第1話

文字数 2,233文字

 彼女は天使だ。妖精だ。女神だ。いや、僕を狂わせるという意味においては、悪魔だ。この小悪魔め! めっ!
 愛らしい笑顔。くるくると一秒ごとに切りかわる、気まぐれで変幻自在な表情。ムッとした顔もまたいいのだ。頬をふくらませる姿はまるでリスのよう。子リスちゃん。めっ!
 目に入れても痛くない。なんてじいさんばあさんが孫に使う形容があるけれど、僕もいけるよこれ。孫でもなんでもないけれど、いけるよこれ。どんなに望んでも一重のままだったほっそい糸くずみたいな目を見開いて、そのままがっつりまぶたの内側に閉じこめちゃえるくらいにいけるともこれ。食べちゃうぞ。口じゃなくて目だけど、食べちゃうぞ。めっ!
 めっ! めっ! と何度も心の中だけで繰りかえしていたつもりなのに、いつの間にかおしゃべりに熱中していたママたちがじっとりと僕をにらみつけている。「めっ! めっ!」と一人にやけながら声に出す成人男性は、さぞかし目を引くだろう。
 あわてて僕はその場を離れる。と見せかけて振りかえる。まだママたちは僕を警戒している。ママたちの視界から外れるように、横断歩道を渡り、交差点のコンビニに入る。と見せかけて店内を素通りして、逆側の出入口からすばやく脱出する。そしてぐるりと外側を回り、さっきの交差点に戻り、電柱の陰に身を潜める。ママたちはまたおしゃべりに戻っている。
 移り気なママたちよりも、僕のほうがずっと彼女を見ている。彼女は小さなピンク色の自転車にまたがって、退屈なおしゃべりが終わるのを辛抱強く待っている。ママたちの足を蹴ったり、服の裾をびよんびよんと伸ばしたり、不機嫌を隠すつもりはないみたいだけど、それでもその場を動かないでいられる彼女はとても大人。下手な大人よりずっと大人。
 彼女の髪はぺたりと濡れていて、いつものふわふわした森のきのこみたいなボリュームは見当たらない。それもそのはず。彼女はスイミングスクールを終えたばかりなのだ。ママたちはいつも彼女を迎えにきて、そのついでに魚っ子スイミングスクールの駐輪場でたむろして、小一時間の井戸端会議を始める。魚っ子というネーミングセンスはどうかと思うし、講師の女はつんけんして嫌な感じだし、受付の学生アルバイトはやる気がないしの三重苦だけれど、それでも彼女は真面目に毎週水曜日の夕方と土曜日の午前に通っている。
 僕はまだ彼女が泳いでいるところを見たことがない。成人の部に入会しようかとも一瞬考えたけれど、小学生と時間がかぶることはないようだし、そもそもカナヅチなので早々にあきらめた。おぼれ、もがき苦しむ姿を彼女にだけは見られたくない。恥ずかしい。
 だから目を強く閉じて、彼女が泳いでいるところを想像する。小麦色に焼けた腕や足を目いっぱい動かして、覚えたての息継ぎを必死に繰りかえし、水しぶきを派手にあげながらゆっくり進んでいく。水着は多分スクール水着だろう。肩まで伸びた髪はきちんと水色のキャップにしまって、ちょっと高めの水中メガネをかけて、何度も力強く泳いでいく。
 僕はその風貌よりも、泳いだ距離よりも、練習の積み重ねを証明している彼女の成長が誇らしい。彼女の頑張りは純粋そのもので、混じり気が一切ない。塩素まみれのプールの水よりずっと透きとおっていて美しい。そうやって前よりも少しずつ、遠ざかっていく彼女が途方もなく尊い。
 あ! 彼女がついにママにアイスをねだりだした! 待ちくたびれちゃったのかな。渋るママ。ぐずる彼女。待ってあげてるんだから、自動販売機のアイスくらいいいよね。ああ! 僕が買ってあげたいなあ! 今日も無事に泳ぎきった彼女に! ちゃんとママを待っている彼女に! ごほうびとしていいよね。
 かわいいおねだりにとうとうママも根負けしたようで、彼女はうれしそうに目移りしている。キラキラと輝く黒目がちな瞳。こぼれる白い歯。乳歯が抜けた隙間。きりっと黒い眉。あどけない笑顔が選ぶのは、いったい何味だろう。バニラかな。チョコかな。抹茶かな。
 彼女が小さく跳びはねながらかぶりつくそれは、奇妙な色をしていた。青と黄色と赤が複雑にマーブル模様になっている、およそ食べ物とは思えない色。この世のものとは思えない色。
 毒々しさにはらはらとしたけれど、きゃっきゃっと彼女の笑い声が聞こえてきて、結局よかったねえ、と目を細めずにはいられない。小さい口でこまめに食べすすめていっても、太陽のいたずらで彼女の手元にアイスがみるみる溶けだしていく。べとべとになった手のひらを広げて、しかめ面をする彼女。でも、それをママに見せるとしかめ面は移っていったようで、彼女はまた無邪気な笑顔に変わった。彼女の感情は忙しい。僕もついていくのに精いっぱい。
 時間をたっぷりかけてアイスを食べきって、ようやくママたちのおしゃべりも終わる。バイバイと手を振って、彼女は家路をたどる。自転車を漕がずに、サドルをまたいで自分の足でちょこちょこ歩く。ママの歩く速度に合わせているつもりで、本当はママが彼女の歩幅に合わせている。
 彼女は気がつかない。けれど、優しい子であることは間違いない。もともと小さな背中が、飛蚊症の黒い点みたいにどんどんぼやけて小さくなっていく。
 見えなくなるまで見送って、今度こそコンビニに入る。彼女のお気には召さないであろう、ラムレーズンのアイスを買って家に帰った。
 まったく有意義な土曜日だった。
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