四、

文字数 14,437文字

 翌日の朝、母はいつも通り朝のレッスンの二時間前に家を出た。響も準備をして部屋を出ようとしたとき、隣の若葉が声をかけてきた。
「今日は大丈夫? 無理しない方がいいよ」
「うん、ありがと」
「昨日、彩さんに私からあんまり無理させないように言ったんだけどね。ちょっと余計なお世話だったのかな」
 ごめんね、と眉毛を八の字にして謝る若葉に、首を振る。彼女が彩に言ったとしても、所詮よその家庭のことだ。母からしたら大きなお世話だと、すっぱり言われてしまった様子が安易に想像できる。むしろ、そこまで自分のことを考えてくれる、血の繋がりのない単なるお隣さんに感謝したかった。十九歳の女性は、まるで本当の姉のようだった。
「また無理しちゃダメだよ。ちゃんと水分も取ること。いい?」
 確認して、頭をなでる。彼女になでられることが心地よかった。胸も初めて会ったときのようにどきどきと高鳴る。ドアが閉められたあとも、彼女の優しい余韻に浸っていたくてしばらく立ち尽くしていた。


 少し早く教室へ行くと、入り口の前に光太郎が立っていた。チェックのシャツにTシャツ、ジーパン姿だと、普通の少年だ。それがレッスンになるとショートパンツになる。よく考えると、ギャップがおかしい。
 ともかく、昨日は色々世話になった。お礼を言わないと。しかし、まだウィッグをつけていない。最近は若葉の見送りがなかったので家でつけてきていたが、今日は油断した。早く着いたから、誰もいないと思ったのだ。
 ゆっくりと光太郎を見ないように通り過ぎようとする。そのとき、腕をつかまれた。
「ひびき、だよな?」
 咄嗟に顔を背ける。しかし、確認するまで腕を離してくれそうにない。ゆっくりと顔を光太郎に向けると、彼は響を教室の横の路地に引きずっていった。
「ひびきなんだろ?」
 同じ問いかけをする光太郎に、響はどう答えようか迷っていた。本当は男だとバラしてしまおうか。その方が楽になれる。だけど、認めてしまえば光太郎はどう思うだろう。変態だと罵るだろうか。光太郎は正攻法で、男としてダンスをやっているのに、自分は性別を恥じて女装しているとだけは思われたくない。好きで女装しているわけではない。それに、彼はなんだかんだ言って、助けてくれている。嘘をつくことが悪いような気がしてくる。
響は腹を決めて口火を切った。
「ごめん! 俺、男なんだ!」
 告白とともに、頭を下げる。一、二、三、四、五。間を置いて、光太郎は溜息をついた。
「やっぱそうか」
「へ?」
「昨日おぶったとき、男だってわかった」
 頭をかきながら、平然と光太郎は言った。熱中症で倒れたとき、教室まで運んだのは確かに光太郎だ。そのときの感触でわかったのだろう。
 それでも響は更に頭を下げた。
「お前、この教室で男一人で頑張ってるのに、俺は女装なんかして……ずるいよな。変態だよな。マジでごめん!」
「何をそんなに謝ってるんだ?」
 意外な反応に、響は頭を素早く上げた。光太郎は腕を組んで、その様子を不思議そうに見ている。
「軽蔑、しないのか?」
「普通ならする。けど、原因がなんとなくわかってるから」
 光太郎は気づいていた。すべての原因に。響がダンスをするきっかけになり、辞めることができないように仕組む人間。自分の作品にすべてを賭ける女、彩だ。
「俺、考えたんだけど」
 響に真剣な眼差しを向け、光太郎は言った。
「彩先生はやっぱ、間違ってる。ひびきもつらいだけだろ? 俺、ひびきは発表会で本当に自分が表現したいことをやるべきだと思う。彩先生の間違いを正せるのは、ひびきだけだ」
 響は目を剥いた。自分が表現したいことなんて、今はない。母の間違いを正せるのが自分だけと言われても、どうすればいいかわからない。
「俺、新しく振付なんてできないし……」
「俺が協力する。お前のことを指導し始める前の先生に戻って欲しいからさ」
 肩を掴んで、気弱な響を光太郎が説得する。あまりの熱さに、響はたじろいだ。最初に会ったときとは別人だ。嫌味を言ってきた当初と大違いで、思わず失笑した。
「な、なんだよ」
「いや、いきなり親切になって気持ち悪いなあって」
「あのな、俺は元から親切なんだよ! ただ、最初は嫉妬っつーか、なんていうか……」
 ぶつぶつと語尾が小さくなっていく。つまり、出会った当初は「彩の娘」ということで個人レッスンを色々つけてもらえる特別な存在だと思っていたらしい。自分はダンス教室ただ一人の男性ダンサーということで、よく目をかけてもらえた。構ってももらえた。その地位が奪われると思ったのだ。だが、嫌々ダンスをやらされていると知ってからは、むしろ同情さえ覚えたようだ。
「うちはじいちゃんが合気道の師範でさ、昔、俺も強制的に習わされてたんだ。やっぱ、習い事の押しつけは、つらいもんがあるよ。弟は続いているみたいだけどさ」
「そういえば、壮次って合気道やってるんだよなあ」
「ひびき、俺の弟知ってるの?」
 相当驚いたらしく、声が裏返った。響はうなずいて、同じ学校、しかも同じクラスであることを説明した。彩のダンス教室は、住まいと少し離れているため、響と同じ学区の生徒はいなかった。
「それと、俺の本当の名前。『ひびき』じゃなくて『キョウ』。よろしくな、改めてだけど」
「おう」
 二人は固い握手をして、新しい振付を考えることにした。彩を間違えた方向から、正しい道へ戻すために。


「来週から一週間、清里で合宿を行なうわよ」
 久々に会話があったと思ったら、ダンス合宿の話で、響は面食らった。確か、先週くらいに何らかのお金を母が徴収していたのは知っていた。いつも通り、月謝だと思っていたのが大間違いだ。参加費用だったのだ。山梨県清里。避暑にはもってこいの場所だ。
「部屋や風呂はどうするのさ」
 テーブルに並べたコンビニ弁当に箸をつける前に訊ねると、母はあっさりと答えた。
「あんただけ個室だから平気よ。その代わり、この合宿中にいい加減に振りを完璧にしなさいよ?」
 がつがつとカツ丼をかきこみながら、乱暴に言ってのけた。
 旅行なんて、久しぶりだ。母の仕事上の理由で、なかなか旅行をする機会がなくて、それは素直に嬉しい。しかし、問題なのは、「ダンスの合宿」というところだ。しかもずっと女装していなければならないし、バレないようにしなくてはならない。光太郎には正体がバレたとはいえ、他の女子生徒にはバレていないのだ。というか、バレてしまったらまずい。他は思春期の女の子だ。保護者からもクレームが来るだろう。そうなったら、ダンス教室の存亡の危機だ。なのに、女装をさせている張本人は、相変わらず自分の『作品』のことしか頭になかった。


「いいなあ、清里だっけ? 牧場あるじゃん」
 壮次がゲームをしながらうらやましそうな声を出す。今日は旅行前ということで、レッスンは休みだ。なので、壮次の家に遊びに来たのだが、偶然光太郎も居合わせたので、三人で遊ぶことにした。
「でも、そんなに遊べないぞ。オレ達はダンスの練習に行くんだからな」
 隣で光太郎が厳しい言い方で否定する。しかし、その手には「清里で遊び倒せ!」とでかでかと書かれた表紙の旅行誌があるので、説得力はない。
「一応、一日だけフリーの時間はあるけどな。母さんのことだから、練習って命令されるような気がするよ」
 遠い目をしながら響が呟くと、壮次がうなずいた。
「だよな。兄貴に話聞いたけど、おばさん随分やばいもん。息子を女装までさせて、舞台に出そうなんて、普通考えるか?」
「考えるから、普通じゃないんだろ」
 渋い顔で日程表を確認する。三泊四日で、どうやら他のダンス教室との合同合宿らしく、初日は移動と顔合わせ。二日目は合同レッスンで一日が終わる。三日目の昼間に自由行動の時間があり、夜はキャンプファイア。そして合宿は終了する。彩の教室からは、響と光太郎を含めて五人の参加だ。そんなに大勢ではないので、電車での移動になる。
「俺、この合宿だけだよ。この夏、旅行できるの」
 不満げに日程表を投げつけると、壮次がそれでもうらやましそうに言った。
「遠出できるだけいいぞ。俺なんか合気道の合宿、いつもの道場なんだから」
「でも、もれなくダンスの練習付きだ」
 響がうなだれると、隣に座っていた光太郎が肩をつついてきた。
「なあ、ここ行こうぜ。キープ牧場だって」
「光太郎はいいよな。ダンスも好きだし、両方楽しめるんだから」
 コンピューターと対戦していた壮次が、顔を上げて思ったことを口にした。確かに、響に比べて光太郎はマイペースに旅行を楽しみにしているようだった。


 翌日十一時、駅のモニュメントの前が集合場所だ。響は彩とともに十分前に来ると、すでに保護者連れの七海と、こけしみたいで釣り目の渡辺(わたなべ)澪(みお)、細い目でたまに毒を吐く少女、田中(たなか)湊(みなと)の三人がすでに集まっていた。響は、三人の顔を見るなり、大きく溜息をついた。よりによって、自分の悪口をよく言っている三人組と三泊四日なんて、勘弁してくれ。頭を押さえた、集合時間五分前。光太郎がスポーツバッグを肩にかけてやってきた。
「光太郎、お前だけが頼りだよ」
「は? ああ、そういうことか」
 光太郎の肩に両手を乗せて呟くと、その言葉の含む意味を光太郎は察した。ウイッグをつけて、今日はスカートまで履かされている響は、女子の中で一番かわいい。背後には他の三人の嫉妬心がめらめらと燃えているのが見える。
「揃ったわね。じゃ、行くわよ」
 出発の挨拶も特になし。保護者には「では、お預かりします」と一言だけ告げると、彩と五人の少年少女は改札を通った。
 新幹線で佐久平まで行き、小海線に乗り換える。はしゃぐ女の子たちのテンションに、主に光太郎は疲れていた。光太郎はモテる。この旅行を機に、光太郎とより仲良くなろうと考えている子もいそうだ。その様子を響は、他人事のように見ていた。外の風景はずっと緑だ。
 一時間半ほど電車に揺れ、一同は清里駅に着いた。標高が高いせいか、少しばかり寒い気もする。駅前にはSL機関車が展示されており、その横には観光案内所がある。かわいいデザインのピクニックバスも、ちょうど見えた。
そこからは徒歩で坂道を下り、まずは泊まる場所に荷物を置く。宿泊先はペンションだ。坂のふもとにある、隠れ家的なペンションで、ダンス教室にはそこから通うことになる。ダンス教室とペンションは、十分もかからない距離にある。チェックインすると、すでに他の教室の生徒たちが到着していた。今回、合同合宿に参加する生徒は、全員ここを使うようだ。
 彩は先に来ていた他の教室の教師と同室で、光太郎は男子一人ということで一人部屋。女の子たち三人は全員で一部屋。そんな中、七海たちが響の優遇された扱いに不満を持つのは当然のことだった。
「なんでひびきだけ一人部屋なんですか?」
「女子は四人なんだから、二部屋に分ければよかったじゃないですか!」
 女の子三人から抗議を受けた彩は、飄々と言ってのけた。
「あなたたち三人は仲がいいんだから、三人一緒の方が楽しいと思って。ひびきはちょっと打ち解けてないところもあるみたいだし。別に、いいでしょ?」
 いいでしょ、と言われてしまえば、言い返せない。三人は言葉をぐっと堪えて、昼食のサンドイッチを口に入れた。様子を離れた席から見ていた光太郎と響は、苦笑いを浮かべた。


 坂道を更に下ったところにある観光地の近くに、ダンス練習場はある。なんでも、有名なダンサーの別荘兼合宿練習場として解放されているらしい。夕方からは、そこでさっそくレッスンだ。さすがに着替えるところがなさそうな気がしたので、部屋でユニタードを着込んでから行くことにした。
 その考えは正解だった。男女別に着替えるところはあるが、さすがに女装している自分が男子更衣室で着替えるのはまずい。女子更衣室に入るのも気まず過ぎる。いつも通りトイレで着替えて、廊下の隅にバッグを置いておいた。
 レッスンはいつも彩がやってくれるものとは大きく違った。なんと彩や他の教師と思われる大人もレッスンに参加しているのだ。指導してくれているのは、七十近くのガリガリだけど元気なおばあちゃん。中田洋子先生だ。背筋もしゃんとして、厳しく指導する。光太郎の後ろでバーレッスンに参加していた響だが、さっそく「肩に力が入りすぎ!」と注意された。隣のバーにいる彩も、腰の位置を直されていたようだ。親が注意されているところを見るのは意外だった。
 レッスンは夜七時半まで続いた。冷房は効いていたが、汗だくだ。着替えようと、廊下のバッグを持ってトイレに入ろうとしたところで中田先生に呼び止められた。響だけじゃない、彩も一緒だ。彩は、七海たちの引率を他の教師に頼むと、フロアの端に響とともに行った。なんだか嫌な予感がする。二人が呼び止められたことに気づいた光太郎も、こっそり廊下から様子をうかがう。
「彩、この子、男の子でしょ。なんでこんな格好させてるの」
 中村先生は小声で核心を突いた。彩の表情が一気に強張る。それでも屈せずに、認めたうえで言い返す。
「確かに男の子……私の息子です。女装させてるのにはわけがあるんです」
「わけ? 何を考えてるの」
 追求は続く。響は巻きスカートを引っ張った。自分の正体に気づいている人間から観たら、この格好は滑稽でしかないはずだ。中村先生の視線が痛い。
「私が師事していた、ロイ・ウィルソン先生が今冬来日するんです。そのとき、この子を舞台に出します。私の表現したいことは、この子じゃないとできないんです」
「あなた、そんなこと一言も話してなかったじゃないの。それにこの子を舞台に出すですって?」
 中村先生はぎょろっとした目を更に大きくした。響はそれに驚いて、身を縮こませる。自分が女装して舞台に出ることが、どう考えてもおかしいことはわかっている。それを再認識させられるようで、辛い。
「あなた、やっぱり……」
「お話はこれで終わりでしょうか。確かにうちの息子が女子生徒に混ざっていることは問題だと思います。ですが、バレないように最前を尽くしていますし、着替え等も見せないように気をつけていますので、ここは勘弁していただけませんか」
 そつなく言って、ゆっくりと頭を下げる彩。中村先生は、それを見てどうすべきか頭を悩ませているようだ。目をぎょろぎょろと動かすと、最後に響に視線を向けた。
「あなたはいいの? これで」
 問いかけに、素直に答えたくとも彩の冷たい目がこちらを見つめている。響はゆっくりとうなずいた。ここで首を振れば、助けてもらえるかもしれない。しかし、母との縁が切れるような気がして、恐かった。
 しばらく考え込んで、中村先生はひとつの提案をした。
「発表会に使う音楽は持ってきてる? この子の踊りをあなたがしているところをみたいんだけど」
 彩は軽く返事をすると、すぐに更衣室からMDを持ってきた。それを渡すと、中村先生はさっそく再生させる。
 普段は響と幸太郎が踊る曲を、彩が一人で踊り始めた。雨の日、ホウセンカの花弁のようなワンピースを着て踊っていた彩がそこにいた。振りは自分が踊っているのとまったく同じはずなのに、全然違う気がした。ダイナミックなのに、繊細。激しい感情と、心細さを同時に表現している。でも、変わらないところはひとつある。追いかけて、でも見えない壁に邪魔されて、好きな人に近づけないせつなさ。その人のところに行きたくても、周りが腕を、脚を引っ張る。近づけない苦しさ。
曲が終わったところで、中村先生は彩にタオルを渡した。
「あなたが何をたくらんでいるのかはわからないけど、この踊りをひびきにやらせるのは得策だとは思えないわ。あなたが踊るべきよ」
 タオルを受け取り、首筋を拭くと、首を左右に振った。
「いえ、この子に踊らせたいんです。私が踊るには、つらすぎる」
 三人しかいないフロアは、静寂に包まれていた。


「さっき、大丈夫だったか?」
 食事の時間、一人で食べていた響に光太郎が話しかけてきた。手にはしっかりとカレーの乗った盆を持っている。
「さっきって、見てたのか?」
「彩先生と中村先生とお前。中村先生にバレたのかと思って、心配してたんだけど」
「バレたんだけど、現状維持になったよ」
 フッ、と笑って、カレーを口に運ぶ。光太郎は意味がわからず、響の様子を見ながら首を捻る。
「なんでだよ。普通、まずいだろ」
「うーん、そうだよなぁ」
 カレーのルーをご飯にかける。
 はっきり言って、なぜ女装が見逃されたのか、自分もわからない。普通だったら、辞めさせてくれるはずだ。そこには、何か中村先生と彩しか知りえない秘密があるのかもしれない。つまり、ロイ・ウィルソンとのことで、だ。
「光太郎、あの踊り、どう思う?」
「あの踊りって、俺とお前の?」
 うん、とうなずくと、光太郎は難しい顔をした。
「踊り自体はともかく、彩先生が何を表現させたいのか、って話だろ? 俺には『完璧な男』、お前には『不完全な少女』だ。先生も言ってたけど、あれだ。なんていうかさ。あれだよ」
 光太郎は顔を赤くして、「あれ」と何回も口走る。最初はわからなかったが、彼のテレ具合から、なんとなく言いたいことが予測できた。
「つまり……少女が男に恋をしてること?」
 言ったあと、響も顔を真っ赤に染める。あまりこういった話に免疫がないのだ。普通にまだ同性と遊んでいた方が楽しい年代だし、女の子は七海なんかを見ていると、恐い。真面目に光太郎とこんな話をするとは思わず、二人ともうつむいてカレーに集中する。
「で」
 少し顔の火照りが取れると、光太郎は再び顔を上げ、響を見た。
「彩先生がなんで、この表現をロイ・ウィルソンに見せたいのかが問題になってくる。それに、中村先生は彩先生が踊るべきだって言ったんだろ? ということは、ひとつの答えが導き出される」
「え、まさか」
「彩先生は、ロイ・ウィルソンが好きだったんだ。今はどうかわからないけど」
 驚いて、スプーンを皿の上に落とす。母が、見ず知らずの男のことを好きだった。それは大して驚かない。彩は昔から男にだらしがなかった。それだけのことだ。ただ、物心ついてから見てきた男たちと態度が大きく違う。まるで初恋のような純粋な気持ちが、あの振付にはある。
「確かに母さんはロイって人にかなり固執はしてるけど、それはないんじゃないか?」
「そうか?」
「だって、そうしたら、俺に踊らせる意味がわからないだろ」
「それを言われるとな。彩先生が『少女』って柄でもないし」
 そこまで言うと、水をごくりと飲んだ。ペンションのカレーは、甘くもなく、辛くもなく、ちょうどいい味だった。


 ペンションはステンドグラスでできたランプや、古い楽器が飾ってあり、レトロな感じがした。風呂も光太郎と時間をずらして、一人で悠々と入れたし、部屋の中ではゲームをしていた。暇だったので光太郎の部屋に行こうかと迷ったが、部屋を出ようとしたところ、七海の冷たい視線にそれを止められた。一応自分は女装をしている。あまり頻繁に男子の部屋に行くのはよくない。それでも、初日の夜はわりと快適に過ごせた。
 二日目は朝から豪華な朝食だった。焼きたてのパンに、搾りたての牛乳、新鮮なジュースに地鶏の卵でできたスクランブルエッグ。それに、サラダだ。光太郎と響はパンのおかわりまでした。七海たちは、光太郎と張り合ってがつがつ食事をする響を、半ば呆れた顔で見ていた。彩は相変わらず、他の教師たちと長いテーブルでおしゃべりだ。おしゃべりというより、踊ることについての熱い討論になっていたが。
 食事が済むと、移動してレッスンだ。今日はバーレッスンとフロアでのレッスンが終わると、発表会に出る生徒の個別指導を受けさせてもらえる日だった。中村先生は、彩や他の教師たちの日本での先生という立場になる。要するに大先生というやつだ。他のダンス教室も、近々発表会があるらしく、合同練習することになった。
 最初の生徒は、子猫をモチーフにした踊りだ。軽く拳を作り、お尻を出す動きで猫になりきる。事前に振付のメモをもらっている中村先生は、細かに指導していく。
「随分かわいらしい踊りだな」
 響が呟くと、光太郎は「踊ってる子が、じゃないのか?」と冷やかしてきた。別に踊っている子はどうでもよかった。響は彩に無理やりだけどダンスを教え込まれてから、人がどうというよりも、振りや表現方法に興味を持ってきていた。
「七海の番だ」
 七海は、『人魚の涙』というタイトルの踊りだった。
「あの人魚、ちゃんと泳げるのか? 沈むんじゃないか?」
 普段悪口を言われている響は、こっそり光太郎に毒づいた。光太郎は苦笑いした。そもそも七海は、発表会に出るほどの実力はなかった。ただ、親が権力者で、いくらでもお金を出してくれる、彩からしてみれば上客なのだ。それは中村先生も察したらしく、特に指導はしなかった。七海は「自分は無駄に指導されなかった、うまい人間だ」と鼻息荒くフロアから戻ってきたが、響にはそれが少しかわいそうに感じた。自分の実力を勘違いして、人をバカにしている。本人がそのことに気づいたとき、悲しみにくれるだろう。
 何組か他のダンス教室の生徒が踊り、光太郎と響の番になった。二人はフロアの端に立つ。音楽がかかると、まず光太郎が中心まで走り、跳ぶ。追いかけるように響が走り出す。二人は、お互い独立した動きをしているのに、なぜか引き合い、対になっているように見えた。また、響もダンス歴たったの五ヶ月というのに、目覚しく成長していた。まだ踊りに疑問はある。母は何を表現させたいのか、わからない。それでも、以前褒められたときのように、若葉のことを思い、踊る。決して自分のものにならない遠い人を考えて踊る。
 右腕を高く上げ、左腕は遠くへ。右脚を軸に立つと、光太郎はアラベスクをしてフロアからいなくなった。そこで曲が止まる。
「光太郎、ちょっと」
 指導は彼から入った。技術的な面で、腕の出し方や足の角度を直される。次は響だ。
「ひびき、あなたは何を考えて踊ったの?」
「え」
 突然の質問に、響は答えに困った。アパートの隣に住むお姉さんのことを考えています、なんて、恥ずかしくていえない。下を向いていると、中村先生は軽く肩に手を置いて、フロアを見回した。彩は冷静に二人の踊りを見ていた。母に聞こえないように、耳元でささやく。
「何を考えているかわからないけど、これはあなたの踊りなのよ。彩の傀儡にならないように」
 それだけ言うと、中村先生は次の組を呼んだ。響は言われた意味がわからず、混乱した。


 レッスンが終わり、ペンションに着くと、響と光太郎はロビーにあったボードゲームに目をつけた。さっそく開けて、二人でゲームを始める。先攻は光太郎だ。さいころを振ると、六が出た。車型のコマを六つ進める。
「そういやさ、明日自由行動できる日だろ? キープ牧場ってどうやって行くんだ?」
 あぐらをかきながら、ウイッグの髪の毛を耳にかけ、響は訊ねた。光太郎と響は、三日目一緒に行動することにしていた。懸念していた彩のレッスンは、どうやらなさそうだ。教師陣は自由行動の時間、中村先生の特別レッスンがあるらしい。
 さいころを響に渡すと、光太郎は言った。
「歩いていくには距離があるから、自転車を駅で借りていくか。牛の乳搾りもできるらしいぞ」
 さいころの目は一が出た。今度は光太郎の番だ。そのとき、階段を下りてくる足音が響いた。女の子三人組、七海、澪、湊のお出ましだ。七海はふくれた顔がりんごのように赤くなっているような気がした。
 澪は、ゲームをしている二人の間に割り込んで、光太郎の方を向く。湊も光太郎の背後に立つ。七海だけ、少し離れた場所で、背を向けている。一体なんだというのだ。澪と湊は響がいるのもお構い無しに、光太郎に言った。
「光太郎、明日、うちら三人と自由行動しない?」
「男一人じゃむなしいでしょ? みんなで回ろうよ!」
 ノリノリの二人だが、光太郎はうっとうしそうにそれをはねのけた。
「悪いけどさ、俺、ひびきと行くから」
 二人に目線もくれないで、平然と答える。それに対して女子三人組、特に七海は顔を青くして、光太郎の前に立ちふさがった。
「なんで? ひびきと二人で行くの? それって、デートじゃん!」
 デート。言われて響も光太郎もはっとした。そうだ。響は女装している。見た目が女の子の響と二人っきりで高原を回る。これはデート以外の何ものでもない。光太郎と響はお互い顔を見合わせた。しかし、正直な話、男同士の方が楽だ。女の子はすぐ疲れただの、つまらないだの文句を言う。それに買い物に時間がかかる。面倒くさい。そこを考えると、男同士で回った方が断然いい。光太郎はあっさりと言った。
「デートじゃないけど、ひびきと一緒の方が楽だから」
 光太郎がさいころを振ると、今度は五が出た。すぐに響にさいころを渡す。その様子を見ていた七海は、泣きそうな顔で部屋へと戻っていった。澪と湊もそれに続く。
「いいのか? 七海、お前のこと好きなんじゃないの」
「勘弁してくれ」
 響が冷やかし半分で言うと、光太郎は本気で嫌そうな顔をした。


 三日目の午前の練習は、気合の入り方が違っていた。生徒たちは午後から自由行動、夜はキャンプファイアだ。楽しみでうずうずする。響もその中の一人だった。あと五分で、レッスンは終わる。そしたら光太郎と牧場だ。
 レッスン終了のベルが鳴った。蜘蛛の子を散らすように、生徒たちはフロアから消えていく。響も着替えをしようとトイレに入ろうとしたとき、彩に止められた。
「響、あんた、自由行動だからって、気を抜かないようにね。どこで生徒が見てるかわからないんだから、ずっとウィッグはつけていること。服も私が詰めたやつを着るのよ」
「は、やだよ! 高原だからって、結構頭蒸れるんだぞ」
「光太郎と回るんでしょ? あの子男子一人だから目立つのよ。それなのに、知らない男の子と一緒に回ってたら、どう考えてもおかしいと思わない?」
 響は下唇を噛んだ。カバンに入っている、彩のセレクトした服を着るのか。楽しみが一気に半減した。
 一度ペンションに帰って、ロビーで光太郎と待ち合わせする。階段を下りていくと、話し声が聞こえた。ヒステリックな声には聞き覚えがある。七海だ。響は身を潜めた。
「だから、光太郎はひびきのことが好きなの?」
「好きなわけないじゃん。ただ一緒にいるのが楽なだけだよ」
「でも、おかしいよ! 最近ずっと一緒にいるじゃん!」
 光太郎は困り顔で頭をかく。響は同性だから、気兼ねなく付き合えて楽なのだが、さすがにそれはトップシークレットだ。
「じゃあいいよ。好きってことで」
「『いい』とか、そんな簡単に決めることじゃないでしょ!」
 このまま七海と話し合っていたらきりがなさそうだ。階段からひょっこり響が顔を出すと、光太郎は襟元を引っ張って、玄関を出た。
「ったく、女はなんで恋愛話が好きなんだ!」
 ペンションを出て、駅に向う坂道を上りながら、光太郎がいまいましそうに言った。
「お前がモテるだけだろ」
 やっかみ半分で返事をする。やっかみと言っても、七海にモテるのは大してうらやましくはない。
「母さん言ってたぞ。お前、モテるって」
「教室に通ってる男子が俺だけだからだろ。学校じゃモテないどころかいじめられてる方だ」
 意外な告白に、響は振り向いた。
「え、そうは見えないけど」
「ダンスやってるときだけ、自信があるからな。学校ではダンスやってることは秘密だし、ただでさえひょろいって言われてる」
 場所が変われば、評価を下す人も変わるというわけか。響がふうんと返すと、光太郎が頭をがしっと強くつかんだ。ウィッグの留めてあるところが頭に食い込んで、痛い。
「それよりお前は、なんでこんなふりふりな格好なんだ! せめて女装解いてこいよ!」
「母さんがダメだって。服も母さんが選んでカバンに入れたやつだから、文句を言うなら母さんに言ってくれ」
 そう言うと、光太郎は黙った。確かに自分でもないと思う。白いロング丈のふわふわしたワンピースは、どこぞの令嬢のようだ。高くないサンダルだけは、せめてもの救いだ。低いので歩きやすい。しかし、この格好は目立つ。だが、いかにもお嬢様なこのワンピースも、響は完璧に着こなしていた。奇妙なことに、男であるにもかかわらず、お嬢様ルックが似合ってしまっているのだ。
「似あいすぎるのも問題だろう」
 大きく溜息をつく光太郎を無視して、響は駅前にあるソフトクリーム屋でさっそくチーズ味のソフトクリームを買って食べる。しかもおじさんに「お嬢ちゃんかわいいから、サービス」と、カップに少し多めによそってもらっていた。その様子を見た光太郎は、更に溜息をついた。
「おい、光太郎。女装も悪くないぞ」
「おまけしてもらったからって、調子に乗るな!」
 自分もカップでチョコレートを頼むと、二人は食べながら貸し自転車の場所まで歩いた。目的の牧場は、歩いて数キロ先だ。なので自転車を使う。
 その場にいたおばちゃんから渡されたノートに名前と住所、電話番号を書くと、三時間分の料金千円を渡した。
 自転車にまたがると、いきなりの上り坂。しかも距離はかなりある。ずっと立ちこぎで、ハンドルはくねくねと動く。十分もしないで息が切れた。それでもゴールの牧場はまだまだ先だ。途中、休憩を挟みながら、汗を拭きつつ上る。普段自転車通学の光太郎も、必死に重いペダルを漕ぐ。響はというと、ふわふわロングワンピースをたくし上げ、脚を露わにして鬼の形相で走っている。周りの人の視線なんて、どうでもよかった。この坂道はやわな神経じゃ上れないのだ。
 二、三十分漕いで、やっと牧場に着いた。自転車を止めて、お土産屋さんを物色する。ソーセージや牛乳、チーズケーキなどの名産品はもちろん、かわいいキーホルダーや牛の置物もある。
「なあ、このファンキーな牛、壮次のお土産によくねぇ?」
 響は光太郎に、牛の形をしているのに、ピンクに花柄の着色がしてある置物を見せた。光太郎は笑って、「いや、こっちだろう」とこれまた青に水玉の牛を見せる。結局兄・光太郎の意見により、水玉の牛の置物を壮次のお土産にすることにした。しかし、ピンクの方もなんだか愛着が出てきてしまった。マスカラ付きの牛の目がかわいく見えてしまう。響は若葉へのお土産にすることにした。光太郎が他のところを見ている隙に、レジに持っていく。袋に入れてもらうと、合流し、外に出た。
 外ではハーブ入りのフランクフルトとソフトクリーム、牛乳が売っていた。先ほど駅でソフトクリームを食べたと言うのに、再び注文。今度はフランクフルトと牛乳もだ。両手で三つ持つと、二人は近くのベンチに座った。
「あれ、お土産買ったのか」
「あ、ああ、まあな」
 若葉用の袋を目ざとく見つけられた響は、テーブルに乗せていたそれを、イスへ移動させた。その様子を訝しく思った光太郎は、ふざけ半分で訊いた。
「誰に買ったんだ? もしかして、好きなやつにだったりして」
「な、んなわけないって。お、俺にそんな人いると思うか?」
「うん」
 あっさりとうなずいた光太郎に、響は唇を振るわせ、顔を赤らめる。
「お前の踊り、最近ぐっと変わっただろ? 誰かのことを思って踊ってるんじゃないか?例えば、『若葉』って名前の人」
 ソフトクリームを舐めていた顔を上げて、呆然とする。なぜ、光太郎が若葉を知っているんだ。その心の中でした質問に答えるように、光太郎は言った。
「一回、彩先生、お前に言ってたよな。『若葉さんのことどう思ってる?』って。そっから確か踊りが変わったんだよ。若葉さんって、一体どういう人なんだ?」
 コーンをガリガリとかじってから、響はゆっくりと口を開いた。
 弓削若葉。十九歳、大学生。彩の陰謀から、響のお世話係のアルバイトをしている、アパートのお隣さんだ。長い髪に甘いにおい。自分が熱中症になったときは、まるで本当の肉親のように心配してくれた。彼女の言動すべてにどきどきする。そんな自分は病気になってしまったのではないかと思うくらいだ。若葉の目を見つめているだけで、顔が赤くなる。声を聞くだけで、涙が出そうになるほど優しい気持ちになれる。認めるのは恥ずかしいが、自分にとって若葉は特別な存在だと、光太郎に伝えた。
「ふうん、九つも年上の女の人なあ。それって、マジで恋なの?」
「え?」
「どきどきするのは、元から若葉さんがきれいってだけであって、それ以外はお前が求めてるものを持っているからじゃないのか?」
 フランクフルトを手に、首をかしげる。光太郎はそれにかぶりつきながら、響がもてあましている感情の正体を、言い当てた。
「俺の想像だけどな。『母性』ってやつを持ってるんじゃないか? 彩先生はどちらかというと仕事一筋だろ? 母性的ではないと思うし。恋とはちょっと違うんじゃないのか?」
 光太郎に言われたことを咀嚼して、もう一度自分の頭で考える。若葉に初めて会ったとき、彩に「一目ぼれ?」と訊かれた。それから、若葉に対して、なんとも表現できない温かい感情が湧き出てきた。勝手に恋だと思っていた。
 光太郎は更に続けた。
「響、お前さ、無理にダンス続けてるのだって、彩先生に捨てられたくないからなんだろ? それってさ、彩先生に母性を求めてるんじゃないかな。俺はそれを発表会で表現すべきだと思ってる」
 フランクフルトも食べ終わり、牛乳を一気に飲み干した光太郎は、真っ直ぐに響を見据えた。響はまだ、フランクフルトに口をつけずに下を向いている。恋かもしれないと思っていたものは恋じゃなかった。すべては母に『母らしく』してほしいと望んだ結果だ。母性的な若葉を彩とすりかえていた。
 母らしくあって欲しいとは、今更思わない。それでも、今母親が自分にやらせようとしていることは間違っている。母は、親子の絆を天秤にかけて、母の芸術的作品の一部にさせようとしている。やっぱり、彼女にはわかってもらいたい。『作品』という二人を繋ぐ糸が切れても、親子であるということを。自分を捨てることはできないということを、理解してもらいたい。
「なあ、これ持っててくれないか」
 響はフランクフルトを光太郎に持たせると、緑のじゅうたんの上に立った。風の音だけが聞こえる。照明の代わりは太陽の光だ。
 右足前の五番で立ち、手はアン・バー。顔は左肩の後ろを見るような形だ。ゆっくりと腕を挙げ開きながら背中を反る。胸の前に腕を戻すと同時に、今度は背中を丸める。横に腕を広げ、時間をかけて脚を上げる。下ろすとつま先立ちで前に進み、四番の足で止まると、腕を前後にゆらゆらと動かす。高原の草が、風に揺れているように。手を交差させ、誰かに問いかけるように首をかしげる。その手を合わせ、祈るように腕を高く伸ばす。腕を胸の前に持ってくるとともに、つま先をポアント。手を合わせたまま一回転。最後に涙を流すように両手を顔の前に。
 いつの間にか踊っている響の周りには、人が集まっていた。動きが止まると拍手がどこからともなく始まった。響は恥ずかしくなって、下を向いたまま光太郎が座っているベンチに戻った。
「今の、彩先生への思いの丈って感じだったな」
 光太郎の感想に答えることなく、フランクフルトをかじり、牛乳を飲む。自分が一番驚いていた。五ヶ月前まで、ダンスの素人。それが、自分の感情を踊りで表現できるようになるなんて。
 光太郎よりも、響自身の方が、自分の成長に驚いていた。

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