第6話

文字数 5,133文字

 蝶が飛んでいた。いや、蛾かもしれない。僕にはその見分けがつかない。とにかく優雅に羽を泳がせて宙を舞う虫を、彼女は一心不乱に追いかけた。めずらしく四角いステップを踏むことなく、ただ目前のターゲットを追う。蛇行しながら、ジャンプをはさみながら。
 あ~、危ない! もうちゃんと前見て! だめだめ! そんなふうに走ったら、めっ!
 やきもきしている僕の声は届くはずもなく、彼女はついにぶつかってしまった。運よく車ではなくベビーカーだった。それでも僕は息をのんだ。一瞬、目の前が真っ白になって、心臓が止まったんじゃないかと錯覚した。
 相手はベビばあさんで、彼女が勢いよくクラッシュしてもまるで動じなかった。が、人形がずり落ちた。確かしーちゃんとか呼ばれていた人形だ。
 間違いなくぶつかった衝撃のせいではなく、もともとがボロの人形だったせいでしーちゃんの右腕はあっけなく取れた。転がった腕の造りは妙にリアルで、彼女は目を丸くして後ずさる。
 しかし、彼女よりも目を見開いたのはベビばあさんだった。小刻みに震えだしたかと思いきや、ベビばあさんはしーちゃんの落ちた右腕をベビーカーで轢きはじめた。何度も何度も前後にベビーカーを走らせ、白い右腕をゴロゴロと転がす。材質自体は頑丈なのか、傷めつけられても右腕はなかなか砕けたり変形したりしない。ただ、右腕が右腕のまま、汚れていくだけだ。やがてベビばあさんは奇声を発しはじめた。
「ふおおおおおおお、ひゃああああああああ」
 いや、怖い。普通に怖い。離れたところで見ている僕でさえ怖いのだから、小さな彼女が目に涙をためているのは当然だろう。恐怖で顔が引きつって、その場から動けなくなっている。そんなレアな表情もまた絵になるなあ。怯えてる子ってかわいいんだなあ。いやいや、助けなければ!
 僕が駆けだそうとするより先に、空気を切りさくような鋭い怒声が飛んできた。
「なにしてるんですかっ!」
 きいん、と耳鳴りを引きおこすほどの雷が落ちて、彼女はとうとう泣きだしてしまった。「ふえええ」と我慢しつつも、大粒の涙をぽろぽろとこぼす様子もまた……いやいやいや、鬼の形相でその場に駆けつけてきたのは土井先生だった。
 土井先生は泣きじゃくる彼女の頭をなで、自分のほうに引きよせる。ベビばあさんは動きを止め、土井先生と真正面から向き合う。
「この子になにをしたんですか」
「このクソガキがぶつかってきて、しーちゃんの腕を折ったんだろうが!」
 ベビばあさんは普段の柔らかな物腰はどこへやら、がなり声でわめきちらす。彼女はおびえきって、土井先生のスカートにしがみついている。小さな手でぎゅっとつかんでいる姿もまた……
「しーちゃんって、人形でしょう」
 いやいやいやいや! さらりと言いはなった土井先生に度肝を抜かれた。それ、多分一番言っちゃだめなやつ! 地雷中の地雷! 誰もがおかしいなあ、と思っていることは、たいてい触れないほうがいいのだ。栄子がさらりと言いそうな名言だ、と自負したが、栄子なら初見で「人形じゃん!」と指をさしてしまいそうでもある。
「だいたい折ったって折れてないでしょう。取れただけでしょう。それどころか、今あなたがその腕をベビーカーで轢きまくってたんじゃない。大事そうに扱っているくせに矛盾してるわよ」
 あくまで毅然とした態度で、土井先生は弁を振るう。正論ではあるけれど、それが果たしてベビばあさんに通じるものなのだろうか。彼女は完全にベビばあさんを視界から消すべく、ぐりぐりと顔をスカートに押しつけている。ちゃっかりハンカチ代わりに涙や鼻水を拭いているようでもある。
「……しーちゃんは私の子です」
「人形ですよ」
「私のかわいいかわいい子どもです」
「人形ですって。腕がそんなふうにはずれてるんですよ。それは人形です」
 あああ、土井先生! もうやめて! 関係ない僕がいたたまれないのだ。ベビばあさんにとっては身を切られるような思いだろう。彼女はスカートをくるくると全身に巻きつけはじめた。カーテンでよくやる要領だ。意外とずぶといな、この天使は! めっ!
「その腕を見て、あなたも思い出したんでしょう。人形だって。だから取り乱しているんじゃないの?」
 土井先生はすっと前に出て、ベビーカーの下敷きになっている右腕を取りあげた。急にスカートがなくなった彼女はくるりと回ったあと、きょとんとした顔でその場に立ちつくした。土井先生はベビーカーの人形の上に右腕を置いた。そしてベビばあさんのしわくちゃな右手に、自分の手をそっと重ねた。
「子どもだろうと人形だろうと、大切なものを轢くのはやめなさい」
「……あなたみたいな……立派な教育者に私の気持ちなんてわからないです」
「立派じゃないし、誰であってもあなたの気持ちなんてわからないわ」
「……あなたみたいな……恵まれた人に私の気持ちなんて……」
「恵まれてるってなにが? 私は子どももいないし独り身よ。よくそれで教育者が務まるな、なんて陰口をたたかれたことも数えきれないくらいあったわ」
 土井先生の事情を知って、少なからず僕も驚いた。子どもと接する仕事なのだから、子どもがいるに違いないという謎の偏見があった。そんな状況から学年主任までやってのけるなんて、やはり相当の実力者に違いない。
「……私、子どもが欲しかった。だけど……」
 ベビばあさんの瞳に正常な光が宿った。涙声でこれまでの長い人生を打ちあけようとしている。土井先生もまた、真剣な眼差しでベビばあさんを見つめかえしていた。あ、だめだ。これ、長くなるやつだ。
「待って。ここじゃなんだから、どこか落ちつける場所に行きましょう。まずこの子を送り届けないと……」
 土井先生ナイス! 千載一遇の大チャンス! さも今通りかかりましたよ、仕事のついでですよ、という体裁を装って、僕は三人プラス人形がたたずむ通りに躍りでた。
「あれ? 土井先生じゃないですかあ。奇遇ですねええ」
 多少声が裏返った感はあったけれど、我ながらすばらしい演技じゃないだろうか。超ナチュラル。土井先生もややびっくりはしているようだけれど、すぐに「今日も来てくださったんですか」と立てなおした。
「はいっ。近くまで来たものですから」
「準拠の件、考えていただけましたか」
「あ、え、う、いや、申し訳ございません。そちらはまだ検討中でして……」
「大変ですね。どれだけ学校訪問するかで採用が決まるところがありますものね」
 それは間違いない。どんぐりの背比べの副教材ならば、結局内容うんぬんではなく、表紙のデザイン性だとか営業が何回訪ねてきてくれたかだとか、そういうところしか判断材料は残されていない。先生の要望に応えて、無料サービスをしまくる同業他社もよく見かける。「足元見やがって」と舌打ちする営業マンも、一度味をしめた顧客には頭が上がらない。お客様ならぬ、先生様は神様状態なのだ。
「まあ、あなたはそういうタイプでもなさそうですけど」
「お恥ずかしい。手前味噌ですが、自社製品に自信を持っているところがありますね」
「良質な教材をご提案してくださるのが一番ですよ」
 土井先生の本心はつかめないけれど、僕は学校側からの要望をうまく煙に巻くように日頃から努めている。ある学校だけの専用ノートを作るだとか、ある学校だけは値引きするだとか、ある学校だけは解答集をクラスごとに別梱包するだとか。手間だけかかって、時間が奪われていくのはごめんだ。その理由はもちろん――
「土井先生。このおじちゃん、だれ?」
 ひいいいいい! 彼女が! 僕を! 指さして! 認識してるううう! 
 小首をかしげるしぐさが破滅的にかわいい。鼻血が出そうだ。耐えなくてはいけない。自然に、冷静に、大人として対応しなければならない。
「僕は学校の副教材を扱う出版社に勤務している営業兼編集だよ」
 一息で噛まずに自己紹介をやってのけて内心ガッツポーズを決めたのだけれど、土井先生は困ったように「ちょっと難しくてわからないわね」と彼女に話しかけていた。彼女もうなずいている。なんと! もっともっと噛み砕かなければいけないのか! しかしどの程度? 副教材はなんと言えば伝わるのか? 出版社とはどんなところなのか説明すべきか?
「このおじさんは、土井先生のお友達なの。すごいのよ。ほら【な~る~シリーズ】あるでしょ。あれを作ってる人」
 なるほど、教材名を素直に言えばよかったのか。彼女は【な~る~シリーズ】と聞いて、途端に目をきらきらと輝かせはじめた。そんな純粋極まりない目で見つめられると、息ができない。
「おじちゃん、あれ作ってる人なの? すごい! あれ大好き!」
 神様、僕を殺す気ですか。今日が終わりの日なのですか。天に召されるイメージが僕の脳内で鮮やかに再生された。だめだ、意識が遠のく……。
「すみません。実は今ちょっと立てこんでまして。急にこんなことお願いするのは本当に申し訳ないのですが、この子を見送ってあげてくれませんか」
 土井先生の冷静な指示で、僕はどうにか意識を取りもどした。
「そんなに家は遠くないと思いますし。あ、今日は途中でお母さんと合流だっけ? スイミング?」
「ああ、魚っ子スイミングスクールですね」
 と、ついついどや顔で言ってしまってから、土井先生がぎょっとして僕を見ていることに気がついた。
「いえ、ここら辺でスイミングスクールといったら、あそこかなあって。本当にいろんな学校をしょっちゅう回ってるもので」
 土井先生の表情が通常モードに戻ったところで、僕の心臓は暴れだした。危ねええ。
「ではそこの近くまでお願いできますか。なにか聞かれたら私の名前出してください。じゃあ、このおじさんと一緒に行ってくれる? うん、そう守ってくれるから」
 守りますとも! 急に矢が飛んできても、唐突にモンスターが現れても、守りますとも! 僕は彼女のナイトですとも!
 鼻息が荒くなりそうなのを必死で抑え、人生一番の、アイドル顔負けの、渾身のスマイルで彼女に颯爽と手を差しだした。
「じゃあ、行こうか」
「うん、わかったー」
 彼女は僕の手を無視して、すたこら歩きだした。ああ、宙に浮いた手が虚しい。でも、この小さな背中を今日は堂々と追えるのだ。いや、背中どころかいっそ肩を並べて歩けるのだ。ふへへへへ。ベビばあさん、ありがとう。
 ちょっと振りかえると、ベビばあさんはうなだれながらも土井先生に従って歩きだしていた。土井先生はいつくしむように、ベビばあさんの肩を抱く。寄り添う横顔があまりに凛としていて、不覚にもドキリとしてしまった。
「あのおばあちゃん、どこに行くの?」
 彼女も二人の様子を見ていたようで、不意に尋ねてきた。上目づかいが完璧だ! いや、これだけ身長差があれば当然なのかもしれないけれど、それにしても反則だ! 直視できない。でも、こんなチャンスめったにない。顔が熱くなるのを感じながら、頑張って彼女と視線をぶつける。うわああああ! 今からこれじゃあ将来が心配っ! いや、もうすでに今心配っ!
「どっ、どっ、土井先生と、おはっ、お話ししに行くんだよっ」
 結局、目をそらしてしまった僕は小心者です。彼女はそんな僕にまるで無関心なようで(でも、そんなツンなところもいい!)、思慮深げにすごいことを発言する。
「土井先生、あのおばあちゃんのこと、好きになったのかなあ」
「ふえっ? い、いやあ、それはないんじゃないかなあ……」
「でも、土井先生のあんな顔初めて見た! なんか恋してる顔!」
 おおう。その発想はなかった。発想がなかったからといって、現実に起こりえないわけではもちろんない。もう一度振りかえると、二人は一歩一歩噛みしめるように前へ進んでいた。お互いの距離はほとんどゼロのままで。それが恋でも愛でも同情でもかまわないけれど、不思議そうに二人を見送る彼女の目にはどう映っているのだろう。
「僕たちも行こうか」
「うん」
 僕と彼女の距離はもちろん空いていたけれど、相手の歩幅に合わせて歩くというのは、とてもうれしいものだった。彼女はちょっと急ぎ足に、僕はかなりゆっくりめに。歩きづらいはずなのに、別のテンポがなぜか心地いい。この時間が愛おしい。
「土井先生が恋してるの、みんなにはないしょだね」
 僕が彼女を見ずに言うと、下のほうから「うん」と素直な返事が聞こえた。
 魚っ子スイミングスクールが、そろそろ見えてきてしまう。
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