山口家を出る。美佐子が外まで見送ったが、猛はイスに座ったまま。雄二は人間の方の息子を心配そうな目で見つめる。
「……腹立つ」
 息苦しそうなタレをそっとなでると、猛は立ち上がった。
「どうした? もう夕方だぞ」
「散歩」
 不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、ずんずん歩いてダイニングから出て行く。狭い廊下で美佐子とすれ違っても無言。
「あの子……」
「そっとしておけ」
 夫婦は黙ってテーブルの上の冷めた紅茶を、シンクへと運んだ。

 散歩と言ったら、この道しか思い浮かばなかった。タレといつも歩いていた川の近く。まだタレは生きている。なのに、そばにはいない。いつも自分達を繋いでいるリードもない。リードは猛にとって、タレと自分を繋ぐ手のようなものだった。仲良く手を繋いで一緒に歩く道。大事なタレがフラフラと川に落ちないように。柵があるから落ちるわけがなくとも、自分はタレの兄だ。やんちゃな弟を守らなくては。十四年間、毎日歩いた道。またともに歩くことはできないのだろうか。なんとか……なんとかならないのか。タレは衰えるだけしかないのか。奇跡は起きない。時間は容赦なく残酷だ。ぐっと何もつかんでいない手を握ると、
唇をかみしめる。誰か。誰でもいいんだ。神でも悪魔でもいい。少しでもタレとともに過ごす時間を長くしてくれ――
 そう願っていると、赤い花が目に入った。色は違えど、見たことがある。ポピーの花だ。
「犬飼……先生?」
 大きなカバンと赤いポピーを持った慎一が、目の前にいた。慎一はいつもと同じく穏やかな笑顔を見せる。
「山口先生、ちょうどよかった。タレくんの様子、どうですか?」
「ご心配かけて、すみません」
 言葉ではなんとでも言える。平気な振りをすることだって楽勝なはず。心臓病末期の患者を前に、笑顔を向けたことは何度あった? 自分は死について嘘がつけるはずなのに。大事な弟のことだけ、嘘がつけないなんて医師失格だな。笑いを浮かべることすらできずに口を閉じると、慎一は察した。
「そのご様子だと、あまりよくなさそうですね」
「……あいつ、ついに立てなくなって……昨日、先生が連れていた彼女みたいになるのかな」
「昨日はすみませんでした。重い話をしてしまいましたね。僕は無神経だ」
 無神経? 違う。それは自分の方だ。猛は自分を恥じた。自分の患者には平気で笑ってみせるくせに、タレのことになると……いざ自分の身内に死期が近づいたとなると、必要以上に敏感になる。医師どころか、人間失格だ。
 なんとか声を絞り出す。慎一には伝えなくては。
「……俺も色々考えました。タレのこと。こいつは俺が最期まで看取ろうって」
 慎一もその答えに強く頷いた。
「どんなに辛くても、最期まで一緒にいてあげてください。家族ですからね」
 猛は空を見た。夕日が空を茜色に染める。温かく優しい色。普通はそう見えるかもしれない。だが、医者にとってこの色は不吉な色。柔らかな光なのに、だんだんと見慣れた血の色に変わっていく。夜が近づく予兆。夜勤になってから、夕日はカウントダウンを告げるものとなった。また医師として職場へ向かう時間。死と向き合う時間。それは待ってくれない。
 すう、と息を吸うと、ひとつ質問した。
「……昨日の彼女は?」
 目を閉じて、ささやかに吹く風を感じながら、慎一は口を開いた。
「静かな眠りにつきました。穏やかな顔でね。そこで今、これを買ってきたんです」
 先ほど目に入った赤いポピーの花。花言葉は、確か。
「昨日眠った彼女に捧げようと思いまして。『生まれてきてくれてありがとう』という僕の気持ちです。いつもあの仕事を終えたあと、飾るんです」
 赤いポピー。『慰め』と『感謝』を表す花。
「感謝の気持ち……だから白ではなく、赤い花なんですね」
「ご存知だったんですか? 花言葉」
「ええ、偶然ですけどね」
 ポピーの花の香りをかぐと、慎一は珍しく悲し気に笑った。
「ポピーの花は、僕にとって深い意味があるんです。だから想いを込めて、花を贈る。いい意味でも……悪い意味でも」
 いつもの柔和な表情とは違い、胸に刺さる。なんて顔をするんだ、彼は。自分と同じ、命を扱う医師。それなのに、自分が忘れていたような感情を教えてくれている気がする。
 慎一は、一人の患者の死に対して敬意を払っている。それに比べて自分は? 人が死んでも無表情で『ご臨終です』で終わらせるだけだ。それだけ命は重いから。何人も、何十人、何百人もの死を背負えないと、暗い感情を捨てて、機械的に振る舞うしかない。医師はそういうものだといつの間にか割り切っていた。心が壊れるのが怖かった。
一人の患者、か。――犬だから一匹かもしれないが、猛は死んだ彼女を『一人』と言いたかった。犬の命も人間の命も同じ。たった一つしかない尊いものなのだから。
「また何かあったら、いつでも連絡ください。タレくんは……似てるから」
「え?」
「では」
 ふと漏れた慎一の呟き。猛はよくわからない顔で、後姿を見送るしかなかった。

 家に帰ると、猛は竹内に電話をかけた。
 些細なことが気になった。あのポピーの花だ。市川梨花の持っていた白の、慎一が持っていた赤のポピー。それと、ペントバルビタールナトリウム。今から思い出しても腹の立つ女・外場が言っていた、『動物の安楽死』。
 強引かつ、信じたくはない。あり得ない話だと安心したいからこそ、確かめなくては。
「お忙しいところすみません。竹内先生、例の薬物で亡くなった被害者の名前……市川加奈子以外、教えていただけませんか?」
 メモ用紙は汚い文字でどんどん黒くなる。
 聖理華総合病院でなくなった市川加奈子以外の四人。
 墨東栄光――甘粕廉治、川野辺五郎。二人とも五十代男性。聖ジョアンヌ――沼壁裕子。四十代後半、女性。
 礼を言って電話を切ると、今度はパソコンを立ち上げる。慎一に教えてもらったSNSのページに飛ぶと、犬の殺処分の記事ばかりが載っていた。
 しばらく無言で眺めていたが、思わず開いた口を慌てて手で塞ぐ。
 ――甘粕犬牧場・倒産。ペットショップ川野辺・多頭飼いにより経営不能。ワンワンランド経営者・沼壁裕子、破産及び会社倒産。個人ブリーダー・市川加奈子、多頭飼い失敗により犬の殺処分決定。
 これは偶然なのか。慎一の声がこだまする。

『ポピーの花は、僕にとって深い意味があるんです。だから想いを込めて、花を贈る。いい意味でも、悪い意味でも』

 メモを見ながら頭を押さえる。ペントバルビタールだったら、慎一は手に入れられる。ポピーの花。殺処分された犬たちのオーナー。結びつけようと思えば結びつく。
 これらは氷山の一角でしかない。まだたくさんの記事がある。消費されない命が、無意味に処分される。もちろん許されないことだ。だからオーナー達を殺した? 慎一が? どうやって?
 人と犬の命は同じ。どうして犬の死は事件にならないのに、人の死は社会を動かす? 犬を殺しても罪にならないのに、人を殺せば罪になる? 倫理なんて、道徳なんて、ひとが作り出した思想のひとつ。自分は何を信じればいいのかわからない。人間なんて曖昧なものだ。死という事象は一括りにできない。
 それでも今の自分にはやらなくてはならないことがある。これ以上の死は回避しなくては。どんな動物でも、命を奪うことを許してはいけない。オーナーが死んだところで死んだ犬達は戻ってこない。だったら生きて……何も知らずに命の花を散らした犬達の分まで長く生きて、その業を背負え。それが生きている者がやるべき償いだ。
 猛はSNSに載っている、殺処分が決定した悪質な多頭飼いのオーナーを探す。何十件も出ている記事の中、直近のものにいくつか目を通す。事件が起こったのはすべて都内。だったら関東の業者。絞ったうち、死んだオーナー達に近い人物。『大磯ペットランド』――
 そこまで検索して、パソコンをシャットダウンさせる。カレンダーを確認すると、三月二十日に丸がつけられていた。その下には『出勤』の二文字。
「明日からか」

 何日かぶりにスーツを着て、いつものボストンバッグを横に置くと靴を履く。美佐子と雄二は玄関先まで息子を見送りに来ていた。
 立ち上がる前に猛は二人に言った。
「タレのこと、よろしくな。孝のときと同じようにずっと見ててやって」
 美佐子の声は聞こえなかった。ただ雄二の大きい手が、猛の頭に乗せられただけだ。それを感じると、バッグを持ち、立ち上がる。
 ドアを開けると春の日差し。眩しくて手をかざした。

 何日ぶりだろう。白衣に袖を通すのは。気分は一新されたわけじゃない。かといって、憂鬱すぎるわけでもない。やるべきことをやるために、戻ってきた。それだけだ。
「お疲れ様です」
 ナースステーションに着くと、竹内が笑った。
「お、ようやく復帰だな。どうだった? 休みの間は」
「一度警察に話を聞かれましたが……」
「問題はなかっただろ?」
 即答はできなかった。外場のヒントのせいで、慎一が自分の中で容疑者として浮かんでしまった。まだこのことは自分以外の人間は知らない。竹内にいう必要もない。
 黙っていたら竹内が眉を動かした。
「なんだ、何かあったのか?」
「いえ! それよりも引き継ぎを……」
 座っていた竹内はファイルを取り出すと、思い出したように笑った。
「ああ、そうだ。朗報だぞ。大黒が退院した」
「え? ニュースでは何も言ってませんでしたよ」
 大黒を追い出したがっていた竹内は、それでも機嫌がよかった。
「退院したことはまだ内密なんだ。家でゆっくりしてるんだろうな。ま、ベッドが空いたのはよかっただろ。それと……」
 どっさり渡されたカルテの上に、一冊また新しいものを乗せる。
「新しい入院患者だ。もうすぐ来るだろうから、カルテに目を通しておくように。俺は仮眠してくるわ」
 竹内はひらひら手を振りながらナースステーションを出て行く。休み明けでも変わりない彼の背中に、猛はなんとなく安堵した。
竹内を見送り、言われた通りテーブルでカルテを確認していると、ナースステーションにバッグを持った初老の女性と男が顔を見せた。
「すみません、今日からお世話になる大磯ですが……」
 患者の応対に回ったのは、自分よりも少し早めに復帰していた五反田だった。
「お待ちしてました。先生」
 呼ばれると、カルテを持って立ち上がる。
「循環器内科担当の山口です。お部屋なんですが、今、個室しか空いておりませんで……」
 五反田とともに廊下へ出ると、大磯の妻が足を止めた。
「個室? 困ります! あの、大部屋の値段で個室が使えるわけじゃないんでしょう?」
 困ると言われても、こっちだって困ってしまう。カルテを見たところ、大磯は早急に入院が必要な患者だ。すぐ生死にかかわるというわけではないが、様子を見て手術が必要だ。そのための経過観察もあり、この度入院と診断されたのだから。
 当の本人である育三は、すべて荷物を妻に持たせ、自分はソファに座っていた。大柄な態度のようにも見えたが、妻にも問題はある。金銭的に余裕がないのは理解できるが、身体の問題だ。入院が必要ならば個室だろうが大部屋だろうが入ってほしい。医師からしてみれば、ではあるが。金がないから入院を渋るなら、育三も気分を悪くするのはおかしいことじゃない。
「申し訳ありません。大部屋のベッドが空き次第、すぐに移れるようにはしますので」
 丁重に謝ると、妻は不満げな表情のまま了解した。
「……わかりました」
 二人が五反田に連れられて個室へと向かうと、猛はもう一度カルテを見直した。病名、心筋梗塞。引っかかるところはここか? 何か、何かを忘れている。大磯……最近聞いたことがあるような名前。『鈴木』や『田中』ほどよくある名字ではないが、少ない名前でもない。じっとカルテを眺めていると、沢田が声をかけてきた。
「山口先生! 復帰初日なのに難しい顔しちゃって! どうかしましたか?」
「いや……大磯という名字に聞き覚えがあって。どこでだったか思い出せないんだ」
 沢田はいつも通りへらっと笑った。
「まあ、毎日大勢の患者さんと会ってたら、そんな気にもなってきますよ!」
 簡単に言うが、考えすぎなのだろうか。ナースステーションから出て行く沢田を目で送ると、大きく肩で息をした。

 時計が夜の八時二十分を過ぎた。消灯前のミーティングが始まる。仕切るのは、仮眠から戻って来た竹内だ。
「おい、沢田君。また患者に告白されてたな。お前、本当に公私混同はやめろよー」
「あはは、竹内先生に見られちゃってたとはな」
 このくだらないやり取りから始まったミーティングは、休暇をもらう前と変わらない。竹内のいいところはフランクなところだ。医師として、常に緊張感はなくしてはいけないもの。だが、そればかりでも息がつまる。竹内はそういった現場の感情をうまくコントロールしていた。
「山口も復帰したことだし、看護師の面倒も少しは緩和されるだろう。問題になりそうだったら、山口に押しつけろ」
「竹内先生、それは遠まわしな当てこすり……」
 ツッコミをいれようとしたタイミングだった。
 ナースコールが鳴る。名札がつけられたばかりの個室。
「お、大磯さん? さっき夕食後の薬を渡したときは異常なんてなかったのに!」
 沢田が飛び出す。竹内と五反田もそれを追うが、猛は漠然と嫌な予感に襲われていた。
 個室に入ると、まだ帰宅していなかった大磯の妻が横にいた。
「奥さん、一体何が!」
「と、突然身体が痙攣して……」
 猛は質問しながら心臓マッサージの準備をする。竹内は聴診器で胸の音を聞くが、すぐに猛へ視線をやった。脈や呼吸はない。心臓マッサージが開始されるが、それも甲斐がない。何度かAEDも使用したが、息を吹き返さず三十分が経過した。
 やれることはやり切ったはずだ。竹内は額に汗を浮かべながら、眼球に光を当てる。
「……午後八時五十六分、ご臨終です」
「……ありがとうございました」
 大磯の妻は静かに頭を下げる。それに違和感を持った。入院して、一日も経っていないのに急死。慌てふためくこともなく、冷静に医療従事者に対応する。涙も流さず真顔だ。
 五反田と沢田は器具を片付け始める。竹内も一度個室を出る。猛は大磯の妻と二人きりになった。そのとき――頭の中にある画が浮かんだ。パソコンに大きく載っていた『大磯ペットランド』の文字。
「大磯……!」
 猛は育三の腕をめくった。そこには青い痣が。注射痕だ。
「あの!」
「すみません。親戚や子ども達に連絡をしないといけないので」
 逃げるように個室を出て行く。
 猛は身体中が震えた。大きな事件に巻き込まれていく感覚。それはどこか深い闇へと落ちていくような、心臓だけがふわりと浮く気持ちの悪いものだ。そこに、嗅いだことのある香りがした。甘い、花の香り。嗅覚だけで探すと、テレビの横にそれはあった。
白いポピー。
 大磯の妻が誰かから注射器を渡される。それを育三の腕に刺す。
「大磯さん!」
 個室を出たが、すでに彼女の姿はなかった。

「ただいま」
 結局大磯の件があり、また暇を出されてしまった。さすがにすぐとはいかず、三日後。シフトが変わるときに上から告げられた。今度は竹内もだ。沢田、五反田も。このメンバーは疫病神だと噂まで立ってしまっている。最悪、沢田と五反田は別の系列病院に行くことになる。自分も。
 目をこすりながら家へと向かう。太陽の光が痛い。
今日も会えるかと思ったが、慎一とかち合うことはなかった。
「ただいま」
 家に入ると異臭に気づいた。ダイニングへ向かうと、タレがぐったりと眠っている。
「ああ、猛。お帰りなさい。タレ、お兄ちゃんよ」
「……たった三日……三日だぞ?」
 猛は愕然とした。タレの体調は、明らかに違う。今にも息が途切れてしまいそうで……。それに悪臭。このにおいは何度も嗅いだことがある。亡くなる寸前の高齢患者の病室で。
「もうね、この子を見ていると胸が締めつけられるのよ。まだ頑張って生きてるのに……お父さんも同じみたい」
「二人ともきちんと休んでるのか?」
 美佐子の顔はすっかり憔悴していた。看病疲れして倒れる家族は多くいる。猛も何度か見てきているので心配だった。
「私は朝から晩まで。お父さんはほぼ徹夜で、ハローワークから帰ってきてから朝までずっと」
「眠ってないのか!」
「タレと少しでも長く、お話したいのよ」
 力ない笑顔を見せられても、これ以上無理はさせられない。気持ちは痛いほどわかるが、自分が止めないと。母の顔を見る。どんなにやつれても、優しい顔でタレに触れている。
「これしかできることはないから」
 閉口した。人も犬もそうだ。死期を間近にした相手に、家族ができるのはただ一つ。そばにいてやることだけ。できれば旅立つ直前まで、ずっと。一人きりで送り出したくはない。だから。
 タレがぺろりと舌なめずりすると、美佐子はテーブルにあったプラスチックの醤油入れを取った。中には水が入っており、ポンプを押してタレの口元を濡らす。どうやら飲んだみたいで、ごくりと音がした。
「ああ、お利口さんね。いっぱい飲んだ」
「嘘だろ……」
「何がよ」
 今まで我慢してきた感情が爆発した。
「やめてくれ! こんないつ死ぬかわからないみたいなこと……! 孝のときと同じじゃないか!」
 ネクタイを投げ捨てると、二階の自室のドアを思い切り閉める。嘘だ、嘘だ、嘘だ……! タレはまだ生きている。もっと長く生きる。生かしてみせる。大事な家族なんだ。そう簡単に命を手放してたまるか!
 扉に背をつけるとしゃがみこむ。涙があふれてくるが、嗚咽を我慢する。鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。それでも泣いてはならない。まだそのときじゃない。わかっていてもとめどなくあふれる水滴。なんとか腕で拭う。
「孝、お前のときと一緒だ。お前を救いたいのに、家族がボロボロになっていく……」
 孝の、最期の必死の笑顔を思い出す。あいつは笑っていた。家族のために。
「くそっ!」
 ドアを拳で叩いても、痛みは感じない。タレの痛みや苦しみを全部、自分が背負えればどんなに楽だろうか。
 しばらく涙を我慢し続け、感情の高ぶりを押さえると、部屋を出た。
 薄暗い中、ダイニングは黄色のライトだけがいつものように光っていた。そこに佇んでいるのは、美佐子と雄二だ。布団の上で眠っているタレを見守っている。
 顔を拭きにきた猛は、その光景を静かにのぞいた。小さな話し声も聞こえる。
「この間まで元気だったのに、こんなことになるなんて……」
「俺達も、もう少しタレのことを考えるべきだった。十四歳は高齢だ。何が起こってもおかしくない。もっとタレにしてやれることがあったはずだ」
 美佐子は雄二に寄り添いながらタレをなでる。弟を見つめる両親を目にし、涙を堪えてこっそりぐすっと鼻をすすると、雄二が呟いた。
「猛、泣くな。まだタレは生きてるんだぞ。医者ならわかるだろ」
 存在に気づかれびくりとしたが、猛もタレのそばに寄ると黙って柔らかい毛をなでた。
「私達が笑ってないと、タレが心配しちゃうわよ! しっかりしなさい、お兄ちゃん!」
 自分だって疲れているのに、母はおちゃらけて背中を叩く。その表情はやはり笑顔。
「……そうだよな。俺、タレのお兄ちゃんだもんな。俺は長男だから。孝とタレのお兄ちゃんなんだからな」
誰かを看取る時の感情は繰り返す。三十を過ぎても慣れることはない。この先も、ずっと。家族の死なんて慣れてたまるか。
「タレ、お前が元気になったらまた散歩に行こうな! 約束だぞ!」
 嘘の約束。そんな日が来ることはないと、タレも猛もわかっている。果たすことができない約束をいくつもしよう。お前が一日でも長く生きられるなら、嘘だっていくらでもついてやる。
タレはその大きくて垂れた目でパチンと瞬きする。
「ああ、本当にお前はいい子だ」
 涙目ながら、猛は笑顔を浮かべた。

 ――数日後、夜。
猛がソフィア動物病院を訪れると、白衣の慎一がいた。ちょうど彼と話がしたかった。慎一の勤務は夜だと聞いていたから、この時間なら会える。そう思ってわざと遅くにたずねた。
「あれ? 山口先生。今日は……」
「非番なんです。タレのこともあってお邪魔しました」
「よかったらこちらへどうぞ。今夜は静かだ。ホテルにお客もいませんし、急患もいない」
 案内されたのは、病院の中にある応接室だった。普段、患者や家族は使わない場所だからか、普通の一軒家のリビングと変わらない。モダンで白いテーブルに、ベージュのソファ。猛に座るよう促すと、コーヒーの入ったマグカップを置いた。お礼を言うと、猛はひとくち飲んで質問する。
「犬飼先生、甘粕廉治、川野辺五郎、沼壁裕子、市川加奈子、大磯育三。彼らのことはご存知ですよね」
 タレのこともあったが、もう一つの用事。それが今回の事件についての問。慎一がどのようなリアクションを取るか。猛は瞬きもせずに見つめていたが、ただ悲し気な笑顔が返って来ただけだ。
「ずさんな経営のせいで、不幸になったワンちゃんをたくさん知っていますから」
「犬達は全員、新しい家族に出会えたんですか」
 首を左右に振る。想像通りの答えに、猛自身も目を閉じた。
「そういった経営者をどうお思いですか?」
「そりゃあ許せませんよ。彼らには愛がない。犬達を売り物としか見ていませんからね」
「……殺したいほど憎んだことは?」
「え?」
 唐突な質問すぎた。慎一はびっくりしたようだったが、それでもいつも通りの笑顔で返事をする。
「殺したいとまでは思いませんよ。ですが、死んだ子たちが、苦しい思いをしたことをあの世で忘れられることを祈っています」
 市川梨花の持っていたものと、大磯育三の部屋に置かれた一輪の花。白いポピーの花言葉は『忘却』。
 慎一に抱いていた小さな不信。彼は腕のいい獣医であり、犬達のことをよく考えている。だからこそ疑いたくはない。今だって。
「先生は……ペンタバルビタールナトリウムをご存知ですよね」
「あまり使いたくない薬品ですね」
「それを、他人に譲渡したことは?」
 目を大きく見開くと、穏やかに言った。
「今日は質問ばかりですね、山口先生。そんなこと、するわけないですよ」
 本人が否定したなら、それを信じるべきだろう。慎一を信じたい気持ちと、彼を怪しむ感情が競り合う。百パーセントの信用はない。あるのは状況証拠のみ。気づいているのは自分だけ。自分が黙っていれば、この善良なはずの獣医は、これからも動物を助け続けるだろう。
これ以上の詮索はやめよう。黙ると、今度は慎一が自分にきいた。
「ところでタレくんの容態は?」
「もう水も飲まなくなりました」
「そうですか……」
 老衰なんだ。事故や病気じゃない。いずれは迎えるべき死を、自分が受け入れられないでいるだけ。できるだけ笑っていたいのに、それが辛い。
「正直なところ、タレが頑張れば頑張るほど家族の方がしんどくなる。一生懸命元気なところを見せようとするんですよ、あいつ。足をばたつかせたりして、何かを訴えてても、何が言いたいのかわからない」
 できるだけ淡々と事実だけを話そうと思ったが、無理だった。タレのことを話せば話すほど、感情がこもる。首を絞められたように声が出なくなる。鼻がつんとして、我慢してきた涙がこぼれそうになる。医師だから、死なんて何度も経験してきた。あくまでも第三者の他人として。当事者になることから逃げていた。その想いをわかっていても直視していなかったのだ。
「弱っていくタレを見ていることしかできなくて……苦しくて苦しくてしょうがないんだ。それでも家族に心配をかけないようにして……まるであいつだ」
 孝。学校でのあだ名は『タレ目の孝』。いつの間にか省略されて『タレ』と呼ばれていたのを、猛もからかってそう呼んだ。
『タレ、ちゃんと俺について来いよ』
 だからタレは。
「……あいつは本当の弟なんだ……」
「兄弟、ですか。よくわかりますよ。僕にもいましたから」
 犬を家族に向かえたことのない人間にはわからないかもしれない。犬を人間と同じように扱う気持ちを。昔だと犬は畜生。人間と同レベルに語ることさえ理解できないだろう。かといって、セレブのように高級な肉を与えたりするわけじゃない。気持ちが、魂が家族として犬を迎え入れるのだ。犬が人の言葉を理解しているか、犬の気持ちを人間が完全に理解しているか知ることは不可能だ。それでも通じ合っている気がする。心が温まり、ともに生きていたいと感じる。『ペット』だなんておもちゃのような言葉以上の関係。それが猛とタレの関係だ。
「僕の場合は兄でした。ポピィっていう、アラスカンマラミュートの、ね。だからタレくんを見たとき、つい声をかけてしまいました」
 くすくすと笑い出す慎一。初めて慎一と出会った時は、怪しい人間かと誤解した。妙な馴れ馴れしさは、自分の家族と再会できたかのように錯覚したからだったのかと、ようやく納得する。
「ポピィは僕が赤ちゃんの頃からずっと、一緒に育ってきたんです。でも、やっぱり寿命がきてしまいましてね。小学校五年の時だったかな」
 マグカップのコーヒーは黒いままだった。ミルクと砂糖を勧められると、ああ、とため息が出た。気づいたらいつもブラックしか飲んでいない。たまにはいいかもしれないな。白が
黒に混ざっていく。スプーンでくるくると回すと、茶色に変わる。あの日旅立った彼女の色だ。
慎一の瞳が悲しみを帯びる。口元は笑みを湛えているのに。
「見ていられなかった。大事な兄が死にかけているところなんて。だから僕は、父に提案したんです。『安楽死させてあげてくれ』と」
 口元に持ってきていたマグカップを止める。安楽死。自分の兄なのに――
 不信が確信に変わっていくのが心の形でわかった。彼は自分と同じ経験をしている。なのに、自分と違う決断をした。
「……当初、ここの病院は安楽死を請け負ってなかったんです。当然父は反対した」
「それで……ポピィくんはどうなったんですか?」
 慎一は当時のことを思い出す。大きなダイニングにクッションが置かれ、そこに愛する兄と眠っていた。目覚めたのは自分だけ。
「安楽死を提案した翌日、旅立ちました」
 猛も目を閉じた。今のタレと同じ状況。いつそうなるかわからない。自分を置いて、逝ってしまう。今度こそコーヒーを口につける。砂糖とミルクの甘みが広がる。
「タレくん……本当に見てられないんですか?」
「え?」
「僕は今から、あなたに悪魔の宣告をします。それを選ぶかどうかは山口先生次第です」
 今夜の甘いコーヒーのような言葉。自分がタレの命を選択する。人間にしか許されない権利。それを使うべきかどうか。

 外に出るとすっかり朝になっていた。振り向いて、白い壁の動物病院を見つめる。空は青く、雲が早く流れる。春の強い風のせいだ。
「山口さん、ずいぶんと偶然ですね」
 聞きたくない、気分の悪くなる女の声。そこには外場と幕張がいた。
「それとも偶然じゃなかった、とか?」
 幕張もこの間とは違い、突っかかってくる。警察が動いている。どこまで知っているのかはわからないが。
 猛は冷静に答えた。
「今、うちの犬をここの先生に診てもらっているんです」
「そうですか。よかったら、お時間よろしいですか? 暇でしょう、休みをもらってるくらいなんだから」
 失礼な物言いなのに、逃げることはできなさそうだ。
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