第5話 # 山上の垂訓

文字数 2,616文字

(兄弟の確執、かあ……)
奏音はホームルームの最中に頬杖をつきながら、ぼんやりとひとり考えを巡らせていた。

(わたしも気持ちはわかる、なんて簡単に言ったけど、あのふたりの関係は、もっとずっと深刻そうだったなぁ。……一体、どうすればいいんだろう?


今朝は、流れでとりあえず和久くんの話を聞いたけど、これはたぶん、砂久くんのほうの話も聞いてみたほうがいいんだろうなあ……)

これは和泉兄弟ふたりの問題で、当事者ではない自分たちにできることなんて限られている。あんまり深入りしない方がいいんじゃないか。もしかして、余計なお世話なんじゃないか。

もやもやと、奏音の頭の中はネガティヴな考えで渦巻く。



ガラッと教室の扉が開き、チャイムと同時に、さっきホームルームが終わって出て行ったばかりの桑原先生が再び入ってきた。

いつの間にか、授業前の休み時間が終わっていたようだ。

今回は前回の予告通り、新約聖書(しんやくせいしょ)からはじめます。

今日は、次の時間も続けて授業があるので、一時間目は新約聖書から、二時間目は旧約聖書から授業をしたいと思います。

今日の一、二限目は宗教の時間だった。

桑原先生はいつも通り穏やかな声で話している。

聖書は、イエス・キリスト降誕前の出来事が書かれた『旧約聖書(きゅうやくせいしょ)』、降誕直前からその後の『新約聖書(しんやくせいしょ)』の大きな二つに分かれたものが、一冊にまとめられています。

それぞれ旧約聖書は三十九巻、新約聖書は二十七巻で、合わせて六十六巻からなっています。


ではみなさん、新約聖書(しんやくせいしょ)の四番目にある、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)の一章を開いてみてください。

奏音は目次を見ながら、指定されたページを開く。


奏音たちに配られた聖書は前半が旧約聖書、後半が新約聖書になっていて、『ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)は、後半の初めから数えて四番目にあった。

新約聖書のはじめは、四福音書(しふくいんしょ)と呼ばれていて、文字通り四つの福音書からなっています。それぞれマタイマルコルカヨハネの四人によって書かれたものです。


それでは、ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)の一章の一節から読み進めたいと思います

桑原先生がはきはきと朗読をはじめる。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

――すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

(光…やみ……ことば……)
読み終えると、桑原先生は黒板に書きながら説明を始めた。

奏音はノートに板書しながら、新しい知識を頭にすこしずつ詰め込んでいく。

このあとを読んでいくと、ここに書かれている『人の光』とはイエス・キリストのことを指しているとわかります。

このイエスキリストのことを、わたしたちクリスチャンは敬意を表して、イエス様と呼んでいます。


聖書を読む、学ぶということは、イエス様のことを知っていくということと同義です。前回読んだ『創世記(そうせいき)』を含む『旧約聖書(きゅうやくせいしょ)』は紀元前のお話なので、イエス様はまだ出てきません。しかし、旧約聖書(きゅうやくせいしょ)の中にもイエス様に関する預言の記述を、あちこちに見ることができます。覚えておいてくださいね

(人の光……イエス様……預言……? っと……)
それでは次は、新約聖書マタイによる福音書の五章を開いてください
マタイによる福音書は、新約聖書の一番初めにあった。

五章の一節から読んでいきますね。



『――そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

心の貧しい者は幸いです。天の御国(みくに)はその人のものだからです。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

柔和(にゅうわ)な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子供と呼ばれるからです。

義のために迫害(はくがい)されている者は幸いです。天の御国(みくに)はその人のものだからです。

リズミカルに、詩のようなテンポの良い言葉が続く。

一区切り読み終えると、桑原先生は顔を上げ、話し始める。

これは、イエス様が弟子たちに山の上で教えたことから『山上(さんじょう)垂訓(すいくん)と呼ばれている、聖書のなかでも有名なことばの最初の一部分です。



かの有名な『あなたの右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい』というのも山上の垂訓の中にある言葉ね。

そのほかにも、『何事でも、自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい』という教えもあります。

(何事でも、自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのように……)
先生の言葉を聞いて、奏音はハッとした。
(砂久くんや和久くんは、わたしに何かしてほしいことはあるかな…? わたしに、何かできることはあるかな…?)

奏音の脳裏には、今朝の去り際の砂久と、話を聞いていた時の和久、ふたりの表情が鮮明にこびりついて離れなかった。

桑原先生の説明は続く。

この箇所の主題は、聖書のなかでも重要な教えである『隣人(となりびと)を愛する』、ということです。

つまり、フランクに言い換えると、『自分の身近な存在である家族や友達を大事にしよう』ということを伝えているのね

(『隣人を愛する』って、たしかこの間、結城くんも言ってたような気がする。やっぱり、聖書のなかでも大切な言葉なのかな)
そう思いながら、奏音は考える。隣人。いまの自分にとってはそれは、やはり砂久と和久のことが思い浮かぶ。

(ふたりはきっと今、お互いにとても困っている。このままでいいなんて、そんな風に思っているわけ、ない。

和久くんもすごく悩んで、砂久くんの言動に傷ついていたけれど、きっと砂久くんだって、どうにもならない苦しさを抱えているよね……。


わたしだったら、どうされたい? 放っておかれたい?

――ううん、きっと、誰かに助けてほしい。なんとかしてほしいって、思う。だとしたら……)

わたしは、わたしにできることをしたい。

奏音は小さく心に決めた。

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登場人物紹介

藤白 奏音(ふじしろ かのん)。

聖ミルトス学院高等部一年。

引っ込み思案だが知的好奇心は旺盛。

趣味は読書とピアノを弾くこと。

四つ年上の兄がいる。運動は少し苦手。

若水 真湖(わかみず まこ)

聖ミルトス学院高等部一年。

天真爛漫。小柄だがスポーツ万能。陸上部。

一人っ子。

天野 聖(あまの しょう)

聖ミルトス学院高等部一年。

両親はクリスチャンだが、本人はあまり興味がない。

奏音との出会いですこしずつ心境の変化が……?

結城 海都(ゆうき かいと)

聖ミルトス学院高等部一年。

聖の幼馴染で親友。小中高と一緒。

中等部まではバスケ部。爽やかそうに見えて率直で時々毒舌。

桑原 翠(くわはら みどり)

奏音たちの担任教師。

担当科目は宗教。

性格は穏やかで豊富な聖書の知識をもっている。

聖書研究会の顧問で、奏音たちを誘う。

沢野  まどか (さわの まどか)

聖ミルトス学院高等部三年。

生徒会長兼、聖書研究会の部長。

美人だが男前でサバサバした性格。

和泉 砂久(いずみ さく)

聖ミルトス学院高等部一年。

陸上部。双子の弟がいる。

和泉 和久(いずみ わく)

聖ミルトス学院高等部一年。

砂久の弟。勉強も運動も得意だが性格は気弱。

向居 紗里奈(むかい さりな

聖ミルトス学院高等部一年。

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