第2話

文字数 5,889文字

「私、昔からさ、学校の先生とか好きだったじゃん」
「ごめん。俺、それ知らない」
 素直に詫びると、栄子は「えー、マジで。言わなきゃよかったー」とのけぞる。三十も半ばに差しかかったというのに、大げさなリアクションは若々しい。いや、逆に古くささを強調してしまうのだろうか。
 栄子は「まあいいけど」とすぐに気を取り直す。オープンテラスでも、もう夏の名残は気にならない。秋のうろこ雲がうっすらとまだらに広がっている。ひんやりとした風が、ほんの少し居座ろうとする熱をさらりと奪いさっていく。「これ、めっちゃおいしい」とフレーバーティーを絶賛する栄子は、秋の空よりも移り気だ。そこが栄子のいいところでもある。
「でさ、ぶっちゃけ私、高校んときとか年上しか見えてなかったわけよ」
「でも、同級生と付き合ってなかったっけ? 四組の鈴木とか」
「あれはカモフラージュだったわけよ」
 どや顔で迫ってくるのは、昔の秘密を明かすだけではなく、カモフラージュという横文字を使ってみせたぞ、という自慢も入っているだろう。
「ほんとはさ……あれよ、あれ。サトっちが好きだったわけ」
「へー」
 一大告白をトリビアみたいに扱われたのが不服なのか、栄子はムキになって「え? リアクション薄くない?」とかみついてくる。おまえのようなリアクションは、こんなオープンテラスだとなかなかハードルが高いぞ。
「あれだよ? サトっちだよ? あ、あんたあっちと勘違いしてる? 一個上のサトシじゃないよ? あっち。現国の佐藤だよ」
「わかってるよ」
「わかってるくせに、なんでそんなテンション低いわけ? これ、美子とかに言ったらめちゃくちゃ盛りあがったんだけど。ありえなーい、超枯れ専じゃんって」
「別に年齢なんか関係ないじゃん」
 栄子としゃべっていると、つられて僕まで若ぶった話し方になってしまう。
「マジでそう思ってんの?」
「マジでそう思ってるよ」
「あれじゃん。サトっちってあんとき五十ちょい……五十一だよ! で、私は十七歳じゃん。ぴちぴちのセブンティーンじゃん。もう犯罪じゃん。禁じられた恋じゃん」
「先生と生徒は難しいところもあるけど」
「そうじゃなくて、そっちじゃなくて、年齢のほう。年の差やばいじゃん」
 そっちはいいのかよ。と、まさしく高校時代の僕が憑依したかのようなツッコみを入れそうになったけれど、ぐっと堪えた。栄子相手にいちいち茶々を入れていたら、話がいつまでたっても進まない。なにせこの高校時代のエピソードは今日の本題ではない。「年の差ねえ」とあいまいににごしておく。
「だってさ、うちの親よりも年上だったもんね、あんとき。何度もありえないありえないって思ったけどさ、やっぱ無意識に目で追っちゃうんだよね……あ、サトっち、ネクタイ曲がってんなーとか、そのシャツの色はないわーとか。寝癖ついてんなー、加齢臭すんなー、男子になめられてんなー、字きれいだなー……って」
 うっとりとした遠い目で、栄子はあの頃に勝手に帰ってしまっている。恋する乙女か。頬を赤らめながら、ストローで息をふきこんでぶくぶくさせている。子どもか。
「でも、サトっちって奥さんいたよね」
「いたけどさー……え、なに。そこは水差すの?」
 そこが一番大事なんじゃ、と反論しようとして、栄子の目が恨みがましく殺気を帯びていたのでやめる。人によってなにが禁忌に当たるかは違うのだ。
「懐かしいなー、サトっち。え、今いくつになるわけ? 六十……八! マジで! 実質、七十じゃん! 古希じゃん! おじいちゃんじゃん!」
「俺たちもそれだけ年取ってるからね」
「いやー……でもショックだわー。そっかー、とうに定年超えてんだー。もう先生辞めてるかなー」
 知らん、とかぶりを振った。正直、サトっちの顔さえおぼろげだ。栄子のような特別な想いを秘めていなければ、ごくごく平凡なおっさんだった。覚えている人間のほうが少ないんじゃないだろうか。
 栄子は思い出を数珠つなぎにして、どんどん一人タイムスリップを深めていく。過去は大事だけれど、今を生きろよ。催眠術を解く術師のように手をたたき、僕は栄子の目を覚まさせた。
「なによ。人がせっかく甘い思い出にひたって」
「サトっちはもういいよ」
 おまけに手をひらひらと振ってやると、「あー」と間抜けな声を上げて、栄子はようやく本来の目的を思い出したようだった。
「ごめんごめん。昔話って怖いわー。いくらでもそれで時間つぶせるもん」
 栄子はからからと笑ったけれど、僕は案外恐ろしいことをさらりと言うなこいつ、と目を丸くした。
 おかわり自由のコーヒーを店員に頼むと、氷をストローでつつきながら「私もコーヒーにすればよかった」と文句を言われた。栄子は氷水をずずずず、と吸いあげる。
「私さ、やっぱ枯れ専なんだよね。生まれつき、筋金入りの」
 枯れ専に筋金入りという形容詞を添えるところが、栄子独特のセンスだろう。筋金入りならいいじゃん、とあしらいたくなるが、栄子は前のめりで真剣な面持ちをしている。
「最近さ、よく店に来る人がいるんだ」
 栄子はアパレルショップの店員だ。二十代後半から四十代をターゲットにした、清楚でエレガントな服飾品を販売している、そこそこ名の知れたブランドである。高校卒業後からアパレル業界に身を置いて売り場を転々としてきた栄子は、さっさと結婚して家庭に入るつもりだったのに予定が狂い、三十半ばになっても立ち仕事を続けている。最近は会うたびに「腰が痛い」と愚痴っている。相当、大変な仕事だろうとは思う。しかし、愚痴る反面、栄子はその生活に不満を抱いているようにも見えなかった。
「山田さんっていうんだけどさ」
「山田さんは男性?」
「当たり前じゃん。この流れだったら恋愛相談に決まってるでしょ」
「それはいろいろと偏見があるなあ」
「そっかー、ごめん。でも私のこと知ってるでしょ。察してよ」
「いや、だって店に来るってお客さんかなって思って」
「お客さんだよ」
「でも、栄子の店ってレディースでしょ」
「あー、それも偏見じゃないのー」
「ああ、ごめん」
「まあいいよ。もー、いちいち偏見とか揚げ足取ってたら話進まないから。一旦スルーしよ」
 またこいつ、さらりと核心を突くな。これまた本人が無自覚なのが恐ろしい。僕の中だけで勝手に提唱している栄子最強説は健在だ。
「私もさ、最初は思ったよ。付き添いでもなんでもないおじさんが、なんでうちの店に来るわけって。見た目は普通だし、清潔感ある格好だったし、渋くてダンディだけど怪しいなーって」
 おおいに栄子フィルターがかかっているであろう人物像だが、話を聞いていくうちに僕の脳内でもナイスミドルが微笑んでいた。痩せた体が貧相に見えないサイジングのシャツ(おそらくオーダーメイド)にスラックス、細いフレームの老眼鏡をかけていて、上品にひげをたくわえている。物腰は柔らかで、初老の余裕と色気を醸しだす。そんな素敵な山田さんを思い描く。
「かっこいい人じゃん」
「でしょ! やっぱりわかってくれたー。でもさ、何度も店に来るくせして、ウィンドウショッピングオンリーだから、勇気出して声かけてみたわけ。まあ、一応店員だし」
 一応じゃなくて完全に店員だろう。そんな店員の栄子はある日「なにかお探しですか」と、ついに店員らしく尋ねてみたらしい。
「ちょっとした羽織物を……あ、私が着用するわけではないんです、念のため」
 急に声を低くした栄子が山田さんのまねをしているのはわかったが、唐突すぎて思わず「は?」と聞きかえさずにはいられなかった。そんな僕を、栄子は華麗にスルーする。
「羽織物ってやばくない? そんな言い回し、めったに聞かないし。しかもわざわざ丁寧に自分が着るわけじゃないって言い訳するとか……その時点で心つかまれてたんだと思うわ」
 ううむ、理解不能。けれど、他人の色恋沙汰なんてほとんど理解不能だ。一つとて同じものはない。違うということを大前提にして、それでも他人の同意を求めている。ううむ、栄子のようにさらりと名言を口にしたいのだけれど、やっぱり恥ずかしくてはばかられる。
「奥様にですか、って聞いたの。そしたらちょっと照れくさそうにはにかんでさ……娘ですって言うの! そのはにかみがさ! もー反則なわけ! かわいいのよ!」
「え、娘さん、いくつなんだろう」
「えー、いくつって言ってたかな。そこはあんま興味ないから忘れちゃった。多分うちらよりちょっと下くらいじゃない」
 興味持てよ、客だろ。しかし、ということは。
「じゃあ山田さんって、結構なお年?」
「うん……そうなんだよね。六十四って言ってた。もうすぐ定年迎えるから、その前に娘にプレゼントしたいんだってさ。普通は祝われる側なのに、今までありがとうってなにか贈りたいんだって。もうなんかその発想がさ、かっこいいなって思ったんだよね」
「それは確かにかっこいい」
「でしょ! でもさ‥…六十四なんだよね。三十も上。だから、サトっちのこと思い出した。あー、私またすごい人好きになっちゃったなーって」
「奥さんいるしね」
「そこ、やたら気にするよね。それはどうでもいいんだってば」
 二杯目のコーヒーは煮詰まっているのか、やたらと苦かった。角砂糖を落としても、苦いものは苦いままだ。水を口に含むと甘味を感じるくらいに、コーヒーはただただ苦い。
「娘さんの好きな色とか普段の服装とか聞いてさ、写真も見せてもらったり。最初はずーっと照れてたけど、話してくうちにどんどん笑ってくれるようになって……もー、どんどん好きになっちゃってさ……服買っちゃったら終わりだから、なんとか引きのばして、ほかの客は無視して」
「いや、無視するなよ」
「でもさ、やっぱいつか終わりはくるわけよ。昨日、ついに山田さんのお眼鏡にかなうものを見繕ってさ、いい買い物ができたよ、ありがとうって……純粋に店員としてもうれしかった。私、いい仕事できたなーって」
「ほかの客、無視してるけど」
「そしたらさ! ここまでとことん付き合ってくれたんだから、お礼がしたいって言ってくれて! でもなにがいいかな、かえってご迷惑かな、とか紳士なこと言うから、もー後先考えずに食事に行きたいですってお願いしたの! そしたら困ったように笑って、食べたいものを考えておいてください……だって! 大人! もー超大人!」
 栄子に無視された僕はコーヒーカップ片手に、なにか甘いものが食べたいなあと思った。このまえ買ったラムレーズンのアイスは当たりだった。あれならコーヒーより紅茶のほうが合うか。彼女が選んだ、あのおどろおどろしい色のアイスは、いったいなにと合うんだろう。彼女なら、さらにへんてこな色のジュースを選びそうだ。
「……ちょっと無視しないでよ」
 栄子のドスの利いた声で、僕の意識は魚っ子スイミングスクールからオープンテラスへと引きもどされた。
「しかも、なににやにやしてんの、気持ち悪い」
「で、食事行くんでしょ。よかったじゃん」
「はあ? なんでそうなるのよ。やっぱ聞いてないんじゃん。私は行かないほうがいいのかなーって悩んでるの!」
「なんで? だって誘われてうれしかったんでしょ」
「うれしかったよ。でもさ」
「ああ、幸せな家庭を壊しちゃうかもしれないもんね」
「違うってば! そこは関係ない! 私が一人なにかしたくらいで壊れるなら、そんなんたいした幸せじゃないんだって」
 世間を敵にまわしそうな主張だが一理ある。栄子は賢くはないけれどバカではない。ぶれない、ということが実は一番難しい。
「年齢がさ……上すぎるでしょー」
「介護とかの心配?」
「そんな将来の話じゃなくて。ていうか、それは別に年齢差関係ないでしょ。誰にでもいつか降りかかる問題じゃん」
「じゃあ、なにを気にしてるの」
「世間の目」
 どうリアクションするのが正解なのか、僕には見当がつかない。潤んだ目で訴えかける栄子は、正真正銘本気なのだ。冗談でかわせない話はたちが悪い。しこりも残る。
 慎重に言葉を選ぶ。選ぼうとするが、僕の脳内に浮かぶのは彼女の横顔だけだった。気味の悪いアイスを、うれしそうに頬張る彼女。まつ毛がとても長い彼女。濡れた髪からのぞく、あごのラインが華奢な彼女。僕のことを見てくれそうで、決して見てくれない彼女。
「世間の目なんて関係ないよ」
「簡単に言わないでよ、他人事だと思ってさ」
「他人事じゃない。俺も栄子と同じだからわかるよ」
「え、マジ。それって……」
「だから少なくとも、俺は栄子が山田さんに寄せる想いを否定したりしない。人を好きになる気持ちを外野がとやかく言うなんておかしい」
 彼女の面影を丁寧になぞりながら語るうちに、自然と熱がこもっていく。栄子はあふれた涙をぬぐい、手元にあった紙ナプキンで豪快に鼻をかんだ。鼻の頭が赤くなる。不器用に笑顔を見せる栄子は、まったく似ていないのに一瞬彼女と重なった。
「ありがと。うれしい。本当さ、自分の親世代、んーそれ以上か。そのくらい年上の人って、どうしようもない魅力あるよね。なんだろ、包容力なのかな。ファザコンとかマザコンとか言われるかもしんないけどさ、お互い頑張ろうね。あー、景気づけにパフェでも頼もうかな!」
 栄子は店員に向かって元気よく手を上げた。彼女も学校で先生に向かって手を上げてるのかなあ。僕はちょっとだけ親のような気持ちで、彼女のことを考えた。
 授業参観とか行きたいなあ。彼女は何度も後ろにいる僕を振りかえり、きれいなピンク色の歯ぐきを剥きだしにする。いいところを見せようと、先生が質問を投げかけるたびに必死で挙手をしている。思わず顔がゆるむ僕に、隣に立っていた人は「お父さんですか」と尋ねてくる。僕は誇らしい気持ちで「恋人なんです」と胸を張って答える。「お似合いですね」と称えられる。彼女が勢いよく立ちあがり、正解をたたきだす。僕は力のかぎり拍手を送る。教室全体もそれに倣い、温かい空気に包まれる。それは僕と彼女を祝福してくれているようでもあった。彼女と目が合い、笑顔を交わす。出会ってくれて、ありがとうありがとうありがとう……。
 そうだったらいいのになあ。
「スペシャルデラックスプリンパフェ!」
 栄子のバカでかい声は、いつも目覚まし代わりになる。
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