エピローグ

文字数 3,556文字

 年も明け、四月。桜の時期は終わりに近づき、季節は新緑の時期へと変化しようとしていた。
加藤彩ダンス教室は今もある。メンバーの入れ替わりはあったが、光太郎、七海、澪、湊はまだダンスを習っていた。そしてもう一人。響もあれから正式にダンスを習うことになった。今度は押しつけではない。自らの意志であった。
 一連の発表会での事件を通し、響は、体を使って自分の感情を表現する楽しみに気づいた。動くことでストレス解消にもなるし、汗をかくのも気持ちいい。
それに、母・彩との関係も変わった。発表会が終わった途端、彩は「踊るの、嫌いだったらもう辞めていいよ」と言ってくれた。すべての出来事に終止符が打たれ、もう響が踊りを続ける理由がなくなったからである。だが、響はそうしなかった。なぜなら、コレオグラファーとしての母に、ちょっとした尊敬の念を持ってしまったのだ。
今まで自分は、小学五年にもなって母性を求めていた。しかし、彩は響の求めるような母性は持ち合わせていなかった。理由はひとつ。もう母性を求める時期ではなくなったからだ。彩に母性を感じなくなったのも当然のことである。でも今は、思春期を迎えた少年と、母親の新しい付き合い方が見つかった。それが「親を尊敬する」ということだ。相変わらず彩は家の仕事をしない。食事の用意も大体響がするし、掃除、洗濯他子供任せだ。さすがにそういうところは響も勘弁して欲しいと思っているようだが、ダンスになるところっと人格が変わる。彩はやはり、ただのぐうたらおばさんではない。母親としての力はもうないが、その分、芸術家としての才能が宿っている。
また、彩の指導方法も大きく変わった。従来はただ自分が振付をして、生徒に踊らせるだけだったが、今は違う。彩がお手本を見せた上で、「他にどういう表現方法があるか」と、生徒自身に考えさせるようになった。そのため、踊りも彩だけが振付したものもあれば、生徒がオリジナルで作成したものもあるようになった。
指導方法が変わってから、生徒が何人か増えた。この方法が珍しかったのか、生徒との対話でダンスのレッスンをすることが画期的だったせいか、口コミで広まり、今日も何名か見学に来ている。
「ねえ響、ひびきはダンス辞めちゃったの?」
 レッスンが終わると、湊がとことこと近づいてきて、訊ねた。それに対して、響は冷たく言い放つ。
「お前ら女子三人がいじめるから、面倒くさくて嫌になったって」
 その言葉に湊はぎくりとして、後退する。彼女の様子を横目で見ると、心の中で舌を出して笑った。
「あんまりいじめるなよ」
二人の会話を聞いていた光太郎は、笑って響にデコピンした。
光太郎は、あれからまた少し背が伸びた。今は百七十四くらいあるそうだ。壮次もこの間の健康診断で、百七十まで伸びていた。しかも横がその分スリムになって、少しばかり女の子にモテはじめてきている。本人は鈍感なので気づいていないようだが、はたから見れば一目瞭然だ。さすが、光太郎の弟と言うべきか。
響本人はというと、成長期が始まったはずなのに、まだ二人に比べると全然背は低かった。大体百五十五センチ程度。相変わらず華奢な手足に小さい頭なので、いまだに女の子と間違われる。井上兄弟と自分を比べると、劣等感がどうしても出てきてしまっていた。
先日なんて、光太郎とダンス用品を買いに行っていたら、光太郎のクラスメイトに彼女扱いされて嫌な思いをしたばかりである。最近、光太郎と歩いても、壮次と歩いてもカップルに間違えられる。それが心の底から嫌だった。
「でもさ、光太郎も響も顔がかっこいいからいいよね」
 澪がミーハー気分で言うと、湊はちょっと変な否定をした。
「光太郎は確かにかっこいいけど、響はかわいいんだって!」
「響はまだ小さいけど、将来二人とパ・ド・ドゥすることを目標にすると、練習頑張ろうって思えるよ」
 七海がにやりと笑って二人を交互に見ると、寒気がした。
パ・ド・ドゥは男女ペアになって踊るものである。悪いが、この三人組とはパ・ド・ドゥを踊りたくない。響と光太郎の本音だった。
「響、光太郎! ちょっと前に来なさい」
 彩が二人を呼び出した。手には一通のエアメールがある。
「それ、まさか」
 響が訊ねると、彩は首を縦に振った。
「そう。ロイからのエアメール。自宅にじゃなくて、わざわざ教室に届くようにしたってことは、もう私たちの間に個人的な付き合いはなくなったってことね」
 ちょっと寂しそうに視線を落としたが、すぐにいつもの勢いに戻り、二人にメールの内容を告げた。
「ウィルソン・カンパニーのジュニアクラスに留学しないかって、ロイからの直々のメッセージよ。どうする? 興味ある?」
「ええっ?」
 二人の大きな声がフロアにこだまする。
「こ、光太郎はともかく、俺はまだダンス歴浅いし」
「俺だって、自信ないよ! 大体、なんで俺らなんですか? やっぱり、響がロイの息子だから?」
 光太郎が訊くと、彩はすぐさま「違う」と否定した。
「響の父親がロイだってことは確かに手紙で伝えたわ。でも、それは関係ない。だって彼、後継者はもう見つかったみたいだし」
「え、なんだよ、それ!」
「本当よね。どれだけこっちが振り回されたかって、伝えてやりたいわ」
「母さんも振り回した張本人でしょ」
 響がにらむと、彩はお茶を濁すようにこほんと咳払いをした。
「ちなみに後継者って、どんな人になったの?」
 響が訊ねると、彩は眉間に皺を寄せて、大きく溜息をついた。
「カンパニーで、一番自分のことを尊敬してくれた人……というか、愛していた人に決まったわ」
「愛していた人? ってことは女性なんですか? 後継者は男の人にするって話じゃ……」
 光太郎が核心をついた。彩はうつろな顔で、それについての答えを明瞭に提示した。
「あんたたちも、もうわかるわよね。世の中には同性しか愛せない人っていうのがいてね。つまり……」
「ゲイってこと?」
 響が驚くと、彩は力なくうなずいた。
「私の数年間、いや、数十年間の思いは何だったのかしら。問い詰めて、説明していただきたいくらいだわ」
 彩の鬼気迫る表情に、二人は震える。それに気がつくと、先ほどと同じ調子にかえって、留学の説明に戻った。
「ま、ともかくね、世界中の若い才能を集めて特訓させたいんだって。日本からだって、あんたたちだけじゃないわよ。もっとうまい人たちにも声かかってるんだから。あんたたちは補欠の補欠の補欠みたいなモンよ」
 「補欠」を三回も言われ、自信をすっかりなくす。淡々と説明する彩に対し、二人は困っていた。
「補欠の補欠の補欠って言ったって、レベルが違いすぎるだろ。だって俺たち、全国舞踊コンクールにすら出たことないんだぜ? ダンス始めたのだって、去年の今頃だし」
 焦る響に、光太郎も呟く。
「確かに。そういうところに出て、それなりの功績を認められてから留学すべきだよな。なんていうか、公式の場に出ないと、本当は声だってかけてもらえないはずだぜ?」
「でも、チャンスはいつ訪れるかわからない。手の届くときにゲットしないと、チャンスの星に逃げられてしまうとも言うわよ?」
 意地悪そうに彩が言うと、響と光太郎は余計に頭を悩ませた。
「先生、じゃ、こういうのはどうですか?」
 少し離れた場所で盗み聞きしていたらしい女子三人組リーダー・七海が、勝手に口を挟んできた。響と光太郎は、過剰に干渉してくる女子が、ほとほと嫌だった。
「今年の全国舞踊大会に二人を出して、決戦審査まで進んだら留学する」
「ロイって人も、それぐらいの期間は待ってくれるんじゃないですか?」
 澪と湊もそれに加わる。
「それはいい考えね。さっそく舞踊協会に連絡しないと」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
 響が叫ぶ。女性陣四人で勝手に話が進められ、張本人の響と光太郎はすっかり置いてけぼりになってしまっていた。
「でも、舞踊コンクールには出たいな、俺。結果はどうあれ、さ」
 頬をかきながら、青年は言った。
「光太郎!」
「自分の実力が知れる、いいチャンスじゃん」
「俺はそこに出る実力もまだないんだって!」
「だから練習するのよ。ま、今日は終わりにしてあげるけど。さっさとモップでフロアを拭く!」


 フロア内は楽しそうに盛り上がっている。外から見ていた若葉はほっとした。
「若葉、どうしたの?」
 隣に立つ、黒い短髪にポロシャツを着た青年が若葉の視線の先を探る。
「『加藤彩ダンス教室』? 若葉、ダンス習いたいの?」
「ううん、そういうんじゃないんだけど、去年、騒がしい出来事があってね……」
 若葉は青年の手を取ると、笑顔で去年からの付き合いの、お隣さんの話を始めた。
街路樹の最後の桜の花弁が、風で踊るように舞っていった。       【了】
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