二、権利と義務

文字数 9,799文字

 ベッドの上には初老の女性が横たわっている。腕には点滴、のどには呼吸器。ベッドの横には心電図。彼女はこれらの機械がなくなってしまえば、生きていくことができない人間。
 それを冷たい視線で見つめているのが、犬飼慎一だ。
「あなただけは絶対に楽には死なせませんよ。これが僕と兄との復讐だ」
 窓から見えるのは三日月。だんだんと陰ってくるのは、これから起こる出来事の暗示なのだろうか。
 慎一にとって、そんなことはどうでもよかった。

 どんなにゆっくりしたくても、仕事なくては生きていけない。自分の仕事は、他人の病気に向かい合うこと。『相手を治すこと』と言えないのは、どんなに最善を尽くしたところで死んでしまう人間がいるからだ。
 医師という仕事は辛い。昨日まで元気だった人間が、あっという間に衰えていくのを目にすることもある。救えなかった患者だっている。だけど、自分にできることは、ただ純粋に『それだけ』なのだ。医大に入った要因は、もう今はない。ただできるのは、患者の重荷をできるだけ軽くすることだけ。
 ネクタイをきっちり締めると、また覚悟を決める。自分の戦場は病院。短い休みは明けた。タレと一緒にいることだけしかできなかったが、それは自分にとって大きな気分転換にもなった。
 『タレ』と同じ目にあい、苦しんでいる患者をできるだけ減らす。これが自分の最大の目標だ。何度辛い目に合おうが、自分は苦しんでいる人を救いたい。全員が無理だとしても、この手が届く人間はすべて。
 スーツを着て、ボストンバッグを持った猛を見ると、タレはよたよたと寄ってきた。その横には、せんべいを食べながら立つ美佐子がいる。
「今度はいつ帰ってくるの?」
 まるでタレが聞きたいことを代弁しているような美佐子に、猛ははっきりと告げた。
「そうだな、三日後の朝。何もなければね」
 できることならタレとずっと一緒にいたい。だが、そうもいかない。大好きなタレ。かわいくてしょうがない我が家の末っ子。だから……お前と同じ人間を、救わなくちゃいけないんだよ、兄ちゃんは。
 猛の気持ちを知ってか知らずか、美佐子は母親らしく釘を刺した。
「あんまり無理するんじゃないわよ。医者は健康一番なんだから」
「わかってるよ。俺が病気になったら、タレ坊の孝が笑うだろ」
『孝』という名前が出て、一瞬美佐子の表情が暗くなる。気がついた猛は、タレを見た。タレは何のことかわかっていないという感じで、小首をかしげる。
――いいんだ、お前はそれで。
古い、写真立てと一体になっている時計が、カチカチと音を立てながら午後三時十五分を指す。写真には体操着姿の小学生の男の子二人。一人は猛。もう一人は……。
美佐子は元の笑顔に戻ると、ふう、と息を吐いた。
「今はタレが弟なんだから、タレのためにも早く帰ってきなさいね」
「わかってるって。じゃあ行ってくるよ」
 猛はタレの頭をなでると、バッグを持ち、家を出た。

 家を出て数分。いつものタレとの散歩道を歩いていると、ちょうど知った顔と出会った。
「犬飼先生?」
「あっ! タレくんの! 山口さんですね」
 タレと一緒ではなかったが、すぐに犬飼は思い出したようだ。
「タレくんは……お留守番かな。お仕事、これからですか?」
「そうなんですよ。俺、夜勤なんで」
「夜勤?」
 慎一は不思議そうな顔をした。夜勤の仕事というと、どちらかと言えば、もっとラフな格好をしていてもいいのではないかと思ったのだろう。例えば、コンビニの仕事とか、倉庫での作業。他にも色々あるが、きっちりとネクタイを締めて、スーツ姿なんて少し珍しいかもしれない。
 そう言えば、慎一には言ってなかったな、と思い直すと、ポケットから名刺を取り出した。
自分は受け取っておきながら、相手に渡してないなんて失礼だ。お詫びも込めて、もう一度自己紹介し直す。
「山口猛です。聖理華総合病院の循環器内科の医師をしています。これでもね」
「そうだったんですか」
 慎一は目を丸くすると、名刺を受け取り、頭を下げた。
「じゃあ、『山口先生』ですね。でも、夜に家族がいなかったら、タレくんも寂しいでしょ?」
 慎一が聞くと、猛は少し恥ずかしそうに答えた。
「はは、俺より母親や父親にかわいがられてますよ。お恥ずかしいですが、実家暮らしなので。でも、うらやましい限りです」
「ふふっ、ご家族に愛されてるんですね、タレくんは」
 慎一は特に猛が実家暮らしということを気にはしなかった。それもそうかもしれない。慎一自体、父親の代から獣医という家業を引き継いでいるのだから。
 猛はホッとため息をつく。さすがに三十を過ぎても実家暮らしだと、周りがうがった目で見てくることが多い。しかし慎一は違う。仕事は厳密にいうと違うが、同じ医師だ。環境も似ている。そう一度意識してしまうと、気を許すまで一瞬だった。
「そう言えば、犬飼先生は犬を飼ってないんですか? 『犬飼』って名字ですし、なんてね」
 冗談を言ってみると、一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。
 この話はもしかして、地雷だったか? 余計なことを言ったんじゃ……。
不安に思った猛だったが、犬飼はすぐに今まで通りの笑顔で、言葉を返した。
「いや、仕事柄飼えないんですよ。においがついてしまうんで……まさに『犬飼』という名字が泣いちゃいますね」
「におい……」
 ふと、猛は先日のことを思い出し、慎一にたずねてみた。
「あの、先生は香水か何か、してますか?」
「え?」
「なにか嗅いだことのある香りがして……」
 慎一は少し考えてから、また猛に笑顔を見せた。
「ああ、もしかしたらお香のにおいかもしれません。家で焚いているので」
「お香……ですか?」
「ええ、やっぱり動物と接していると、どうしても獣のにおいがしてしまいますから。自宅でだけ焚いてるんです」 
 猛はつい、慎一を見つめた。
 獣のにおい……。それは確かに人間には臭く感じてしまうかもしれない。だが、動物には? 嫌がられてしまうかもしれないが、そこまで気にするものなのか? そこに獣医としてのこだわりがあるのだろうか。
 つい慎一を見つめてしまうと、さっさと本人は話を切り上げようとした。
「お急ぎでしょう。今日はこれで。お仕事頑張ってください」
 慎一は軽く一礼して、その場を去る。猛も軽く手を上げるが、少しばかり腑に落ちないままだった。

 聖理華総合病院のナースステーションは、病院を改装してまだ3年も経っていない。そのため、まだきれいなままだった。
「お疲れ様です」
「おお、来たか」
 缶コーヒーを飲んでいた竹内が振り返る。缶をテーブルに置くと、カルテをどっさりと猛に渡した。
「はい、今日の分な!」
「っと!」
 落とさないように抱えると、一度共用テーブルにカルテを置き、ポケットから手帳を取り出す。竹内からの引き継ぎ事項をメモするためだ。
「今日は何か大きな問題、ありましたか?」
 その質問を聞き、竹内は思い切り眉間にしわを寄せ、あごをさすった。
「あったよ。大ありだ」
 猛はびくりとした。竹内が相当渋い顔をするくらいのことが、この病院で起こっている。普段温厚で人がよい竹内が、不満そうな表情を浮かべるのは……。
 竹内は、先ほど猛がテーブルに置いたカルテを一冊取り出した。
「こいつだ」
「ああ……」
 カルテに書かれた名前は『大黒大悟郎』。度々世間を賑わす、悪徳政治家だ。
「この人、今度は収賄容疑でしたっけ? 受け入れる病院としては、迷惑でしかありませんね」
「まったくだな。健康な人間が来る場所じゃねぇって言ってやりたい。これだけ好き勝手できるなら、メンタルも問題ないだろうしな」
 猛にぱさっとカルテを落とすと、竹内はナースステーションから出ようとする。
「ついてこい。一応、挨拶はしないといけねぇからな」

 角を曲がって一番奥の部屋。聖理華総合病院五〇五号個室は、VIPのための特別病室になっている。
 竹内が扉をノックすると、中から野太い声で「入って来い!」と聞こえた。病人とは思えない威勢の良さだ。
「失礼します」
 扉を開ける竹内。それに続き、猛も部屋へ入る。
ベッドには、白髪でメガネをかけた細くて地味な男が横になっていた。テレビはずっとつけっぱなしらしく、それをぎょろりとした目でじっとにらみつけている。
『大黒氏は収賄容疑で事情聴取される予定でしたが、持病の悪化から、現在は入院をされているとの情報です。警察も回復するのを待ってから話を聞く予定に……』
 当の本人である大黒は、そんなニュースを見て鼻息を荒くする。
「ふん、何が収賄罪だ! くだらん。なぁ、源八」
 大黒は、源八と呼んでいるパグ犬をベッドの上で抱っこする。源八はベロベロと大黒の顔を舐めるが、それを見ても猛はうらやましいと思わなかった。
 うちのタレのほうが利口だし、いい子だ。それに比べてお前の家族はだらしなく、飼い主を甘く見ている。
内心、そんなことを考えている猛とは違い、竹内は話を進めようと大黒に近づく。
「先生、よろしいですか?」
「ああ、なんだ」
 愛犬以外は誰も信用しないという目つき。だから竹内が頭を抱えているのか。猛が納得すると、竹内は自分を彼に紹介し始める。
「夜ですが、彼が往診するので、一応ご挨拶にと」
「……山口猛です」
 どんな相手だろうが、ここでは否応なく接待しなくてはならない。これが政治家と大手の病院との関係だから仕方がない。下げたくもない頭を下げると、大黒は吐いて捨てるように言った。
「ふん、若造が。こんなひょろいので大丈夫なのか?」
「問題ありません。それに人は見かけによらないでしょう? 大体ね、犬を病院に連れて来るなんて、前代未聞だ」
 牙をむき出しにしたのは、猛ではなく竹内だった。竹内が犬嫌いということは聞いていないが、明らかにこの源八には敵意を表している。
 多分……これは猛の推論を出ないが、竹内は他の患者の体調を良くすることに命を懸けている。そんな中、病室に犬を連れてくるのはあり得ない。それがいくら特別な人間だとしても。大多数の病人にとって、犬の毛はよくない。特にここ、循環器内科は。その大多数の人間と、一人の政治家。天秤にかけることなく、彼はどちらの味方になるか理解している。
「こいつは大事な家族だ! ただの医者がそんなことを言っていいと思ってるのか? 寄付金を払わないようにするぞ!」
 くだらない戯言だ。セリフも練ろ。それじゃあ脅しにもならない。竹内の考えは決まっている。犬より大多数の患者の命だ。それは医師にとって当たり前のこと。しかし、猛にはどちらの気持ちもわかるような気がして、いたたまれなくなった。
「寄付金については、私と大黒先生の話でどうこうできないでしょう。とっとと退院していただいてもいいんですよ?」
「このっ……」
「それでは。夜、何かあったら山口にお願いします。犬は絶対に部屋から出さないように」
「くそっ!」
 大黒がリモコンを投げ飛ばす前に、扉を閉める竹内。
「愛犬家だろうが、ここは人間の病院だからな」
 竹内は、猛に対して軽くウインクをする。
「だ、だからって大物議員にあの態度はまずいですよ!」
「何言ってんだ。お前は何様だ?」
 竹内は足を止め、唇を突きだすと、拳を猛の胸にぶつける。
「大物議員だろうが、ホームレスだろうが、ここに来るのは全員同じ人間でしかない。ああ、犬もいたか。あれは例外だけどな」
 竹内は、冗談なのか本気なのかわからない口調でそう言うと、せせら笑う。
「でも……」
「俺たちは医者である限り、患者には平等に接するべきだ。ま、大黒は患者ではなく、病院と言うホテルに泊まりに来た客だから例外だがな」
 大黒は、マスコミから逃げて来ただけ。しかも、病床数が足りていないのに、他の重篤な患者を差し置き、莫大な金を払って個室を借りている。そんな人間、竹内は許せないのだろう。気持ちはわかるが、病院経営のためには大黒を適当にあしらうわけにもいかない。それが上の……院長たちの判断だから、今、ここに大黒がいるのだ。
 竹内は大きく背伸びをすると、腕時計を見た。現在、夜の八時。そろそろ上がりの時間だ。
「それじゃ、あとは頼んだ。お疲れ」
 猛の肩を叩くと、白衣のポケットに手を入れてさっさと歩いて行ってしまう。猛は思わず眉間を押さえて、ため息をついてしまった。

廊下にかかっている時計の音が響く。針は深夜二時を指している。
 ナースステーションには、猛以外に男性看護師の沢田祐介と五反田由美がいて、作業をしていた。
 深夜勤務なんていつものことだし、慣れて当然なのに、いまだにこの時間になるとあくびが出てしまう。それはいいことだ。夜中に呼び出しボタンを押されることがないのは、平和な証拠。
 猛は病院のパソコンで、慎一から受け取った名刺に書かれていたSNSサイトをのぞいてみることにした。ちょっとした時間潰しだ。特に急ぎの仕事もないし、自分の受け持っている患者に、特段の変化が起こっていないから持てる、ありがたい自由時間だ。パンを食べながら、外部とつながっているパソコンを起動させ、パスワードを入力。さっそく検索すると、殺処分を待つ犬たちの記事がたくさんあった。ブリーダーが破産したため、閉鎖した店や、犬牧場など。毎日のように『犬を引き取ってください』という内容のものが慎一から発信されている。
 猛はしばらく、食べかけのパンを持っていることも忘れて、食い入るように記事を見つめていた。そんな猛に近づいてきたのが、沢田だった。
「先生、サボりっすか? SNSなんて見て」
「いや、先日知り合った人のページでね。獣医さんだと聞いたから……」
「犬飼慎一……へぇ、本当だ。さすが獣医さんですね。殺処分されそうな犬たちの飼い主を探す活動をされてるなんて」
「……だけど、犬の命がこんなに簡単に捨てられるなんて。犬も人間も命の重さは一緒だ」
「うちには猫がいますけど、やっぱり同じこと思いますよ。もう家族同然ですからね。五反田さんもそう思いません?」
 沢田が五反田にたずねるが、彼女からの返事はない。ずっとカルテのあるページで手を止め、じっと読んでいる。
 看護師のその様子を見た猛は、何かあったのかと声をかけた。
「五〇六号室の市川さんのことはご存知ですか?」
 その病室は、一番病状が悪い患者がいる個室だ。市川の状態も、竹内から申し送りされて、猛の頭にしっかり入っている。
「昏睡状態が続いてたはずですよね」
「その市川さんの娘さんが……」
 五反田は猛と、何ごとかと話に加わって来た沢田に小声で告げる。
「えっ……」
 話を聞いた猛は、一瞬うろたえた。しかし自分は医師だ。この看護師たちに指示する立場にもある。動揺してどうする。どんなことがあっても、自分は冷静でいなくてはならないのだ。
「それで?」
「医師でも看護師でも、見つけ次第泣きついてくるんです。正直参ってしまって」
「市川さんの娘さん、確かにここ数日、様子がおかしかったな。俺、一昨日、昨日と非番だったから、そこまで悪化してるとは知らなかったですけど」
 沢田も難しい顔をして、カルテに目を移す。
 だからと言って、市川自身、予断を許さない状態だ。それなのに、娘を出入り禁止にするわけにはいかない。かといって、病人の家族のメンタルまで面倒を、ここで診るわけにもいかない。専門のクリニックか、精神科のほうに回すしかない。さらに、市川の娘が訴えてくるのは……。
「尊厳死は認められてはいる。だが……」
「今日も言ってくると思います。娘さん、今夜も寝ずの番ですから」
「そうですか」
 猛は時計を見る。忙しくなるのは、これからか――

 時計の針が三時を指す少し前、バタバタと廊下を走る音が聞こえた。
「山口先生! 母が……」
 病室から出てきたのは、市川の娘だった。急いでワゴンの用意をすると、五反田と沢田に声をかけ、ナースステーションを出た。
 患者・市川加奈子の呼吸や心拍を、聴診器を当てて確認する。昏睡状態で予断は許さないことは変わりないが、それ以外の変化はない。
「問題はありません。呼吸も脈拍も」
 市川の娘・梨花にそう告げるが、梨花は顔を真っ青にして猛の白衣を引っ張った。
「でも! 死ぬのは時間の問題じゃないですか! 治る見込みもないのに、こうして毎晩ずっと母の看病をして……もう私も苦しいんです! 心が悲鳴を上げてるんです! 分かってください、先生。先生に人間の心があるなら、母を……楽に逝かせてあげて……お願い、お願いします……」
 白衣をつかんだまま崩れ落ちる梨花を、五反田がそっと引き離す。身体を支えると、できるだけ優しく言った。
「市川さん、少し休みましょう。空いているベッドに案内します」
「あ、ああ、そうしてあげてくれ」
 梨花の迫力に驚いた猛は、五反田の意見に同意した。……情けない。いくら五反田のほうがキャリアが長いとは言え、医師である自分が、患者の家族に気圧されるなんて。
 梨花は泣きながら五反田に連れていかれる。その間もずっと顔をぐちゃぐちゃに濡らし、消え入りそうな声で呟いていた。
「お願いします、お願いします、お願いします……」
 こんな家族に、自分は何も言葉をかけることができないのか。なんて自分は無力なんだ! 怒りがこみ上げたところで、ぶつけるところはない。握った拳は静かに下ろされた。

 ナースステーションに戻って来た猛と五反田に、一足早く帰ってきていた沢田が、ブラックのコーヒーを渡す。猛は素直に礼を言い、五反田に梨花の様子をたずねる。
「今は眠っています。精神安定剤を処方してもらったので」
「でも……気持ちはわかりますよね。介護疲れっていうのは。患者の家族に負担がかかりますから」
 ごくりとコーヒーに口をつけた沢田は、ため息とともに吐き出す。猛はその言葉を聞き、自分もコーヒーを飲むと眉間にしわを寄せた。沢田はそれに気づかず、続ける。
「だって、毎日『いつ死ぬか』なんてびくびくしながらずっと見守ってるんですよ? 何とかしてあげたいけど、こればかりは……」
 頭の中を、あの暑い夏の夜の出来事がよぎる。猛は窓辺に立ち、外を見た。目の前にある道路は、タクシーの赤いライトが光っている。
「……俺、実は弟がいたんだ。今日みたいなことがあると思い出す。あの夏の夜のことをね」
 沢田と五反田はお互い顔を見合わせる。急に語り始めたから、驚いたのかもしれない。それでも猛は勝手に話し出した。
今のこの気持ちを、自分の心にとどめておくことができなかったからだ。

――十四年前。
星空と三日月が見える夜。
テレビ台のところには、体操着の少年二人の写真が飾られている。一人は猛、もう一人は、ベッドへ横になっている彼だ。
大部屋だが、六つ並んだベッドはひとつしか使われていない。『彼』はうつろな目をしていて、かろうじて意識を保っている状態。こちらの言葉に対して答えることはできるが、そのまま眠ってしまいそうだ。
ベッドの右横には当時十六歳の猛と雄二、その反対には美佐子。そして足元には付き添いの医師と看護師がいる。
美佐子の髪はボサボサで、ブラシもしていない。最後に美容院に行ったのは、いつのことだっただろうか。雄二も無精ひげが伸びている。猛も目の下にくま。頬はこけた。
 どんなに涙を必死に堪えたところで、嗚咽はもれてしまう。そんな自分に雄二が小声で叱る。雄二に言われた通り、必死に笑顔を作ると、猛はベッドの上の彼――弟の孝の手を握る。夏なのに冷たい手を、できるだけ温めようと必死になればなるほど、堪えていた涙があふれ出してくる。
「……孝、治ったらどこでも遊びに連れてってやる。カラオケでも映画でも。今だったら海がいいか? だからもう少し……」
『もう少し』、で言葉が止まる。疲弊した父と母の顔が映る。弟には生きていてほしいのに、生きている限り、両親の負担は増える。食事もまともにできず、常に弟に寄り添う毎日。いつ逝ってしまうかわからないという恐怖。だけど、自分は……。
 一瞬、猛が両親を見たことに気づいた孝は、言葉をこぼした。
「みんな……ごめん」
「謝るなよ! 俺たちみんな、お前の家族でよかったって思ってるんだぞ! 一生……ずっとお前は俺の弟なんだから、な?」
 涙を拭くと、鼻をぐずぐずさせながらも必死に笑う。笑顔に見えなくても、笑う。孝が不安にならないように。
 雄二も孝の頭をなでた。
「お前は父さんの誇りだ」
 美佐子も明るい振りをして、孝に話しかける。
「退院したら何が食べたい? 孝の食べたいもの、全部作っちゃうから」
 家族全員が孝に笑顔を見せると、それを目だけで確認して、孝はホッとしたように静かに息を引き取った。
 そばにいた医師が脈を取り、瞳孔が開いているかどうかを確認する。腕時計を見ると、重い口を開いた。
「午前三時四十五分です」
 猛も雄二も美佐子も、最期の最期まで涙を我慢した。こぼれてしまったものもあるが、それでも笑顔のまま、孝を送り出したかった。
そっと亡骸に触れると、美佐子は声にならないが何か言った。多分「ありがとう」だと思う。雄二も強く頷き、頭をなでる。猛は強く手を握り、目をつぶった。
 もう朝方だ。三日月はそっと雲に隠れた。

 猛はコーヒーを持ったまま、沢田と五反田に言った。
「だから、看護する家族の苦労はよくわかる。弟もいつ死んでもおかしくない状況だったから」
「それなら、患者にも家族にも一番いい選択って、何でしょう?」
 首を傾げる沢田に、無言でコーヒーを飲みながら、カルテの整理に戻る五反田。
 猛は沢田の純粋な問いに対して、苦し気に言葉を絞り出した。
「わからない。わからないから悩んでるんだろう。出ないんだ、答えなんて……生きている人間には、永遠に出せないかもしれないな」
 今日は満月だった。過去形なのは、すでに空が白んでいるから。また一日が始まる。患者にも家族にも、長くて苦しい一日が。

 眠そうに目をこすりながら、共用テーブルでカルテをチェックしていると、その前に缶コーヒーが置かれる。缶の音で顔を上げると、そこにいたのは竹内だった。
「よ、おはよう。大黒は問題なかったか?」
「大黒……ああ、忘れてました」
 病院に犬を連れてきた、悪徳政治家なんかどうでもよくなるくらいに、市川の娘・梨花のことで自分はいっぱいいっぱいだった。医師としてどうかとも思うくらい、彼女と気持ちがシンクロしてしまい、それどころじゃなかった。
「おいおい、何かあったのか?」
 暗い表情をしていたからか、竹内に突っ込まれる。猛は、ぼそりと竹内ににだけしか聞こえないような声で言った。
「市川さんの娘さんのことで、ちょっと」
「あのお嬢ちゃん、また泣きついてきたのか」
 無言で首を縦に振ると、竹内もはぁと大きなため息をついて、キッと猛をにらむ。その視線の厳しさに、思わず猛は後ずさった。
「山口、お前は甘すぎる」
 うなだれたままの猛を見て、竹内は苛立った口調で述べた。
「俺たちは医師だ。治すのが仕事。結果がどうあれ、患者を治すまで最善を尽くすべきだ」
「……治らないと分かってたら?」
 竹内は自分の缶コーヒーを飲むと、顔をしわくちゃにして猛に質問する。
「人間の特権ってわかるか?」
「はぁ……」
「自分の意思がある限り、自分で死を選ぶことができる。つまり自殺だ」
「意思がなかったら?」
 健康な人間や、身体が自分で動かせるなら自殺できるかもしれない。が、病院にいる患者の多くは、それができない。意識がなかったり、身体を呼吸器や点滴で拘束されていたら?
 猛の問いかけに、竹内ははっきり答えた。
「時が決める。特権が生を放棄することなら、その特権を使わなかった人間は、精一杯残りの人生を全うする義務がある」
「権利と義務……」
 あごに手をやって考え込んでいると、竹内は肩に手を置いた。
「……今日はもう仮眠室に行け。疲れてると、判断が鈍るからな」
「すみません」
 猛は竹内に軽く頭を下げて、仮眠室へと向かった。

 仮眠室にはベッドとハンガー掛けが置かれている。白衣を脱いでネクタイを外し、ハンガーに掛けると、猛はベッドに横たわった。なかなか寝付けない。目を開けたまま、ボーッとすると、思い出すのは市川と娘の梨花のこと。それと竹内の言葉。
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