第4話 # 和久の話
文字数 2,861文字
取り残された和久の表情は痛々しかった。
さっきまで砂久に掴まれていた首元のネクタイは緩み、ワイシャツが乱れている。
ワク…話、聞かせてもらえる?
朝から、一体何があったの?
待って。
あの……ここで立ち話はやめたほうがいい、かも
奏音が周囲を見渡すと、登校してきた生徒たちが遠巻きにこちらを見ながらざわめいていた。
さっきまでのふたりの諍いを目撃していたのかもしれない。
騒ぎを大きくしないうちに、ここを立ち去るべきだととっさに奏音は判断した。
奏音は素早く思考を巡らせた。やがて桑原先生の言葉を思い出し、真湖にそっと耳打ちする。
ね、とりあえず、旧校舎の方に移動しない?
前に桑原先生が静かな場所だって言ってたから、たぶんそこなら、人があんまり来ないと思うから…
すると真湖も現状に気付いたのか、ハッとしたような表情になると小さく頷く。
そうだね、どっちにしろ、ここじゃゆっくり話せないもんね。
ワク、あたしについてきて?
そう言うと、真湖は有無を言わせず和久の手を引き、ずんずんと歩きはじめる。奏音もそれに続き、三人は旧校舎へ向かった。
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ガラス張りの渡り廊下を通って、旧校舎の三階へ入る。
そこは、普段奏音たちが過ごしている教室がある新校舎の棟とは、随分違う雰囲気が漂っていた。
あー、そっか。もしかして奏音は初めて来る?
あたしもね、こっちには滅多に来ないかな。旧校舎には、どちらかというとマイナーな文化部の部室が集まってるんだ。
さすがに中等部からいると、何回かは来たことあるけどね
そうなんだ。
なんだか、ヨーロッパの教会みたい。
窓とか、ところどころステンドグラスになってて…
奏音は思わずうっとりと見惚れた。
すこし埃っぽい空気に朝の光が反射して、キラキラと辺りを包み込んでいた。
どことなく幻想的な雰囲気が漂っている。
廊下を進み、空き部屋を見つけた三人は中に入る。雑然と並べられていた椅子に各々適当に座った。
さて、ワク。
今度こそ、最初から事情を話してもらえる?
昨日の部活の時からずっと険悪ムードだったけど…砂久と一体、なにがあったの?
真湖の力強い視線に気圧されながら、話づらそうに和久はちらりと横目で奏音を見た。
(……そりゃあ、ほぼ初対面の人が側にいたら、話づらいに決まってるよね……。思わずついてきちゃったけど、わたしは席、外した方がいいのかな……)
ああ、この子は
奏音、高等部からの新入生で、私と同じクラスの子だよ。
あたしもこの子も、絶対言いふらしたりしないから、心配しなくて大丈夫。
というかもともと、あんたたちが巻き込んだみたいなもんなんだから、説明聞く権利、あたしたちにはあると思うけど?
う、うん…そうだよね。
なんか本当にごめん、いろいろと迷惑かけちゃって…
だっ、大丈夫だよ! こちらこそいきなりこんな知らないやつがいて、ごめんね、和久くん。
ただ、さっきのは見ててとっても心配になったよ。
わたしたちじゃなにか、力になれないかな…?
真湖の強気な言い分にますます顔色を暗くした和久を見て、奏音は慌てて話した。
野次馬みたいに思われたくなくて、でもなにか、力になれたらという気持ちは本当だった。
しばらく沈黙が続いたが、意を決したように和久は口を開いた。
僕と兄があんまり仲良くないの、当然若水さんは知ってるよね。部活で喧嘩の場面とか結構見られてる気がするし、今さら隠すようなことでもないんだけど
まぁ、喧嘩っていうか…いつも砂久が一方的に突っかかってるように、あたしには見えるけどね?
うん。僕は砂久兄から恨まれてるし、憎まれてるんだ。
昔は普通に仲が良かったんだけど…中等部に進学してから、関係はどんどん悪くなっていった。
理由は、どうしてだろうね……兄さんは、僕より自分は『できない』って思い込んでるんだ。勉強も、部活も…なにもかも。
親が僕のことをよく褒めるからかもしれない。たしかに僕は、兄さんより成績が多少良いよ。でも僕が褒められたり、評価されたりしてるのは、僕が『良い子』だからだ。僕が兄さんより能力が優れていて、兄さんが劣っているなんて考えたことは一度だってないよ。
でも兄さんは、そうは思ってないみたいだ。今朝も、僕の悠々とした態度は兄さんを馬鹿にしてる、上から見下ろしてるようで心底腹が立つって言ってきた。僕は一生懸命否定したんだけど、それが逆に癇に障ったみたいで…あんな風に、暴力的になった兄さんは初めてだった。すごく驚いたし、今、とても悲しいよ。僕はそこまで恨まれていたんだって……
和久……それは、つらかったね。
ずっとふたりを見てきたけど、あたしも和久と同じ考え。砂久も和久も、地道な努力家だもん。いつも残って練習してるし。
ただ、砂久はなかなか結果に結びついてなくて、今はもがいてる最中って感じがする。
でも、そっか…奏音も言ってたよね。比べられるのって、やっぱり本人には結構つらいのかな……あたしにはわかんない、けど
うん……。
なんていうか、聞いた印象だけど、砂久くんは和久くんに対して、自分の劣等感とか焦りとか、どうにもならない感情を、ぶつけちゃってるんじゃないかなぁ……。
わたしにも『できる』兄がいるから、わかるよ…。ふたりは双子だから、尚更苦しいんじゃないかなぁ……
和久の話を受けて、真湖と奏音がそれぞれ考えを口にする。
和久の気持ちも、砂久の気持ちも、どちらも理解できるだけに、胸が痛かった。
僕は……どうすればいいのかな。
今は僕の存在だけで、兄さんを苦しめてしまってるってことだよね
和久の悲痛な表情を見て、奏音はそれ以上何も言えずにいた。しかし真湖はきりっとしたまっすぐな目で和久を見つめ、きっぱりと言う。
それでも、きちんと話をしなきゃ!
ダメだよ……だって、兄弟なんでしょ?
和久がハッとした顔で真湖を見る。奏音も、真湖の真剣さに息を呑んでいた。
自分だったら現状の和久に、そんな風にはとても言えない。でも、真湖が言うのも正論だし、いずれは直面しなければならない問題であるのは明白だった。
奏音は、どうすればいいんだろう、と頭を抱えたが、その時、ホームルームの予鈴が鳴り響いた。
奏音が小さくつぶやくと、和久と真湖も慌てて立ち上がった。三人で急いで空き教室を出る。
真湖は小走りになりながら、和久に話しかけた。
とにかく! ワク、元気出してよ。
あたしたちもいろいろ、一緒に考えるからさ。ね?
そうだね。時間をおいて考えれば、なにか良い案が浮かぶかもしれないしね。
和久くん、大丈夫? あんまり、考えすぎちゃダメだよ…?
う、うん。ふたりとも…ありがとう。僕、なんだかまだ気が動転してて…でも、うん。なんとか放課後までには立ち直るよ
和久がすこしだけ微笑んだのを見て、奏音はほのかに安心する。
三人はそれぞれの教室に駆け込み、別れた。
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