第3話 胸のざわめき

文字数 2,532文字

翌朝、仁がシャワーを浴びる音で目が覚めた。
枕元のデジタル時計を見ると、七時半になっている。今日は火曜日で、勤務する不動産会社は休みの日だった。

「おっはようっす!」
リビングにぼうっと立っていると、上半身裸でボクサーパンツ姿の仁が、タオルで頭を拭きつつ入ってきた。
「おはよう。昨夜は何時に帰ってきたの?」
「深夜一時くらいっすかね。棚橋さんはもう就寝されていたんで、僕もすぐ部屋で爆睡しちゃいました」
仁はそう答えつつ、キッチンに置いてある鍋に火を入れた。鍋の取っ手を掴む、まだ水滴のついた上腕二頭筋(じょうわんにとうきん)が逞しい。昨夜の「押し倒されたら勝てるか? 」という岡本の言葉を思い出し、慌てて頭の中で揉み消した。
「今朝は、わかめ入りしじみの味噌汁っす!」
「昨夜は俺も遅かったから、朝食はそれくらいでいいよ。おまえも多分疲れていると思うし」

早速食卓について、黒いお椀に注がれた熱い味噌汁を飲んだ。
「うまいなあ。昨夜友達と会って酒を飲んだんだけどさ。飲んだ翌朝のしじみの味噌汁って、特にうまく感じるんだよ。なんでなんだろう」
「しじみには、オルニチン、タウリンなど疲労回復に効果のある成分が含まれているんです。アルコールを分解する肝臓の働きを助ける作用もあるんで、そのせいじゃないっすかね」
仁は答えながら白いタンクトップとハーフパンツを身につけ、
「実は昨日焼いておいた鯖の塩焼きもあるんすけど、食いませんか? 僕は腹減ってるんで」
尋ねてきたので仁が食べるんなら、と一緒に食べることにした。電子レンジで温めた和風の長角皿(ながかくざら)に盛られた鯖も、二人で向かい合って食べる。
「これも身が柔らかくてうまい。塩加減も絶妙だし」

結局、仁が炊飯器からよそってくれた白いごはんも食べることになった。仁は笑顔でごはんをかきこみつつ、
「棚橋さん、俗に言われるDHA、EPAはやっぱり摂取したほうがいいっすよ。オメガスリー脂肪酸というものは、血液の循環を良くしたり頭の働きを活性化させる効果があります。僕は油も、オリーブオイルやアマニオイルを使っています」
仁と一緒に暮らしていると、健康な体になれるような気がする。

「そういえば今日俺は休みなんだけど、仁はどうするの?」
「今日は僕、午後からコンビニのバイトっす」
仁はまだ、風俗店とコンビニのアルバイトを掛け持ちしていた。
「最近、家事もやらせてしまっているし…バイト二つ掛け持ちは、体力的にきついんじゃないか? 店はそろそろ辞めてもいいと思うんだが」
「僕も今年二十六歳っすからね…三十歳までには辞めなきゃとは思うんですけど、仕事が楽しいし、これがなかなか」
溜息をつきつつ、空っぽになった茶碗をテーブルに置く。
「実は以前寮で一緒に暮らしていたルームメイトが、ここに引っ越してくる前、「店だけは辞めないでくれ」と言って泣きついてきたんです。僕もそれがなければ、また違ったかも知れないんすけど」

はあ? なんだ、それ。なんなんだろう。その子のその執着っぷりは。

「何それ。おまえのことが好きってこと?」
「そいつは、そう言ってくれるんすけど。よくわからないっす。僕のこと、彼氏だと思い込んでるふうなところもあって。まあ、急にいなくなって寂しくなったでしょうから、多分一時的なものじゃないっすかね」
なんだろう、この胸のざわめきは。なんとなく、面白くない。自分としては、昨夜岡本に話した通り店は今年で辞めて、来年からはコンビニで働きつつ学校に行ってほしいところなのだが。なかなか、思いどおりにはいかないかも知れない。

「棚橋さんが食費など生活費を負担してくださるので、来年からなんとか学校には通えそうで、感謝しています。店も早めに辞めるべきなんでしょうけど…」
仁は言葉を詰まらせ、下を向いた。
「けど?」
「あのバイト、性欲処理も出来るんで…」
ああ。再度、昨夜岡本に言われた言葉を思い出す。
「実は昨日友達がさ、おまえがゲイだからそういったことを期待して引っ越してきたんじゃないかって言うんだよ。俺に対して、少しでもそういう気持ちってあったりする?」
思いきって、はっきり聞いてみた。仁は素早く顔を上げ、
「無くはないっすよ! 決まってるじゃないっすか。僕だって、男っすよ。つい、期待しちゃいますよ。棚橋さんにその気がないってわかってますけど、例えば酔って帰ってきて、勢いでつい…なんて、やっぱり想像しちゃいますよ」
不貞腐れたように、強い口調で言った。
そうなのか。これからは酔って帰らないよう、気をつけよう。

「でも、棚橋さんみたいな真性ノンケの人たちって、揺るがないんすよねえ…。僕の経験からいって変わらないっすよ、絶対に。店でノンケを売り文句にして商売している子たちがいますけど、ああいう子たちは、実はノンケじゃないです。本当にノンケなら、あんな商売、とてもじゃないけど出来ないっすよ。出来たとしても続かないし、無理っす」
確かに、わかる。自分ももし若くて働けたとしても、一日、いや一時間も持たないと思う。確信する。
「だから店も、なかなか辞められないんです。ゲイの仲間同士遊び半分でお金もらえて、すっきり発散出来て。棚橋さんは、あっちのほうは、どうしているんですか?」
「俺も結婚前は、風俗とかキャバクラとかいろいろ行って遊んだよ。マッチングアプリで会って遊んだりもした。でも、俺も年を取ったのかな。若い女の子と会話していると、疲れるようになってきた。思うに、お喋りって同性同士のほうがやっぱりわかり合えるのか、面白いよな。女の子たちも、多分おんなじだと思う。俺はおまえとこうやって話しているほうが、ずっと楽しいよ」
「で?」
「で? って…?」
「はぐらかさないでください。結局、どうしているんですか?」
「だから結局…最近じゃ、一人でしているよ」
「一人でえ? いつでも手伝いますから、言ってくださいよぉ」
「手伝わなくていい!」

相変わらず漫才のような会話と食事を終えると、仁は昼前に外出して行った。仁がいなくなると、突然灯りが消えたようになった。まだ数ヵ月しか経っていないというのに、もう仁のいない生活は考えられなくなっている気がする。溜まった家事と雑用を一通りこなして、寂しい一人暮らしに戻った休日を終えた。

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