第11話 懐郷(一)

文字数 2,060文字

 母親が認知症になってから仁美伯母とは頻繁(ひんぱん)に連絡を取り合っていたのだが、亡くなってから以降は、仁美伯母のほうから連絡して来ることが多くなった。仁美伯母の言うことはその時々によって異なっていた。

「恵美子が、私の貴重品を勝手に持ち出していった」
「遠い場所まで恵美子が運転してくれるので助かっている」
「みんな、私のことを邪魔者あつかいしている」
「加代子は、いつも手料理を持ってきてくれるので有り難い」

 などと、私のところに連絡してくるのである。

 とりわけ仁美伯母が愚痴(ぐち)をこぼしていたことは、加代子や恵美子が仁美伯母を施設に入れようとしているらしいのであった。加代子と恵美子の言い分もわからなくもなかった。二人とも家庭を持っているうえに、仁美伯母のことを常に気にかけていなければならない。しかし伯母は、施設に入ると寿命が縮まると思っていたようで、加代子や恵美子の要求を(かたく)なに拒んでいた。実際に自活していたほうが仁美伯母のためにはなるのだが、加代子と恵美子にとっては負担であるらしかった。親戚といっても家族でなければむしろ他人に近い存在なのだろうか。

 母親が亡くなってからしばらくして、富山から訃報(ふほう)が届いた。病院で寝たきり状態になっていた岳士叔父が亡くなったのである。岳士叔父は生涯独身であったので、葬式は行わないようであった。「香典返しも面倒なので、香典は送らないように」と言われた。冷淡であるとも感じられたが、骨を拾ってくれる親戚がいるだけでも恵まれていると私は思っていた。

 そんなある日、

「私もいつ死ぬかわからないので富山に来ないか」

 と仁美伯母が私に連絡してきた。

「母さんの介護で金を使ってしまったので、金銭的余裕がない」

 と私は言葉を返した。すると、旅費や宿泊費は仁美伯母がだすと言うのである。母親の介護期間中、仁美伯母からかなり経済的援助を受けていたので、そこまで甘えていいものか迷っていた。実を言うと、私も富山に行きたいと思っていた。仁美伯母が亡くなってしまうと、母方の親戚とは縁が切れてしまうのではないかと思っていたので、富山に行くとしたら今しかなかった。考えあぐねた結果、結局富山に行くことにした。ちょうど十月一日に新湊曳山祭(しんみなとひきやままつ)りが開催されるので、その日に合わせて計画を立てた。

 新湊曳山祭り(放生津曳山祭(ほうじょうづひきやままつ)り)は、射水市で毎年十月一日に開催される放生津八幡宮の例大祭で、曳山囃子(ひきやまばやし)音色(ねいろ)を響き渡せながら、高さ約八メートルの勇壮な十三基の曳山(山車)が、イヤサーイヤサーの掛け声とともに、昼は花山、夜は提灯山に装いを変えて、射水市の町中を練りまわすものである。みどころは、十三基の曳山が順列を連ねて狭い町角を急曲がりするところや、夜になると曳山全体が提灯で飾られ、暗闇のなか光をはなっている曳山の絢爛豪華(けんらんごうか)なところである。

 射水市報によれば、その沿革(えんかく)を次のように紹介している。

『放生津八幡宮の秋季例大祭は、宵祭(よいまつり)に海上より「御祖神、代々之祖達神」の御魂を迎え、次いでこの神霊を築山(つきやま)降臨(こうりん)を仰いで祭事を行う。この築山が、車輪を付けて移動する曳山へと発展したと考えられている。創始の年代は、いい伝えによれば、慶安(けいあん)三年(一六五〇年)の古新町曳山車といわれている。また、延宝(えんぽう)四年(一六七六年)八月十五日の放生津八幡宮例祭に曼陀羅寺(まんだらじ)から「法楽の引山」が曳かれており、三百年前ごろにはいくつかの曳山車が曳かれていたと考えられる。元禄(げんろく)から享保(きょうほ)のころ(一六八八年~)には半数以上の曳山車ができた。文久(ぶんきゅう)二年(一八六二年)には十三本の曳山車が揃うことになった』

 仁美伯母が言うことには、私が赤ん坊の頃、母親の腕に抱かれてよだれを垂らしながら曳山を見ていたそうだ。幼い頃のアルバムを見ると、私が二歳の年と四歳の年の十月一日に、新湊で撮った写真が貼ってある。そのことから推測すると、少なくとも過去三回、私は新湊曳山祭りを見学したことになる。

 今回の新湊曳山祭りの見学は、実に五十年ぶりのことであった。

 富山行きを、九月三十日から十月二日に決定した。仁美伯母に富山行きを伝えたのが、九月二十六日であったため、急いで準備に取りかかった。

 平成二十七年に、長野駅から金沢駅間に北陸新幹線が開業したため、上野駅から新高岡駅まで新幹線に乗って行くことが出来るようになった。十年前、母親を連れて新湊に行った時は、上越新幹線で越後湯沢(えちごゆざわ)駅まで行って在来線に乗り換えなければならなかった。乗り換え時間が十五分くらいしかなかったため難儀(なんぎ)した。認知症の母親の手を引きながら駅の階段を急いで昇り降りしたのが、つい昨日のことのように感じられる。

 宿泊するホテルは、高岡駅付近のホテルを予約した。市内の循環バスが夕方までしか運行しないので、お決まりのDホテルでは、夜になると仁美伯母の家からホテルまで二十分以上歩かなければならない。そのため、万葉線に乗って高岡のホテルにもどった方が私には都合がよかった。

 参考文献
   ・射水曳山3WEEKs 新湊 新湊曳山協議会 十月一日

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