第1話 # 憧れのはじまり

文字数 2,623文字



いつもよりずっと、ずっと長く感じた春休みがようやく終わり、待ちわびた入学式の日がやってきた。

長い坂道を上り、学校前の桜並木を通り抜け校門をくぐると、憧れの制服に身を包んだたくさんの生徒が、奏音の瞳に鮮やかに映った。



(わたし、本当に、ミルトス学院に入れたんだ……)

奏音は思わずひとりで感慨に耽る。



玄関前に貼り出されているクラス分けの表を見ると、1年A組に名前を見つけた。

一年生の教室がある三階まで登るとすでにくたくたになってしまった。教室に入り、掲示を見て指定された席に着く。

緊張しながら周囲を見回すと、すでに仲の良い人同士でグループがあちこちにできていた。


ねえ、はじめて見る顔だけど、新しく入ってきた子?

突然、声をかけられ、奏音の身体がびくっとなる。

声のした方向を振り向くと、後ろ斜め左の席に座っている女の子が、机から身を乗り出す勢いで奏音を見ていた。

キラキラした光をいっぱいに宿した瞳が、眩しい。

あっ、あたし、若水真湖(わかみずまこ)

あたしみたいに、中等部からミルトス生が多いから、もうみんな顔見知りみたいな感じなんだ。でも、あなたは初めて見るなあって思って

う、うん。わたしは新入生だよ。藤白奏音(ふじしろかのん)、です。


えっと、若水さん、でいいのかな…?

屈託ない笑顔で見つめられ、奏音はどきまぎしながら答える。

そんな奏音の緊張を吹き飛ばすような明るい声音で、真湖はけらけらと笑った。

堅苦しいなぁ~、真湖、でいいよ! みんなそう呼んでるし。

あたしも奏音、って呼んでいい?

うん! じゃあ、真湖って呼ぶね。奏音でいいよ。

正直、知り合いがひとりもいなくてすごく緊張してたから、真湖が話しかけてくれて今、すごく安心してる

そっかぁ、そうだよね、ひとりは不安だよね~。

あたしは、中等部の時に仲良かった子とクラス別れちゃって。奏音がきょろきょろしてたから、気になって話しかけてみた!


これから同じクラスだし、席も近いし。よろしくね!


うん! こちらこそ、仲良くしてくれると嬉しいな。よろしくね、真湖

奏音も真湖に、笑顔で返す。


改めて、真湖をまじまじと見てみると、くせっけの黒髪を肩ではねさせ、くりくりとした大きな目が印象的だった。笑った顔はとてもあどけない。お嬢様とはまた、違った感じだけれど、ミルトスの欧風な制服を小柄な身体で着こなしていて、とても可愛らしかった。


真湖と他愛ない会話で盛り上がっていると、ガラガラと教室の扉が開いた。

みなさん、席についてください

すらっとしたいでたちの、綺麗な女の人が教卓の前に立った。


ざわざわとしていた教室が次第に静まり、しん、となると、にこやかな笑顔で話し始める。

みなさん、ご入学おめでとうございます。ミルトスは中間一貫校だから、中等部から持ち上がりの人も多いのかな。進学おめでとう。


今日から1年A組の担任をする桑原翠(くわはらみどり)です。担当科目は宗教です。どうぞよろしくお願いします

担当科目、『宗教』…?


わたしの頭に、はてなマークが浮かぶ。中学のころにはなかった科目だ。

ミルトスはキリスト教系の学校だから、普通の科目に加えて『宗教』の授業もあるんだよ~。聖書を読んで学ぶ時間って感じの!

真湖が、ひそひそ声で奏音に耳打ちする。

(そっか、ミルトス特有の授業なんだ……なんか、わくわくするなあ)

聖ミルトス学院は、キリスト教系の学校だ。

その響きがなんだかお洒落だなあ、と思ったのも、憧れの一因だった。

ミルトス特有の授業の存在は、奏音の心をますます期待にときめかせる。

(担任の先生もきれいで優しそうだし…なんだか、楽しい高校生活になりそう)
桑原先生はクラス全体をぐるりと見まわしたあと、黒板に向かっておもむろにチョークで文字を書き始めた。すらすらと、整った字が並べられていく。

求めなさい。そうすれば与えられます。叩きなさい。そうすれば開かれます。探しなさい。そうすれば見つかります。



これは、聖書のマタイによる福音書(ふくいんしょ)七章(しょう)七節(せつ)からの引用です。中等部からのみなさんは、よく耳にする言葉かもしれませんね。

みなさんは、これから高校生活がはじまります。

充実した日々を送るためには、誰かや何かを待つのではなく、まず自分から、積極的に考え、行動することが重要です。

なりたい自分や目標を掲げて、限りある時間を一生懸命過ごしてください。

みなさんのことを応援しています。困ったことがあったら、いつでも相談してくださいね

にっこりと、桑原先生が微笑む。慈愛に満ちたその笑みに、奏音は見惚れた。

初めて耳にした聖書の言葉はなんだか、格言みたいで格好良い。

それとわたしは、『聖書研究会』の顧問もしています。

もし興味がある人がいれば、気軽に声をかけてくださいね

そう言って、桑原先生ははじめのホームルームを締め、生徒たちは再びがやがやと騒ぎながら、入学式の行われる体育館に向かうために整列を始めた。
聖書研究会、なんてあるんだね
廊下へ向かう道すがら、奏音は真湖に話しかける。

聖書研究会って、廃部になったんじゃなかったっけ…?

中等部の頃、そんな噂を聞いたけど

そうなんだ…でも、先生が言ってるってことは、まだあるのかな。

真湖は、もう部活決めた?

うん! あたしは中等部から続いて陸上部だよ。奏音は?

わたし、中学では料理部だったんだけど、高校では何するかまだ、決めてなくて。

そもそも、何の部活があるのかも、あんまりわかってないんだけどね……

中学校の時は、特にやりたいこともなくて、運動も苦手だから、なんとなく料理部に入っていた。

料理は昔から好きだったから楽しかったけれど、高校では何か新しいことを始めたいな、と漠然と奏音は思っていた。

ミルトスは部活いっぱいあるし、体験入部とかしてみて決めればいいんじゃない? 焦ることないよ
そうだよね。真湖、ありがと。ゆっくり考えてみる
入学式をつつがなく終え、そのまま帰宅する。

緊張の糸が切れて、制服のまま、奏音はベッドにダイブした。

まだ、夢みたいだなぁ…
奏音はひとりごちる。

今日見た風景も、出会った人も、すべてが夢の景色のように、ふわふわとした甘やかな記憶だった。

(『求めなさい。そうすれば与えられます。』……)
桑原先生がホームルームで話した言葉が、頭の中でリフレインする。それはなんだか不思議な魔法の言葉みたいに、奏音の心に響いていた。



……そして気づけば、そのままうとうとと、浅い眠りについていた。

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登場人物紹介

藤白 奏音(ふじしろ かのん)。

聖ミルトス学院高等部一年。

引っ込み思案だが知的好奇心は旺盛。

趣味は読書とピアノを弾くこと。

四つ年上の兄がいる。運動は少し苦手。

若水 真湖(わかみず まこ)

聖ミルトス学院高等部一年。

天真爛漫。小柄だがスポーツ万能。陸上部。

一人っ子。

天野 聖(あまの しょう)

聖ミルトス学院高等部一年。

両親はクリスチャンだが、本人はあまり興味がない。

奏音との出会いですこしずつ心境の変化が……?

結城 海都(ゆうき かいと)

聖ミルトス学院高等部一年。

聖の幼馴染で親友。小中高と一緒。

中等部まではバスケ部。爽やかそうに見えて率直で時々毒舌。

桑原 翠(くわはら みどり)

奏音たちの担任教師。

担当科目は宗教。

性格は穏やかで豊富な聖書の知識をもっている。

聖書研究会の顧問で、奏音たちを誘う。

沢野  まどか (さわの まどか)

聖ミルトス学院高等部三年。

生徒会長兼、聖書研究会の部長。

美人だが男前でサバサバした性格。

和泉 砂久(いずみ さく)

聖ミルトス学院高等部一年。

陸上部。双子の弟がいる。

和泉 和久(いずみ わく)

聖ミルトス学院高等部一年。

砂久の弟。勉強も運動も得意だが性格は気弱。

向居 紗里奈(むかい さりな

聖ミルトス学院高等部一年。

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