十一

文字数 6,359文字

 部屋に着いたのは夜の七時前だった。三好はまだ来ていなかった。一時間待ったところで、三好にラインを送った。
「今日何時になる? 遅くなるなら先ご飯食べてるけど」
 さらに一時間待った。三好からの返事はなかった。夕飯を食べ終え、皿も洗ったわたしは手持ち無沙汰になった。部屋を見渡して、いつも部屋に買い置きしている三好の好きなチョコレートのお菓子がもう残り僅かなことに気がついた。わたしはスマホだけ持って最寄りのコンビニにそのお菓子を買いに行った。
 マンションに戻ると、玄関に三好の靴があった。狭い廊下を通り抜けて明かりのついた部屋に入ると、三好はベッドに腰掛けてぼんやりと前方を眺めていた。手にスマホを握っていたが、画面は点いていなかった。
「三好? 来てたんだ。何してんの」
 そう声をかけると、三好はううん、と不明瞭な返事をした。少し黙ってから「考えごと」と小さく呟いた。今日は機嫌悪いな、何かあったのかなと思ったが、こういうことはそれまでにもときどきあったので深くは気に留めなかった。
「ね、そこ寝るからどいて」
 ベッドに乗り上がって膝立ちになり、三好の肩を手で軽く押した。いつもなら三好はそのままふざけるようにベッドに倒れるが、そのときは違った。三好は倒れたりせずどきもせず、こちらを向いて、わたしの手首をぎゅっと握った。そして言った。
「京ちゃんさあ、今日、男の人とラブホ行ってたよね」
「え?」
「見てたの。入ってから出てくるまで。だから嘘つかなくていい、京ちゃんよりちょっと背が高い、若い同年代くらいの、白い上着着た男でしょ」
「えっと……」
 何と返せばいいかわからなかった。三好が何を言いたいのか、どういう言葉がこの場を一番丸く納める可能性があるのか、猛スピードで頭を働かせて考えた。しかしわたしが黙っている間に三好が言葉を続けた。
「あのさあ、うん、前から薄々他にも誰かいるんじゃないかなとは思ってたの。普通の友達かもしれないとも思ったし、でも京ちゃんが何も言ってくれないから何となく不安で、でもわたしのほうからも聞けなくって、わざわざそんなとこに干渉するのもアレだなって思ってさ……。だってわたしにそんな権利ないもんね。だけどどうにも不安で、確かめたくなって、見てたの。ホテルに入るとこ。それでね、でももしすぐにどっちかが出てくるんだったらまだ間違いの可能性があるって思ったんだけど、でも出てこなかった。三時間ばっちり時間使ってた。それで、ああ、なるほどね、って」
「三好、あの……でもわたし、あの人と付き合ってるとかじゃないから」
「何それ? 何の話? わたしはさ、京ちゃんは男と楽しくセックスできるタイプの人間なんだねって、もうわかってるけどさ、それを確認しに来たの、今日は」
「セックスは……してないよ。信じてもらえないかもしれないことはわかってるけど……」
 嘘ではなかった。おそらく三好が想像するような、社会通念的な「セックス」をわたしたちはしていなかった。しかし、わたしたちは精神的肉体的に相手と絡み合うことで性的に感じてもいた、それはやはりセックスでもあった。だけどそれをどう説明したらいいだろう?
「はあ?」三好はそう叩きつけるように言って顔を歪ませた。「じゃあ、何してたってわけ?」
 わたしは沈黙した。男を殴って喜ぶ変態性欲の人間と思われることと、男との生殖行為を楽しむ女と思われること。相手が三好でなければ後者を選んでいただろうが、三好相手では後者を選ぶのも前者と同じくらいに苦痛だった。
 三好はわたしの腕を掴んだまま、わたしに顔をぐっと近づけて言った。
「ラブホテルで、男と女二人で、休憩時間たっぷり使って、シャワーまで浴びて、何してたって言ってんの! わたしとエッチしたあとはシャワーなんて浴びないくせに」
「え、何で……」
 シャンプーもトリートメントもボディーソープも持参のものを使ったから、香りでばれるといったことはないはずだった。三好はわたしの腕から手を離し、わたしの左耳近くの髪の毛に触れ、毛先を梳くようにそっと指を動かした。三好の唇がかすかに震えているのが見えた。
「髪、ちゃんとオイル付けてから乾かさなかったでしょ。それにアイロンもしてない。京ちゃんそういう日ってここの横の髪がうねうねするのね。上の方もパサついてるし。ねえ、男と待ち合わせてたときはあんなにきれいなストレートだったのに」
 三好はそう言って俯いた。「わたしとエッチするときはシャワーなんて浴びないくせに。髪から洗わなきゃいけないようなこと、あの人とはするんだ。それとも、お風呂で?」
「お風呂では、してないよ」
 そう言ってから、もうわたしは何も言わないほうがいいのかもしれないと思った。三好は「そう……」とだけ言って俯いたまま顔を上げなかった。わたしも黙った。そのまま数分が過ぎた。
「ここにわたしが何を言いに来たのかって言うと」と三好が言った。低く、しかし明瞭な声だった。
「わたしはね……わたしは……京ちゃんと恋人でもないし京ちゃんを独占できる権利なんて持ってなくて、だから京ちゃんの浮気者とかそういうのを言いに来たんじゃないの」
 三好はそこで言葉を切った。わたしは黙って言葉の続きを待った。三好は小さく息を吸って続けた。
「さっきは声荒らげてごめん、わたしは京ちゃんに怒ってるんじゃないの。ただ……ちょっといらいらしてた。ごめんなさい。……今日は京ちゃんが男の人とホテルに入ったところ見てすごくすごくショックだった。でもそれは京ちゃんがわたしだけのものじゃなかったことが嫌だったんじゃないの。京ちゃんがわたしのものだなんて最初から思ってないし、むしろ、わたしのものになんてしたくない。わたしはね……つまり……わたしのことを愛し返さない人間が好きなんじゃなくて、誰のことも愛さない人間、誰のものにもならない京ちゃんが好きだったの。それに今日、気づいた。……言葉にしてみると陳腐だね」
「三好、わたしは別にあの男のことを愛してるわけじゃないよ」とわたしは言った。わたしはあの男と過ごす時間のことを、そしてあの男との間に発生する暴力という概念のことを愛してはいたが、あの男のことを一つの人格として愛していたわけではなかった。少なくともそういう自覚はなかった。
 三好は頭を振った。深い黒髪が三好の肩に当たってぱさぱさと鳴った。
「京ちゃんがあの男を愛してると思ってるかどうかは関係ない。ラブホテルで二人っきりになってシャワーを浴びるようなことをして、多分、セックスしてる、それは愛してるってのとイコールなんだよ。中身なんて見えないから人間って目に見える行動で評価するしかない」
「でも、じゃあ、わたしは三好とだってエッチしてるじゃない。それは愛じゃないの? わたしは三好のこと愛してることにならないの?」
「絡まり合うくらい近くにいるからこそ京ちゃんちゃんがわたしのこと愛してないのがよくわかる」
「三好、言ってることめちゃくちゃだよ」
「うるさいな、わかってるよ、理由は全部あとづけなの。感情を説明するために理屈をあとから持ってきてんの、信じられるものは最初の生の感情だけ。今、わたし、京ちゃんのことが気持ち悪くて仕方がない」
 最初は硬く低いものだったはずの三好の声は、気がついたら今にも壊れそうなくらいぶるぶると震えていた。見開かれた三好の目が睫毛の奥で耐えかねたように潤んでいた。わたしがそれをじっと見ていると三好は目をそらした、しかしまた挑むようにわたしの目を見つめ直した。
 三好は震えを落ち着けるように一度深く息を吸い、吐いて、そして言った。
「わたしは愛を知らない人間のことが好きなの、そういう人間って本当に清潔。気高くて……でもいじらしくて。孤高、っていうのかな。そういう、何にも夢中にならない、執着しない、自分のことしか考えていられない人間が本当に大好き。そういう人を眺めて崇拝して、わたしがどんなに愛しても愛し返してくれないのがたまらない。だからね……うん、京ちゃんは男とホテルになんて行かないでほしかった」
「じゃあ、……もしわたしがホテルに行った相手が女だったらどうだった? 気持ち悪かった?」
 そう言うと、わたしを見ていた三好の視点がぶれた。わたしの後ろには壁しかないはずだったが、三好はそこに難解な論文でも貼り付けてあるように、わたしの耳の横をじっと見つめながら口を開いた。
「それはね……わたしも考えてたんだけど……きっとがっかりしたとは思う。幻滅はしたと思うけど、でもこんなふうに気持ち悪いとは感じてなかったと思う」
「それはどうして?」
「やっぱりさ……男と女がセックスすると、それは妊娠につながるでしょ。子供が生まれる可能性(・・・)がある、そして子供って『愛の結晶』って呼ばれることがある。だからさ……これがわたしの思い込みだってわかってるよ、でも女同士のセックスより男女のセックスのほうが、そういう意味で、愛が生まれやすい(・・・・・・・・)ように感じるの。だからね……ごめんね京ちゃん、こんなこと言って」
 三好はそう言ってなぜか謝った。わたしは黙って三好の言葉を咀嚼していた。わたしと三好は根底で繋がっているような気がした。しかしそれを上手く言葉にできなかった。〈わたしがホテルで男としていたのは生殖行為じゃなくて、それを否定する行為なんだよ〉と喉元まで出かかったが、果たして三好がそれを理解してくれるのか不安だった。そしてわたしがそれを伝えたところで、今のこの冷え切った空気が好転するとは思えなかった。三好は少しの間返事を待つようにわたしの顔を見ていたが、わたしは黙っていた。すると三好がつぶやくように言った。
「でもさあ……その理屈で言うと、女同士で、男同士でもいいけど、とにかくどうあっても子供ができない者同士でするセックスって、どのへんに愛が生まれればいいのかな? ……実はね、虚しくなるの、ときどき」
「それは」わたしもそうだ、と言いそうになったが言わなかった。わたしまでそれを認めてしまうのはだめだった。「……子供ができないセックスでだって愛は生まれるよ、きっと。子供が愛の結晶って言われるのは『愛の結果』って意味で、子供ができなきゃ愛がないわけじゃないよ」わたしはそんなつまらないことしか言えなかった。
 それを聞いていたのかいないのか、三好は俯いた。ややあって、何も塗られていない唇が小さく、震えるように動いた。
「わたしはね……でもやっぱり、一方的に愛するだけの関係が寂しくなることもときどきあって。いや、それは関係とは言わないかな。とにかく、ちょっと寂しいなって思ったときは煙草を吸ってたの。そうすれば京ちゃんのほうからキスしてくれるから…………何を言いに来たんだったか、やっと思い出した。あのね、もう会わないことにしよう、なるべく。自分勝手で本当に悪いんだけど」
「…………うん」
 今日、三好と話し始めた時点で、そう告げられるのはわかっていた。でもいざ言葉にされてみるとつらかった。社会人になったわたしたちが日本のどこかで二人でマンションを借りて、仕事終わりに今日あったことを話しながら同じテーブルでご飯を食べて休日は車に乗って動物園に出かけたりする生活、何度も夢想したそういう未来が訪れることはないんだと思い知らされることがつらかった。幸福を失うことそのものより、来ると思っていた幸福がやって来ないと知ることが痛かった。
「もう来月から就活生だしさ、わたしたち」
 俯いたわたしの頭の先からそう三好の声がした。無理に笑顔を作って言ったような響きだった。
「……じゃあさ……また今度荷物取りに来るから。もう帰るね」
「うん」
 わたしは頷いたが、三好はきっとわたしが部屋にいないときを見計らって荷物を取りに来るんだろうと思った。そして合鍵はポストに入れてその連絡をラインで寄越すんだろうと思った。三好はそういう人間だった。別に責めるつもりはない、その様子を生々しくイメージできてしまうことが妙に悲しかった。
 わたしは三好に謝るべきかもしれなかった。しかし何を謝ればいいのかわからなかった。男との関係を三好に知らせていなかったのは確かに後ろめたいことがあったからだが、でもわたしは三好が同じようなことをしていたとしても責める気は起きなかったし、謝ってほしいとも思わなかった。
 三好と本当はもっと一緒にいられたらよかったと思った。三好との生活が好きだった、ありがとうと伝えたかった。でも、人から愛されたくないと言う人間が、一度気持ち悪いと思ってしまった人間からそんなことを言われて嬉しいだろうか? 逆効果なのではないだろうか? 効果、とか考えてる時点で、それを言うのはただのわたしの自己満足なんじゃないだろうか?
 わたしはそんなことを考えながら、玄関に向かう三好の背中を追っていた。この行動も三好からしたら気持ち悪いことなんじゃないだろうかと恐れながら。三好との距離を測りかねながら、座って靴を履く三好を数歩下がった位置から見下ろした。
 わたしは三好と一緒に過ごしていて楽しかったと、せめてそれだけでも三好に伝えようと思った。なのにわたしの口をついて出たのは全く別の言葉だった。
「……でもさ、自分はそんなにいっぱい人を愛するのに、相手が誰かを愛するのが嫌って、やっぱり傲慢じゃない?」
「わたしも傲慢だと思う」三好はそう言いながら立ち上がり、振り向いた。わたしと向かい合う格好になった。
「だから、ずっと困ってる。この社会で、誰とも付き合わずに、結婚もせずに子供も持たずに、誰とも愛し合うことなく、それでも幸せに生きていける方法って無いのかな」
「それは……」いろんな言葉がわたしの喉から出かかってはまた引っ込んだ。仕事に没頭すればいいんじゃない、誰かを一方的に愛するだけでもそれで自分が満足できていれば幸せだよ、海外移住って手もあるよ、幸せなんて人それぞれ、何かクリエイティブなことでもやってみたら? でもそうした言葉はどれも三好を傷つける気がしたし、それにわたし自身そんな答えを聞きたくなかった。それでわたしはこう言った。
「……わたしも、その答を探してる」
 三好はそれを聞いてほんの少しだけ笑い、少しだけ悲しそうな顔をした。
「じゃあね、京ちゃん」
 三好はそう言いながら手を振り、わたしに背を向けてドアを押し開けた。隙間から吹き込んだ夜風がわたしの髪を乱した。三好の向こうに星のない濃紺の夜空が見え、風で広がった三好の髪が一瞬、その空に溶け込んでいくように見えた。三好は細い隙間からするりと体を出し、わたしに顔を見せずにドアを閉じた。
 辺りが急に静かになった。わたしは部屋に戻り、テレビの電源をつけた。司会者風の男性と女性が映り、何が面白いのか声を上げて笑っていた。ベッドサイドに裏返しに置かれていたスマホを手に取ると、メールが二件、ラインが一件来ていた。メールの方はどちらも就活イベントの告知で、ラインは男からのものだった。
「来週末、またどうでしょうか? でもそろそろお忙しい時期かと思うので無理はしないでください。」
 わたしはそれに既読だけつけて返信しなかった。スマホの画面をオフにし、電灯を全て消して、真っ暗になった部屋でベッドに寝転んだ。とりあえず何も考えずに眠ってしまおうと思った。明日目覚めたときに、新鮮の光の中で、これからの生活が一転してめざましいものに変わるような画期的なアイディアが浮かぶかもしれないと考えた。もしかしたら何もかもだめなままかもしれないが、それは目覚めてから考えればよいと思った。顔を埋めた枕からは三好のシャンプーの香りがした。


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