第6話 哀惜(一)

文字数 1,551文字

 母親を富山に連れて行った日から八年ほどの年月が経っていた。私は、会社を退職して母親を介護するために在宅介護をはじめていた。

 母親の認知症は、アルツハイマー型の認知症で進行が早く、すでに歩行が困難になっていた。「徘徊(はいかい)することがなくなるので介護が楽になりますよ」とケアマネージャーは言っていたが、それは母親の死期が近くなることを意味している。息子の私にとっては複雑な心境であった。

 デイサービスに行けなくなった母親は、ベッドの上で過ごす時間が多くなった。そのため、私はヘルパーの訪問回数を多くして、朝と夕方におむつを変えてもらうことにした。その他に、訪問看護を週三回、訪問入浴を週一回、主治医による訪問診療を月二回利用した。

 食事は弁当屋にたのんで弁当を配達してもらった。当初は普通の弁当であったが、飲み込む力が低下していくため、徐々にとろみ弁当に変わっていった。

 水分摂取は、とろみ剤でとろみをつけてから、スプーンで口のなかに含ませるようにして飲ませた。主治医から処方してもらったバニラ味の栄養飲料にとろみをつけ、スプーンで母親の口のなかに入れると、丸い目を大きく見開いて「おいちい、おいちい」と言いながら飲み込んでいた。栄養飲料がなくなっても、もっとほしいと言わんばかりに、口を大きく開けている。そんな母親を、私はいとおしく思った。このような状態が長く続けばいいと思っていたのだが長くは続かなかった。段々と咳きこむようになって、とろみをつけても飲みこめなくなるのである。

 咳きこみが激しくなると誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)になる危険性が高くなる。食べ物や飲み物が飲みこめずに気管に入り込むと、誤嚥性肺炎を引き起こす原因になるからだ。そこで、私はのどに()まった食べ物や飲み物を取り除くため吸引器をレンタルして、訪問看護センターの看護師に吸引する方法を教えてもらった。

 吸引する日々が長く続いていたが、ある日、私が懸念(けねん)していたことがついに起きてしまった。とろみをつけた水分を母親に飲ませようとしても咳きこんで飲み込めない。何度吸引しても咳きこむばかりだった。そのうちに、母親の唇は紫色に染まり、指で唇を触ると麻痺(まひ)している感触がしてくるのである。

 危険を察した私は、訪問看護センターに連絡して主治医を呼んでもらった。診察中にもかかわらず、主治医はすぐに駆けつけて来た。そして主治医は、聴診器を母親のあばら骨が浮きでている胸にあてると、すぐに救急車を呼ぶように私に告げたのである。私は、言われるままその場で携帯から救急に連絡をした。

 けたたましいサイレンの轟音(ごうおん)とともに救急車が到着し、三名の救急隊員が家にあがり込んできた。ひとりの救急隊員が瞬時に母親の血圧、体温、酸素濃度を測りはじめた。隊長らしき者が主治医と医学用語を交えて話していたが、医学用語の意味が理解出来ない私には何を話しているのかわからなかった。しかし、母親の容態が尋常(じんじょう)ではないことは確かなように思えた。

 受け入れ先の病院は救急隊員が探してくれるのだが、病院側は高齢の認知症患者を容易に受け入れようとしないため、主治医が週一で勤務している救急病院を紹介してくれた。

「うちの認知症の患者さんで肺炎のおそれがあるので、受け入れてくれないか」
「認知症の患者さんですか。歳はいくつですか?」
「えーと、八十四歳」
「今病室が空いていないようですが」
「え、病室が空いてない?」
「……」
「空いているだろ、いいから受け入れてくれ」
「ちょっと待ってください。今聞いてみます」
「……」
「あ、今ちょうど空いたみたいです」
「じゃあ今から救急搬送するから、たのむよ」

 主治医は、怒りを(にじ)ませた甲高(かんだか)い声で事務員と会話をした。病院側は、勤務医の紹介ですら高齢の認知症患者の受け入れを渋るのである。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み