第1話 裸にエプロン
文字数 1,661文字
いつも、一人ぼっちだった。
二年ほど前離婚して、妻の香織 と息子の温人 がこのマンションから出て行った。
それから、いつも一人。
朝目が覚めると、孤独の恐怖と将来への不安がすぐに圧 しかかってくる。紛らわすように、横に置いた温人の身代わりであるテディベアのぬいぐるみに挨拶をしていた。
でも、いまは違う。
「おっはようございまあっす!」
リビングに入ると、腕立て伏せをしながら元気よく声を張り上げる、坊主頭の若い男がいた。
「おはよう」
真っ先に挨拶する相手は、昔のバイト仲間である仁 に、この春から変わった。三ヵ月ほど前、仁が勤務するゲイ向け風俗店でたまたま再会し、一緒に暮らす流れになった。といっても、別に恋人同士という関係ではない。
「朝飯 、出来てますよ。ごはんに味噌汁、海苔に佃煮、卵焼きに納豆。今朝の味噌汁の具は、豆腐に油揚げっす!」
仁はキッチンに移動すると、温めた鍋から味噌汁を一杯お玉ですくい、お椀に移した。
朝食も、毎日早起きをしてちゃんと用意してくれている。テーブルに並べられたおかずを眺めながら、静かに感動しつつ椅子に座った。
「毎朝、作らせてしまって悪いな。しかも、こんなにいっぱい。無理をさせてるんじゃないかと心配になる」
「ご心配なく。居候させてもらってるんすから、このくらいは当然っす。僕は育ててくれた婆ちゃんに教えられて、朝からしっかり食べて健康体に育ったんです。しかも婆ちゃん仕込みの、純和食っす」
仁の両親は共働きで、高校生まで九州の祖母のもとで育てられたという。祖母が年老いてからは、仁が食事を用意することが多くなっていたのだとか。
「俺はおまえが来るまで、ハムエッグとかトースト、コーヒーの洋食だったな。前の嫁も働いていて忙しかったから、コーヒーだけの日なんてのもあった」
「棚橋 さん、朝からコーヒーだけじゃ力なんて出ないっすよ。ビタミンやミネラル、たんぱく質なんかの栄養分をしっかり摂らないと。特に味噌汁みたいな大豆イソフラボンは大事です。いまは出汁 入り味噌を使う人が多いけど、僕はきっちり鰹、昆布、煮干しなどを使って出汁から味噌汁を作ります。薬味も小葱に三つ葉、みょうがに柚子の皮…いろいろです」
見かけによらず、生真面目で繊細、几帳面なところがある。
「それにしても…おまえ、朝からなんちゅう格好してんだよ」
仁はなぜか最近、下着姿など裸に近い格好でキッチンに立つ。今朝は、裸にエプロン。しかもエプロンは、メイドが身につけているようなフリルのついた白いエプロンだ。
「安心してください!」
仁は味噌汁をすする自分の前で、両手を腰にあて仁王立ちになった。
「ちゃんと穿いてますよぉ」
百八十度回転して、青いパンツを見せた。危うく、味噌汁を吹きこぼしそうになる。
「棚橋さんが起きてくるまでは、僕、筋トレやってますから。最近暖かくなってきて汗ばんできたところに朝食の用意となると、こういう格好になってしまうんです。それに裸にエプロンって、男の憧れじゃないっすか」
モデルは美女に限るが…な。
「まあ俺もパジャマ姿のままだし、偉そうに言えないが」
「筋トレに味噌汁で、元気いっぱい!」仁は右手を前に出し力こぶを作ると、「パワー!」大声で叫んだ。
「うるっさいんだよ、おまえは。近所迷惑だから朝から大声出すな」
仁がやってきてからというもの、暗く湿りきっていたマンションに、一気に夏の陽ざしと爽やかな風が入りこんできたようになった。それまで別れた一人息子のことをくよくよ考えてしまうことが多かったが、仁はそんな悩みすら軽くしてくれた。苦悩が消えたわけではないが、明るい仁と向き合う時間のほうが多くなったのだ。
出勤するためスーツに着替え、玄関で靴を履いてると、
「あなたあ、行ってらっしゃい」
裸にエプロン姿の仁が、ビジネスバッグを両手に持ち、差し出してきた。
「『あなた』は、やめろ。『あなた』は」
「今日は僕、午後から店に出勤なんで。これから家事を片付けて、帰りは深夜になります」
渡されたビジネスバッグを手に取り、「行ってくる」とだけ笑顔で言うと家を出た。
二年ほど前離婚して、妻の
それから、いつも一人。
朝目が覚めると、孤独の恐怖と将来への不安がすぐに
でも、いまは違う。
「おっはようございまあっす!」
リビングに入ると、腕立て伏せをしながら元気よく声を張り上げる、坊主頭の若い男がいた。
「おはよう」
真っ先に挨拶する相手は、昔のバイト仲間である
「
仁はキッチンに移動すると、温めた鍋から味噌汁を一杯お玉ですくい、お椀に移した。
朝食も、毎日早起きをしてちゃんと用意してくれている。テーブルに並べられたおかずを眺めながら、静かに感動しつつ椅子に座った。
「毎朝、作らせてしまって悪いな。しかも、こんなにいっぱい。無理をさせてるんじゃないかと心配になる」
「ご心配なく。居候させてもらってるんすから、このくらいは当然っす。僕は育ててくれた婆ちゃんに教えられて、朝からしっかり食べて健康体に育ったんです。しかも婆ちゃん仕込みの、純和食っす」
仁の両親は共働きで、高校生まで九州の祖母のもとで育てられたという。祖母が年老いてからは、仁が食事を用意することが多くなっていたのだとか。
「俺はおまえが来るまで、ハムエッグとかトースト、コーヒーの洋食だったな。前の嫁も働いていて忙しかったから、コーヒーだけの日なんてのもあった」
「
見かけによらず、生真面目で繊細、几帳面なところがある。
「それにしても…おまえ、朝からなんちゅう格好してんだよ」
仁はなぜか最近、下着姿など裸に近い格好でキッチンに立つ。今朝は、裸にエプロン。しかもエプロンは、メイドが身につけているようなフリルのついた白いエプロンだ。
「安心してください!」
仁は味噌汁をすする自分の前で、両手を腰にあて仁王立ちになった。
「ちゃんと穿いてますよぉ」
百八十度回転して、青いパンツを見せた。危うく、味噌汁を吹きこぼしそうになる。
「棚橋さんが起きてくるまでは、僕、筋トレやってますから。最近暖かくなってきて汗ばんできたところに朝食の用意となると、こういう格好になってしまうんです。それに裸にエプロンって、男の憧れじゃないっすか」
モデルは美女に限るが…な。
「まあ俺もパジャマ姿のままだし、偉そうに言えないが」
「筋トレに味噌汁で、元気いっぱい!」仁は右手を前に出し力こぶを作ると、「パワー!」大声で叫んだ。
「うるっさいんだよ、おまえは。近所迷惑だから朝から大声出すな」
仁がやってきてからというもの、暗く湿りきっていたマンションに、一気に夏の陽ざしと爽やかな風が入りこんできたようになった。それまで別れた一人息子のことをくよくよ考えてしまうことが多かったが、仁はそんな悩みすら軽くしてくれた。苦悩が消えたわけではないが、明るい仁と向き合う時間のほうが多くなったのだ。
出勤するためスーツに着替え、玄関で靴を履いてると、
「あなたあ、行ってらっしゃい」
裸にエプロン姿の仁が、ビジネスバッグを両手に持ち、差し出してきた。
「『あなた』は、やめろ。『あなた』は」
「今日は僕、午後から店に出勤なんで。これから家事を片付けて、帰りは深夜になります」
渡されたビジネスバッグを手に取り、「行ってくる」とだけ笑顔で言うと家を出た。
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