第3話

文字数 2,026文字

 彼女の学校は集団下校を推奨しているが、実施されるのは結局月に数回程度だ。今の小学生は忙しい。ほとんどの子が二つ以上は習い事をしている。それに合わせて生活のリズムが作られるのだから、周りと足並みをそろえている暇はないのだ。皆、頭一つ飛びぬけるために、必死で帰り道のタイムを縮めている。
 彼女もそうだ。水曜と土曜はスイミングスクールだし、木曜はピアノ。最終週の金曜日、大人で言うところのプレミアムフライデーとかいうわけのわからない日には英会話教室が控えている。月一回じゃあ、労働環境も英語のスキルも好転しないと思うのだけれど。でもまあ、後者については彼女が楽しそうにアルファベットの歌をうたっているので良しとしよう。
 習い事のない日、彼女はとてものびのびと帰る。ゆったりとした足取りで、両手を大きく振って、時には鼻歌まじりに、時にはちょっと寄り道なんかをしたりして。また時には、四角いステップをぎこちなく踏んだりして。それにターンを加えたりして。そんな調子だから、なかなか家にたどりつかない。
 彼女はわかりやすい。ピアノのある木曜は早足ではあるが、険しい顔つきで、ランドセルを岩のように重く背負っている。歌は好きだけど、ピアノは苦手。そうはっきりと、顔どころか全身に書いてある。
 僕はどちらの彼女も好きだけど、一番はやっぱり今日のような彼女。ふらふらと蛇行して、道端に咲いている花の蜜をおいしそうに吸ったりする彼女が好きだ。小さな世界で、傍から見れば危なっかしい冒険を繰りかえしている。僕はそれを見守る。そんなときは、僕もふと童心に帰る。そういえばポケットティッシュを食べたりもしていたなあ、と思い出して、口に含んでみてすぐえづく。
 彼女は友達が多いほうだと思うけれど、帰り道は一人で歩くのが好きらしい。時折、女の子同士で顔を寄せあって腕をからめたりして帰る姿も、それはそれで微笑ましい。つまりはどちらもかわいい。要は男子と肩を並べなければ、それでよろしい。
 カーブミラーのある角では、必ず一度止まる。ママの教えが功を奏したのか、彼女は律儀にそれを守っている。それでも大人のほうがルールを無視することがある。そして世の中にはいろんな大人が群がっている。出合い頭にご用心。
「あらあ、今帰り?」
 出た。思わず顔をしかめたが、おそらく硬直している彼女も同じ表情を浮かべているはず。
「よかったねえ、しーちゃん。おねえちゃんに会えたねえ」
 どことなく薄汚れた衣服をまとうばあさんは、このあたりではちょっとした有名人だ。曲がった腰を支えるように、しわしわの手でしっかりとベビーカーに寄りかかる。ばあさんがベビーカーを操っているのか、ベビーカーがばあさんを先導しているのかわからない。そのくらい一心同体と化している。ベビーカーばあさん。略してベビばあさん。幼児でグランマなんて矛盾した愛称だ。
「しーちゃん、おねえちゃんに挨拶しようねえ。あ、笑ったねえ。こんにちはってねえ」
 ベビばあさんがしきりにベビーカーをのぞきこんで話しかける。そこに横たわっているのが醜くても生身の人間だったらよかったのだけれど、無機質な人形だったからベビばあさんは有名人になってしまった。
 しーちゃんと呼ばれた性別不詳の人形もまた薄汚れていた。火事場から拾ってきたみたいに、衣服のところどころが破れ、頬は黒ずんでいた。ベビばあさんはしーちゃんを大事に扱うわりに、きれいにしてあげようとか服を見繕ってあげようとか、そういう感覚はないらしい。ただただ、話しかける。慈しみを持って話しかける。返事はベビばあさんの鼓膜だけに響いている。
「今日はねえ、しーちゃんとお出かけなのよ。さ、しーちゃん。おねえちゃんにバイバイして。はい、バイバイ」
 ベビばあさんが目を細めて「よくできました~」と言うので、彼女もあわてて手を振ってみるが、当然人形は微動だにしていない。戸惑う彼女をよそに、ベビばあさんはのろのろと前進していく。
 一人残された彼女は首をかしげる。ベビばあさんは基本的に無害だが、こんなふうに誰かの心の動きにやんわりとストップをかけていく。
 ベビばあさんが見えなくなると、彼女はすぐにまた花を見つけては蜜を吸う。それでいい、と僕はうなずく。彼女の冒険は続くのだ。ベビばあさんの話題だけで何時間も無駄にするような子にはなってほしくない。
 【不審者注意!】とでかでか書かれた黄色い看板をスルーし、日向ぼっこしていた猫に彼女は襲いかかる。猫はおびえながらしゃーっと威嚇する。彼女はけらけらと笑いながら、無邪気に追いかける。かけ足がスキップに、そして気がつけばまた四角いステップを踏んで、猫をとり逃がす。
 自由に、わんぱくに、人を悪く思わずに。でも、石につまずかないようにしてね。車に気をつけてね。危ない人には注意してね。そう願いながら、看板の陰で彼女の背中を見つめる。
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