文字数 2,615文字



 冬が終わりかけていた。だんだんと手袋をつけなくても自転車に乗れる日が増えてきた。そして春が来ればわたしたちはついに就活生だ。スーツや鞄やはもう揃えてあるが、そのうちに髪を染めに行かなければ、と思った。どの業界どの職種を目指すのか、まだ何も考えていなかった。どんな仕事がどれくらい世の中に存在するのかも調べていなかった。
 三年生の夏休み、三好とわたしは旅行や性交にかまけてインターンに一度も参加しなかった。カーテンを閉ざした薄暗い部屋の中でクーラーをガンガンにきかせて一日中性交をしていた日もあった。流しの前に裸で並び、マグカップに水道水を注いで二人で飲んだ。あとのことはあとで考えよう、何とかなる、だって今は人生の夏休みなんだから遊べるときに遊んでおかないと後悔する、そう口には出さずに自分に言い聞かせていた。そしてその考えるべきときがもう目前に迫っていた。
 巨大な刷毛で真っ白い絵の具を丁寧に塗り重ねたような雲が空を覆っていたある日、わたしは久しぶりに何の予定もなく、浅めが覚めてからぼんやりと天井を眺めていた。しかしふと思い立ち、ノートパソコンを持って大学図書館に向かった。春休みになってから大学に来ることはほとんどなかったから、図書館に来るのも久しぶりだった。
 図書館は空いていた。隅の席を確保してノートパソコンを開いた。就活の準備をしようと思っていた。かといって何から始めたらいいのかわからなかった。就活生向け情報サイトに会員登録だけはしていたから、とりあえずそのサイトにアクセスし、適職診断というものを受けてみた。「調和よりも正しさを求める方だ」とか「計画を立ててから行動する方だ」といった、ほとんどがケースバイケースだろうと思われる質問に対して「そう思う」「そう思わない」などと回答していった。
 数分後、わたしの性格についての解説と、わたしに向いているという職業の一覧が示された。プログラマー、金融事務、獣医、研究者。しかしわたしは、自分から診断を受けておきながら、そのページを読む気が全く起こらなかった。血液型占いよりはマシだろうが、自己啓発本と同じぐらい活用しようと思えなかった。
 まず、内容があまりに抽象的だった。これはすでに就きたい業界や職種のイメージがある程度固まっている人が、自分の背中を押してくれる言葉がほしくてやるものなんだろうと思った。
 そしてわたしは、わたしに向いているらしい仕事のコラムなんかをいくつか読んでいるうちに、自分がビジネスや経済に全く興味をもてないことに気づいた。商売や政治や経済や法律といった、人間から生み出されたものや人間がコントロールしているもの、つまり人間を超えてこないものに従事しようという気が全く起こらないのだ。一言で言うと、感動しない。そういう領域では、人間を圧倒的に超えてくるものに接して震えるという経験はできないように思われた。そしてそれは、とてもつまらないことだった。もしかしたら実際その世界に飛び込んでみれば経験することもあるのかもしれなかったが、そのときのわたしにはとてもそうは思えなかった。わたしは、巨大で崇高で美しく、一生かけても把捉できないような存在に踏みつけにされて、その重みを全身で味わいながら地べたを這い回るようにして生きていきたかった。しかしその存在が具体的に何であるのか、そのときのわたしはわかっていなかった。
 だけど生きるためにはとりあえず、就職しなければなるまい。それが喫緊の課題だった。就活のことを具体的に考えようとした途端、わたしはまた何をしたらいいかわからなくなった。やりたくないことは何となくわかったが、では何をしたいのかと言われると立ち往生してしまう。美しいものに感動して生きたいが、でもそれを仕事にしたいとは思わなかった。どのような形であっても、そんなつもりがなくても、美しいものを利用して生活の糧を得てしまえば、いつしかその美しいものは卑近なつまらないものに成り下がってしまう気がした。わたしはそれが怖かった。できるなら、ときどき美しいものに感動しながら、なるだけ人に迷惑をかけず、春になって雪が少しずつ溶けていくみたいにして静かに消えていけたらいいと思った。だけどそれは夢物語だった。そしてきっと、一握りの雪のような幸福を手に入れるために、やりたくない仕事をやって生きている人が世界のほとんどを覆っているんだろうと思った。
 うんざりした。
 わたしは自分の将来の暮らしをちっとも思い描けなかったけど、ただ、三好とこれからも一緒に生きていけたら楽しいだろうという思いが漠然とあった。二人でマンションを借りて、朝はおはようと言って、夜はただいまとおかえりを言って、できればペットを飼って、三好につらいことがあったら黙って頭を撫でて、わたしにつらいことがあったら部屋で一人でさんざん泣いたあと充血した目のまま三好と食卓を囲んで黙々と夕飯を食べたかった。お互いの服を貸し借りして、肌に合わなかった化粧品を融通しあって、休日は車に乗って少し遠くのスーパー銭湯に出かけて二人で露天風呂に浸かって霞んだ町並みを並んで眺めたかった。
 でもわたしは、一緒に暮らしていくどころか、三好に付き合おうとも言っていなかった。三好もわたしに言わない。二人ともわかっていた。わかっていたから話せなかった。わたしはわたしたちの抱える困難さに向き合うだけの覚悟を持っていなかった。いや、少なくともわたしは自分の頭の中ではずっと向き合っていた、ただ三好と二人で向き合うことに耐えられなかったのだった。だって、例えば「養子縁組でもする?」って言葉を、どんな顔して言えばいいんだろう? 付き合おうとか結婚しようとか同じ墓に入ろうとか、社会が言い慣れたその言葉をわたしたちが口にできないのはどうしてなんだろう?
 そんなことを考えていると喉の奥がひりひりしてきた。窓の外を見ると、理学部棟の白い壁が青みがかった薄墨色に染められていた。振り返ると、図書館にはわたしの他には数人の学生しかいなくなっていた。イヤホンをつけて机に突っ伏して寝ている男と、本を積み上げてノートに向かっている男がいた。男がノートにペンを走らせるさりさりという微かな音だけが聞こえた。わたしはノートパソコンをリュックに突っ込んで図書館を出た。髪をなぶる風はもう刺すような冷気をまとってはいなかった。

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