第5話

文字数 2,710文字

「ああ……山田さん、すっごーい……素敵なお部屋ですねー」
 いつもよりワンオクターブ高めの栄子の声が、耳にきんきんと響いて仕方がない。けれど、高揚するのもまた仕方がない。そのくらい招かれた部屋は広く、ゆとりのある空間だった。最新の家電が一通りそろい、大きなテーブルには色とりどりの料理が並べられ、システムキッチンではエプロンをした山田さんが優雅に作業をしている。
 腰かけたソファは、職員室で座ったものより数段座り心地がいい。沈みすぎない革張りのソファは、うっとりとリッチな気分に浸らせてくれる。栄子のほうはどうも落ち着かず、背筋を全力で伸ばしたまま、足元だけそわそわとしている。
 食事の約束を取りつけたものの、食べたいものが一つにしぼれず悩みつづける栄子に、「では手料理を振るまいましょう」と自宅に招待する山田さんはバツイチの独り身だった。奥さんがいないという事実より、家に行くという事実に狂喜乱舞していた栄子だったが、不意に我に返り、急に乙女な部分を発揮し、脈絡なく「友達も連れていきます!」と宣言してしまったらしい。まるで動じず「どうぞ」と応じた山田さんはまぎれもなくジェントルマンだ。
 そんな飛び入り参加の僕は、栄子よりくつろいでいた。第三者の立場がそうさせるのかもしれないけれど、完璧な男やもめの部屋の造りは感心させられると同時に、とても居心地がよかった。テーブルには引き出しがついているのかあ。時計は置いていないのかあ。ベランダに花を飾っているのかあ。あのコーヒーメーカーを使っているのかあ。と、失礼にならない程度に部屋を観察しては、いろいろな発見をすることが面白かった。
 山田さんはまるで僕の想像をそのまま現実に投影したような人物だった。細身でシンプルな着こなし(ただしハイブランドであろう)、おしゃれな眼鏡。ひげはなかったけれど、大人の色気はだだ漏れだった。ただ、こうして実物を見ると、およそ普通の会社員とは思えない。雑誌の切り抜きをそのまま貼りつけたみたいな、素敵すぎる暮らしぶりだった。
 山田さんの手料理もまた浮世離れしている。なにかのアートかと勘違いするくらい、思いつくすべての色が使われていた。栄子ならずとも、これは写真におさめたくなる。
「もー、山田さん、すごすぎ! 本当、なんだろ、もー半端ないです!」
 もともと語彙の少ない栄子が、さらにシンプルな口調になっていく。どれだけアートっぽくても飛びだしたり回転したりしない品々を、栄子はひたすら連写している。「食べるのもったいないですよー」と言いながら、栄子は誰よりも口いっぱいに頬張っている。その結果、会話は山田さんと僕とでキャッチボールする流れになった。
「教材関係の出版社に勤務されていると聞きました。大変なお仕事ですね」
「いえ、とんでもないです。ただ、業界的にもなかなか厳しい状況ではあります」
「指導要領が変更されるたび、現場では対応にご苦労されているんじゃないですか」
「おっしゃるとおりです。うちは教科書準拠ではないので、まだましなはずなんですが」
 すると山田さんはなにか思うことがあったのか、少し目をつぶった。そんなしぐさにも、大人の男の色気がにおいたつ。案の定、栄子はローストビーフを口にふくませながらも、考えこむ山田さんを凝視している。山田さんは眼鏡を少し持ちあげて、
「もしかして【な~る~シリーズ】を手がけていらっしゃる会社さんですか」
 僕は驚いて「そうです」と答えた。「でも、どうして?」と続ける。
「あのシリーズは面白いですね。大人の読み物としてもいろいろ発見があって刺激になります。実はイラストを手掛けている方とちょっとした知り合いなんです」
「田中先生と?」
 直接、田中先生とやり取りしたのは別の社員だが、何度か会社まで足を向けてくれたこともある。穏やかで人のよさそうな、小太りのおじさんだった。二人のつながりを問うかどうかためらっていると、肉を嚥下した栄子が「山田さん、それってどういう知り合いなんですか」と遠慮なく援護射撃してくれる。田中先生の素性を知らない栄子は、好敵手出現かと身構えたらしい。
「うーん……そうですね。実は私、漫画を描いてまして」
 思いがけない告白に、僕と栄子はそろって「え!」と声を上げた。栄子にいたっては飲みこんだはずのローストビーフを戻しかねない勢いだ。
「え、え、山田さん、漫画家ってこと? だって、もうすぐ定年だからって、あれ」
「栄子さん、すみません。あまり素性を明かしたくなかったので、ちょっと嘘をついてました。申し訳ないです」
 いたずらがばれた少年のようなあどけなさと、即座に謝罪するいさぎよさと、両方兼ねそなえながら山田さんは改めて自己紹介をしてきた。山田さんはそこそこ有名な青年誌で連載を持っている漫画家だった。その作品は読んだことはないけれど、もちろんタイトルと内容は知っている。王道のバトル漫画で、深夜枠でアニメ化もされていたはずだ。栄子は興奮しながら「へー、すごい。山田さん、先生じゃん!」とはしゃいでいるけれど、おそらくこいつは知らない。見たこともない。漫画とかアニメ方面には疎いのだ。山田さんもそれを見抜いているのか、穏やかに「ありがとう」と応ずるにとどめている。
 そこからの話題は山田さんを中心に広がっていった。漫画家という、僕から見れば特殊な職業についてのトピックスは尽きることはなかった。最近はだいぶ落ち着いた生活を送れているけれど、昔はいろいろな意味で大変だった。時間は不規則極まりないし、収入も安定しないので、一度結婚したときは相手の家族の了承を得るのにも苦労した。結局、その相手とも別れることになるのだが。
 山田さんは驕ることなく、誇張することなく、丁寧にエピソードをつむいでいってくれた。栄子も熱心に耳をかたむけている。
「だから、うらやましいです。教材の出版社というお仕事は。もちろん大変なお仕事であることは理解していますが、世間からの信頼は厚い。堂々と胸を張っていられる。私のような人気商売は、落ちるときは一気に、それもどこまでも落ちます。私なんかは小心者なので、いつもなにかにおびえながら暮らしていますよ」
 寂しそうに山田さんは語った。勝手なイメージであることないことを誹謗中傷されるのは、想像に難くない。ちょっとネットを開けば、根も葉もないうわさと悪口のオンパレードだ。
「だから、慎重に生きなくてはいけません。自分らしく生きるためには、より慎重に」
 熱を帯びてきたその言葉に、僕も自然と首を縦に振っていた。
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