第5話 ペット代わり

文字数 2,093文字

その時、玄関のほうでドアの開閉する音が聞こえた。

「智!」
ゆっくりダイニングに向け歩いてきた仁が、座っていた智に気づき、驚いて声を上げた。
「おま、おま、なんでこんな所に」
動揺してうろたえる仁を見て、
「お兄ちゃん!」
智が勢いよく立ち上がり抱きついた。右手に両手でしがみつき、なぜかこちらが悪さでもしたかのように睨みつけてくる。

「お兄ちゃん、今日はロングのお客さんが入っていたんじゃなかったの?」
一転して、仁を見上げる目には甘い媚びがある。智は普段仁のことを、『お兄ちゃん』呼ばわりして甘えているのだろうか。
「それがロングで予約してくれていたお客さんが急遽(きゅうきょ)キャンセルになって、時間が()いたんだよ。忘れ物を取りに戻っただけだから、すぐにまたこれから出勤するよ」
「じゃあ僕も出勤するから、一緒にお店行こ」
そのまま仁の右腕を引っ張り、何事もなかったかのように玄関に向かった。途中、仁が何か言いたげに目配(めくば)せしてきたのがわかったが、何も言わず立ったまま二人を見送った。
ドアの閉まる音が聞こえると、カップを片付け、一人地道に肉じゃがを煮込む作業に戻った。

翌日も水曜日で会社は休みだった。
朝目覚めてリビングに入ると、ランニングシャツにジャージ姿の仁が、ダンベルを使いトレーニングをしていた。
自分を見るとダンベルを下ろし真っ直ぐ向き直り、
「昨日は智がやらかしてしまったみたいで、すみませんでした」
ぺこりと頭を下げた。
「いいよ、いいよ。別に気にしてないし、朝飯を食べよう」
昨日煮込んでおいた肉じゃがを、一緒に食べることになった。仁が用意してくれた焼き鮭や梅干し、あさりと三つ葉の味噌汁などもある。

「肉じゃが、うまいっす。棚橋さん、腕を上げましたね」
「でもやっぱり、仁の作った煮物には負けるよ。じゃがいもも、煮え方にムラがある気するし。味もイマイチ。上達したいから今度一緒に作りながら、コツを教えてほしいな」
「あれから、歩きながら智と話をしました」
立ち上がり、急須から湯呑に緑茶を()れると、仁が唐突に話を変えてきた。
「きれいな子だね。さすがに指名一位でもおかしくない」
仁は、静かに湯呑を二つテーブルの上に置いた。

智は中学生の時美少年コンテストでグランプリを勝ち取り、一時期芸能事務所に所属していた実績があることを教えてくれた。すぐに辞めてしまったらしいが、道理で芸能人オーラがあるはずだ。
「あいつに悪気はないんで、どうか失礼を許してやってください。話していてわかったと思いますが、まだ子供なんです」
真面目な顔で、再び椅子に腰掛けた。
「そういえばあの子に聞いたんだけど、おまえ俺のこと『彼氏』って呼んでるんだって?」
仁は右目を瞑り口端を曲げて、手痛そうな顔をした。その表情が、「そんなことまで話したのか」と語っている。
「それは…見栄を張りたいのもあるんすけど、あいつを諦めさせるためでもあるんです。一度流れで寝てしまってから、彼氏気取りのような行動をとることが日に日に増えていって。昨日突然ここを訪れたのも、驚きの行動じゃないっすか。普通、特別な関係でもないのにそこまでやりますか?」
「あの子は、おまえのことが好きだと言っていた。困った客に絡まれた時、身を(てい)して助けてくれたからって」
仁は思いだすかのように宙を見つめ、かすかに数回頷くと緑茶をすすった。
「あいつの色恋営業も、少しやり過ぎのような面もあるんです。見ていて、お客さんが気の毒になる時があります」
「おまえは、あの子のことどう思ってるの?」
自分も緑茶を飲み、湯呑から目を覗かせ聞く。
「僕だって、智のことは嫌いじゃないです。甘えてくれるし、弟のように可愛いと思っています。でも智と同じで、僕も『弟になりたい派』なんすよねえ…。年上のお兄ちゃん、兄貴が欲しいと思っているんですよねえ。そのへんも噛み合わないといいますか。いい子なのは、充分わかってるんすけど」

浴室の音を気にしている、という話もしてみようかと思ったが、こちらの()が悪いこともあり、言い出せなかった。やはり、同性愛者と異性愛者のあいだには、目に見えない分厚い壁があるらしい。しかし、一緒に暮らしているんだから焦ることはない。時間の余裕は、まだたっぷりある。ゆっくりお互いの気持ちを話し合い、打ち解け合っていけばいいのだ。
「今日も俺は休みなんだけど、仁はどうするの?」
「僕もバイト両方とも休みっす」
「じゃあ久しぶりに、店を使っていた時みたいに二人で出かけないか? 公園を散歩したり、買い物したり、食事したり。デート気分で、どこか行きたい所に行って遊ぼうよ」

仁も乗り気になり、昼前から一緒に外出することになった。仁に洋服を買ってあげたり、中華街を歩いて食事をしたりした。昨日智に責められてからというもの、仁に対してどこか後ろめたさと申し訳なさを(いだ)いている自分を感じていた。特に、
「抱く気もないのにペット代わりにするのはやめてください」
という内容の台詞は、正直胸に刺さり傷跡が残った。仁が独り悶々と、自分が知らぬ間に性的に葛藤していたということも。
一日、終始明るく笑ってはしゃいでくれた仁に救われていた。

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