六、

文字数 23,620文字

 何も変わらず十月、十一月と過ぎ、まるで彩と響の関係のように、空気は冷たくなっていった。毎日学校が終われば、ダンス教室へ。夜は彩が帰ったあと、光太郎とソロの練習。ただ変わったことと言えば、若葉とはほとんど会えなくなってしまったことだ。たまにアパートの階段で会うと、さみしそうに挨拶して、二、三言話しをしてくれるだけ。少し忙しそうだった。彼女はどうやら喫茶店でアルバイトを始めたようだ。
 十二月。雪はまだ降りそうもない。降るのは雨ばかり。雪の方がよかった。ふわりとした優しい感覚はすぐに溶けてなくなってしまうけど、それでも雨より温かい気がするからだ。
 スタジオは外と大違いで、バカみたいに暑かった。暖房の設定温度は二十八度。それに熱気も加わって、冬だというのに夏のようだった。エコを無視した空間は、地球に優しくなかった。
 母とほとんど会話をしていない。それこそ、同じ屋根の下に住む他人。朝、学校に行く時間、彩はまだ眠っている。夜、響が光太郎とのレッスンを終えて帰宅する頃は、発表会のスケジュール管理や衣装制作で、話をする場合じゃない。風呂に入って眠るだけだ。食事代はいつも、ダンス教室に行く前、テーブルの上に置かれている。すれ違い生活が続いていた。
「思うに、ちょっとした虐待なんじゃないかと思うわけよ」
 壮次は真剣な顔で、騒がしい教室の中、静かに言った。
「そうか? 食事代はもらってるし、小五になればある程度一人でできるからだろ」
 宿題を忘れたため、こっそりと授業前に問題を解いていた響は、鉛筆で頭をかいた。
「でも、女装の強制ってどうよ。精神的なストレスだろ」
「もう慣れたし、今更だよ」
 ノートの余白に軽く計算メモを書き、答えをノートに清書する。
 慣れた、と口にしても、どことなく空虚な毎日を送っていた。学校が終わったら毎日ダンスのレッスンを夜中まで。遊ぶ暇もなくなっていた。好きでやっているならいいが、今、響がダンスを続けている理由は他にあった。当初は小遣いをくれると騙されて始めたダンスだったが、今は母と自分を繋ぐ絆になってしまっている。ダンスを辞めることは、母との絆を断ち切ることだ。当初、母は「縁を切ることもできる」と言っていた。それは、本音だろう。
 先週、光太郎に「ダンスは好きになれたか」と訊かれたが、返事はしなかった。自分の体を使って、様々な気持ちを表現するのは楽しい。いい汗をかくのも気持ちがいい。ダンス「だけ」と考えると、好きなのかもしれない。でも、「ダンスを愛する母」は嫌いなのだ。うまく言い表すことはできないが、ダンスに熱中する母、作品の完璧さを求める母が大嫌いだった。
 今日も学校が終わればダンスだ。今月、発表会がある。発表会が終わったら、自分と母の関係は変わるのだろうか。発表会の日が来るのが恐い。ソロのダンスもできあがってきている。本番ではそれをやる。母が指導した、光太郎とともに何ヶ月も何百時間もかけて練習した踊りはしない。どうなるのか、わからない。あと十日。発表会はクリスマス・イヴだ。


 レッスンが終わり、七海がドアの前で母親を待っているとき、光太郎は彼女に声をかけた。響はそれを遠くから見ている。七海は顔を赤らめながら、大きくうなずいた。どうやら引き受けてくれたようだ。
 光太郎はフロアに戻ると頭を押さえた。
「待って。今、自己嫌悪中」
 響が少し待つと、彼は大きく溜息をついて首を起こした。
「好きでもない子の前で、無理に笑顔を作って取り入ろうとするのって、かなり気分悪いな」
 頼んだ響は光太郎に謝ったが、そこまで言われる七海も少しかわいそうだった。
「ともかく話はまとまった。お母さんに言ってくれるって」
「サンキュ。助かるよ」
 二人がフロアで発表会の話をしていると、突然入り口がざわついた。視線を向けると、見覚えのある金髪碧眼の外国人がいた。迎えに来た保護者や、生徒たちが騒ぐ。ロイだ。
ロイ・ウィルソンが教室にやってきたのだ。
「ロイ!」
 彩が曲をかけっぱなしにして、ドア近くで立ち往生している外国人に駆け寄る。生徒たちを押しのけると、ロイをフロアの方へ連れてきた。
「ハイ、彩。何年ぶりだろうね。急に来て、驚いた?」
 ロイはアメリカ人とは思えないほど流暢な日本語で、彩に話しかけた。彩は顔を真っ赤にして、それに答える。
「もちろんです! 前もって連絡くだされば、レッスン風景もお見せできたのに」
「それは発表会まで楽しみにしようと思っててね」
 ロイは遠くから見ている保護者や女の子たちに、手を振る。すると主に保護者がキャーキャー騒いでいた。ウィルソン・カンパニーは、三日後から「くるみ割り人形」を日本で上演する予定だ。ロイもそれにあわせての来日だ。時間が取れたため、急遽彩の教室を訪ねたようだった。
「ところで彩、僕が後継者を探しに来てることは知ってるよね?」
 初恋の女の子のように顔を赤らめていた彩の雰囲気が、一気に暗くなった。静かに、知っていると返事をすると、ロイは笑顔を見せ、すぐ横にいた光太郎に目をやった。足元から顔へ、視線を移す。
「彩、この子がきみの息子かい?」
 その言葉にびくっと体を震わせ、彩は否定した。
「違います。私にいるのはこの娘だけです。息子はいません」
 厳しく強い語調。響は彩に肩を掴まれた。震えていることを悟られないように、強く力を入れる。
 ショックだった。自分の存在を「なかったこと」にされた。なぜそんなことを言われたのかはわからない。だが、母は自分の存在をロイに知られたくないようだった。
 ロイは今度、響をじろりと見た。あごに手を当てて、じっくりと見つめる。
「彼女、父親は?」
「アメリカに留学していたときの彼氏ですよ」
 平然と彩は答えた。響は初耳だった。小さい頃、何度か訊いたことはあったが、いつもはぐらかされていた。それをロイには正直に話した。自分より恩師の方が大切だということか。そう考えると、響はその場から逃げたい気分になった。
「ロイ、それよりこの子の踊りを観て行きませんか? 優秀な生徒ですよ」
 彩は響の肩から手を離すと、光太郎の背を押した。光太郎は驚いたように彩の顔を見る。それもお構いなしで、彩は「去年の発表会のやつね」と指示すると、MDコンポの前に立った。
 響とロイは廊下のほうへ寄り、光太郎は仕方なくフロアの真ん中で、去年の発表会のときの演目「skylark」の振りに入る準備をした。
 ピアノの高音が川のように流れていく。それに合わせて、光太郎は一歩ずつ歩き出す。天井を見上げ、何かを探しているような動き。ピアノの音はゆっくりと奏でられる。テンポが速められると、フェッテ。片脚を大きく上げて、反対足をそれに当てるジャンプ。くるくると回転して、両手を上へ。横に開いて、翼を表現する。後ろに反り、前に脚を上げると腕を羽ばたかせてグラン・バットマン。
「うん、彼いいね」
 ロイは呟いた。それが自分に対して話しかけたのかどうかわからなくて、響は困った。
「この教室で、男の子は彼だけ?」
「そうです」
「おかしいな」
「え?」
「彩に息子が生まれたら、絶対ダンスをやらせるはずなのに」
 ロイの呟きについていけなくて、響はどんどん困り顔になる。すると、ロイは笑った。
「や、彩に息子が生まれたって、昔聞いていたからね。そしたら彼女の息子を僕の後継者にしようって話だったんだよ」
 響は陽気なアメリカ人の顔を凝視した。まったく聞いていないことだ。自分を、ロイの後継者にする? おかしな話だ。自分の弟子の生まれたかどうかもわからない、しかもダンスをやっているかすら知らない息子を後継者にするなんて、不自然だ。それだったら、確実にうまい、自分を本当に尊敬し、自分の表現方法を伝承していく人間を後継者に選ぶはずだ。なのに、なぜそんなことを考える?
「もし、私が息子だったら、後継者にしてたんですか?」
 そう訊くと、少し困った様子でロイは笑った。
「うーん、そうだね」
 腰を屈めて、目線を響に合わせる。
「きみの名前は?」
「ひび……いや、キョウです」
「キョウか。いい名前だね」
 目じりを下げて笑みを作ると、ウィッグの上から頭をなでた。
「後継者にはしないけど、きみとお母さんをアメリカに連れて帰ったかもしれないね」
 温かい手が離れ、ピアノの演奏が終わる。光太郎と彩は、コンポの前で何やら話している。
 突然現れた、このロイという男。認めたくはないし、認めたところでどうなるかわからない。それに確証はない。しかし、様々な要素が答えを導き出していた。


「母さん」
 声をかけても返事はなかった。仕事に集中しているのだ。最近はそれがわかっているから、声をかけることも少なくなっていた。それでも、今日は訊かなければならないことがある。ロイと母、そして自分の関係だ。
「母さん」
 もう一度声をかけると、「何? 手短にね」と顔も見せず言われた。
「俺の父さんのことだけど」
「さっきロイにも言ったの、聞いてたでしょ。留学していたときの彼氏があんたの父さんよ」
「その人って、なんて名前? 何歳だったの? アメリカのどこに住んでたの? 今後、会える?」
 立て続けに質問。さすがに彩もこれにはお手上げで、パソコンの画面から目線を息子に移し、きっぱりと言った。
「それを聞いて、あんたはどうしたいの? これだけは言っておく。ロイはあんたの父親じゃない。それ以外のことは、発表会を終えたら教えてあげるわよ」
 否定すると、母はまたパソコン画面に目線を戻した。
「じゃあ、もうひとつだけ」
「何よ」
 キーを叩くのを止めて、息子に顔を向ける。もう質問はうんざり、と言いたげな表情だ。
「『不完全な少女』と『完璧な男』は母さんがロイに恋をしている踊りなんだろ? なんで俺が女装してそれを踊らなきゃならないんだ?」
 もう何回もした質問だった。彩も溜息をついて、同じ答えを繰り返す。
「あんたのパーツが『不完全な少女』そのもので……」
「いや、違う」
 響は母の目を見据えて、真剣な口調で言った。
「パーツとか以外で、俺じゃなきゃいけないものがあったんだ。これは極端な俺の想像だけど」
 一度切って、自分の胸に閉まっていた答えを取り出す。正解かどうかはわからない。あたっていたとしても恐い。だけど、言わなければ、一生真相は闇の中になってしまうかもしれない。
 目を瞑って思いっきり息を吸ってから、口火を切った。
「母さんの面影。俺、わりと母さんに似てるって今でも言われてるんだけど、母さんの幻影を作中、ロイに見せたかったんじゃないかって」
 母はイスの背もたれに寄りかかり、腕を伸ばした。
「響、ジュース」
「自分で」
「そのぐらいいいでしょ?」
「ダメ」
 渋々自分でグレープジュースをコップに注ぎ、腰に手を添えて一気飲みすると、大きなゲップが出た。
「今のはあきらめのゲップね」
「は?」
「いいわ、全部話してあげる」
 彩はパソコンのデータを保存して、電源を切った。


 彩がアメリカに留学したのは十六歳の頃。偶然、知り合いのコネでウィルソン・カンパニーの入団テストを受けることができた。しかし、何度受けても失敗。「今度落ちたら日本へ帰ろう」と思った十九の夏、やっと入団することができた。
 彩はそれからロイの師事を受け、ダンスのレッスンにすべてを賭けるが、それと同時に妊娠が発覚し、日本へ帰国することとなった。その時のお腹の子が響だが、父親はやはり予想通りの人物だった。
「ロイは、私の憧れだった。だから、生徒と教師の一線は越えちゃいけない。いつもそう思っていたんだけど、一度だけ越えてしまったことがあってね」
 そのあとすぐ、ロイに迷惑がかからないようにと帰国し、一人で響を出産。今までシングルマザーとして育ててきた。
 響が小学一年になった年、ダンス教室を持った。教室オープンを知らせた留学仲間だった人間から「息子がいる」という噂がロイの耳にも入ったようだ。ロイは瞬時に自分の子供だと察知したらしい。すぐに連絡がきて、息子を引き取ると言ったそうだ。彩はそれを断った。
「ロイは自分の血縁の後継者が欲しかったのよ。子供が好きだとか、そんな理由じゃないの」
「それは違うと思う」
 響は先ほどロイが呟いていた言葉を思い出した。
「『後継者がいなくても、俺と母さんをアメリカに連れて帰ったかもしれない』って」
 必死な響を見て、彩は眉間に皺を寄せ、大きく溜息をついた。
「やっぱり子供は親の血を受け継ぐのね。あんた、それ、騙されてるわよ」
「え?」
「『完璧な男』はね、実際には『いない』の。ロイは才能あるけど、女関係は最低よ。で、この年齢になって息子がいないことに気づいて、あんたを後継者にしようと考えたわけ。本当にでまかせがうまいんだから。私をアメリカに連れて行くって言ったのも、そろそろ身を固めようと思っただけよ」
 肩から力が抜ける気がした。結局は彩とロイに操られていたということじゃないか。
「でも、ロイのことは、『ダンサー兼舞踊創作家としては』とても尊敬しているけどね」
 そんなフォローをしても、今の響の耳には入らない。
「それなら……」
「何?」
「それなら、最初っから、俺、ダンス始めなきゃよかったじゃん! 俺の存在だって、隠せただろ? わざわざ舞台に立たせて! 意味わかんねーよ!」
 抗議している途中、涙が出た。この九ヶ月、一体なんだったというんだ。小学五年、やりたいことだってあった。もっと遊びたかった。勉強だって遅れ気味だ。色々犠牲にした自分は、なんだったんだ。すべては親や大人の都合に惑わされていただけじゃないか!
「息子がいるとバレたら、ロイに連れて行かれる可能性があった。でも、私は、あの女にだらしない表面上だけの完璧な男に、立派な子供がいることを認めてもらいたかったのよ。だから、女の子として舞台に上げようとした」
「バカじゃねえの! バカだよ! みんな!」
「そうね。でも母さん、あんたが思っているよりも、更にバカかも」
 彩は久しぶりに響の頭をなでた。響はもう頭の中の整理がつかず、ただ泣くことでしか感情の整頓ができなくなっていた。


 翌日は、故意にダンスをサボった。光太郎には壮次を通して連絡が行っているはずだ。まだ細かい説明はしていないが、やはり自分はロイの息子であるとだけ、手紙に書いておいた。
 隣の家のインターフォンを鳴らす。二回、三回。出ない。今日はバイトなのだろうか。それでもあきらめきれずに、じっとドアの前に座って待つ。耳元で騒ぐ風が冷たい。紺と白のマフラーを、耳近くまで引っ張る。オレンジ色だった空は、いつの間にか澄んだ黒に変わり、北斗七星が強く輝き始めた。
 階段を昇る振動がする。膝にうずめていた顔を上げると、若葉の姿があった。
「若葉さん……」
 顔を見た途端、涙がこぼれる。若葉は困ったように持っていたエコバッグを置き、カバンの中からハンカチを出した。
「どうしたの?」
「やっぱり、俺、若葉さんしか頼れなくって」
 若葉は、細かいことは聞かずに部屋に招きいれた。若葉の部屋は女性らしいというか、少しばかり幼稚っぽいともいうか、ピンクと白、ハートで統一されていた。
カーペットの上のクッションに座るように言われ、その通りにすると、温かいココアを淹れてくれた。
「響くん、嫌いな野菜、ある?」
「にんじんかな」
「了解。みじん切りにするね」
 先ほどから若葉はキッチンに立って、夕食の用意をしてくれている。時計を見た。現在、午後六時。いつもならまだレッスンの最中だ。
 淹れてくれたココアに口をつける。まだ熱く、ちょっとしか飲めないが、甘い温かさがまるで若葉の人柄のようだった。
 しばらくすると、若葉がキッチンから出てきた。
「あとは煮込むだけ。で、どうしたの? 私でよければ相談に乗るよ」
 一度母が「関わらないで欲しい」と言っていたのに、こうも優しい言葉をかけてくれると、つい情に絆されてしまう。響は説明するには難しい現在の状況を、できるだけわかるように話し始めた。
 自分がロイ・ウィルソンと彩の息子であること。
 ロイが自分をカンパニーの後継者にしたがっていること。
 彩がロイに自分を取られたくないこと。
 息子がいることは隠したいのに、優秀な子供がいることをロイにわからせたい彩が、女装させて自分を舞台に出そうとしていること。
「それでも、母さんはロイのことを尊敬してるっていうんだから、余計わけがわからない」
 ちょうどいい温度になったココアをごくりと飲んで、響は眉毛を釣り上げた。聞いていた若葉も、話の内容がやっかいで困っているようだ。
「なんで、彩さんはダンス歴の短い響くんを出そうとしたの?」
「それも、俺に『母さんの面影があるから』ってだけだかららしい。意味がわかんねえ」 
両肘をテーブルについて、あごを手の甲に乗せて考え込んでいる若葉は、ひとつの解答を出した。
「話を聞いて思ってたんだけどね、やっぱり彩さん、まだロイさんのことが好きなんじゃないかな」
「確かに『尊敬』はしてるって言ってたけど、愛だの恋だのとは関係ないんじゃないかな」
「なんだろうな。女の人は男の人が思っているより、複雑なんだよ」
 若葉は、悲しそうに笑った。彼女もそういった複雑な恋をしたことがあるのだろうか。胸がどきんと疼く。この人が悲しいと、自分も悲しくなる。
 鍋が音を立てると、若葉は急いで火を止めにいった。いいにおいがする。今晩はシチューだ。ご飯とともにシチュー皿が運ばれる。にんじんは入っているかわからないほど、細かく刻まれている。
 若葉とともに、手を合わせ「いただきます」と言うと、さっそくシチューをスプーンですくい、口に入れた。熱いが、口が慣れてくるととてもおいしく感じる。忘れかけていた母の味だ。
こうしてコンビニ弁当以外の、ちゃんとした食事をするのも久しぶりだ。がつがつと二杯、三杯とおかわりしてしまった。
「ごちそうさまでした」と皿を流しに持っていくと、今度はデザートにプリンが出た。嬉しいおまけだ。市販のものだが、カラメルソースが多めにかかっていて、響好みの味だった。
「でもさ、若葉さん。俺、このままで発表会終わらせる気、ないんだ」
 デザートを食べ終わった響は、若葉の目を真剣に見つめた。若葉も目を逸らさず聞いてくれている。
「母さんの策略も、ロイの後継者問題も、俺には知ったことじゃない。俺はただ、昔と同じ、ちょっとずぼらだけどのんきな母さんと暮らしたいだけなんだ。だから、発表会は嫌だけど出る。でも、出るだけじゃ済まさない。二人の目を覚まさせてやる」
 勢いこんでテーブルを叩く。スプーンとプリンの皿が宙に浮いた。
「俺は大人たちの操り人形なんかにはならない!」
 熱くなっている響を見て、若葉は驚くどころか優しい笑顔を見せた。
「響くんならできるよ、自分の思ってること。私は応援くらいしかできないけど、何かあったら言ってね? 力になるよ」
「それならひとつ、お願いがあるんだけど……」
 響は赤面して、ぼそりとお願いごとを呟いた。
「発表会、うまくいくか観に来て欲しいんだ」
 お願いごとというほどのものではなかった。若葉は「うん、いくよ」と大きくうなずいて、微笑んだ。


 帰宅すると、母がすでにいた。今日サボったことに関して、何も言わない。それどころかずっと無言でカタカタとパソコンをいじっている。
 風呂に入ってもう寝てしまおうと、側を通ると、「響」と呼び止められた。
「今日サボったことは許してあげる。そのかわり、発表会は最高の舞台にしなさい」
「わかった」
 一言告げると、そのまま布団を持ってソファーに横になった。そんな響の言葉に驚いたのは、彩の方だ。今まで嫌々続けていたダンスだというのに、当日は完璧にこなすことを了承したのだ。


数日後、衣装合わせがあった。といっても、光太郎と響は男。響はいまだ女の子と言うことにはなっているが、一緒に衣装合わせをするのは問題だ。そういった理由で、二人は夜の六時から衣装合わせをすることになった。
「うわあ」
「予想通り、ひらひらだな」
 響に配られたのは、水色のロングワンピースだった。上はキャミソールタイプで、上半身のまったいら具合がよくわかる。さっそくサイズがあっているかと、隣の部屋にいる彩に確かめるよう促され、服を脱いでワンピースを下からかぶる。
「こりゃまたえらく似合ってるな」
「嬉しくない」
 光太郎が冷やかすが、それに返す言葉に捻りを加えることすら億劫になっていた。
「それより光太郎はどんな衣装なんだ?」
「俺のか?」
 ビニール袋に入っていた服を取り出す。上は青いノースリーブのジャケット。下は膝丈の黒パンツだ。
「なんだかもったいないな」
 すごくかっこいいデザインというわけではないが、光太郎に似合いそうな衣装だった。結局彼は、発表会の舞台に上がることはない。すべては響のためにしてくれることだ。光太郎は、「発表会なんて、何度もあるし」と言ってくれてはいたが、やはり響は心苦しく思っていた。そんな折、光太郎が小さく手を挙げた。
「なあ、響。俺、ずっと考えてたことがあるんだ」
「うん」
「お前のソロのダンスの時間を計った。一分二十四秒だ。前の踊りだと、三分十四秒かかってた。要するに、一分五十秒残るんだ」
「それって、どういうこと?」
 状況を把握できず、響は首をかしげると、光太郎はカバンの中からパンフレットを一冊差し出した。
「これは大まかな発表順を示した配布用のパンフなんだけど、裏方用の進行表ってのもある。発表会は、時間通りに大体進んでいくから、もしお前の踊りを発表したら、一分五十秒開きが出てしまうんだ」
「え、でもたった一分でしょ?」
「それだけじゃない」
 光太郎は首を振った。
「パンフレットにも進行表にも載っていない踊りが出れば、運営側はパニックを起こす。一分以上空きがあれば、余計パニックは大きくなるだろう。だから、ここは間を空けないほうがいいと思うんだ」
 つまり、とひとさし指を響の前に持ってくると、光太郎は小声で言った。
「進行表に細工をして、お前のソロともうひとつ、一分五十秒以内の踊りを入れておけばいいんだ」
「でも、その踊りは誰が……まさか」
「勝手だとは思ったんだけどな。それに気づいてから、ずっと振付やってた。俺、やっぱどうしても踊りたいらしいんだ。大人の都合に振り回されている子供をテーマにしてさ。お前がよければ、俺も踊らせてくれないか?」
「お前ってやつは!」
 響は恥ずかしそうに頼む光太郎に体当たりをした。「踊らせてくれないか」なんて、他人行儀すぎる。彼はもうこの発表会に波乱を巻き起こすメンバーの一人なのだ。
「それにしても、もう後戻りはできないな。お前がソロを踊れば、ロイに男だってバレる。そうしたら、アメリカに連れて行かれるかもしれないぞ」
「俺がアメリカでダンスできるほど、才能あると思うか? こっちから願い下げだって。いくら本物の父さんだとしてもな」


 発表会まであと二日に迫った。学校では終業式が行なわれ、ほとんどの生徒がこれからのウインターバケーションに心躍らされていた。
そんな中、響と光太郎、ついでに壮次は、教室での最終リハーサルの前に、若葉の家に寄っていた。
「光太郎くんにもらった去年の進行表とパンフレットを見ながら作ったけど、これで大丈夫かな」
 心配そうに紙の束を響に渡すと、光太郎はそれを一枚取ってチェックした。
「うん、大丈夫です」
「光太郎、これが偽の進行表?」
 壮次はパンフレットと交互に進行表を見た。
「なあ、進行表の方、光太郎の踊りと響の踊り、まだタイトル空白じゃん! これってやばいんじゃないの?」
 パンフレットには大きく『imperfect・perfect』という彩のつけた二人の踊りのタイトルが記載されている。
「どうするんだ? これ、ないと困るだろ」
「困らないよ」
 光太郎が自信たっぷりに言う。その場にいる誰もが彼の自信の根拠がわからず目を丸くしていると、彼は若葉を指差した。
「お願いできますか? 若葉さん。当日のナレーション」
「え、ええ? 私が? いいけど、彩さんがなんていうか……」
「あ、それは平気だと思うよ」
 響が口を挟んだ。彩は大抵、発表会の日は来客への挨拶などで、ほとんど裏方にはいないと言っていた。更に、今回はロイが来る。ともなれば、ほとんど客席側、もしくはロビーの方にいると推測できる。
「だけど光太郎、ナレーションしてもらうなんて、よくうまくことが進んだな」
 壮次が突っ込むと、光太郎は苦虫をつぶしたかのような表情を出した。
「七海のお母さんが毎年やってたんだけど、ナレーションをやってると、自分の娘をじっくり観ることができないだろ? だから七海に言って、今年は俺の知り合いに頼みましょうかって提案した」
 じっくり観るほどの踊りでもなかろうに、と毒舌を吐くのも忘れない。
以前はさほど七海のことを嫌っている節はなかったのだが、清里から帰ってから、七海を中心とした女子全員と、光太郎は距離を取っていた。なぜかとたずねたら、キャンプファイアのときに、三人別々に告白してきたらしい。それを全員断ったら、「ひびきとできてる」と騒ぎ出した。それで女の世界にうんざりしたというわけだ。
「でも、タイトルはどうするんだ? 結局決めないとこまるだろ? だけど、自分でなかなか付けられないよな、こういうの」
「そうだな、それなら俺が付けるよ。それを当日若葉さんに発表してもらう。当日までのお楽しみだ」
 最後の教室リハーサルが終わると、光太郎と響はそのまま若葉の部屋へ行った。彩は、これから本番まで、ほとんど家に帰らないと言っていた。発表会が行なわれる、「川田市民リリアンホール」の近くのビジネスホテルで過ごすらしい。気合の入り方が例年より違っていた。これもロイ効果だろう。
 若葉の部屋には、すでに壮次もいた。四人で囲む食卓は、いつもより騒がしくて、楽しくて、時間を忘れさせてくれるようなものだった。


 発表会前日。衣装を着ての通し稽古が行なわれる。場所はリリアンホールだ。リリアンホールは収容人数二百人ほどと、小さなダンス教室の発表会としては、客席が多い。灰色のマットを敷いた舞台に、ガムテープで印を付けていく。当日はこれを目安に自分の位置を把握するのだ。
 光太郎と響は、着替えの関係で他の生徒より遅めにリリアンホールに入った。廊下はきらびやかで派手な衣装を身にまとった女の子たちで、すれ違うこともままならない。それでもやっと荷物置き場までたどり着き、今度は舞台へ向う。
 今日は衣装を着て、一部からすべての踊りを実際にやる。一曲目に出る生徒は、すでに舞台袖で待機、他の生徒は客席で見学だ。彩が指示を出して、練習が開始された。
 第一部の一曲目は普段の基礎練習風景。園児クラスの子供たちが、かわいいピンクのリボンが付いたチュチュを着て、舞台の上を走り回る。客席にいる保護者は、自分の子供がかわいい格好をして踊っているだけで満足そうににこにこと笑っている。
「今はいいよな、素直に親の言うこと聞いて、習い事やってるだけだから」
 響が前の背もたれに両腕を乗せて文句を言うと、光太郎は苦笑いした。
「そりゃお前はそう思うんだろ。俺みたいに好きになる子もいるかもしれない」
「だけど、あの保護者たちは引くだろ」
 本番は明日。まだ通し稽古だというのに、ビデオを回して子供を追いかけている母親がいた。
「本番はビデオ、カメラ撮影禁止なんだよ。プロが撮るから。でも、プロが撮るとなると、平等に全員を写さないとまずいだろ。自分の子供ばっかり写してもらいたいけど、他の子供も入ってしまう。だから、親御さんは今日が本番みたいなもんなんだよ」
「ふうん」
 説明を細かにしてもらったが、その気持ちは到底わかるものではなかった。自分の子供がかわいいのはわかるが、ここまでくると親バカなだけじゃないか。響は内心呆れた。
 子供たちが退散すると、次は小学校低学年の群舞だ。四、五人の合同の踊りで、息がぴったりあっていないときれいに見えない。
 兵隊の格好をした四人の女の子たちが舞台へ上がる。この子たちのモチベーションには明らかに差があった。やる気がある子は真剣に、ない子はせいぜい恥をかかない程度にと手を抜いているのがわかった。
「大体、今日が発表会じゃないんだから、手を抜いてもそれは間違いじゃないよな」
 響が呟くと、光太郎が軽くウィッグの上から頭を叩いた。
「バカ。練習で手を抜くようなやつが、本番もうまくいくわけないだろ?」
「だからって、叩くことないだろ」
 兵隊たちのマーチは、小太鼓の音に合わせて脚をきれいに四人ぴったりの高さに上げなくてはならない。それが発表会前日でもバラバラで、揃っていない。
「出ることに意義があるってやつもいるだろ。それでいいじゃん」
 響は投げやりに言った。
 小学校低学年までは、親と本人の意志を尊重して、出たいと希望した生徒はできるだけ全員参加できるようになっている。問題は高学年からだ。発表会に出るには、彩の厳しい審査を受けなくては出ることができない。但し、例外はある。七海や澪、湊のように親が金持ちで何かとプライドが高い家柄の娘たちは、「出たい」と志願すれば出ることができる。すべてが大人の事情だ。実際出たところで、舞台で恥をかくだけなのだが、それでも本人たちはそのことに気づかない。
 兵隊たちのマーチが終わると、響と光太郎は客席を出てきてしまった。踊りを見ているのも面白いのだが、保護者が移動して写真や動画を撮るので、ゆっくり観ることができないのだ。ロビーには、響たちと同じく暇をもてあました高学年の女の子たちが集まって、談話していた。
「げ、七海」
「あ、光太郎」
 七海は上半身に肌色のタイツ、その上にタオルみたいな布を胸に巻き、下半身はわかめみたいな水色の紐がたくさんついていた。
「七海、人魚……だっけ?」
 響が訊くと、少しにらんで「そうだけど」と返事した。残念ながら、人魚の衣装には見えない。
 他にも澪と湊もいた。澪はキューピッド、湊は赤いスパンコールのベストに蝶ネクタイのマジシャンのような格好だ。澪と湊は七海ほどわかりづらい格好はしていなかった。二人とも光太郎を見てもじもじしていた。そう言えば、光太郎は三人に清里で告白されているのだ。
 光太郎は少し距離を置いて付き合おうとするが、七海はこの間光太郎に頼みごとをされてから、自分だけは特別扱いしてもらっていると勘違いしていた。
「例のもの、ママから受け取ったから、あとで渡すね」
「ありがと。あ、それとさ、澪」
「えっ、私?」
 突然光太郎に呼ばれた澪は、顔を赤くして体を振るわせた。余程驚いたのだろう。それを見た七海は顔を引きつらせた。特別扱いが自分だけじゃないことに気づいたらしい。
 光太郎は、カバンに入れていた偽の進行表の束を澪に渡した。
「これ、今朝渡す予定だったんだけど忘れててさ。彩先先生から預かってた進行表。あしたはこっちの方で進めるからって。大した違いはないんだけどね」
「え……でも、ここ、空欄あるよ?」
 澪が心配そうに光太郎と響が踊る箇所を指した。まだタイトルは未定なので空欄にしている。光太郎は、嘘くさい笑顔でごまかした。
「あ、それは大丈夫。踊りは変更前の『imperfect・perfect』で変わってないから。ともかく、今日はもう手遅れだから、明日の朝にお母さんに配ってもらって」
 明日の朝というのがみそだ。今日配られて、変に勘ぐられては困る。
 湊がそわそわと光太郎に声をかけられた、七海と澪を見た。持っているパンフレットを胸に当てている。二人に声をかけたんだから、自分も当然のように何か声をかけられるのではないかと期待しているようだ。きらきらと光太郎へ視線を送る。それに気づいたらしい光太郎は、一瞬うっとうしそうな顔をするが、すぐに笑顔に変えて「発表会頑張ろうね」なんて心にも思っていないことを口にしていた。湊はそれだけで顔をリンゴのように赤くしていた。当然ながら、他の二人からは冷たいオーラが出ている。表面上は仲良くしている女の子同士でも、裏はまったく違う。響はぞっとした。
 よいタイミングで休憩のアナウンスが入った。ひとまず控え室で昼食だ。光太郎はその場を離れようと、響の腕を引っ張った。すると三人娘は響の反対側の腕を取る。
「あの、何してんの、みんな」
 響が訊くと、光太郎はあっさりと言った。
「昼飯、一緒に食べるだろ?」
 それはもちろんそうしたいのだが、なぜか女子三人組まで響の腕を引っ張っている。
「私たちも一緒よ。たまにはひびきと一緒に食べてあげようかなあって思って」
 あくまでも上から目線だ。ひびきと食べたい理由は、どうせ光太郎との仲を根掘り葉掘り聞くためだろう。安易に想像がつく。
「ひびき、俺と食べるよな」
「やっぱり光太郎、ひびきのことが好きなの?」
 これだと清里の二の舞だ。響は大きく溜息をつくと、いつまでたっても腕を離そうとしない両者に、自分から離れるように言った。
「俺は光太郎と食べる。お前らと食べると、はっきり言って疲れる!」
 かわいらしいお人形のような顔のひびきは、思いっきり男言葉で断言した。
「女同士の付き合いなんて、所詮上っ面だけだろ? それだったら、最初っから光太郎と二人で食ったほうがマシ。そういうわけだから」
 それだけ言い残すと、響は光太郎に再び腕を引っ張られて、控え室に向った。残された三人の少女は、悔しさと寂しさの入り混じった複雑な表情で二人を見送った。


 午後一時から始まった第二部は、主に高学年の子がメインで、魔法の世界や物語の主人公をモチーフにした踊りが多い。レベルも高くなるので、見ごたえがある。子供が見てもわかりやすく、楽しい構成になっているのだが、最後に控えている響と光太郎の『imperfect・perfect』だけは異彩を放っていた。彩の本当にダンスで表現したいものは、子供がかわいらしく見える踊りではない。自分の心の内を表現したいのだ。だが、それだけで芸術家は食べていけない。大衆の望むものと、自分が示したいものの折り合いをうまくつけていかなければいけない。だから彩は、わがままだと思っていても、ラストにこの踊りを入れたのだ。
 七海の人魚、澪のキューピッド、湊のマジシャンはともかく、他の子供たちの踊りの評価は、なかなか保護者からは高評価だった。しかし、光太郎と響の踊りは、意見が割れた。
「やっぱり先生のお子さんだから出したかっただけよ」
「大してお上手とは、言えないんじゃないかしら」
「ダンスを始めたのも、今年の四月からですって」
「光太郎くんはさすがにうまいわね、彼のソロにすればよかったのに」
「先生は一体、この踊りで何を表現したいのかしら」
 通し稽古であり、まだ本番ではないため、踊っている途中もピアノの音に混ざって保護者の雑音が聞こえてくる。
 自分が本当にうまくなったのかはわからない。光太郎は「大分上達した。七海たちよりはうまい」と言ってくれたが、それは光太郎から見ての意見だ。他の大勢の人から見たら、まだまだだと自覚はある。それに、結局この踊りのモチーフである『不完全な少女』の気持ちも最後までわからなかった。母が、ロイに向けていた恋心。女性にだらしがないが、教師としては尊敬していると言っていた母は、実際今彼のことをどう思っているのだろう。
 光太郎と舞台の真ん中で交差する場面だ。リズムに合わせて走りこむ。ふと、光太郎の顔が見えた。苦悩の表情。彼の顔からは、『完璧な男』が持つ自信はなかった。この踊りは発表会では踊らない。それでも練習には真剣に取り組んでいた。そんな彼が、今になって手を抜くとは考えられない。
曲が終わると、舞台中心で礼。そのまま舞台袖で響は光太郎の肩を掴んだ。
「どうしたんだ? この曲、本番で踊らなくても真剣に練習してたのに」
 光太郎は苦しそうに息を吐きながら、答えた。
「彩先生が言っていたことがわかった。『鉛筆の先をどんどん削って、鋭くする』。すると鉛筆はどうなる? 折れやすくなるだろう」
「ああ」
 恐いくらい真剣な瞳で熱っぽく語りかける光太郎に、響はうなずくことしかできずにいる。光太郎は息を大きく吸うと、響の茶色い目を見つめた。
「『完璧になるほど、もろくなる』ってことだ。だから、完璧になっちゃいけない。いつでも完璧を目指すことの方が重要なんだ」
「もしかして、母さんはロイのことをそこまで見ていたってことなのか?」
 舞台袖から、全体をチェックするために客席真ん中で仁王立ちしている母を見た。今日はいつもの練習着でも、家にいるときのようなジャージでもない。パンツスーツをしっかり着こなしている。
 照明や背景に指示を出す母は、ただのぐうたらな母でも、「芸術家」という言葉に固執する三十代ダンサーでもなかった。ひとつの大きな作品を仕上げようと試行錯誤する、本物の芸術家そのものだった。


 リリアンホールの屋上は立ち入り禁止ではあるが、警備は手薄だ。鍵を開ければ簡単に外に出ることができてしまう。響と光太郎は立ち入り禁止の札を無視して、ドアを開けた。
 外は木枯らしが吹いている。照明を浴び、踊ったおかげで汗ばんだ体は、着替えたあとでもまだ暑かった。木枯らしの冷たさも感じることはない。
 紺色の澄んだ空に、白くて丸い蛍光灯がいくつか光っている。下を見ると、三車線の道路に、車が一台だけ走っていた。
「明日か」
「明日だな」
 屋上のフェンスに腕を乗せて、感慨にふける。この九ヶ月間、長かった。嫌というほどダンスに熱中させられた。ダンス以外でも、母親に踊らされた。それも、明日で終わる。結末は想像できない。母を裏切って、光太郎も自分も、自分の表現したいことを自由にダンスという形にして発表する。ロイに自分が息子だと舞台で暴露する。母は自分をどう思うだろう。自分の作品として作り上げた人形に、最後は逃げられてしまう悲しさ。だが、それは違う。もともと自分は人形じゃなかったのだ。もしかしたら本気で絶縁されるかもしれない。それほど母は、この作品に入れ込んでいた。その理由は明白だ。自分がずっとできなかった告白を、自分の面影を持つ息子にさせたかったからだ。ロイは母の気持ちに気づくことなく発表会を終える。母の思いは秘めたままで終わる。
「母さん、ちゃんとロイに伝えるかな。自分の気持ち」
「さあ。あの人も響と同じ間違いをしているだけなのかもしれないぜ?」
 光太郎がわかったような口を聞く。光太郎だけ知っているのがしゃくだったので、げんこつでこめかみをごりごりした。
「ど・う・い・う・意味だっ! 俺にもわかるように言えよ!」
「だーから!」
 光太郎は響を力づくではがすと、こめかみをさすりながら説明した。
「響は若葉さんに恋心を抱いてると思っていた。それと同じだ。彩先生は、尊敬と恋愛を混同しているんだ」
 光太郎の言葉は的を射ていたが、響には実際の母の気持ちが余計わからなくなってしまった。
「母さんは結局、ロイのこと好きなの?」
「それは誰にもわからない。彩先生自身もわからないかもな」
 二人はもう一度空を見上げた。飛行機の音が耳をかすめ、点滅するライトが見えた。


 彩にはバスで来るように言われていたが、響は光太郎、壮次とともに若葉の運転する車を足にした。若葉は今日のために、また車を借りてくれたらしいが、運転技術は相変わらずで、裏口に到着すると同時に三人はドアから転げ落ちた。
「若葉さん、教習所行こう。それがいいっすよ」
「光太郎くん、失礼ねえ。壮次くんは平気そうなのに」
 壮次は平気なのではなく、顔面蒼白で喋ると吐きそうだったので、口を開けないだけだった。二回目の響も同様だ。
 四人は車を降りると、周囲をうかがった。誰もいないことを確かめると、一気に光太郎の控え室まで走る。光太郎は相変わらず男子一人のため優遇されていて、控え室も小さいながらも一人で一部屋使わせてもらっていた。
 部屋に入ると、光太郎はさっそく今日の進行表とナレーション原稿を取り出した。ナレーション原稿は七海の母親からゲット済みだ。
「若葉さんは第一部からこの原稿を舞台袖から読んで。休憩中はここ集合。響、彩先生の動向はわかってるか?」
「多分、ロイは午後から来る。第二部はずっと客席かロビーにいると思う。第一部はどうかわからない」
「じゃ、壮次」
「え、俺?」
 突然呼ばれた壮次は、まさか自分もこの作戦の一員に加わっていることになっているとは知らず、目を大きく見開いた。
「壮次は第一部、もしナレーションブースの近くに彩先生が来たら、『誰かの保護者が呼んでましたよ』とでも言って、どっか遠くへ追い出せ。第二部は舞台袖で待機。俺の踊りが先だから、すぐに異変に気づくだろう。そしたら実力行使だ」
 実力行使、という言葉に、若葉はびっくりして大声を上げる。
「いくら彩さんが女性で、壮次くんが小学生にしては大柄だって言っても、無理あるんじゃない? 彩さん、結構身長あるでしょ?」
 暴力を振るうことには反対していないらしい。それよりも、実力行使が成功するかどうかを心配しているようだ。壮次はひとさし指を左右に振って、にんまりと笑った。
「合気道は相手の力を受け流す武道なんだ。だから、おじいちゃんがマッチョをふっとばすこともできる。俺だって、道場じゃ下手なほうだけど、一般人相手なら負けないよ?」
「というわけで、警備は壮次に任せて! 十時になったら最終リハーサルだ。リハーサルは七海のお母さんがナレーションしてくれる。一応、声優の卵に依頼したって話にしといたから」
「え!」
 ハードルがぐんと上がり、若葉がうろたえる。それを知ってか知らずか、光太郎は指示を続けた。
「開場時間の十二時半になったら、若葉さんは舞台袖の音響ブースに来て。じゃ、解散!」
「おう!」
 どういう結末がハッピーエンドかわからない。それでも前に進むしか、答えは出てこない。四人のミッション開始ブザーが頭の中で鳴り響いた。


 保護者の方々から濃い、舞台独特のメイクをしてもらうと、最終リハーサルだ。今更踊りをどうこう言ってもしょうがない場面に来ている。それでも彩は、細かい入念なチェックを怠らない。第一部のリハーサルが終わり、小さい子たちが舞台袖を駆け回る。それと入れ違いに小学生クラスが舞台に上がる。第二部の最終リハーサルだ。七海、澪、湊も、さすがに緊張しているらしく、口数少なく列に並んでいる。順番に舞台に出て、曲を流す。流れ作業のようだ。それでも彩は的確に指導する。チェックが終わるとすぐ次に移る。
 最後の響と光太郎の番が来るまで、時間はさほどかからなかった。だが、二人は舞台に出ようとしなかった。
 舞台袖から大声で彩を呼ぶ声が聞こえた。
「先生! 『imperfect・perfect』のMDがありません!」
 彩も舞台を通り、袖の音響ブースに来て探すが、見つからない。当然だ。響が前日、ブースからMDをちょろまかしておいたからだ。
「困ったわね。すべてここで管理してたはずなのに」
「彩先生、俺、控え室に予備のMDありますけど……」
 静かに挙手する光太郎に、彩は目を輝かせた。
「ナイス、光太郎。じゃ、それ持ってきてくれる?」
「いえ、一度戻ると時間がかかりますから、リハーサルを先に終わらせた方がいいんじゃないですか?」
 周りには、踊りが終わって最後のペアの二人を待っている人間が多くいる。彩は仕方なくそれを了承した。
「いいわ、曲なしでやりましょう。ひびき、できる?」
「さすがにもうできるよ」
 響はむっとした。以前は極端にリズムの取り方が下手くそだったが、さすがに九ヶ月もダンスをやっていれば、普段踊っているものなら慣れる。
「カウントから入るわよ、ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイト」
 そこから光太郎が飛び出す。舞台袖から走り、中心でグラン・ジュテ。光太郎を追いかけて、響も走り、右脚を天井高く上げる。着地と同時に自信がみなぎる。近づこうと小さくジャンプ。両腕で八の字を描き、自分の権力を辺りに示す。前に行きたいのに、行けないもどかしさ。力強いようで穏やかに一回転。右腕と左腕で迷いを表す。ブレのないアラベスク。しかし、すぐに力を抜き、体を縮める。完璧に見えるようで、完璧じゃない。完璧になろうとあがくが、先が見えない。そんな彼から遠ざかって、回る。手を開き、彼を受け入れようと決め、着地。 
 最後の方はもう覚えていない。この振りを踊るのが最後だと思うと、精一杯やりたい思いが暴走した。最初は踊りたくて踊ってたんじゃない。覚えたくて覚えたんじゃない。練習なんか大嫌いだった。それでも踊ることで何らかの成就感を得ることができた気がする。
 踊りが終わると、一礼してはけた。リハーサルは終わりだ。彩から特に何か言われることはなかった。これが今自分たちのできる、『母の踊り』だ。


 リリアンホールの重い扉が開けられた。生徒の父兄や親戚、友人が座席を黒く埋めていく様子が、控え室に備え付けられているモニターでわかる。
「やだ、どうしよう。緊張してきちゃった」
 若葉が今になって焦っている。メガネを装着し、生徒の名前で読みにくいものを光太郎に聞いてメモしているところだ。
「光太郎くんも響くんも、よく平然としてられるね」
 ナレーションの原稿を片手に、若葉はモニターを眺めている二人を見た。
「だって、光太郎は慣れっこだから。結構こいつ、舞台出てるんだぜ」
 壮次が横のソファーから口を出すと、光太郎が「まあな」と相槌を打った。
 響はというと、初の舞台ではあったが、まったく緊張していなかった。むしろ恐いくらい冷静だ。ここに集まっているほとんどの人間は、生徒の関係者で、母の振付を観にきたわけじゃない。かわいらしい衣装に身を包み、かわいい踊りをする生徒を観にきているのだ。彩はきっとそれを知っている。芸術ではなく、商いとしてダンスをしているから、当然のことだ。だが、今回はわかってくれる人が来る。それがロイだ。自分はそれを裏切って、本当に表現したいことをダンスに込めて踊る。罪悪感がないといえば嘘になる。でも、本当に自分の言いたいことを、伝言ゲームのように人に伝えさせるのはやっぱりおかしい。母の振付は、母の強い思いがこもっている。これは彩自身の手でロイに伝えないといけないのだ。
「開演十分前だ。若葉さん、頑張って」
 光太郎がぶつぶつ呟きながらドアを開ける若葉を励ました。その後ろから警備役の壮次がついていく。
「ま、なんかあったら任せろ」
「あんまり大事にするなよ」
 光太郎への返事のかわりに、右手挙げてひらひらと合図した。


 若葉の注意事項アナウンスが終わると、開演のブザーが鳴り響いた。いよいよ発表会だ。とはいえ、第二部まで特にやることはない。できることと言えば、ストレッチ程度のことだ。練習するほど、控え室は広くない。かと言って、廊下は女子たちでいっぱいだ。出番を待つ子供や、入れ替えに舞台に出る生徒でごっちゃになっている。下手に外に出るより、控え室でモニターを見ていた方が安全だ。
 若葉のアナウンスも安定している。当日ぶっつけ本番でやっているとは思えないほどだ。また、トラブルも今は何も起きていない。気になることは、ロイが来る時間くらいだ。
 響は小さなテーブルの上に置いてあるものに目をやった。
「これ、本当に使うかな」
「使わなかったら意味がない。俺たちの気持ちも、彩先生の気持ちも、誰にも届かないで終わる」
 クールな口調で光太郎は言った。その通りだ。今まで何のためにダンスを続けてきた? 嫌だったダンスも、後半は光太郎にも手伝ってもらって、オリジナルの、自分の気持ちを込めた振りを踊れるようになったじゃないか。
母は焦っていたのだ。自分の息子を取られるのではないかと。また、自分の恋心を忘れられてしまうのではないかと。だからこんな手の込んだことをしたのだ。でも、もういらだちは感じない。ただ、すべてがうまくいけばいい。そう思うしかなかった。


 第一部が終わり、若葉が一度控え室に戻ってきた。
「うわあ、緊張する! お茶ある?」
「はい」
 響がペットボトルを渡すと、若葉はごくごくと喉を鳴らして一気に半分くらい飲んだ。壮次は警備役と言っても特に異常もなかったようで、舞台袖からダンスを観ていたらしい。
「ダンス観てたのはいいけど、彩先生がどこにいるかはちゃんと把握してるか?」
「もちろん。客席の一番後ろの舞台から見て右ドア付近。ロイって外国人はまだ来てなかった」
 なんだかんだ言って、きちんと仕事をしている壮次に、響はつい余計な一言をつけてしまった。
「お前、ぼーっとしてるやつだと思ってたけど、しっかりしてるんだな」
「そういうお前は女顔だと思ってたけど、本当に女装が似合ってるからすごいよな」
 一瞬ピリッとした空気が流れたが、二人一斉に吹き出した。
「やだ! みんな、もうすぐ二部始まるよ! 私、先行くね」
 時計を見た若葉が、勢いよく席を立った。ドアを開けようとした彼女に、壮次がMDを投げた。
「若葉さん、肝心のもの、忘れてる!」
 それをキャッチすると、若葉は急いで舞台袖の音響ブースに走る。壮次もそれを追って、廊下を走っていった。
「さあ、俺たちも行くか」
「泣いても笑っても、本番一発勝負だ!」
 響と光太郎は背を思いっきり伸ばすと、真剣な目でお互い見つめあった。


「キューピッド 渡辺 澪」
 タイトルと名前が流れると、曲が始まる。第二部のトップバッターは澪だ。一番目ということで多少緊張しているらしく、動きがぎこちない。音を追うので精一杯のようだ。それでも踊りきると、客席から大きな拍手が送られた。舞台で踊ることに意義があるのだ。いわゆる度胸試しにも通じるところがあるのかもしれないと、響は思った。
 第二部は本当にうまい生徒と、コネで出ている生徒の差が激しく見える、シビアな世界だった。舞台袖から客席を見渡すと、大勢の客。先ほどまで、まったく緊張がなかったのに、今更膝が笑い出した。
「ひびき! あんたまだ着替えてないの?」
 七海が例の、説明がないと人魚に見えない格好をして、響の肩を叩いた。
「あ、ああ。最後だし、すぐに着替えられるから」
 ウィッグだけはまだつけていたが、実際舞台には今着ているTシャツとショートパンツで出るつもりだ。余計な詮索はされたくない。
「それより七海、次だっけ。頑張れよ」
「あんたに言われたくない」
 気の強い嫌な女だ。よく澪や湊は彼女と一緒にいられるな、と感心してしまった。こんな性格だから、光太郎も逃げ腰なのだろう。
 気の強い女は、名前を呼ばれるとまるで自分が主役のように、舞台へ歩いていく。踊りは下手なのに、度胸だけは一人前だ。膝が笑っている状態の響は、少し彼女を見直した。
 響は気分を落ち着かせるために、一度光太郎の控え室へ戻ることにした。光太郎は舞台袖で、自分の発表を今か今かと待ち構えている。彼は輝いていた。


「ふう」
 溜息とともに、重苦しかったウィッグを外す。茶色い髪をくしで整えると、自分の格好をまじまじと見た。光太郎は青いジャケットに黒いパンツ。それに比べて自分は。本番直前だというのに、今になって衣装がしょぼい気がしてきてがっかりした。もう少し考えればよかったのだが、何せ舞台初心者。着る物がわからなかった。自分の着替えが入っているカバンを開けてみる。ワイシャツと黒いパンツ、黒いネクタイ。一応発表会ということできちんとした服を持ってきたが、女装しているんだから無駄だ。ウィッグにこの格好じゃ、まるで男装だ。
 ――男装か。
 響は急いで衣装を着替えた。


 控え室を出る際、モニターで確認すると、演目はもうほとんど終わっていて、あとは七海と光太郎、自分だけが残るのみだった。七海の踊りも今終わろうとしている。廊下を全力疾走していると、若葉の声が聞こえた。
「anti artist 井上 光太郎」
 アンチ・アーティスト。一人でこっそり練習していたのは知っているが、全部を通して見たことはない。一体どんな踊りを彼は作ったというのだ。光太郎の踊りが見たい。響は転びそうになりながら、舞台袖に走った。
 着いたときにはもう曲が始まっていた。舞台の中心で両手を交差して挙げ、一直線に立つ。物語はそこから展開していく。弾むようなジャズピアノが怪しげに響く。右足と左足を使って盗人のように大またで歩く。右肩、左肩と上げ、首を横にかたむけて腕をぶらりとさせる。まるでマリオネットだ。その格好で舞台を歩き回り、右足を二回、左足を二回、リズムに合わせてお尻にぶつける。
 響は、控え室のテーブルにあったものを音響ブースの近くにあったイスの上に置くと、舞台から客席を見た。ロイと彩が見えた。彩は口をパクパクしている。ロイはというと、楽しそうにダンスを堪能していた。
ピアノが激しくなると、ぶらりとさせていた手や曲げていた脚を大きく開いて上に伸ばす。手はアン・オー、足はパッセで回転。手を前に伸ばし、ストップ。
彩の姿がなくなった。きっと舞台に向って来ている。まずい。
そこから白鳥の湖の黒鳥の踊りのように三十二回のフェッテ・アン・トゥールナン。右腕、左腕をくねくね動かしながら、それに合わせて膝を曲げると、舞台のせり出した部分までくる。右肩を上げた状態でフィニッシュだ。
光太郎の踊りが終わると、大きな拍手が聞こえた。舞台から戻ってきた光太郎は汗だくだったが、すぐに若葉にナレーションを入れるよう指示した。
「wish mother to love 加藤 キョウ」
 舞台に出ようとした瞬間、母の姿が見えた。壮次と光太郎が必死に足止めしている。MDの再生はもう始まっていた。母を尻目に、ワイシャツに黒ネクタイ、黒パンツで、ウイッグを取った本当の姿の響は、舞台の中心へ急いだ。
右足前の五番で立ち、手はアン・バー。牧場で踊ったときと同じように、風の音を聴く。切ない表情でゆっくり振り向くと、背中を反る。腕は大きなものを抱えるような気持ちで広げる。大きな母の愛だ。タイトルは光太郎が決めてくれた。「母に愛して欲しい」という意味らしい。腕を戻すと、背中を丸め、一人でいる孤独を表現する。脚を上げる動作は自己顕示。「ここに自分はいる」と母に訴える。前に進み、止まって腕を前後にゆらゆらと動かすのは、風の流れを表している。風は母親のように、すべてを包み込んでくれる。手を交差させ、何も知らない子供は、母に問いかける。「本当にあなたは俺を愛していますか」。手を合わせ、祈る。愛していて欲しいと願う。空に伸びるように手を合わせ一回転し、顔の前に手を置く。踊っているうちに気持ちがこもりすぎたのか、響は本当に涙をこぼしていた。
風の音が止んだ。拍手してくれる人は誰もいない。それでも一礼して舞台の袖にはけようとすると、母が舞台に出てきた。
「あんた、この踊りはなに?」
 訊かれても無言のままだ。踊りにすべて言いたいことは込めた。口から出る言葉は、過剰に装飾されてしまう。そのまま感じたことだけを受け取って欲しかった。
「私の振付した踊りは? 光太郎もあんたも、なんでソロで踊ってるの」
「あの踊りは、母さんのものだ」
 光太郎が先ほど響がイスの上に置いた、紫とエメラルドグリーンの二色ぼかしになっているワンピースを彼女に渡した。
「ロイに伝えたいことは、母さん自身で伝えないとダメだよ」
 客席はしんとしている。パンフレットになかった踊りが二曲もあり、教師がそれを叱っている。観客は何事かと興味深げに舞台を見ている。
 彩はロイに目をやった。彼はじっと彩に視線を送っていた。
「俺たちじゃ表現できないんです。先生の気持ちは」
 光太郎が言うと、彩は二人を交互に見つめ、毒づいた。
「こんなイレギュラーなことは、最初で最後よ。響の存在も、もうバレただろうし。いいわ、踊るわよ」


 若葉が急遽、五分間の休憩を告げ、幕が閉まった。その間彩は、着替えと化粧を急いでして、ストレッチをゆっくり行なった。五分ぴったり経つと、ブザーが鳴り響いた。
「imperfect 加藤 彩」
 タイトルは彩が変更させた。この踊りは『完璧な男』と『不完全な少女』二人で行なうものだったが、今日は違う。不完全な彩だけで踊る。
 幕がゆっくりと開く。客席は突然の代表の踊りに、興味を持った保護者や、発表の終わった生徒で満席だった。彩はそれでもひるまない。曲がかかるとすぐに踊りに入る体制になった。あごを軽くあげ、つんとする。
 ピアノが泣き始めると、ワンテンポ置かずにフロアに走りこんだ。悲痛な表情で脚を高くあげると、響が初めて母の踊りを見たときのように、ワンピースの裾が、ホウセンカの花弁のように広がった。響に覚えさせた通り、小さくジャンプすると、背中を引っ張られるように後退。ロイに近づきたい。教師と生徒以上の関係になりたい。でも、それは叶わぬ恋。尊敬する師に、こんな感情を抱いてはいけないと、迷う。手を胸で交差させて一回転。手はそのまま腕をきつく掴む。恋の苦しさ、相手を束縛したいと思う気持ちを、自らセーブする。側に行きたいけど、これ以上はいけない。自分を見失ってしまう。思えば思うほど、動きは大胆になっていく。脚の高さは思いの丈。二人の間の大きな壁を突き破ってしまいたい。
 舞台袖から母の踊りを見ていた響は、彼女の視線の先に気づいた。先にあったものは、もちろんロイだ。彼に訴えるような瞳で、一心不乱に踊っている。彼女の踊りには迫力があった。本当の、心の奥底から引き出す気持ちを露わにする力。表現力。芸術なんて、あり得ないと思った。ごく少数の本当の芸術家は、奇跡の存在。そんな人間が身近にいるわけない。照明や背景の指示を出していた、創作面での芸術。それと、感じることを感じたままに踊りに変えることができる、表現での芸術。自分勝手な母は、二つの面で完全なる芸術家だった。
 最後のポーズを決めると、客席はスタンディングオベーションとなった。拍手の音が鳴り響く。母はそんな中、何かを探していた。ロイの姿だ。ロイは、母の踊りが終わるとともに、いなくなっていたのだ。

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