第8話 みんな一緒

文字数 1,819文字

横になった姿勢のまま、顔だけ仁のほうを向き声をかけた。
「今晩だけ、『はるたん』の代わりに横で寝てくれないか」
立ち止まり、驚いて振り返る仁が見えた。『はるたん』は、温人の身代わりにいつも横に置いて寝ているテディベアのぬいぐるみだった。
「今晩だけ、隣に、そばにいてくれないか」
ゆっくり、静かに仁がベッドに歩み寄り戻ってくる。
「…いいんですか?」
やや震えて聞こえる仁の質問に、黙って頷く。横に置いていた『はるたん』を棚に移動させ、定位置を譲った。
「ほら」
掛布団をめくり、仁の体を招き入れる。仁は、まるで音をたててはいけないかのように、そろり、ゆっくり中に(もぐ)り込んできた。
「俺はおまえになら、多分何をされても構わないんだと思う。自分は何をどうすればいいのかわからないだけで」
「何もしませんから、大丈夫です」
向き合った仁の言葉と表情から、微かな緊張が伝わってくる。自分も緊張していたが、解きほぐすため眠そうな笑顔を見せた。
「やさしく抱きしめているだけですから…大丈夫です」
初めて、鍛え上げられている仁の逞しい腕の中に体を預けた。仁は赤ん坊をあやすかのように、ぽん、ぽん、と二回やさしく背中を叩いてきた。そのせいか赤ん坊のような気分になり、信頼出来る人間の腕の中で、安心して眠れた。ずっと会えていない温人のことは何も考えないで、温かい仁の体に包まれ、安らいだ眠りに落ちていった。


朝、目覚めたら隣に仁の姿はなかった。いついなくなったのかも、わからなかった。
「…仁?」
不安になり朝陽が射し込むリビングに入って呼びかけても、姿が見えない。その時だった。
「ただいまっす!」
玄関ドアが開き、黒いトレーニングウェアを着た仁が、笑顔で帰ってきた。手には小さなレジ袋を持っている。
「ランニングついでに、誕生日ケーキ買ってきました。ケーキ屋はまだ開店してないんで、コンビニのっすけど」
ダイニングテーブルの上に置き、二個パックになっている苺のショートケーキと、チョコレートケーキをそれぞれ取り出して見せた。

「一日遅れになりましたけど、コーヒーを淹れてこいつでお祝いをしましょう」
仁の言葉に、自然に笑みが込み上げる。寝室から『はるたん』を持ち出して、椅子の一つに座らせた。仁は白いケーキ皿三つに、ケーキを盛り付けてくれていた。
「棚橋さん親子は、お揃いの苺。僕はチョコで」
ケーキを囲みながら、二人で定番のバースデーソングを歌った。インスタントだが、コーヒーの芳醇(ほうじゅん)な香りが幸せ気分をより盛り立てた。
「ケーキなんて食べるの、久しぶりっす。朝、豚汁も一応作ったんすけど、やっぱり合わないっすね」
仁の笑顔が、陽光よりもさらに輝いて見える。
「仁」
「なんすか」
「ありがとう」
「やめてくださいよ、向き合ってそんな真面目な顔つきで言うの。照れくさいじゃないっすかぁ」
照れ笑いをする仁に、自分もつられて少し笑う。
「おまえが女だったら、俺はこの場でプロポーズする。結婚を申し込む。確実に」
一瞬、仁から笑顔が消えたかと思うと、ぐっと何かを飲み込むように素早く頭を下げ、その顔を隠した。しばらくそのまま無言でいたかと思うと、
「ありがとうございます。その言葉だけで、もう充分です。もう本当に」
顔を伏せたまま言った。言葉と肩が、微かに震えているように感じた。
「婆ちゃん仕込みの純和食も絶品だ。特に味噌汁が」
「大豆は大事ですよぉ。ダイズだけにダイズ」
「何それ。ダジャレのつもりか?」
「洒落に決まってるじゃないっすかぁ」
仁は、ようやく顔を上げて言った。(こぶし)で隠そうとしていたが、やはり目の縁に隠しきれない涙が溜まっている。しばらく黙って、陽だまりの中、温かいコーヒーを一緒に飲んだ。

「いつかこうやって、みんな一緒に三人で暮らせる日が来るといいっすね」
仁の声と顔つきには、落ち着きが戻り始めている。
「先のことはどうなるのか誰にもわからないんでしょうけど…僕は息子さんがきっと棚橋さんの許に戻って来られる日を信じています。その時まで僕も一緒に、そばにいられれば最高なんですけど」

みんな一緒に。いつか、そんな日がやって来ることもあるのだろうか。仁が言ったように、先のことはまだ誰にもわからない。明日のこと、ほんの数時間先のことでさえも。
未来はわからないし、いつでも悩みや不安が尽きないのも、みんな一緒。

仁と二人で、このまま神様が作った深い河に、あおむけに流されてゆくことにしよう。
そう呑気に思えた、幸せな朝だった。




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