第1話 追憶(一)

文字数 1,598文字

 高岡駅から万葉線(まんようせん)に乗り換えて西新湊(にししんみなと)駅で降り、駅のホームを下るとそこは閑静(かんせい)な漁港の町である。西新湊駅から日本海に向かって歩いて行ったところに、母親の生家があった。

 富山県射水(いみず)市、平成十七年に射水郡四町村と合併する前、その町は新湊市と呼ばれていた。

 私が中学一年生の(とし)の夏、仁美伯母に連れられて新湊市を訪れた。放生津内川(ほうじょうづうちかわ)にかかる橋を渡った時、磯の香りがして、ここが海の町であることが東京育ちの私には新鮮に感じられた。祖父は私が幼い頃に他界していたため、祖父についての記憶はまったくなかったが、祖母はご壮健で母親の兄妹もみんな息災であった。

 新湊に滞在期間中、私は長男茂義(しげよし)の家宅に宿泊した。すぐ近くに祖母の家があったのだが、八畳一間の平屋でそこに長女牧江と岳士叔父が同居していて、さらに仁美伯母が泊まることになったため、私が寝泊まりする余裕がなかったのである。茂義には加代子(かよこ)という中学三年生の娘がいた。私よりも二歳年上で、高校受験を控えていたためかほとんど会話をしたことがなく、思春期だったこともあって当時の私には冷淡に感じられた。才媛(さいえん)な娘であったようで、中学卒業後は県内屈指の公立高校に進学した。

 茂義の家は日本海に面していて、勝手口を出ると日本海に沿った堤防にあがる石段につながっていた。堤防から川を隔てると新湊漁港である。対照的な白い灯台と赤い灯台が、消波(しょうは)ブロックに守られるようにそそり立っている。その奥に真夏の日差しを受けたセリ場の建物が、ありありと眺望することが出来た。私は堤防にあがるとまず、自然の恵みを受ける豊潤(ほうじゅん)な漁港を眺めたのである。

 堤防の海側は消波ブロックが敷き詰められている。母親が幼い頃、ここら辺は砂浜でよく泳いで遊んでいたらしいのだが、激しく波打つ紺碧(こんぺき)の海は、とても泳げるとは思えないほど荒々しいものであった。堤防から日本海の水平線を望むと、どんよりした雲と同化した能登半島がかすかに浮かんでいる。空気が澄んだ晴れた日は、遠く稜線(りょうせん)のくっきりした立山連峰を眺めることが出来る。堤防の内側は通り道になっていて、その通りは放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)までつながっていた。

 放生津八幡宮は、聖武(しょうむ)天皇の御代七四六年(天平(てんぴょう)十八年)越中国守大伴家持(おおとものやかもち)が、豊前国(ぶぜんのくに)宇佐八幡神(うさはちまんしん)勧請(かんじょう)して奈呉八幡宮(なごはちまんぐう)と称したのが創始といわれ、秋季例大祭には放生津会が営まれ永々として今日に伝えられている。祭神は「応神(おうじん)天皇」で、相殿に「仁徳(にんとく)天皇」が配祀されている。境内には、大伴家持の歌碑(かひ)芭蕉(ばしょう)句碑(くひ)が立てられている。

 あゆの(かぜ) いたく()くらし 奈呉(なご)海人(あま)()りする小舟(をぶね) こぎ(かく)るみゆ    大伴家持
 (東風がひどく吹くらしい。奈呉の海人の釣りする小舟の、波間に漕ぎ隠れるのが見える。)

 早稲(わせ)()()()(みぎ)有磯海(ありそうみ)    松尾芭蕉
(はや早稲の香が立ちこめる中を、垂れ下がった穂を分けるようにして行く、その右手には、古歌に名高い有磯海が望み見られる。)

 伯父と伯母に連れられて、堤防の内側の通りを放生津八幡宮まで歩いて行った。その途中、堤防から海に向って突きでている岩場があった。波が穏やかなので海岸沿いで泳げる唯一の場所だったようで、地元のひと達が海にゴムボートを浮かべて海水浴を楽しんでいた。私達は、その岩場の上で水着に着替えて海に入って泳いだ。水深は私の肩の高さほどの浅瀬(あさせ)で海底はさらさらした砂である。母親が言っていたように、昔ここら辺は砂浜だったのだ。

 私は小学生の頃、地区大会に選出されるほど水泳には自信があったので、泳ぎを茂義に披露(ひろう)したが、茂義は首をかしげながら「まだまだだな」と言って私を困らせた。

 (注)令和五年九月一日、西新湊駅は第一イン新湊クロスベイ前駅に改称した。

 参考文献
   ・放生津八幡宮公式HP
 引用文献
   ・万葉集全解 多田一臣訳注 筑摩書房
   ・奥の細道 現代語訳 鑑賞 山本健吉 飯塚書店
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