第4話

文字数 2,986文字

「今日はお時間いただき、ありがとうございます」
「いえいえ。御社の副教材は相変わらず現場でも好評ですから、私どもも助かっております」
「そうおっしゃっていただけると光栄です」
 僕がお辞儀をすると、学年主任の土井先生は座るようすすめてくれた。人手が足りないのか、自分の来客は自分で対応するという方針でもあるのか、土井先生は自らお茶を淹れてくれる。しわが目立つけれど形のいい手は、教育者として子どもを預けるにふさわしい凛とした所作をする。彼女が土井先生に見守られているのならば、安心安全というものだ。それでも、何気ないふうを装って尋ねておく。
「こちらに来る途中で【不審者注意!】の看板をいくつか見かけました。なにか事件でもあったんですか?」
「ああ、いえいえ。特別なにか起こったというわけではないんですよ。注意喚起です。日ごろから心構えをしておくのとしておかないのでは、いざというときの判断に差が出ますから」
 なるほど、と得心した。土井先生の落ち着いた口調で説明されると、まったく問題ないと飲みこめる。動じない、貫禄のある姿勢は長年教育現場に携わってきたからこそ身につくものなのだろう。
 土井先生は差し向かいのソファに腰かけ、「どうぞ」とお茶をすすめてくれる。形ばかりと口をつけたお茶は、ずいぶんと上品な香りがした。
「御社の【な~る~シリーズ】は子どもが率先して取り組んでくれるので、非常に助かります。イラストもゆるかわ……というのかしら。とにかくそちらも大変喜んでいるようです。このまえ、お願いした英語の入門テキストも、導入教材としてとても適していると現場から声が上がっています」
「恐縮です」
 軽く会釈をする。ここまでは本心なのだろうけれど、むしろここから切りだす本題のための前置きに過ぎない。土井先生は学年主任まで昇りつめただけあって、毎回称賛する手間をいとわない。粘り強く、あせらない。どれだけ迂回したとしても、最後には必ず自分の目的を果たすように緻密にルートを組みたてている。
「だからこそ、のお話なんですが、そろそろ御社からも教科書準拠の教材を視野に入れていただけないでしょうか。いつも同じことを、耳にタコができるくらいお願いして申し訳ないですけど、これは御社を、あなたをきちんと評価しているからこそのお願いです。どうにか検討していただけないかしら」
 静かに、淡々と、しかし譲らないという信念が見え隠れする口調だった。もういいかげん行動しろ、という焦れた思いも確かに見て取れた。それもそうだろう。僕はその場では前向きなことをほのめかすくせに、その実まるで動いてはいないのだ。上司に相談したところで、小さな職場ではとても対応できないといったマイナスな答えが返ってくるのは予想できるし、下手を打てば僕の仕事が二倍三倍に膨れあがる。なんとしてでも、それは避けねばならなかった。
「弊社に期待をかけてくださっているのは、本当にうれしいことです」
「ほかの学校からも、きっと同様の要望は上がっているのでしょう」
「ご推察のとおりです。土井先生のように評価してくださっているから、という前向きな理由ではないかもしれませんが」
「心苦しいのですが、私も純粋に期待だけでお願いしているわけではないんです」
 僕は苦い表情を作ってみせたあと「承知しております」とつぶやいた。土井先生は湯呑みを口にもっていってから「薄かったですね」とこぼした。そんなことはない、と返すまえに、土井先生が続ける。
「なんとか前向きに検討していただけませんか」
「もちろんご提案は責任を持って伝えますし、弊社としても真摯に取り組みたいと考えております」
「考えるだけですか」
「そうおっしゃられると、なんとも心苦しい。つまらない理由で申し訳ないのですが、準拠対応できるほどの潤沢な資金と人材が、現在弊社ではなかなか……」
「しかし、いずれはご対応いただかないと、正直厳しい状況なのではないですか」
「おっしゃるとおりです。後回しにしたところで、いずれ降りかかってくる問題です」
「ならば早急にお願いいたします。でないと、御社の採用自体を見送ることになりかねません」
 土井先生は毅然とした態度で宣言した。一点の曇りもない率直な要望は、僕にとっても気持ちがいいと思えるものだった。変に探り探りで迫られるよりは、いっそすがすがしい。窮地に追いこまれたはずなのに、喜んで崖から突きおとされるのを待っているような気分だ。落ちれば死ぬだけなのに、海に飛びこんだらすっきりするだろうなあ、とのんきな心持ちでいる。
「私どもは御社の教材の、純粋にファンです。準拠に落としこんでも、必ずやすばらしいものを作っていただけると信じております」
 うちの教材が自由度高く、ユニークな持ち味を誇れる理由は、間違いなく教科書準拠でないからだ。教科書に沿った内容にしたとたん、無味乾燥な、どこにでもあるようなものになることは目に見えている。厳密なルールに則ったうえで個性を打ちだす。そんな稀有な才能やセンスは、僕にも、僕の職場にもなかった。
 けれど、それは土井先生には説明せず、ただ礼を言うにとどめた。そんな事情は顧客側にとっては知ったことではないし、知らせたところで言い訳にはならない。
「貴重なお時間、ありがとうございました」
「こちらこそ。あ、少し先の話ですが冬休みの家庭学習。また御社のテキストを採用しようと考えております。よろしくお願いしますね」
「光栄です。ありがとうございます」
 とりあえずこの調子で今年度は食いつないでいけるだろう。その後はどうしたものか。
「あら、あの子。忘れ物かしら」
 土井先生が窓の外を見つめている。校庭をちょこまか走ってくる、小さな点があった。僕は目を疑った。思わず変な声が漏れてしまいそうだった。
 元気よく校舎に向かってくるのは、正真正銘彼女だった。小さな体から、神々しい光が放たれているのが僕には見える。悶絶しそうになる。体を少しくねらせたところで土井先生と目が合ったので「虫が、虫がいまして」と言い訳した。
 窓を開けて、土井先生は彼女に声をかける。
「どうしたのー? 忘れ物ー?」
「そうでーす。リコーダー!」
 弾けるような笑顔で、彼女は答えた。変声期前のかわいらしい上ずった声は、僕の全身を震えあがらせた。僕に向けられたわけではないけれど、僕のほうに向けられた声は、一文字一文字まるでマシンガンのように僕を蜂の巣にしてしまう。ここが自室なら、おおうおおう、と床を転げまわりながら悶え苦しんだだろう。しかし、ここは神聖なる教育現場。なんとか顔がにやけないように努める。穴という穴から一斉に汗が噴きだす。
「……失礼しました。あら、どうしたんですか。なんだか尋常じゃない汗をおかきになって……」
「いえ、大丈夫です。ちょっと暑いなあと思いましてですね。準拠の件、頑張りますです。むしろ、そのためにはですね、また土井先生の貴重なご意見、どしどし聞きに参上いたしますので、はい」
 僕はハンカチで汗をぬぐいながら、息も絶え絶えに退場した。土井先生の怪訝な表情は見て見ぬふりをする。
 ああ! 胸が張り裂けそうだ! 僕の天使! いや、胸はもう穴だらけだった、僕の天使!
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