文字数 2,036文字



 男はわたしに頭を下げて礼を言った。
「本当に……本当に、ありがとうございます。満たされました。こんなの初めてです。夢が叶いました。ありがとうございます」
「いや、そんな、こちらこそありがとうございます。わたしもすごく……楽しかったです。だから頭上げてください」
 そう言うと男は顔を上げた。わたしの前に正座した男は「そう言ってもらえると嬉しいです。安心しました。……あの、よかったら、またお願いしてもいいですか」とためらいがちに言った。
「はい、ぜひ」
 そう答えると男は嬉しそうに息をついた。そして思い出したように「あの、何か、とりあえず今回のお礼をしたいんですが」と言った。
「いや、お礼なんて、わたしのほうが出したいくらいですよ」
 わたしはそう言い、少し間をおいて「わたしたち、付き合うのはどうですか?」と言った。
「付き合う?」
「はい」
「なぜです?」
「それは、だから……」
「すみませんけど、俺はあなたとセックスしたいって思ってません。しなくていい、じゃなくて、したくないんです」
 そう言われて驚いた。わたしは男はみんな女(特に、若い女)と隙あらば性交したがっているものだと思い込んでいたからだ。わたしは男と積極的に性交したいわけではなかったが、早く処女を捨てたいと思っていた。今日みたいに男を殴り、その興奮のままそれを利用して男と性交できればいいかもしれないと思っていた。
 わたしは自分の処女に価値があると思っていたので(男はわたしが処女だと知らなかったわけだが)、少なからず侮辱された気持ちになった。「なんでですか?」とわたしは少し責めるような口調になって聞いた。
「気を悪くされたら、すみません。でも、俺にとって……」男はそこで数秒言葉を切り、続けた。「俺にとっての暴力っていうのは、なんていうか、回帰(・・)する行為なんです。生まれる前の母の胎内、もしくはそれを超えた、もっと原初的なものに……痛覚しかない一つの小さな、意識すらまだ形作られていない、ほんの小さな柔らかい塊。それに戻りたいんです。そしてこの感情は、多分生まれたときから俺の中にある、本能的な宗教みたいなものなんです。神聖な感情です。回帰と生殖は、相容れないものでしょう」
「でもあなた、勃起してたじゃないですか」
「それとこれとは、別です。しかたないんです。本当は嫌です」男は口を歪めてそう言った。
「暴力の中に、どうしても性が内包されてしまう……格好つけて言いましたが、つまり殴られて性的に興奮してしまうというのは、これもきっと本能的、というか、先天的なものですね。どうしようもない。でも、むき出しの性や、暴力を内包する性は、違うでしょう。俺はそういうのが汚くて、嫌いで、なるべく避けて通りたいと思ってる……だけどどうしてもやっぱり性欲はあるから、俺はもしかしたら、そういう汚い自分を罰してもらうために暴力を振るわれたいということもあるのかもしれない。暴力が俺の卑しさを破壊してくれるんです」
「そういうものですか」
「あなただって、そうじゃないんですか?」
 そう聞かれてわたしは黙った。男は続けて言った。
「あなたは暴力のどういうところが好きなんですか?」
 わたしは少し考えてから答えた。
「清潔なところです」
「ああ……それは、わかります」と男が頷きながら言った。「やっぱり暴力は、生殖とか慈愛とか、ねとねとと温かくて濡れて柔らかい、生命の息吹みたいなものへの拒絶……それが根幹にあるから。だから俺はあなたとセックスしたくないんです。せっかくのこの清潔な関係を、堕としたくない。暴力だけで、清潔に繋がっていましょうよ」
 わたしは頷いた。「そうですね。その通りです」と言いながら、わたしは奇妙な充実感が自分を覆っているのを感じた。
「じゃあ、これからよろしくお願いします」
 そう言って頭を下げたら、お男も「こちらこそ」と頭を下げた。わたしは男と連絡先を交換して男の部屋を出た。男はエレベーターに乗ってマンションの入り口まで見送りに来た。
「こういうときってどこまで見送りに行けばいいかわかりませんね」
 気恥ずかしそうにそう言う男の手を、わたしはぎゅっと握った。男は驚いたようにわたしを見た。
「また、やりましょう」
 そう言うと、男は笑った。
「はい、ぜひ」
 わたしは夜道を歩いて学校へ戻った。男を殴ったときの硬い感触と、男を蹴り飛ばしたときの柔らかい感触が、まだ残っていた。またすぐ会いたいと思った。会って、抱きしめるみたいにして、男にためらいなく暴力を振るいたいと思った。わたしは自分がこんなふうに人に暴力を振るえる人間だと思っていなかった。それは嗜虐心に似ていたが、しかし根本的に何かが異なっているような気もした。わたしはその違いが何なのかわからないまま、でも外から見たらわたしはきっとただのサド女なんだろうと思い、そしてそれは決して間違っているわけではないからまあいいかなどと考えながら、車通りの絶えた道を一人でてくてく歩いた。

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