六
文字数 4,902文字
男と初めて会ったのは大学一年の春だった。バイト先で三好と知り合う数ヶ月前の話だ。その時期は毎日構内のいたるところで、さまざまなサークルや団体が盛んに新入生の勧誘を行っていた。新歓イベントでは基本的に新入生は無料でご飯が食べられるので、わたしはほとんど毎日いろんなサークルのイベントに食事目的で参加していた。午後の授業が終わって正門前に向かうと、派手なTシャツや揃いのジャージを着た大量の学生たちがひしめき合っていた。その中に入ると数歩歩くごとに声をかけられてチラシを渡された。わたしはその中からなるべく押しが強くない、よく言えば柔和そうな雰囲気のサークルを選んで、食事会や説明会に参加していた。
ある日の夕方、わたしは正門前で合気道部だという小柄な女子生徒に声をかけられた。「ちょっとでも興味があったら、お菓子でもつまみながら軽くお話しませんか」と彼女は言った。わたしはそこまで興味がなかったので「そうですねえ」とだけ返し、曖昧な態度で立っていた。すると彼女は、こういうの慣れてないんだけど……というようなもじもじした態度で「あの、もしよかったらね、学生生活のこととか、履修登録のこととかも相談乗るし」と言って、ぎこちない笑顔を作った。食事会はないようだったので少しためらったが、たまには一人で大学の食堂で食べるのもいいだろうと思い、また彼女の態度に惹かれるところもあったので彼女に着いていくことにした。「今日暇なので、行ってみます」と言うと、彼女は安心したように笑った。
それからは講義棟から少し離れたところにある体育館に連れて行かれ、他の新入生とともに体育館の壁沿いに正座して演武を見学した。そのあとは部室に案内され、お菓子や部員の手作りらしい軽食の盛られたテーブルを囲んで部員と雑談したり、部の活動内容について説明を受けたりした。渡されたパンフレットを持って部室棟から外に出ると、日が沈みかけているところだった。いい具合に小腹がすいたので食堂に行こうと思って歩き出そうとしたとき、背後から「すみません」と声をかけられた。振り向くと、見覚えのある男が立っていた。合気道部の部室で、隣のテーブルに座っていた新入生の男だった。顔は見ていたが、言葉を交わすのはそのときが初めてだった。
「ご飯ですか?」と男は言った。わたしは少し警戒しながら「はい」とだけ答えた。
「俺も行こうとしてたところで。新入生の人ですよね? よかったら一緒に食べませんか? 俺こっちきたばっかで、友達とか全然いなくて、友達作りたいんですよ。もしよかったら、どうですか」
少しためらったが、わたしも入学してからまだ一人も友達ができていなかったので「そこの学食で食べるのでいいなら、いいですよ」と答えた。男は「もちろん学食で全然大丈夫です。めっちゃ嬉しいっす」と嬉しそうに行った。
学食へ行き、わたしはネギトロ丼を、男はささみチーズカツを注文した。料理を載せたトレーを持ってしばらく慣れない食堂内をうろうろしたあと、窓際の二人席が空いていたのでそこに腰を下ろした。食べながらいろんな話をした。
男は饒舌だった。出身地や学部、第二外国語といった「初対面の大学生定番の話題」から始まり、取る予定の講義、週末の過ごし方、高校時代の部活、大学受験の苦労、趣味、好きな映画や漫画など、淀みなく話した。話題自体はありきたりなものが多かったが、ユーモアとウィットに富んだ男の話しぶりは聞いていて愉快な気持ちになった。男は自己開示するばかりでなく、わたしのエピソードを引き出す質問も自然に織り交ぜ、「豊かな会話」を巧みに演出した。わたしはその話術に感嘆した。話は盛り上がり、またわたしは男の機智に好感を抱き、普段あまり人に話さないような自分の趣味も男に話した。男は話すだけでなく聞くことも上手く、情感のある相槌を打つのに加え「それってつまりこういうこと?」「じゃあこういう場合は?」と、わたしの言った内容を整理して提示することもした。男との会話は愉快なだけでなく、自分自身についての気づきも得られた。それは高校時代までの知人と話していたときはあまり得られなかった経験で、わたしは「いい人間と知り合いになれた」と思った。
食事を終えて一時間ほど経ったころ、「よかったら、今からうちに来ませんか?」と男が言った。わたしは頷いた。食堂を出て、ここから歩いて十五分ほどだという男のマンションへ向かった。
「俺たちまだ未成年だから……つまんないですよね、でも俺真面目だから、ジュースとお菓子ぐらいしかないけど、そこまで散らかってないんで、ね」
男は歩きながらもよく話した。食堂にいたときより少しだけ早口になっていた。男と並んで人気のない路地裏を歩いているうち、わたしは少しずつ緊張が高まっていった。やはり性交するのだろうかと思った。わたしは処女で恋人もいたことがなかったので、困惑しながら、まあやっぱりするんだろう、大学生だし、と考えた。脇の下が汗ばんでいくのを感じながら、どうするんだろう、まずはキスか、部屋に入ってすぐ壁に押し付けられてやられるかもしれない、そんなことを妄想した。ちょうど今朝毛の処理をしていたことを思い出して安心し、次にパンティライナーはどうしたらいいんだろうと不安になった。トイレに入れるタイミングがあれば外しておこうと考えた。
男は最初は饒舌だったのが、時間が経つにつれて少しずつ声の調子が沈んでいった。マンションの前に着くころにはすっかり寡黙になっていた。わたしはというと、「これ……俺のマンションです。四○六号室」と男が言うのを聞いただけで心臓が早鐘を打った。脇と背中がびっしょりと汗ばんでいた。
男のマンションにオートロックはなかった。乱雑に自転車が並んだレンガ造りの通路を抜け、古く狭いエレベーターに乗った。エレベーターの動きは遅かった。少し横に傾けば肩に触れるくらいの距離で、男は無言だった。わたしも何も言わなかった。
四○六号室に着き、「どうぞ」と男にドアを開けられて部屋に上がった。
男の部屋はワンルームだった。広さはわたしの1Kの部屋よりいくらか広かった。部屋の隅にまだ開けられていないダンボールがいくつか重ねて置いてあった。目立つ家具はベッドと部屋の中央に置かれたローテーブルのみで、カーペットの敷かれた床にはクッションもなく、どうしたらいいかわからずベッドとテーブルの間でぼんやりと立っていた。
「ベッド座っててもらっていいんで」後ろから男が声を出した。
「はい」
でもわたしは座らず立っていた。自分からベッドに座るのは誘っているようで嫌だった。男がリモコンを使ってテレビをつけた。温泉に浸かっているお笑い芸人の顔がアップで映された。「幸せだぁ」とその男が言った。
「そんな、ね、緊張せんでください」
いつの間にか男はポテトチップスとチョコレートの袋を持ってきてテーブルに置いていた。「クッション持ってくるんで待っててください。あとお茶とジュースどっちがいいですか」
わたしは「お茶で」と答えた。わたしは男が持ってきたクッションに、男はカーペットに直接腰を下ろした。男は黙ったまま二つのコップにお茶を注ぎ、一つをわたしのほうに差し出した。
「ありがとうございます」
男は返事をせず、少しの間俯いてテーブルの上で組んだ指の先を見ていた。そして急に顔を上げて言った。
「あの……ちょっといきなり結論から言いますけど、俺は別にあなたとエロいことしようと思って連れてきたんじゃないです」
「はあ? ……はあ」
「あの……でも、今日会ったばっかりの人にこんなこというの本当にあれだと思うんですけど……ちょっとお願いがあって。それで俺の家に来てもらったんです。あの、嫌だったら本当に断ってもらって構いませんから、もし、できればでいいんです」
「何ですか、そのお願いって。わたしじゃなきゃだめなことですか?」
男は食堂にいたときとは打って変わって、おどおどとした、自信なさげな表情をしていた。「あ……」と何か言おうとして口を開き、しかし逡巡するようにまた閉じた。何と言い出せばいいか迷っているようだった。そうした男の態度がわたしを強気にさせた。
「あと別に私もエロいこと期待してあなたについてきたわけじゃありませんから。普通に、友達になりたいなって思って」
「そう、そう、そうなんです。男女が揃えばエロいことするって決まってるわけじゃない。そういうの俺、嫌なんです。男女の性欲が前提となってる社会って、そんなの、かなり絶望じゃないですか? でも、考えようによっては、今から俺があなたにお願いすることはそれと矛盾するかもしれない」
「だから、何だっていうんです」
わたしはいらいらしながら言った。男はわたしを見、目をそらし、またわたしの目を見て意を決したように言った。
「あの、ちょっと俺のこと、殴ってほしいんです」
「は?」
「いや、いきなりすみません。もちろん嫌だったら断ってください、すみません」
「聞きたいことはいろいろありますけど、とりあえず、なんでそれをわたしに?」
「さっき、好きな映画や漫画を教えてくれましたよね……その中に俺が好きなやつもいくつかありました。あのときはあんまり掘り下げませんでしたけど、どれも暴力が主題になってるやつですね、すごくニッチな……それも暴力が手段じゃなくて目的になってるやつ。俺も好きなんです、大好きなんです。その、目的としての暴力ってやつが。だから、バクチでしたけど」
「それでわたしが暴力を好きだと?」
「はい。……勘違いでした?」
わたしは黙った。それを他人に言ってしまっていいのか迷った。これまで誰にも言ったことはなかった。言うメリットよりデメリットのほうが大きいと思っていたからだ。しかし男は自分も同じだと言った。「殴ってほしい」と確かに言った。そしてわたしは友達がほしかった。わたしは微笑んだ。
「好きです。よくわかりましたね」
そう言うと男は「よかった」と言って頬を緩めた。そしてわたしのほうに身を乗り出すようにして言った。「だったら話が早い、ね、殴ってもらえませんか、俺のこと」
男が話し終えるが早いか否か、わたしは男の頬を平手で打っていた。ばちんという音が部屋に響いた。男は頬を手で押さえてわたしを見上げていた。わたしはいつの間にか立ち上がっていた。わたしは自分の後ろにあるベッドを意識しながら脚を後ろに引き、床に座っている男の腹を蹴り抜いた。
男は床に倒れた。ごぼごぼと嫌な音のする咳をした。男は床に頬をつけたまま目だけでわたしを見上げた。媚びる目つきだった。わたしはそれに応えるように、目の前に無防備にさらされた男の腹を力を込めて踏み潰した。
そのとき、わたしと男の接点で火花のようなものが弾けた。衝撃が足裏から膝に伝わり、そして腹まで届いた。自分の足の下に内臓や意識や痛覚の詰まった肉の塊が転がっていることを意識したとき、わたしの胸の奥に払暁の光のように何かが生まれた。それは小さく、だけどまばゆく、サイダーの泡みたいにぱちぱち弾け、わたしの胸をしゅわしゅわとろかしていくように思われた。
わたしはたまらなくなった。わたしのつま先から少し離れたところに男の横顔があった。男は膝を折り、両腕で腹を抱えるようにして床に転がっていた。口は薄く開かれ、半分閉じられた目は何も見ていないようだった。穏やかでどんよりとした悦楽に浸るものの目だった。男は、腹の中にある暴力の名残がどこにも逃げていかないよう大事に大事に抱きかかえている虚ろな母のようにも見えたし、幸福な夢だけが溶かされている羊水に浸った胎児のようにも見えた。
部屋には暴力の気配だけが満ちていた。それは思っていたよりも柔らかく、わたしの心を温かく高揚させ、また少しだけ不安にもさせた。その空気を味わっていると、わたしは急に男を抱きしめたくてたまらなくなって、男の腹を強く強く蹴った。突然やってきた自転車に轢き潰されたアマガエルみたいな声が男の喉から出た。