最終話

文字数 4,158文字

 例えば、僕は今三十四歳で彼女は十歳。それが二十年もすれば、僕は五十四歳で彼女は三十歳。二十年後に出会えば、なんの問題もなく年の差恋愛として認められる。出会うタイミングを間違えたのだろうか。二十年待てばいいのだろうか。
 でも、違う。僕は今現在の、十歳の彼女が好きなのだ。天真爛漫で、表情をころころ変えて、好奇心旺盛で、でも飽きっぽくて。空気を読むことも覚えはじめていて、気の進まない習い事もきちんと通って、でもちゃっかりしていて、時折だだをこねてママを困らせたりもする。そんな彼女が好きなのだ。
 土曜の昼下がりは、世界中が平和だと思えてしまう。時間がいつもよりのんびりと進み、皆が一斉にあくびをするような穏やかな眠気を抱えている。
 土井先生に会いに行ったら「今日はお休みです」と受付の女性に言われた。
「最近、なんだか幸せそうなんですよねえ」
 と、余計な情報までくれた。僕は「また改めます」とだけ伝えて、すぐに校庭を出て所定の位置についた。相変わらず【不審者注意!】の看板はあちこちに立てられている。いっそ増えているかもしれない。
 人の幸せや不幸せにかまっている暇はない。僕は彼女を待つ。ただ、それだけだ。
 久しぶりの集団下校で、一気に子どもたちは学校から吐きだされる。わらわらと虫のように湧いてくる。ランドセルの色はやたらとカラフルだけれど、僕にはどれもこれも同じ顔に見える。列を成しているようで、一人外れ、二人外れ、すべての線がばらばらと点になっていく。新たな編隊を組む者もあれば、ずっと一人のまま突き進む者もいる。
 大きな波が去っていき、やがて落ちついた頃合を見計らって、静かな第二陣が現れる。その中に彼女はいる。彼女だけは遠目からでもわかる。オーラが違う。光を放っている。その他大勢の洟垂れ小僧たちとは、一線も二線も三線も画している。
 彼女と最初に出会ったのも、集団下校の日だった。土井先生への営業ののち、子どもたちの波に飲みこまれて右往左往していた僕を、彼女はじいっと見ていた。目を白黒させながら、変なステップを踏みながら、回転しながら前後に流される。
「そのダンス、どこで習うの?」
 彼女の問いが真っ直ぐ鼓膜に飛びこんできて、不意に僕の視界は揺れた。そのまま足がもつれ、尻餅をついたらあっけなく魔法は解けた。彼女はなーんだという顔をして、さっさと波に乗っていってしまった。僕は呆然と地べたで体育座りをしながら、そんな彼女をずっと見送っていた。
 あとから調べたところによると、彼女はダンスに興味があって、きちんと習いたいらしい。けれど、ママは許してくれない。スイミングとピアノと英会話は役に立っても、ダンスは役に立たないという謎の線引きがあるようだ。彼女が時折、下校中に跳ねたり回転したりするのは、ダンスへの抑えきれぬ欲求だ。僕は知っている。ママは「落ちつきがない」と怒る。彼女はほとばしる。僕は知っている。
 彼女がやってくる。平々凡々の波のなか、彼女は一人サーファーになってやってくる。僕も彼女のためならば、自称サーファーになれる。世の中で一番怪しい職業だったとしても、堂々と名乗ろう。ジョニーと呼んでくれ、ハニー。
「あ! タカハシくん!」
 僕のハニーは急にボードを降りて、波に飛びこんだ。え、転覆? カモン、ライフガード! 今日は波が高いのか?
「おお」
「今日はスイミング行く?」
「行くよ」
「じゃあ、一緒に行こう!」
「えー、やだよ」
「なんで?」
「おまえと一緒だとからかわれるもん」
「そんなことないよ。行こう!」
 違うぞこれは転覆じゃないぞこれは自ら飛びこんだぞこれは自殺行為だぞこれは緊急事態だぞこれはこれはこれはこれはこれはなんなんだ! ライフガード!
 彼女はタカハシくんという男子のもとまで泳ぎ、肩を並べてはしゃいでいる。タカハシくんはぶすっとした愛想のないクソガキで、そんな彼女を煙たがっている。
 おいなんだおまえ。つまんねえツラしやがって。最悪な態度取りやがって。いや、でも変に笑顔とか見せてんじゃねえよ。どさくさにまぎれて頭さわってんじゃねえよ。ふざけんなおい。そこどけ今すぐ代われおい。身長も貯金も仕事もないくせに。調子こいてんじゃ……え。なに、逆に言えば、これだけ大人なのに、僕が持っているものはその三つだけなわけ? しかもその三つとも、彼女は興味なんてないじゃないか。
 彼女ははしゃぎながら、またぎこちなく四角いステップを踏んでみせる。
「タカハシくん、また今度踊ってみせてよ!」
「えー、やだよ」
「やだって言うくせに、見せてくれるじゃん」
「おまえがしつけーからだよ。てか、おまえも早くダンス習えよ」
「習いたいけど、ママがさー……」
「俺が説得してやるよ」
 瞬間、彼女の頬がほんのりと染まった。さっきまでタカハシくんに顔を近づけていたのに、不自然なほど今度は距離を空ける。「スイミングにママ来るんだろ?」というぶっきらぼうな問いかけに、小さく「うん」とうなずく。二人の肩が並ぶ。同じ歩幅で、同じスピードで歩いていく。ゆっくりと二人の点が豆粒みたいになっていくのを、僕は一人見届けて…………
「ふざけんなああああああああああ!」
 僕は絶叫した。人の幸せや不幸せにかまっている暇はない。けれど彼女の幸せを見過ごすほど、僕はお人好しじゃない。打ち明け話の末の奇跡とか、自分なりの結論で恋を終わらせるとか、そんなきれいごとだらけでたまるか。
 土井先生、ベビばあさん、栄子の吹っ切った姿が浮かぶ。唾を吐きたくなる。ハッピーエンドは好きだけれど、美談は大嫌いだ。美しい記憶にすればOKだと思ってるだろ。違うんだよ。不細工は不細工なままで、いびつならいびつなままで、別に誰に認めてもらいたいわけでもない。後押しや保障が欲しいわけでもない。僕が望んでもいない結末で、勝手に満足するな。どう終わらせるかだけは、そもそも終わらせるかどうかだって、僕の自由だ!
「クソガキがああああああああああああ!」
 往来で大絶叫する僕を、散り散りになった子どもたちや、近所の住民たちが遠巻きにながめている。目を離せないくせに、目を合わせてやるとすぐそらす。
 僕は地面を蹴った。僕のために人の波が道を開ける。のろまなガキにはすぐ追いつける。あいつらはかたつむりのようにしか前へ進まない。魚っ子スイミングスクールまでの道のりにも、とんでもない時間をかける。大人なら急ぎ足三分で済むところをだ。
 悔しくて悔しくて、唇を噛んだ。血の味がにじみ、「あああああああああああ!」と叫ぶしか能がなかった。大人になっても、言葉にできない。普段使っている無駄な語彙は、どこへ落としてきてしまったのだろう。まきびしのようにばらまかれているのなら、ガキどももそれらを踏んで少しは大人になるだろうか。
 交差点に二人はいた。横断歩道の向こう側には、彼女のママが立っていた。
「ママー!」
 彼女の呼びかけに、ママが微笑んで手を振る。振った瞬間、強い風がななめに吹きつけた。思わず目をつぶってしまうような、激しい突風だった。
「あっ」
 短い叫びとともに、ママがかぶっていたつばの広い帽子が風にさらわれた。横断歩道のど真ん中、ちょうど黒い線のところに落ちる。タクシーが遠慮なく走ってくる。なにせ、まだ信号は変わっていないから当たり前だ。なのに、赤色を彼女は無視した。「ママの帽子!」と小さな体を目いっぱい躍動させた。心優しい子だけれど、おばかさん。ルール違反は彼女のほう。
 僕はさっきよりも強く地面を蹴っていた。けれど、僕よりも先にスタートを切ったやつがいる。タカハシくんだ。
 タカハシくんは帽子をつかんだまま座りこんだ彼女に、思い切りタックルした。彼女は対岸まですべりこみ、ママがあわてて駆けよる。
 もしかしたらそのとき、タカハシくんはにやりと笑ったのかもしれない。タカハシくんを見る彼女の顔が苦痛でゆがんだからだ。なんだそれヒーローかよ。
「ふざけんなあああああああああああああああああ!」
 本気で頭に血が上って、僕は力のかぎりタカハシくんを蹴り飛ばした。ボールみたいに軽い体しやがってクソが! いっちょまえにかっこつけてんじゃねえぞ!
 タカハシくんは泣き叫びながら宙を浮いて、向こう岸にゴールした。ざまあみやがれ。かっこつけるなんざ二十年早いんだよ! 大人、なめん……
「なっ!」
 ブレーキという機能を知らないんじゃないか。むしろアクセル踏みこみましたか? そう疑いたくなるくらいの猛スピードで、タクシーは僕の体を撥ね飛ばした。タカハシくんの比にならないくらい、僕は空を高々と飛んで、十分な滞空時間を取ってから全身全霊で地面に着地。そこにまた別の車が容赦なく突っ込んでくる。撃沈。ベビーカーに轢かれたしーちゃんの右腕も、こんな感じだったのかなあ。
 痛いとか痛くないとかわからない。そういう次元の話じゃない。唯一、じんじんしびれているなあ、と思うのは、彼を蹴った右足の甲だけ。
 右にいるのか左にいるのか上か下かもわからないけれど、タカハシくんのど派手な泣き声が聞こえる。頭にガンガンひびくくらい聞こえる。ざまあみろ。ふはははは、ざまあみろ……ざまあ……
「タカハシくんを……タカハシくんをかばってくれたんです、あの人! 助けてください! 助けてくださーい!」
 彼女のママのとんでもない勘違いが炸裂する。そんなわけないだろ! あんなクソガキ助けるわけないだろ! ひどい仕打ちだよ、ママ! いや、あなたそもそもママってガラじゃないよ、お母さん! お母さん、あのね! 僕はあなたの娘さんをですね……あなたの娘さんを…………僕に………………僕…………………………
「あの人、ダンスしてるみたい」
 不意に彼女の無邪気な声が聞こえる。なるほど、本当だ。
 上空から見下ろした僕の体はくねくねとありえない方向へ曲がり、常識を超えた素敵なダンスをしているように見えなくもなかった。

                                        ―fin―
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