一、

文字数 12,099文字

(きょう)、今日は家族いないのか?」
 手元のタッチパネルをペンで操作しながら、壮次(そうじ)はたずねた。視線は小さな画面からずらさない。相手に隙を見せないためだ。
「ああ、うち母子家庭だから。それに、日曜でも母親は仕事だよ」
 今、小学生に大人気のサッカーゲームに興じている響は、返事と同時に壮次の操作するキャラに、スライディングを仕掛けた。失敗すると、小さく舌打ちする。
「寂しくないのか?」
 壮次はそのままパスを繋げてゴール前へ。思い切ってシュートするが、決まらず。ゴールキックだ。ホイッスルが鳴る。響はボールを蹴り出すと、「別に」とあっさり言い放った。
「去年みたいに、知らない男に世話されるより、全然マシだね」
 彼は目線を逸らさない。しかし、壮次は響の言葉に驚き、顔を上げた。
 白いレースのカーテンの間から、春の優しい光が入り込む。
小学校五年になった加藤響は、同じクラスになった壮次と意外にも馬が合った。クラス替えがあり、最初は戸惑ったが、共通の友人と一緒に話しをしているうちに、趣味が合うことに気がついた。今やっているゲームもそのひとつだ。
 だが、二人の外見は全く違った。響は、身長は百三十五をやっと超えたところで、白人とのハーフのように色素も薄く、華奢な体格。頭も小さく、手足は長い。整っている顔のパーツは母似で、ぱっと見ると女の子のようだった。それに比べて壮次は色黒。合気道を習っているようだが、体格はごついというよりもふっくらしている。二次成長が始まったらしく、身長は伸び盛りだ。顔は決して不細工ではないのだろうが、頬がぽっちゃりしていて、お世辞にも女の子にもてるとは言い難い。
 今日は、壮次が初めて響の住むアパートを訪れた。白と黒を基調とした、モダンな部屋だが、生活感は恐いくらいなかった。
 壮次が顔を上げてしばらく響の顔を見ている隙に、一点奪われた。
「お前も結構大変なんだな」
「そう思ったことはないけど」
 ゴールを決めると、サンバのBGMが流れる。心配そうにする壮次に対して、頭をかきながら面倒くさそうに答えた。
「あ、でも」
 壮次の持ってきたポテトチップスを口に入れると、響は後ろの壁を指さした。
「今、隣がうるさいのは迷惑」
「引越しじゃん? 来るとき、トラックがいたぞ」
 壮次もポテトチップスに手を伸ばす。パリパリと音を立てると、細かいカスがカーペットに落ちた。隣の部屋は、壮次が帰る時間までずっと、人の声や荷物を動かす音でうるさかった。
壮次が帰ってすぐ、インターフォンが鳴った。なんだ、忘れ物か。響が相手を確認せずにドアを開けると、そこには若い清楚な女性が立っていた。花柄のワンピースに、白いレースのカーディガンを羽織っている。両手は長方形の箱を抱えていた。
 響は赤面した。壮次だと思って油断していたというのもあるが、こんなにきれいな人がドアの前に立っていたなんて。緊張で、手が汗ばむ。ハーフパンツの横で拭うと、それを見た女性が響に微笑みかけた。
「きみ、ここの部屋の子よね? 私、今日隣に引っ越してきた、弓削(ゆげ)といいます。お母さん、いる?」
 左右にぶるぶると首を振ると、弓削と名乗った二○二号室の女性は「またあとで挨拶に来ます」と言って、帰っていった。
勢いよくドアを閉めて、背中をつける。胸は五十メートルを一気に走ったあとのように、どきどきしている。顔のほてりはまだとれない。体が変だ。弓削の優しそうな笑顔を思い出すだけで、鼓動がはやくなる。ずっと声も出ないし、喉もからからだ。――何が起こったというのだ。


 夕飯の準備をし始めたとき、鍵が勝手に開いた。「ただいまあ」と、語尾をだらしなく伸ばして靴を脱ぐと、そのまま玄関に倒れ込む。母・(さい)のお帰りだ。返事を無視して、茄子を刻み、水にさらす。今夜は麻婆茄子だ。
 母は荷物を投げ出し、玄関でくつろぎ始めた。料理する手を休めて、彼女のバッグの中身を整理する。ユニタードやタオルなど、汗を吸ったものは洗濯機に放り込み、他のものは、部屋の邪魔にならない場所に移動させる。
「響、ジュース!」
「勝手にどうぞ」
 手元の包丁に集中する。最近仕事で行き詰っている母親を冷たくあしらうと、コンロに火をつけた。
「そういや、隣に人が入った。あとで挨拶に来るって」
 事務的な口調で伝え、みじん切りしたネギとにんにく、ショウガを炒める。身長が低いため、料理するときに乗っている踏み台の横に、母が訝しげに近づいた。
「あんたが留守中のことを報告するなんて、珍しいじゃない」
 誰のせいだ、と心で呟く。知らない男がたずねてきたり、知らない男が誹謗中傷の紙をドアに貼っていったり、知らない男が勝手に部屋に入り込んできていたことは、すでに普通の出来事だ。男絡みのことを母に報告したって、何もいいことはない。
「報告する必要があったと思ったことだけ、伝えてる」
 ひき肉を加え、菜箸で混ぜる。無表情を崩さずに言ったつもりが、母にいつもとの違いを悟られてしまった。
「何だか少し顔が赤くなってるように見えるけど?」
「火を使ってるからじゃない?」
 納得したのかしていないのかわからないが、ふんふんとうなずき、母は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、グラスに注いだ。一気に飲み干すと、ゲップ。三十代前半の女性のオヤジ化が嘆かれる。
「はあ、この大胆なゲップの瞬間に、いい案がひとつくらい浮かべばいいのに」
 そう言って、イスをまたいで座り、頭をかきむしる。息子は母のぼやきに相槌も打たず、料理に集中していた。
 彩は、隣駅の近くに、モダンダンスの教室を持っている。そこの発表会が十二月にあるのだが、すでに頭の中はそのことでいっぱいだ。何でも、アメリカに留学していたときの恩師がちょうどいいタイミングで来日するらしく、彩の教室の発表会も観に来るというのだ。
 響はよく知らないが、彩は恩師をかなり尊敬している。自分の成長を認めてもらいたいという気持ちが、多くの言葉の端々に見られた。発表会も、生徒の練習の成果を発表するのではなく、自分の舞踊創作家としての腕前を見てもらうために開催するようなものだ。
 麻婆茄子ができあがると、皿に移して、テーブルへ運んだ。母のそんな事情は、自分には興味のないことだ。小さい頃、自分にもモダンダンスを強要し、母ではない別の教師に習っていたこともあったが、プロが匙を投げ出すほどのリズム感のなさで、結局辞めた。
踊ること自体に興味もあまりなかったし、第一女の園にいるのは苦痛だったのもある。近年こそ男性ダンサーが増えてきたとはいえ、まだ小さな教室、特に子供のクラスは女の子が多く、男の子はクラスに一人いるかいないか、若しくは最初から男子禁制だ。そのせいで、何となくダンスからは遠のいていたのだ。
「ロイ先生に成長した姿を見せたいけど……このままじゃダメだわ」
 箸とご飯茶碗を並べると、母はぶつぶつ呟きながらテーブルの方に向き直った。二人で手を合わせ、「いただきます」とおかずに手を伸ばした瞬間だった。インターフォンが鳴った。弓削だ。
 響が急いで玄関の鍵を開けると、予想通り彼女だった。先ほどと同じく、箱を持っている。彼女の顔を見ると、声を失った。言葉が出ない。胸だけは、バスドラムのように、低く、強く、リズムを刻んでいる。
「誰ー?」
 彩の声にはっとする。弓削は変わらない笑顔で、母親を出すように促した。女性の声に気づいた彩が、響の後ろから顔を出す。
「あ、私、隣に引っ越してきました、弓削若葉と申します。これ、つまらないものですが」
 そう言って、彩に持っていた長方形の箱を差し出す。母はそれを受け取ると、仕事用の口角だけをあげる笑みを作った。
「わざわざすみません。ところで弓削さん、随分お若いけど、学生さん?」
「ええ、今年近くの大学に入学したばかりです。色々お世話になるかと思いますが、よろしくお願いします」
 深々とおじぎすると、バレッタをつけた長い髪がさらりと流れる。身長が百七十を超える母も、自分より頭ひとつ小さい彼女に軽く頭を下げる。「こちらこそよろしくね」と母が挨拶すると、弓削は隣の部屋に戻った。
 結局一言も喋ることができなかった。それなのに、呼吸が荒い。心臓が痛い。顔も火照っている。食卓に戻ろうと手足を動かすが、どことなく不自然だ。
 母親は、そんな息子の様子に何か気づいたようだった。
「恋する……女の子……」
「なんだよ」
 母の呟きに、息子が弱弱しく反応すると、「これだ!」と大きな声を上げて、テーブルを叩いた。
「響、あんた、弓削さんに一目惚れしてるでしょ。マセてるわね」
 目を細め、口は薄笑いを浮かべている。「一目惚れ」という言葉に、響は身を固くした。火照った顔が、今度は痛いくらいに熱くなっていく。
「純情ね。可愛らしい少女が目の前にいるみたいだわ」
 薄笑いからちょっと真面目な表情に変え、母がよくわからないことを呟いた。響はまだ何も話せない。もし、自分が本当に彼女に惚れているなら、これは初恋だ。初めての感情をもてあまし、小皿に分けた茄子を箸でつつく。何を言えばいいのか、どう表現すればいいのか、まったくわからない。
 赤面したまま、茄子をいじくる息子。初めての恋に戸惑い、照れ隠しもできない不器用な子供。長いまつげが影を落とすと、かすかに色気を感じる。なまめかしいものではない、爽やかな色気だ。ぼんやりとしている響は、男の子というよりも、恋する女の子の顔をしていた。


「この曲CD発売したんだ。初回限定でゲーム用のレアカードと、ライブのチケットの抽選券がついてくるのか。買おうかな」
 放課後、一度家に荷物を置いてくると、響と壮次は近くのデパートに行った。三階のゲームセンターとオモチャ売り場は、よく遊びに訪れるところだ。いつもは千円以上の高い買い物に慎重な響が、珍しくCDを手にしたところを見て、壮次は目を疑った。しかも、それを買おうと言っている。信じられなかった。
「お前、どうしたの? いつもなら、レンタルショップに並ぶまで待つって言うくせに」
「臨時収入。聞いて驚け」
 響は壮次の耳を引っ張ると、もらった額を囁いた。
「一万?」
「しっ!」
 思わず声に出してしまった壮次の口を、手でふさぐ。一緒に鼻までふさがれ、息が出来なくなった壮次は、響の手を乱暴に外した。呼吸を整えると、響に顔を向け、驚きを通り越して怒ったような口調で問いただした。
「なんでクリスマスでも正月でもないのに、そんな額が手に入るんだ? まさか、悪いことじゃないだろうな」
「バーカ、ちゃんと正攻法だよ。家の手伝いすんの」
「でも、おかしいだろ。何を手伝うんだ?」
 訊ねると、目の前の美少年は少し困った顔をした。悩みながら茶色い髪を耳にかけると、妖精の国の王子様のような、優しく穏やかな微笑を浮かべ、「内緒」とひとさし指を唇の前に立てる。壮次はそんなまやかしの笑顔には引っかからない少年なので、納得がいかなかった。この技が有効なのは、母親以外の大人か、学校の女子くらいだ。デパートにいる間中、壮次はずっと質問し続け、結局、鬱陶しくなった響が観念して、本当のことを話すことになった。
「うちの母さん、教室持ってんだよ。その手伝い。冬まで準備にかかるらしくて、俺も毎晩手伝うことになった。その前払いで一万」
 頭をくしゃくしゃにかきながら、乱暴に言った。正直、どんな手伝いかは聞かされていない。ただ、おいしい話に乗っからなくては損だ。
「家の手伝いなら、俺が余計なこと言える立場じゃないけどさ」
 三階のフロアから下へと続くエスカレーターのベルトに寄りかかりながら、壮次は前置きして言った。
「親との約束ほど、理不尽なものはないんだぜ? あとで後悔しないといいな」
 響は彼の言葉を右から左へ流した。壮次は大げさすぎる。しかし、悪夢の始まりは、ここからだった。


 母親に言われた通り、午後七時半に隣駅から徒歩五分のモダンダンス教室を訪れた。ドアを開けると、まだ廊下に熱気がこもっている。ついさっきまで、練習が行なわれていたようだ。生徒は帰ったばかりで、しん、としていた。
 廊下を通り、教室へ入る。だだっ広いフロアに、長い棒が一本スタンドで持ち上げられ、床に平行に置かれている。鏡張りの部屋の隅には、コンポと大きいスピーカーがあった。母は、その横に立っていた。
「約束通り、来たよ。一体俺は何を手伝えばいいっての? 力仕事なんて言われても、大したことできないから」
 母の前で、堂々と宣言すると、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「あんたには十二月まで、私の『作品』の一部分になって欲しいの。ただそれだけ。いたってシンプルなことよ」
 『作品』と言われ、首を捻る。母はまず、響に自分が持ってきたバッグを渡した。
「まず、これに着替えて」
 バッグを開けると、黒のキャミソール型の全身タイツのような「ユニタード」と呼ばれるものに、同じ色の巻きスカート、それに肌色で後ろがTバックになっているショーツと、いわゆるスキンシューズと呼ばれる、足の指とその裏を覆うものが入っていた。ユニタードを広げ、響は絶句した。ショーツとシューズはともかく、他のものは女性用だ。男性用と言えども、ショーツだって履きたいとは到底思えない。なのにこれを着ろと言うのか。すかさず床に投げつけ、母に反論する。
「バカじゃねぇの! これ、女モンだろ? 女装しろっていうのかよ! 下だって、こんなもん、履けるか!」
 激怒する息子の様子を予想していたかのように、平然と床のものを拾い集め、再び押しつける。
「あんたは私の作品の一部だって言ったでしょ。着なさい、そして、十二月の発表会に出るの。今回の作品は『不完全な少女』。あんたの体のパーツ、不安定な精神状態、それに、淡い恋心。すべてが私のイメージ通りなのよ」
 真剣すぎて恐いくらいの母に、抗おうと響は必死だった。まず、ダンスをやるだけなら、男でもいいじゃないか。なんで女装なんだ。自分は男で、少女ではない。それに、自分は昔、リズム感がなさすぎて踊りをやめたことがある。そんな人間を舞台に出そうなんて、常軌を逸している。
「ただ手伝うだけでお小遣い渡すわけないでしょ。これからあんたには、死に物狂いでダンスの練習をしてもらう。ロイに認めてもらうためには、ありふれたテーマじゃダメなのよ」
 母の言っていることが理解できなかった。あまりにも勝手すぎる。確かに金がそう簡単に手に入るわけない。しかし、女装してダンスの練習を冬まで続けた上に、舞台に立てだと? 男としてのプライドが許さない。
「なんで男のままじゃいけないんだ? 有名なダンサーだって、いくらでもいるだろ」
 母は首を左右に振って、痛いくらいの眼差しを響に向けた。
「『あんたのための作品』じゃないの。『私の作品にあんたが必要』なの。作品をあんたに合わせるわけにはいかないのよ」
 母は、前に言ったかもしれないけど、と前置きをして話し出した。
「私はどうしても先生に認めてもらいたいの。人間としても、アーティストとしても。これは私の意地よ」
 響にはわからなかった。ダンスの教師をしていることは知っていたが、生活のためにしていることだと思っていた。家事はしない。家に帰ったら、ごろんと寝そべって、毎日だらしない格好をしている。仕事のことでちゃんとやっていることと言えば、月謝の計算くらいだ。それなのに、自身を「アーティスト」と言っている。府に落ちなかった。ただの三十過ぎのおばさんが、アーティストと名乗っても笑われるのがオチだ。自分だって、笑ってしまう。ぐうたらな母親のどこが芸術家だ。響は母を軽蔑した。一般人のくせに、なれるわけない芸術家気取りか。
「アホらしい。付き合ってらんないよ。俺、協力しないから」
 黒いユニタードを手にしている母を尻目に、教室を去ろうとしたとき、母は声を張り上げた。
「誰のおかげで生活できてると思ってるの?」
「え?」
 あまりにも冷たい言葉。母の顔は無表情だ。こんな顔、今まで見た事がない。
「私はあんたを捨てることもできるのよ」
 響を見据えて、実の親とは思えない発言をする母に、少年は戦慄した。何を言っているのかわからない。母が、自分を捨てる? 正気とは思えない発言だ。ショックで体が動かない。
「いい? これから週七回、午後七時から深夜十二時まで、みっちり基礎練習してもらうわ。それができるようになったら、振付にいくから」
「ま、待てよ! 俺、リズム感ないんだから、無理だって!」
 声を震わせ、必死でできないことを主張するが、それも無駄だった。
「ええ、リズム感は悪かったわ。他の先生が投げ出すくらいにね。でも、表現力は豊かだったと思う。素質はありそうだから、練習すればよくなるはずよ。これからはスパルタで行くから、覚悟しなさい」
 響は冷淡に言い放つ母を見た。母に捨てられたら、自分に行く場所はない。もう言うことを聞くしかない。額には汗がにじむ。今までどんなにけんかしても、こんなひどい発言はなかった。親として、それが当然だった。母の目は真剣だ。モダンダンスに魂を捧げている。自分が何を言っても、聞いてはくれないだろう。
押しつけられた黒のユニタードをゆっくりと再び広げた。肩の部分は紐だ。キャミソールなんて、男は着ない。それが気持ち悪かった。


「着替えた」
 ウエストの、少しきつい部分を引っ張りながら、フロアに立った。まだ成長期前なので、あからさまに骨ばったり、いかつかったりはしていないが、やはり女の子とは違う。それでも、彩は満足そうにうなずいた。それがなぜかひどく悲しくて、腰に巻いたスカートを下に伸ばした。春のまだ肌寒い夜に、こんな格好をしている自分が情けなかった。
逃げることは簡単かもしれない。でも、逃げた先には何もない。今の母なら、本気で自分を捨ててしまうだろう。鬼のような所業でも、平気でしそうだ。まるで爆弾。こんな母親は初めてで、どう接すればいいのかわからない。
「軽くストレッチするように」
 母に言われるがまま、体育の授業でするようなストレッチ運動をした。あちこちの筋を伸ばす。手首、足首も丹念に回す。母は、自分を十二月の発表会に出すと言った。そのために練習させると。『作品の一部分になれ』と彼女は言うが、自分のような素人にそれができるとは到底思えない。それでも母は本気のようだ。ストレッチする自分を見る彩の目は、いつものだらけた家でのそれとはまったく違った。鋭く、攻撃的な視線。
 一通りこなすと、母が前に立った。メトロノームの音も、隅から聞こえてくる。「真似してね」と言うと、彩は軽く弾み出した。脚の力を抜いて、膝を柔らかく使っている。駆け足をだらしなくしているような状態だ。普段しない、慣れない動きが鏡に映ると、何だか滑稽だった。弾むのをやめると、手を腰に当て、かかととつま先を交互に床につける。リズムに合わせてだ。足の腹を当てていると、「つま先に力を入れる!」とすぐに指導が入る。なかなか素早くやるのは難しい。左右、両足が終わると、今度は上下に小さくジャンプ。
「この次は感覚で覚えるようにね」
 彩は、片脚で立ち、反対側の脚を真っ直ぐ前に上げた。ゆっくり横、後ろと動かし、静かに下ろす。反対側も同じだ。その間、両手は横に広げて、バランスを取っている。真似しようと片脚を上げるが、どうしてもふらつく。仕方なく横の棒につかまって、何とかバランスを取ることになった。脚もあまり長い間は上げていられない。ゆっくり横、後ろへと移動させるのは、案外力を使う。膝も曲がってしまう。左右終わったところで、かなり脚がだるくなった。
 少し脚を休ませようかと思ったら、また母は脚を使い、それを真似ろと言う。今度は片脚を膝の位置に上げ、そこから前、横、後ろへと順番に繰り返す。これも左右だ。さっきまではテンポが速いくらいだったのに、今度はゆっくりになった気さえした。
メトロノームが止められた。鏡に映る自分は、か細くて、小さくて、頼りなく見えた。母は休む間も与えず、響の手をとって、フロアの後ろへ立たせる。
「いい? これから歩き方のレッスンをするわよ。背筋を張って、肩の力は抜く。お尻はしめる」
 母に体のあちこちを直される。今までの普通の歩き方と何が違うというのだ。よくわからないまま、矯正される。
「できたら、そのままの姿勢でテンポよく歩く! ワン、トゥ、スリー、フォー」
 突然大きな音で手を叩かれ、驚く。どうすればいいかわからず、立ち止まっていてもカウントは止まらない。歩くしかない。鏡に向って進むが、手拍子とずれる。それでも母は続ける。できるだけ合うように、早足で歩く。すると、「姿勢!」とすかさず注意される。もう一度、さっき直されたところを意識して、歩き始める。鏡までたどり着いたら、今度は後ろの廊下の方へ歩き出す。鏡と廊下の往復を、五、六回すると、やっと彩の手拍子と歩く速さが合うようになった。やっていることは歩くだけなのに、汗がじんわりと出てきている。
 十往復したところで、カウントが止んだ。響はやっと一息つけると、膝に手をやった。
 水分を取るために休憩を入れたあとは、聞き覚えのあるクラシックに合わせ、スキップとツーステップの練習だ。リズム感がない響には難しい課題だったが、休みも入れず、音楽に合うまでフロアの端から端まで跳んだ。何十回も往復してくると、それなりにはなってくる。少しリズムに乗ってくると、彩は音楽を止め、再びフロアの中心に立った。
「次は足のポジションを覚えるわよ。覚えるまでやるから、真似して体に覚えさせなさい」
 きつく言われると、響は冷や汗をかいた。ポジション? 踊りとは、ただ好きに動いているんじゃないのか? 少年の頭に浮かんだ疑問を無視するように、母は動いた。
「これが足の一番」
 足を百八十度に開いて、左右のかかと同士をつける。真似するが、どうも百八十度に開かずに、バランスが取れない。ふらふらしていても、彩はすぐに次の形に移る。
「二番。一番から、一足分かかととかかとの間をあける」
 これは一番よりバランスが取りやすい。足の間をあけていることで、安定したようだ。三番は、一番から左足のかかとを移動させ、右足の土踏まずの場所につける。三番からは、左右両方のバージョンがあるらしく、覚えるのに混乱しそうだ。四番はZの形になるように、足を平行にする。前足の膝が曲がってしまい、彩に軽く叩かれた。最後の五番は、四番で平行にしていた二本の足を重ねる。これがなかなか難しい。できるだけ右のつま先が、左足のかかとに当たるようにするのは大変だ。
 解説が済むと、彩によってテストが行なわれた。番号を言って、即座にその番号の足の形にするのだ。三番以降は「右の三番」など、左右での違いも出てくるので、すぐに番号通りにするのはきつかった。頭でわかっても、足がついていかない。それでも、今日の分は合格し、またこれは毎日することになった。
 足が終わると、今度は腕だ。足だけでなく、腕の動作にも名前があると知り、響はうんざりした。彩は足を一番にして両腕を下ろし、軽く肘を曲げ、何かを軽く抱えるような体勢になった。背筋は歩いたときと同じように、ぴんとしている。
「アン・バー。これを胃の高さまで上げる。アン・ナバンね」
 ゆっくりと水あめを伸ばすように、腕を開く。指先まで意識されているようで、きれいだ。
「ア・ラ・セゴンドで腕を開くと、腕をゆっくり頭の上へ。アン・オー。覚えた?」
 訊かれても、カタカナ言葉を一回で覚えることは困難だ。足も五番まであるし、その上に腕。すべてがごっちゃになりそうだ。母は、また足と同じようにテストすると、明日も同じように試すと言った。
フロアでの足や腕のポジションを教えると、先ほど使っていた棒のところへ行くように、響に指示した。この棒はバーと行って、ダンスの練習に欠かせないものらしい。
 ピアノの曲が流れる。彩は息子と向かい合うと、片手をバーにかけた。
「一番の足からプリエの練習。プリエは膝を曲げる運動ね。手は片方、バー、反対はア・ラ・セゴンド。三回やったら、グラン・プリエ。膝を深く曲げて腰を沈める。手は水をすくうようにアン・バーを通って前へ、元に戻す」
 プリエはそんなに難しくなかったが、グラン・プリエはどうしても背筋が曲がる。へっぴり腰になってしまう。これも足の形の分だけやった。左右もだ。何度同じピアノ曲を聴いたことだろう。そのあとも、バットマン・タンデュやらジュテやら、一度では決して覚えられないくらいの動きをした。気づいたら、フロアにある時計は十二時を指していた。
「今日はこのくらいでいいわ。明日は今日以上の練習をするから」
やっと彩が勘弁してくれた。その言葉と同時に、床にへたり込んだ。体、特に脚と腕が痛い。明日は筋肉痛決定だ。
 彩がタオルで顔を拭きながら、笑った。悪魔の微笑だ。響は青ざめた。今日の練習が、また明日もある。母親の『作品』になること。それが目的だ。『作品』というからには、こんな基礎だけで済むわけがない。
「ほら、早く着替えて。帰るよ」
 すぐには立ち上がれなかった。明日から、自分はどうなるのだろう。頭を抱えると、腹が鳴った。そういえば夕飯も食べていない。それでも頭では空腹をあまり感じなかった。それよりも疲労がひどい。帰ったら、布団に直行しそうだった。


 学校にはぎりぎりに着いた。母親はというと、家を出るとき、まだ夢の国だった。自分も疲れが取れず、くたくただというのに。
 一時間目が終わり、ぐったりと机に突っ伏していると、壮次が寄ってきた。
「お疲れだなー」
 他人事のように言う壮次を不快に思いそっぽを向くと、彼は「すねるなよ」と笑いながらチョップしてきた。もちろん軽く、だ。一応武道経験者。彼が本気でチョップをしたら、けがをする。
 顔を上げると、壮次を見た。彼になら、すべてを打ち明けて相談に乗ってもらうことも可能ではないか。正直、一人で問題を抱え込んでいると、心が折れそうだった。親から捨てられるなんてショッキングな話、できる人間はほとんどいない。でも、プライドがそれを否定した。昔から女の子と間違われることが多く、それは今も続いている。なのに、女物の衣装でモダンダンスを強制させられていると言ったら、変態だと思われるのではないか。
 じっ、と目を見つめて何も言わない響に、壮次は軽く訊ねた。
「どうした? やっぱり理不尽なこと言われたのか?」
 理不尽を通り越して、脅迫だ。
一瞬右下に目を逸らせてから、響は思い切って口を開いた。ダンスの件はほとんど省いて、手伝いをサボったらとんでもないことになるとだけ説明した。これだけの情報では壮次もすべては理解できないようだったが、それでも頭を捻ってアドバイスをしてくれた。
「何が起こるかわからないけど、一日だけ休んでみたらどうだ? 一日くらいだったら言い訳できるだろ。様子を見るんだ」
「……そうか。そういう手もあるか。ナイスアイディア、壮次」
 静かに納得すると、親指を立てる。そうだ、一日サボってみて、様子を見よう。もし、それで母親が烈火のごとく怒ったら、「体調がひどく悪かった」とでも言えばいい。そして、そのあとはできるだけサボらなければいい。何も言われなければ、ずっと行かなくても問題ないということだ。
 昨晩からの憂鬱が少し楽になると、睡魔が襲ってきた。二時間目のチャイムが鳴り、壮次が席に戻る。響は頬杖をついていたが、そのうち眠りに落ちてしまった。


 家に帰ると誰もいなかった。彩は昼からレッスンだ。響は時間を気にせずゲームを堪能した。午後七時四十分。携帯が震えた。母だ。もちろん無視する。午後八時。今度は家の電話が鳴った。ナンバーディスプレイを見ると、予想通り母の番号だった。居留守を使ってやり過ごす。何度か両方の電話にかかってきたが、結局一度も出ることはなかった。
 午後九時二十分。家のドアが開いた。響は寝たフリをする。母は、どかどかと音を立てて部屋に入ってくる。眠っているフリをしている響を起こすと、その場に正座させた。
「あんた、練習サボったでしょ!」
「ごめん、疲れて眠ってたんだよ。気づかなかった」
 少し無理のある言い訳ではあるが、意外にも母はそれ以上怒らなかった。ただ大きな溜息をつく。
「『一日くらい』って思うかもしれないけど、発表会まで時間がないの。サボってる場合じゃないのよ。私の『作品』が完成しないじゃない。ロイに嘲笑なんて、絶対されたくないのよ!」
 たった一日の練習時間が削られたことに、母親は落胆していた。青ざめて、髪を振り乱しながら嘆いている。――異常だ。ここまで自分の『作品』のできに固執する母が恐くなって、響はおずおずと言った。
「俺には無理だよ、やっぱり。他のもっとうまい生徒にやらせた方が……」
 そこまで声に出して、止めた。母の顔が鬼の形相になっていたのだ。母のご機嫌をうかがうように、冷蔵庫からジュースを出して注いだ。母はコップを持って、一気に飲み干す。一息つくと、乱暴に家のドアを開けて、どこかに出て行ってしまった。そのまま自分は置いていかれたのではないか。不安になって外の様子を見てみると、母は隣の弓削の部屋の前に立っていた。インターフォンを押すと、しばらくしてからチェーンロックが外される音がして、弓削が出てきた。
 白いTシャツに短パン姿。白い肌につい目が行く。
「こんばんは。弓削さん、ちょっといい?」
「え、はい。なんでしょうか」
 彩の殺気に感づいたのか、少し逃げ腰の弓削はドアノブをしっかり持って、いつで閉められるようにしている。それに気づいたのか、ゆっくりといつも使っている笑顔の仮面を懐から取り出して、母は装着した。
「あのね、うちでバイトしない?」
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