第7話

文字数 2,365文字

「いや、ないでしょー、ないわー。本当ありえない。てか、おかしくない? 無理。なんで? ねえ、本当無理だよおおおお」
 栄子は耐えきれず、両手を顔で覆いながら号泣モードに突入した。周りの客が一斉に僕らのほうを見る。僕は愛想笑いをへらへら振りまきながら、なんとか栄子をなだめる。
「あのさ、俺が泣かしてるみたいに見えるから……」
「こんなのってないでしょ。ねえ、そう思わない? 期待させといてさ、ひどいよおおおお」
 悲痛な絶叫がこだまする。周囲の目がどんどん白くなってきてひたすら頭を下げても、栄子の涙は止まらない。店員がどぎまぎしながら「天使のスフレパンケーキ、ベリーベリーソース添え、マシュマロチョコアイストッピングのお客様」と尋ねてくる。なんというバッドタイミング! 頭を抱えると、栄子は瞬時に真顔になり「私です」と手を上げる。餌を待っていた珍獣のように、黙々と、それでいて猛然とナイフとフォークを動かしはじめる。途中、面倒くさくなったのか、店員に「お箸ください」と注文して箸でパンケーキをさらいだした。その間もずっと無表情なので、僕は冷や冷やしていた。また、間欠泉のように暴れだすかもわからない。
 しかし、お腹が満たされると精神も安定してくるのか、栄子は徐々に冷静さを取りもどしてきたようだった。落ちついたトーンでつぶやく。
「……今朝のニュース観たよね?」
 僕がうなずくと、栄子は少しだけ顔をゆがめた。涙をこらえているのか、言葉を選んでいるのか、沈黙は少しのあいだ続いた。
「山田さん、変態だったんだ……」
 それは早計というものではないか。と思ったけれど、実際口には出せなかった。栄子は歯を食いしばったけれど堪えきれず、再び大粒の涙をぼたぼたと落とした。パンケーキが栄子の涙を吸う。
 今朝テレビをつけると、ワイドショーで山田さんの顔写真が映っていた。一瞬目を疑ったけれど、あのダンディな顔立ちは間違いなく山田さんだった。やっぱりかっこいいよなあ、とながめていると、そのあとに添えられたテロップが容赦ない現実を突きつけてきた。
【漫画家・山田イチロー、児童買春ポルノ禁止法違反及び強制わいせつ罪で逮捕】
 息を止めて固まっていると、そのわずか数十秒後に栄子から電話がかかってきたのは言うまでもない。栄子が「今すぐ会いたい」と叫んできたときには、ニュースはとっくに別のものに切りかわっていた。人気アイドルが映画初主演を飾るらしい。どこにでもいる普通の子が、やたらきれいに笑っていた。
「女の子のDVD持ってたりとか……女の子、家に招いていたずらしたりしたんでしょ……」
「わいせつ罪のほうは否認してるらしいけど」
「そんなの嘘でしょ」
 栄子はばっさりと切りすてる。僕らが夕食をごちそうになったあの家で犯罪行為があった。栄子はそう思うだけで吐き気がするという。一緒に選んだあの羽織物も娘にプレゼントというのは嘘なんじゃないか、と栄子は悔しそうに言った。「なんで?」と聞くと「言わせないでよ」と返された。
「私さ、本当に好きだったんだ」
 気づくと、栄子の皿はすっかりきれいになっていた。天使のスフレパンケーキ、ベリーベリーなんちゃらは跡形もなかった。ひとまず僕はほっとした。
「裏切られた感じ」
 山田さんの穏やかな笑顔が目に浮かぶ。今、どんな表情をしているだろう。どんな思いでいるんだろう。
「もし」
 今、栄子に言うべきことではない。それはわかっていた。けれど、僕の口は勝手に動く。
「山田さんが、純粋にその女の子のことを好きだったとしても、やっぱり裏切られたって思う?」
「なにそれ。意味わかんないんだけど」
「だから仮に、すっごい若い恋人がいたとして」
「いや、若すぎるでしょ。っていうか、幼すぎるでしょ! だってその子、まだ十歳だよ。恋人とかありえないし、そもそも恋愛感情とかそういう次元じゃないでしょ」
「そんなのわからないだろ」
「わかるでしょ。ただの犯罪でしょ」
「栄子が相手だったとしても、山田さんから見ればすっごい若い恋人に……」
「一緒にしないでよ! その子、未成年でしょ! 私はどれだけ若作りしたって三十半ばのおばさんなんだよ。全然違うでしょ!」
 激昂する栄子につられて、つい僕もむきになる。
「未成年だからって……例えば高校生だって未成年だろ」
「そうだよ。だからだめじゃん。私だってサトっちあきらめたんだし……よく芸能人とか問題になってんじゃん」
「だけど、物事の判断が自分でつけられるかどうかって、年齢が問題じゃないだろ」
「だからって十歳はないでしょ。無理やりいたずらしたに決まってる!」
「なんで決めつけるんだよ」
「だって気持ち悪いもん! 気持ち悪いでしょ! キモいキモいキモい!」
「理由になってないだろ」
「生理的に無理でしょ! ありえない!」
「好きになった人が、たまたますっごい年下だっただけだろ!」
 テーブルをたたくと、再び周囲の注目が集まった。栄子は一瞬目を丸くしたけれど、なにかを吟味するように僕を見据えた。強い眼差しだった。
 店員が「あの、ほかのお客様のご迷惑になりますので……」と遠慮がちに声をかけてくると、栄子は「ごめんなさい。もう出ます」と視線を僕に向けたまま早口で返した。
「好きになった人が、たまたま……ってよく聞くけどさ、便利な言い回しだよね」
 栄子は派手なピンク色の長財布を取りだした。千円札を何枚か抜いて、テーブルに置いた。
「私はその人だから好きになったの。たまたまとか、ない」
 栄子は席を立った。店員に頭を深々と下げた。店員はどぎまぎしながらも栄子を許す。
 一度も振りかえらずに去っていく後姿は、きちんと失恋した女の背中になっていた。
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