第6話 執着と誘惑

文字数 2,201文字

それからさらに、二週間ほどが経った。
小雨が降る中、夜会社から帰宅すると、男の子がドアを背にしてリュックを下敷きに座っていた。

「智くん?」
声をかけると、白いシャツにチノパン、紺のデニムジャケットを羽織った智が立ち上がった。
「お兄ちゃんを待っているんです」
なんとなく反射的に、本当かな? と思った。
「待ち合わせしているの? 雨も降っているし、中に入って待ったら?」
鍵を開けて、奥に進みながら部屋の照明をつける。
「もう八時だし、夕食は済ませたの? もし良かったら、何か食べる?」
ダイニングキッチンに立ち、何気なさを装い冷蔵庫の扉を開けた。なんだか気まずく、さっきから自分が尋ねてばかりいる。背中に無言で佇む智の視線が刺さるのを、痛いほど感じていた。
「食事はいらないです。それより、雨で体が濡れてしまって…」
振り返ると、智はジャケットを手に持ちシャツ一枚になっていた。
「ああ」
さほど、濡れているふうには見えないが。
「シャワーを貸してもらえませんか?」
そう言うので、浴室まで案内することになった。

「ここにタオルがあるから。着替えは、何か仁のものを用意したほうがいいのかな?」
二人で洗面室に入り、話しながらふと目の前の洗面台を見て、ぎょっとした。鏡に、上半身裸の智が映っていた。いつの間にか、シャツを脱いで床の上に落としている。
「棚橋さん、僕に興味ありませんか?」
潤んだ瞳で真っ直ぐ見つめながら両手を首に回し、ネクタイをほどいてきた。突然の誘惑に体が硬直し、たじろいで何も出来ない。
「僕がどうして指名ナンバーワンなのかわかりますか?」
ネクタイを振りほどくと、ワイシャツのボタンを上からゆっくり一つひとつ外してゆく。
「…きれいだから?」
間近で見る智の顔は、陶酔するほどに美しかった。智は戸惑う自分の目を交互に見ながら、小悪魔的に微笑んだ。
「体で教えてあげますよ」

そう言うと、ワイシャツを肩から滑らせ脱がせつつ、濃厚なキスをした。男の子とキスをしたのは、これが初めてだった。女の子となんら変わりのない、柔らかく甘い唇。(うま)くて、やはりこなれた印象があった。しかし、それだけで特になんとも思わない。相手はこんなにきれいな子なのに、胸が高鳴らず、ときめかない。積極的に来られると、逆に興ざめするくらいだった。自分は、やはり同性愛者ではない。異性愛者なのだと、改めて再認識した。

「もう、このへんにしておこう」
冷静にそう言うと、両手でそっと智の体を引き離し、はだけたワイシャツを肩にかけ直した。智は、自尊心が傷つけられたような表情をしている。
「きみは、きれいだよ。でも俺は、きみのお客さんたちとはタイプが違うんだろうな。仁に、悪いと思わないか? 俺には、これ以上のことをすることは出来ない。きみに魅力がないわけじゃないから、気にしないで」
「つまんねー男」
智は吐き捨てるように言って、床に落としていたシャツを不愉快そうに掴み取った。

「智!」
その時、激しく玄関ドアの閉まる音がして、パーカーのフードを被った仁が荒い息遣いで駆け込んできた。仁のほうが、よほど雨で濡れてしまっている。
「やっぱり、ここにいた。本当にいい加減にしろ! 店に戻るぞ」
智は仁に叱責され、シャツを羽織ると肩を掴まれ敗者の様相で出て行った。こちらのほうには、見向きもしなかった。
「すみません。ちょっと送って行きますから」
仁は言って、自分に軽く頭を下げた。智の前では、仁はいかにも『お兄ちゃん』らしくなる。頷いて、黙って見送った。二人が出て行ってからも一晩中、静かに雨が降り続いていた。 

雨のせいもあり、終電を逃して店に泊まることにしたという連絡が入って、仁は朝まで帰ってこなかった。
夜八時頃会社から帰宅すると、仁が夕食を用意して待ってくれていた。
「お疲れっす!」
トレーナーにエプロン姿でキッチンに立ち、鍋に火をかけながら言う。昼前帰ってきて改めて就寝したということで、思ったより元気そうな顔をしている。魚を煮ている甘辛い匂いが立ちこめていた。

部屋着に着替えキッチンに戻ると、テーブルにおかずが並べられている。金目鯛の煮付け、あら汁、漬物、きんぴらごぼう、ほうれん草のごま和え。ほうれん草だけではなく、きんぴらにもごまがたっぷり降りかかっている。
「ごまに含まれるセサミンには抗酸化作用があり、老化や病気を予防すると言われています。リノール酸やオレイン酸などの必須脂肪酸も含まれていて、免疫力を高めたりコレステロールを下げてくれたりします」
向き合って座り、いつものように説明してくれた。
「相変わらず、体に良さそうだな。早速いただくよ」
軽く両手を合わせてから、箸を手に取る。

「あれから店には行かず、寮の部屋で智と二人、話をしました」
俯いて食べながらしばらくすると、仁が話しかけてきた。
「智が言うには、昨夜浴室で棚橋さんが誘ってきたって言うんですけど…多分逆ですよね? 智のやりそうなことは読めるんで。誘惑して、僕と棚橋さんとの信頼関係を壊そうとしたのでしょう」
仁には、いちいち弁解する必要はないらしい。
「棚橋さんのことは信用しているんで、大丈夫です。まったくその気がないのもわかってますし」
「ああ、そうだな」
思い出しながら、目を伏せたまま味噌汁を飲む。あの時は、流れでキスだけしてしまったが。
仁の話によると、口喧嘩が続き、部屋の中はちょっとした修羅場になったのだという。

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