文字数 2,414文字



 三好がわたしの部屋に来たのはそれから三日後だった。三好は白いニットに薄手のジャケットを羽織り、黒スキニーに白いスニーカーを履き、手に近所のスーパーの袋を持ってやってきた。そして光にかざせば透けるようなアッシュブラウンだった髪が真っ黒に染められていた。出迎えたわたしの顔を見ながら、「もう、春じゃん?」と三好が言った。
「あ……」
「ん?」
「髪」
「え? ああ、染めたの」
「ちょっと、早くない?」
「でもあれ、合同企業説明会ってやつ。行ってきたの、今日。初活動」
「へえ……どうだった?」
「収穫なし」
 その話はそこで終わって、三好は「鍋しよう、鍋。スープ余ってたでしょ。使い切ろう」と言いながらレジ袋から白菜を取り出した。そして慣れた手付きで棚の中から片手鍋を取り出してコンロに置いた。妙につやつやした真っ黒い髪の毛、それだけが三好の存在の中で明らかに浮いていた。白い肌、薄いまぶた、薄茶色の目、色素の薄い唇、そうしたものと息苦しくなるような漆黒の髪は致命的に不釣り合いで、かつて三好の上にあった全体の自然な調和は無惨に破壊されてしまっていた。
「その色、似合ってないよ」わたしはそう言ってしまいたかった、だけどすんでのところで堪えた。
「白菜切ってね」
 三好にそう言われて、わたしはのろのろと流しの前に立った。自分の焦げ茶色の髪の先が視界の端をちらちらと揺れた。汚い色だと思ったが、黒く染める気が全く失せてしまった。
 その日は性交をしなかった。夜中、背中に三好の寝息を感じながら、男にラインを送った。既読はすぐについた。「明日は用事があるので、今週末の土曜の午後でどうですか」と返信が来た。「いけます。お願いします」とだけ返信をしてわたしも目を閉じた。
 ホテルへの道中、男は「どうですか、就活。もうすぐですよね」と、聞かなければならないことのように聞いてきた。「みたいですね」と返すと「他人事」と言って男が笑った。
「あなたはしないんですか? 就活」
「理系なんでね、院進しますよ」
「そう……」
 わたしはそこで初めて男が理系だったことを知った気がした。最初に出会った日に聞いていた気もするが、忘れていた。わたしは男のプロフィールに興味がなかった。好きな食べ物も、誕生日も、家族構成も、恋人がいるのかも、全然知りたいと思わなかった。わたしは目の前にある男の肉体だけを大事にしていた。わたしはそれで十分だと思い、むしろ、そうした接し方のほうが純粋だと思っていたような気がする。純粋、何と比べて?
 ホテルの部屋でわたしはいつもと同じように、男の髪を掴み、頬を打ち、床に転がしてそれを踏んだ。男は転がされるたびに喜びの声を上げた。わたしは男を打擲しながら、膣がきゅうと窄まるのを感じた。わたしはこの男との時間を愛していた。二人の人間が激しく求め合ってそれに応え合う、これがセックスなんだと思った。子宮も性液も避妊具もいらないセックスだ。これがセックスの最も高尚な形であるのだとすら思えた。男は鼻血を流しながら勃起し、わたしは男の腹を蹴りながら股を濡らす。わたしたちの暴力は、性より一段高いところにあった。暴力は清潔で高潔だ、だってわたしたちの醜さの根源を否定し破壊してくれるものだから。人間は繁殖をやめたときに神になれる、わたしたちはその神の膝下にいるんだと思った。男は泣いていた。男の涙か汗か唾液かわからない液体が男の頬を打った拍子に床に飛び散った。
 退室まで残り一時間になり、わたしたちは部屋の復元に取り掛かった。備え付けのタオルを水で濡らし、床を拭きながら、わたしは男に「ねえ」と声をかけた。行為が終わったあと、わたしたちはいつもほとんど無言で解散するので、男は訝しげな表情をした。「何です?」
「わたしたちの未来って、どうなってると思います?」
「未来? ……それは人間全体の? それとも、俺とあなたの?」
「わたしとあなたの」
 男は不思議そうにわたしを見て、少し考えたあと言った。
「そうだな、考えたことなかったけど、でも今より良くなってることはないんじゃないですか」
「良くなってない?」
「ああ、そんな悪い意味じゃなくて、なんていうか、今のこの関係が俺は最高だって思ってるんです。だってね、こんな、奇跡みたいですよ。この関係がいつ終わっても俺はああ幸せだったなって思えると思います。俺はあなたと過ごすこの時間が本当に好きで、貴重なんです」
「じゃあ、この時間がずっと続けばいいって思います?」
 そう言うと、男は首を傾げて「それは、どうかな」と言った。
「どうかなって……」
「俺のこういう欲望は多分死ぬまで続くと思いますけど、今やってるみたいな実践を死ぬまで続けるかというと、そういうイメージはあんまりできない」
「それは……どうして?」
「だって、悲しいから」
「悲しい?」
「あまりに非生産的だから。だってね、本当に、浪費みたいだなって思いますよ。でも俺たちは生きてるから、浪費するだけじゃなくって何かを生んでいかなきゃいけないと思うんです。これはみんながそうするべきって話じゃなくて、少なくとも俺はそうしないと途中ですごく嫌になっちゃうだろうって話なんですけど。だから俺は、あなたとのこの時間を反芻しながら、勉強して就職して、好きな女性と付き合って、家庭を持って子を育てて、老後は庭の野菜を収穫したりしながら生きていくんじゃないかと思います」
 わたしは返事をしなかった。手にだらりとタオルをぶら下げて突っ立っているわたしを男は不審そうに見上げた。
 今日は汚れてしまったからシャワーを浴びていきたい、と男が言った。わたしも男の体液が僅かだが顔にかかった気がしたから、今日は髪まで洗いたかった。十五分ずつ交代で浴室を使い、退室時間ギリギリになって二人でホテルを出た。男は「コンビニに寄っていくので」と言って駅までの道中で別れた。わたしは一人で電車に乗って帰った。

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