二、

文字数 9,000文字

「今日はクッキー焼いてみたんだ。口に合うかわからないけど」
 若葉は、まだ焼き立てで熱いクッキーを皿にのせて、紅茶とともに響の前へ置いた。
「あ、ありがと」
 礼を言うと、若葉は隣のイスに座って笑みをこぼした。その表情にいちいちどきどきする。クッキーが口の中で熱さを主張するが、それを感じる余裕はなかった。口の中より、顔の表面の温度の方が熱いのではないかとすら思った。
 二ヶ月前のあの晩決定した通り、弓削若葉は、加藤家でバイトすることになった。小学校から帰ってきたらおやつを出して、友達の家に遊びに行くようだったら、午後六時までに迎えに行く。六時半には隣駅まで響を送るのだ。仕事内容はただの響のお守りのようだが、彼がダンスのレッスンから逃げられないように彩は他人を巻き込んだのだ。
 響は複雑な気分だった。彩は、自分が小学校に入学すると同時にダンス教室を持った。だから、こうして家に大人がいる感覚が新鮮だった。しかも、来てくれるのは若葉だ。見ているだけで胸がきゅんとする女性だ。嬉しくない訳がない。だが、彼女は響を監視する存在でもある。本人に自覚がなくても、だ。それに、若葉と仲良くなるにつれ、母との距離が開いていくような不思議な気もした。
「あ、カスついてるよ」
 若葉が響の唇の端を触る。ちょっと触れられるだけなのに、緊張して身が固まってしまう。若葉は甘い香りがした。
 彼女を見ると鼓動が早くする。顔が赤くなる。動きが不自然になる。彩は「一目惚れ」と言っていたけど、これが恋というものなのか。少し冷めたクッキーをかじり、隣で一緒にクッキーを食べている若葉は、なぜか楽しそうに見えた。
「若葉さんは、どうしてバイトする気になったの」
 突然質問するとちょっと驚いたようだが、ちゃんと答えてくれた。
「バイト探そうとしていたところだったし、響くんいい子そうだったから、一緒に過ごしたら楽しいかなって思ったんだ」
 彼女の満面の笑顔に、こちらの方が照れてしまう。本音かどうかもわからないが、彼女といると自分は心安らかになる。響にとって若葉といる時間が、大事な時間だと思うようになってきていた。 
 クッキーを食べたあとは勉強を見てもらっていた。苦手な算数を重点に、今日のおさらいを一通りする。家庭教師も兼ねてもらっているのだ。
 若葉の携帯のアラームが鳴る。もう六時か。そろそろ出かける準備をしなくてはならない。行き先はもちろん地獄の『加藤彩モダンダンス教室』だ。準備が済むと、若葉が戸締りを確認して、雨が降る外へと出た。
「ねぇ、私、響くんが踊ってるところ見たいな。ダンス教室まで送っちゃダメ?」
「悪いけど、マジで恥ずかしいから、それだけは勘弁して」
 若葉には、送ってくれるのは駅まででいいと言っている。毎回それでも、響のダンスが見たいとせがまれているのだが、言われるこっちの気分は複雑だ。好意を寄せている人間に、女の格好で踊っている姿なんて、見てもらいたくない。若葉は響が女装して踊ることは知らないので、無邪気にいつもお願いしてくるのだ。それがつらい。
「今日もここまででいいよ。ありがと、若葉さん」
「んー、残念だけどしょうがないね。じゃ、気をつけていってらっしゃい」
 二人は小さな改札の前で別れた。足元が濡れるのも気にせず、彼女が追いかけてこないように、わざと迂回をしてからダンス教室へ到着した。


 出入り口と廊下だけ、蛍光灯で白く照らされていた。緑の傘をたたんで、横にあるステンレスの傘立てへ突っ込む。スタジオの方は、オレンジ色の光で満たされている。その中心にいたのが彩だった。彩は、いつものユニタード姿ではなく、ワンピースを着ていた。裾はホウセンカの花弁のように、柔らかく歪んでいた。
 ピアノの悲しい音色が響いている。彩は、切なく、寂しげな表情で脚を高く上げ、踊る。誰か遠い人を追うような、それでも追いつけないような、そんな振付だ。右腕を前へ出し、鏡の方へ駆け寄るかと思えば、顔を落とし、後ろへ素早く下がる。
 響は声をかけられないでいた。鍵盤の最後の音が奏でられ、曲が終わったときまで息ができなかった。普段の母とは別人の、ダンサーである彩がそこにいた。芸術家を自負する女に、少年は話しかけることを躊躇した。
「あら、響。見てたの」
 廊下に立ちすくんでいた響に気がつくと、彩はすぐにダウンライトから蛍光灯へと切り替えた。白い光の下で見る彩は、いつも通りの母だ。
 汗をタオルで軽く拭くと、彩は響に着替えを急かした。済むと、自分のカバンから、何かを取り出す。
「か、カツラ?」
「ウィッグといいなさい。基礎力もそこそこ上がってきたからね。今日からもう一人の子と組んで練習してもらおうと思って」
「組むって、『作品』は俺一人じゃないのかよ! それに、何でカツラなんて……」
「いいから!」
 無理やり頭にかぶせられ、ピンで留められる。肩までの茶色い髪は、響を完全なる女の子に仕立て上げてしまった。鏡の中の自分に嫌気がさす。しかも、なんとなく母親の面影があるような気がして、余計に腹が立つ。
「もう一人って? どんなやつだよ」
 ぷう、と頬を膨らませ訊ねると、彩は嫌な笑みを口元に湛えた。
「イケメンね。中学一年生よ。普段は夕方のクラスに男一人だから、すごくモテるし。踊りもかなりうまい。あんたと組ませるのがもったいないくらい」
 母の言い方にむっとした響は、「じゃあ組ませなければいい」と呟いた。それを彩は聞き逃さなかった。
「バカね。最高のできにしたいから組ませるんじゃないの。『不完全な少女』は『完全な男』に恋をするの」
 彩は真剣な目で自分の『作品』を語る。しかし、響にはその『作品』の想像がまったくつかなかった。なぜなら自分は男で、男に恋をする可能性は今のところ低いからだ。それに、若葉がいる。完璧な男には興味ないが、若葉に恋をしている可能性なら、ある。そこまで考えて、響は赤面した。
「こんばんは」
 入り口が開くと同時に、変声期特有のハスキーな声が聞こえた。目を向けると、烏羽色の短い髪に、小さい顔のスマートな少年が靴を脱いでいた。少年は彩と響の方へ近寄ってきて、改めて挨拶した。
「彩先生。夜の特別レッスンの機会を作ってくれて、ありがとうございます」
「いいのよ。光太郎がいないと、この作品は成立しないんだから。こっちは私の娘のひびき」
 「娘」という言葉と、「ひびき」という偽名に驚いて、彩を見る。彩の目は、有無を言わせない迫力があった。響は無論、彩には逆らえず、そういうことにしておかざるをえなかった。
 光太郎はまじまじと響を見た。響は、自分が男だとバレるのではないかと内心冷や汗ものだった。同性同士だと、気づかれやすいはずだ。それでも光太郎は、にっこり笑って「よろしくね」と言っただけだった。響は拍子抜けした。


 光太郎がトイレで着替えてきてから、すぐに初めやったときと同じような、基礎レッスンに入った。ストレッチをして、足を動かす。ステップの練習、バーレッスン。すべてが終わるとフロアでのレッスンに移る。
 ダンス用のショートパンツに、黒いTシャツ姿の光太郎とユニタード姿の響は、二人並んで廊下側の方へ立った。彩がまず見本で動く。
 手をアン・バーから開き、右前の五番の足から出発。斜め前に小さく二回ジャンプ。左右の足を爪先立ちで入れ替える。左足が前になったら、今度はその足からジャンプだ。それを鏡の前までピアノの軽快な演奏に合わせてやる。リズム感がなかった響だが、最近では練習の成果か、大分ついてこれるようになった。それでも隣で同じ動きをしている光太郎に比べたら、月とすっぽんだ。彼は体の振りに頭も進行方向にむける。ジャンプのときも、しっかりとつま先を伸ばす。手を抜いていない。彼を見ると、どうしても焦ってテンポがずれる。
三往復すると、今度は次の動きだ。パッセと呼ばれる片脚で立ち、反対側の足を膝の辺りにつける動作だ。大またで斜め前に足を出し、パッセを二回。また足を入れ替えて反対足を前にして五番。バランス感覚も、バーがあるのとないのでは大違いだ。大分慣れたとはいえ、まだふらつく。響の様子を見た光太郎は、苦笑いをしていた。
フロアでのレッスンが終わると、彩は二人に発表会の作品についての説明を始めた。
「ひびきには何度も言ったけど、今度のテーマは『不完全な少女』よ。少女の役はひびき、彼女が恋する完璧な男を光太郎にやってもらいます。動きは、そうね。光太郎が動くと、追うようにひびきも動く。でもすぐに後退する、って感じかしら。大まかな振付は考えたけど、役になりきって、感情を表現してちょうだい。私の想像とかけ離れていたら、注意するから」
 そう言って、まずは作品に使う曲を流す。何という曲かは知らないが、ピアノ曲だ。悲しい旋律がスタジオに響く。同じフレーズが、二回目は大きくなる。余計寂しさや孤独感が際立つ。その哀愁の中に、柔らかなメロディが時折混ざる。三分ちょっとなのに、それ以上の長さを感じた。
 一度曲を聴いたあとは、光太郎のフリを彩が見せる。一度に全部やっても覚えないからと、カウントを取りながら曲の半分までの動きをやる。しかし、意外と彼の動きはシンプルだった。フロアの端から勢いよく走って、両足を開いて跳ぶグラン・ジュテ。着地するとくるっと回って両手で顔を覆う。体を捻り両腕で八の字を描き、一回転し、片脚で立って、足を後ろに上げるアラベスク。ぱっと力を抜き、体を縮め、中腰になる。一拍置いて、ゆっくりと体を伸ばして、直立の姿勢になる。とりあえず、ここまでだ。
 彩はすぐに曲を流して、今度は音楽に合わせて手本を見せる。曲が入ると、雰囲気が変わることに響は驚いた。光太郎は、彩の動きを一生懸命目と体に覚えさせている。
 曲が終わると、光太郎の番だ。彩と同じタイミングで、踊りに入る。彼の動きは、正確だった。体の、手や足の指にまで感情がこもっているように見えた。悲しい曲とズレたように、力強く自信に溢れる動き。光太郎は完璧な男に近づこうとしていた。
 途中で曲を止めると、彩は細かく指導をする。
「キレが少し欠けるから、ひとつひとつの動作にメリハリをつけて。あと感情。まだあんたは普段の少し優柔不断なところを引きずっているわ。『完璧な男』は、偉大で、でも謙虚さも忘れず、良し悪しがすぐにわかる人間よ。次の動きに入る前、迷いを含めちゃダメ。少し自分でもどんな男が完璧なのか、想像してみて」
 彩の指導は難しいものだった。これを自分も要求されるのかと思うと、頭が痛くなる。響の憂鬱に気づかないまま、彩は振りを覚えるように注目させた。今度はいきなり曲に合わせてだ。初心者の響には、カウントを取って覚えさせるよりも、曲に合わせて見本を見せた方がいいと、彩は考えたのだ。ワンテンポ置いて、グラン・ジュテをする光太郎を追いかけるように、フロアの中心に走る。そこで右脚を高く上げる。さっきやった右足を斜め前に出して小さくジャンプ。足の入れ替え。腕を前に出して、体は後ろに引っ張られる感じで後退。アン・オーの形から右手と左手で空気を混ぜるように動かし、五番の足でつま先立ちして一回転。手を開いて、着地。
 響は覚えようと必死だったが、一度では覚えられそうもなかった。それでも音楽は流れ始める。ワンテンポ遅れて走り出す。中心で足を上げる。膝は曲がり、頭が反れて膝につきそうな形になった。無論、つま先や指の先なんて、気にしていられない。足の入れ替えは全部すっ飛ばし、アン・オー。背伸びして一回転。じめっとした気候のせいで、すぐに汗が粒になる。ここまで見ていた彩は頭を抱え、光太郎はついに吹き出した。あまりにも滑稽な動きだったらしい。
 曲がストップし、彩は大きな溜息をついた。
「あんた、柔軟のときはそんなに体、硬くないわよね。なのに、なんで脚が曲がるの」
「なんで、って言われても困るよ。覚えようと必死でも、そうなっちゃうんだよ」
「やっぱ、基礎練習の時間が少ないのかしら」
 彩が恐ろしいことを言った。基礎練習が少ない=増やすと言われているようなものだ。週七回、夜五時間練習しているのだ。それを更に増やされたら、体が持たない。そこへ、光太郎が余計な一言を付け足した。
「俺、彼女に合わせられないですよ。レベルが違いすぎる。初心者クラスから練習させた方がいいんじゃないですか?」
 嘲笑うような上から目線の言い方をした光太郎を、響は思いっきりにらみつけた。しかし、女の姿の自分では迫力がないらしく、光太郎は平然としている。それが尚のこと腹立たしかった。無理やり始めさせられた、モダンダンス。習い始めたばかりだから、下手なのは当たり前だ。大体、うまくなる必要なんて、自分にはない。それでも光太郎の態度が頭にきたのは、皮肉にも少しずつ響にやる気が出てきた証拠だった。


 今日も雨だ。気分がブルーなのは、気候のせいだけではないことが明白だった。光太郎の助言のせいで、彩は響に学校が終わったあと、午後のレッスンも受けるようにと帰ってから言った。若葉にも、放課後はそのまま隣駅まで送ってくれるように、響の了承なしで勝手に告げてしまった。
こうなってしまっては、面白いわけがない。響は、若葉に送ってもらったあと、ダンス教室へは行かず、壮次の家に行くことにした。二回目のサボりだ。一回目は彩がモダンダンスを押し付けてきたことへの怒り。今回は、違う怒りが混じっていた。若葉との時間を削られたこと。それと、光太郎へのいらだちだ。彼の助言が母を動かしたのが不愉快だった。下手な自分より、踊りがうまい光太郎の話は聞く彩にも腹が立った。
壮次に話はついている。反対側のホームへ移動し、地元の駅に行く電車を待った。
 駅から真っ直ぐ歩いて二十分。小さな一軒家に壮次は住んでいた。表札には「井上」と黒い石に白い文字が書かれている。インターフォンを押すと、「はあい」と壮次の声がして鍵が開く音がした。
「よ、悪いな。ともかく、今日は家の手伝いサボるから」
「そりゃいいんだけどさ、もうすぐ兄貴が習い事行くから、ちょっとバタバタするかも。ま、入れよ」
 勧められて、玄関でびしょびしょのスニーカーを脱ごうとしたときである。
「壮次ー、俺のショートパンツは?」
 聞いた覚えのある声。ひょこっと顔を出したのは、まぎれもなく光太郎本人だった。一瞬のことだったので、来客の顔までは見ていなかったらしく、響には気づいていないようだ。それでも急いで顔を隠す。
「父さんが干してたぜ? 俺んとこにはなかったよ」
「ったく、父さんはなんでもやりっぱなしだからな」
 光太郎はばたばたと家を駆け回って支度をすると、響の横を通った。
「壮次の友達? ゆっくりしてってな」
 できるだけ顔を見られないように下を向いてうなずくと、光太郎はドアを乱暴に閉め、駅へと走っていった。
 足音が聞こえなくなってしばらくして、やっと響は顔を上げた。それを壮次が訝しげに見ている。
「どうした?」
「どうしたも何も……!」
 大声で怒鳴ろうとしたところで、やめた。壮次は何も知らなかったんだ。「家の手伝いをする」とは言っていたけど、家の仕事が「ダンス教室」なんて、教えていない。そのまま体の力を抜いて、溜息をついた。
「とりあえず、部屋入れよ」
 そういえば、ずっと玄関だった。響はのっそりと体を起こすと、壮次の部屋に入った。
 

「光太郎とお前、全然似てないじゃないか」
 壮次の顔を見て呟くと、兄と比較された本人は少し困ったような表情を作った。
「そんなこと言われてもなぁ。第一、光太郎は成長期で大分変わったから。俺と同じくらいのときの写真を見ると、結構似てたんだぜ」
 色黒で、ふくよかな壮次は言うが、光太郎は色白でどちらかというと細身だ。それに、筋張っている手脚も長い。認めたくはないが、顔はそこそこイケメンだ。壮次もいずれこうなるのだろうか。
「それより、光太郎とお前、知り合いだったんだな」
 壮次の一言で、響はしまった、と口を押さえた。こうなってしまっては仕方がない。変態と言われようが、正直に言うしかない。壮次ならきっと、わかってくれるはずだ。
 響は、彩との約束をすべて話すことにした。一年間、モダンダンスを練習して、彩の作品として発表会に出ること。しかも女装で。ともに出るのが光太郎ということも話した。壮次は難しそうな顔で、うんうんうなずいてくれている。突飛な話なのに、茶化すような真似はしてくれないので、安心した。
「おばさん、悪いけどちょっといっちゃってるな」
「やっぱ、そう思うよな」
 冷静な第三者もそう言う。やはり息子に女装を強要させ、ダンスの発表会に出すなんて、いかれてる。しかも、出なければ、捨てるとまで宣言している。普通の母親の発言ではない。
「でもさ、なんだかおかしいんだ。無理やりやらされて、ろくなことがないはずなのに、光太郎と一緒に練習してから、どうも胸の中にもやもやが立ちこめてさ。お前には悪いかもしれないけど、俺、光太郎マジでむかつく」
 作った拳を握りしめて、それを床に軽く打ちつける。
 光太郎にバカにされたことが悔しかった。素人なんだから、下手くそで当然。うまくならなきゃいけない義務だって、本当はない。母親の都合なんて、知ったことじゃない。それなのに、嘲笑されたことが不愉快だった。「不愉快」という感情を持つこと自体無駄だということもわかっているのに、なぜ、こんな気持ちになるのか、響にはわからなかった。
 響の様子を見た壮次は、あごをさすって、にやにやと笑った。「なんだよ」と突っかかると、「怒らないで聞けよ」とまずは響を落ち着かせてから話し出した。
「お前は無自覚かもしれないけど、それってライバル心ってやつじゃないかな」
「はあっ?」
 思わず大声を出す。壮次には響の反応は予想の範疇だったようで、そのまま続ける。
「少なからず、二ヶ月間はずっと練習してたんだろ? ダンス歴に差があるのは当然だけど、初めて光太郎って比較相手が出てきたんだ。そこで動揺しない人間の方が珍しいと思うぜ」
「そんなもんか?」
 腕を組んで眉間に皺を作ったまま、壮次を見やると、「それともう一つ」とひとさし指をさした。
「お前は母親を光太郎に取られた気にもなったんじゃないか? ダンスのできない自分より、ダンスがうまい光太郎の方が、母親と親密な関係でやきもちを妬いた。違うか?」
 小さく「うっ」と呻く。あとに続く言葉が見つからない。図星だ。これは嫉妬だ。自分は踊りもうまくない。そのせいで、母親が光太郎に取られた。そんな幼稚な感情が、響の胸を蝕んでいた。正直、今の状態はつらい。このままダンスをやめたらどうなるだろう。彩は自分がいなくても平気そうだ。自分よりうまい、才能を持った子供を、『作品』として育てていくだろう。そうなると、自分は本当に捨てられてしまうのではないか。
「お、おい、どうした」
 壮次が焦っている。頬に何か冷たいものが流れていく。それが涙だと気がつくのに、時間がかかった。自分は泣いているのか。
ティッシュを渡されて、それを拭くと、携帯が震えた。ディスプレイを見ると、若葉からだった。すぐに着信ボタンを押すと、通話口から困ったような声が聞こえた。
「響くん? ダンス教室に行ってないって、彩さんから連絡があったから。誘拐されてるわけじゃないのね? よかったあ」
 怒るわけでもなく、ただ心配していてくれた若葉に申し訳なかった。何も言えないでいると、彼女は意外なことを口にした。
「もし行きたくないようなら、今日一日だけ、体調が悪いって断ってあげるよ。そのかわり、もう二度とこんなことしないでね? 心配するから」
 母は心配してくれないのに、血縁も何もない隣の部屋の女性は心配してくれる。ボタンを掛け間違えたような感覚がする。母よりも、若葉の方がよっぽど母親らしかった。自分を守ってくれる、優しい女性。若葉の温かさに甘えていたかった。でも。
「ありがとう、若葉さん。だけど平気だよ。今日は行く」
 若葉がいるから頑張れる。光太郎には負けない。負けたくない。響は壮次に礼を言うと、再び駅へと向った。


 教室前に着くと、レッスンは始まっているようで、ピアノの音が聞こえた。こっそりとドアを開け、廊下へ滑り込む。二十人くらいの女の子に混じってレッスンしている光太郎が見えた。
 着替えは廊下でしたらまずい。トイレで着替えると、慣れない手つきでウィッグをつけた。
 ピアノの音楽が一段落すると、彩は響に気づいた。
「遅れてきた子はストレッチをしたら、バーレッスンに加わりなさい」
体をほぐすと、挑発的に光太郎の前へついた。振り返りざまににらむと、彼は他の女の子を気にしてか、爽やかに笑うだけだった。それが余計にいらついた。


 レッスンが終わると、生徒たちが一斉に彩の元へと集まった。遠くから見ていると、どの生徒も「今日はどこがまずかったか」とか、逆に「よかったところ」とかを細かく個人的に指導してもらおうと必死だった。響はそれに加わらず、そのまま夜のレッスンに入るため、柔軟体操をしていた。聞き終わった生徒は、廊下で着替え始めている。それを見ないようにするのも一苦労だ。
「ひびきは、指導してもらわないの?」
 声をかけてきたのは光太郎だった。一瞥すると、再び柔軟体操に戻る。彼に何も話すことはない。
「ま、ひびきは彩先生の娘さんだからね。家でアドバイスでも個人レッスンでもなんでもやってもらえるんだし、必要ないか」
 響は光太郎の方を向いた。まるで嫌味だ。今の言葉に反応した女子生徒が、光太郎の方へ寄ってくる。
「え、この子、彩先生の子供なの?」
「うちら、一生懸命指導してもらってるのに、ずるーい」
「あ、そういえば、冬の発表会にも出るって噂、あったよね。光太郎くんと一緒に」
「マジで? 私なんて、今回『出せるレベルじゃない』って断られたんだよ」
「ってことは、かなりうまい訳? だから普通のレッスンも出てなかったんだ」
 女子の嫉妬の視線が痛い。響は思わずうつむいた。一瞬見えた光太郎の顔に、悪魔のような笑みが浮かんでいたような気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み