入学式の一週間後、初めての『
宗教』の授業。入学式のときにひとりひとりに配布されていた、生徒用の
聖書のはじめのページを開くように桑原先生は指示し、朗読をはじめた。
『創世記』。それは、いくら聖書に無知な奏音でも、耳にしたことのある名前だった。
『その時、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』
聖書の中の『神様』は、六日間に渡って、光、空、海、植物、太陽、月、星、動物たちを次々に創り、最後に人間を創った、という内容だった。
これは神様が、何もなかったところから、この世界を一番はじめに創った時の記録です。
天地創造、とも呼ばれています。
六日間を通してこの世界を構成するものをひと通り創り、七日目に休息したことから、神様はこの七日目を特別な日、安息日として決めました。
わたしたちの現在の暦も、一週間は七日間になっていますよね。
それはまるで、御伽噺や神話の物語ように奏音には響いた。
(学校ではこれまで、進化論を習ってきたけど、聖書にはこんな風に書いてあるんだなぁ。人間は自然淘汰の中で進化してきたのではなく、神様の手によって創られた…なんだか、神秘的な話だなぁ)
そんな、月並みな感想を抱きつつ、聖書に書かれている新鮮な物語に、なんとなく心惹かれてもいた。
そして、六日目に創られた人類最初の人間が、アダムです。そして、彼の助け手となるように、と彼のあばら骨から創られたのが、はじめの女性エバ。みなさんも、アダムとイブという名前は、何度も聞いたことがありますよね。彼らは世界でたったふたりきりで、エデンの園で暮らしていました。
動物たちとしあわせに暮らしていたふたりでしたが、のちに、エバが蛇にそそのかされたことで神様が決して食べてはならないと言った善悪の知識の実を食べてしまい、園から追放されてしまいます。
これが、いわゆる楽園追放ですね。
ふたりは園の外で汗水流して畑を耕し、子を産み、新しい生活をはじめました。これが、現在のわたしたちの最も祖先といえる人間たちの話です
桑原先生の淀みない説明が続く。『アダムとイブ』という名前は奏音も聞いたことがあったけれど、『人類の祖先』というように表現されるのにはなんだか驚いた。
それはさながら、遠い、遠い世界の御伽話だと思っていたから。
奏音はノートを取りながら、いろんな疑問が内側から次々に湧いてくるのを感じていた。
――さて、今日の授業はここまでです。次の時間は、この続きではなく、新約聖書から新たに学ぼうと思います。
なにかわからなかったことや、訊きたいことがあったら、気軽に先生に質問に来てくださいね。それでは、お疲れさまでした
お疲れさまでした、という声に呼応するように、ぴったりのタイミングでチャイムが鳴る。午前中最後の授業だったので、たちまち教室が喧騒に包まれた。購買に走る人たちや食堂へ向かう人たち、お弁当を出し始める人たちとさまざまだった。
奏音もお昼にしよう、と一息つくと、真湖が勢いよく飛びついてきた。
えっと、面白かったよ! なんだか全部が新鮮で…まだ、よくわからないところもあったけど
そっかそっか! だいじょーぶ! あたしは中1の時から授業受けてるけど、わかんないことだらけだから♪
まあ、さすがに今日のとこは、もう何度も聞いてるから覚えたけどねっ
新鮮…ねぇ。そっか、新入生からしてみると、そんな感想なんだ。
すると突然、後ろから声がして、奏音は驚いて振り向く。
ああ、いきなりごめん。きみ、聖書は初めて読んだの?
そこには、教室の後ろの壁にもたれ、腕を組みながら奏音たちを見ている男の子がいた。
返事を返すより先に、必死に記憶を巡らす。
新しく出会った人だらけの空間で、奏音はまだクラスの男子の顔と名前まできちんと把握しきれていなかった。
(そっか、ほとんどの人が中等部から持ち上がりってことは、ふたりは顔見知りなんだよね…)
奏音が戸惑って未だに口をつぐんでいると、男の子はやれやれ、といった風に両手を広げた。
別に、突っかかる気は無いけど。ただ、なんかその反応、面白いなぁって思って。
ミルトスの生徒は、聖書の言葉なんてとっくに聞き飽きてるのかと思ってたから
明らかに棘を含んだその言い方に、奏音は戸惑いの色を濃くする。
おい、
聖。それを突っかかってるっていうんだよ。
藤白さんがびびってるだろ?
藤白さん、いきなりごめんな?
真湖は知ってるかもしれないけど、こいつ、この通りこじらせ系なんだよ。
勘弁してやってな?
その時、もう一人の男の子が介入してきた。奏音に向かって、申し訳なさそうに頭を下げる。サラサラとした色素の薄い髪が印象的だった。どこか中性的な雰囲気もある。
藤白さん…と彼は呼んでくれたけれど、奏音は彼の名前もまた思い出すことができなかった。
結城の言う通りだよ。ああ…そういえば、天野はクリスチャンなんだもんね
真湖が、ため息まじりに呟くと、天野と呼ばれた男の子はまた、機嫌の悪そうな声をあげた。
俺は、クリスチャンじゃないっつーの。俺の両親だよ。聖書の言葉なんて、生まれた時から耳タコなわけ
ハイハイ、俺は、聖のその言葉が耳タコだって…とりあえず、自己紹介くらいしろよな?
藤白さん、俺は結城海斗。こっちのひねくれは天野聖
この機嫌の悪そうな男の子は、
天野聖くんと言うらしい。サラサラ髪の男の子は、
結城海斗くん。
二人の名前を脳内で反芻しながら、奏音も改めて自己紹介をした。
あ、わたしは、
藤白奏音…です。高校からの新入生で、聖書を読むのは初めてだよ。
…よろしくね、結城くん、天野くん
…よろしく。
藤白さんは、ミルトスになんで入ってきたの? 新入生少ないよね、この学校。
聖書読むのが初めてってことは、キリスト教に興味がありそうな感じでもないし
いくらか気持ちが落ち着いたらしい聖が、奏音に問うてきた。
真湖や海斗は『突っかかってる』と言ったけれど、多分、純粋に疑問なんだろうな、と奏音は彼の表情から読み取った。
えっと、制服が可愛かったのと、なんとなく雰囲気に憧れて……
校舎も、ヨーロッパのお城みたいで素敵だなぁ、って
へぇ、なんか、随分と安直な理由だね…まぁそんなもんか
だーかーらー、突っかかるなって。良いじゃん、実際、制服も校舎も、他と比べて小洒落てるのは事実なんだし。
聖書だって俺は、なかなか面白いかなって思ってきてるよ? 最近。
『あなたの隣人を愛せよ』とか、普通に良い言葉じゃん。
お前もそれに倣って、もう少し隣人に優しくした方が良いんじゃないの?
ははっ! たしかにたしかに〜。
意地悪天野にはその言葉、もっと心がけてほしいかも
海斗がたしなめるように語りかけ、真湖もそれに
追随する。
ふたりから責められた聖は、心なしかほんのり顔を赤くして、ぶっきらぼうに言い返した。
うるせー。余計なお世話だっつの…別に、優しくしてないわけじゃねーよ
あ、あの…気に障ったのならごめんね。なんか、ほんとに初めてだったから、ちょっと気持ちがはしゃいじゃってて…
奏音が弁明すると、結城はオーバーな仕草で手を振りながら笑った。
藤白さん、ほんとにこいつのことは気にしなくていいのいいの。
こいつは親がクリスチャンなのと、中等部からミルトスだから、家でも学校でも聖書の言葉聞かされて、食傷気味になっちゃって、拗ねてるだけだから。
つまり、ただの八つ当たりなんだよな〜。ほんとにごめんね?
別に、拗ねてねーし!
ただ…、藤白さんみたいな反応示してるやつが珍しかったから、声かけただけ
あら? なんだか楽しそうな話してるわね。
天野くん、藤白さんに、聖書の解説してあげてるの?
桑原先生が突然現れて、一同は驚く。
どうやら、授業が終わってからずっと、教室の前の教卓で資料を整理していたらしい。
藤白さん、少しでも聖書に興味があるなら、聖書研究会の見学に来てみない?
といっても、去年たくさんいた先輩たちが卒業しちゃって、今は生徒会長の沢野さんと、顧問のわたしの二人で活動してる感じなんだけれど
聖書研究会は廃部になった、って噂が流れてたけど…まだやってたんですね。
生徒会長さんが部員なんて、知りませんでした
真湖が意外そうに話しかけると、桑原先生はすこし困ったように眉を下げた。
そんな噂が流れてたのね。たしかに、卒業生がいなくなって、部員がゼロになってしまって…沢野さんは、ご両親も本人もクリスチャンなのよ。わたしが春休み前に、部員になってくれないかしらってお願いしたの。
快く受け入れてくれたんだけど…新入生が三人以上入らないと、やっぱり廃部になっちゃうかもしれなくてね。だからいま、絶賛募集中なのよ
…ああ。生徒会長って、クリスチャンの家庭だもんな。
俺の両親と同じ教会に昔から通ってるよ
桑原先生の言葉を受けて、聖は半ば独り言のように呟く。
そういえばそんな話を前に聖から聞いたな。いわゆる幼馴染、ってやつなんだろ?
――というかここは、聖書に学年一詳しい天野聖くんの出番なんじゃないか?
海斗がここぞとばかりに、茶化すように聖を見た。聖は心底嫌そうな顔をしている。
別にそれは、マジで昔の話だし。
おい海斗、嫌みかよ? 勘弁してくれ…
…藤白さん、興味あるなら、見学行ってあげれば
えっ、わ、わたし…?
でもわたし、聖書のこと、なんにも知らない初心者だし……
それはまったく心配要らないわよ?
わたしや沢野さんで手取り足取り教えてあげるから。
初心者、新参、むしろ大歓迎!
奏音が曖昧に濁していると、桑原先生は優しく微笑む。
ま、強制はしないから。気が向いたら覗いてみてね。旧校舎の三階の隅っこの部屋で細々と活動してるから。静かで落ち着くところよ
とりあえず頷いてみせた奏音を見て、それじゃあまたホームルームでね、と桑原先生は去っていった。
それを機になんとなく会話も収まり、聖と海斗は連れ立って食堂へ向かった。奏音と真湖はお互いに弁当を開き、和やかな昼食の時間がはじまった。