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 雅にはひた隠しにしながらも、両家への挨拶、新居探しなど、結婚に向けてやるべきことを着々とこなしていた。
 季節が変わり、嗅覚が忙しくなってきた。駅からの帰り道、最初の角を曲がれば、金木犀が、鼻栓でもつっこまれたかのように、圧倒的な迫力で香ってくる。少し経つと、通りに面したアパートの一室から、早生みかんをむいたばかりのあのキリッとした匂いが、漏れ出てくる。
「ごちそうさま」
 その柑橘系の匂いだけでも、秋を感じることができる。思わず、お礼の言葉を小声でささやく。そして、早いうちに私も一袋買わねば、と思うのだ。そんなのが、私の秋。
 今年は、そこへもっと嬉しい出来事が、加えられた。準人との新居探しだ。以前の私なら、事務的な手続きや、マンションの内見を繰り返してあれこれ悩むことは、時間の無駄としか思えなかったし、せっかくの休日をつぶしにかかる面倒くさいこと、とみなしていた。今は、間取りで悩んだりするのさえ楽しい。
 そんな、ある日。私たちのことが、雅に知れてしまった。こういうのは、なんと表現すればよいのだろうか。企画倒れ。思わぬ落とし穴。または、自業自得。このようなことを、一番恐れていた私は、だから準人とこの町を歩かなかったし、もらった婚約指輪も、
「大切にしたいから」
 と準人に嘘までついて、左手の薬指にしなかったのに。
 二人で仲良く歩いているところに鉢合わせ、ならばもう言い訳もできない。違うのだ。雅の情報入手経路は、美容院だった。知らなかった。私と同じ店に、通っていたなんて。そういえば、ずっと前に紹介カードをあげたことがある。私の名前が書いてあって、それを持参して入店すると、割引が受けられるというパターン。その店に行ったらしい。
「お店の人から、聞いたわよ。結婚するんだって? どういうこと?」
 案の定、おめでとうのカテゴリーに少しでも入る言葉は、一切言わず、責めこんできた。あんなに恐れていたことが、現実になったのに、私は妙に冷静で、あわてもしなかった。その店にも、久しぶりに行ったらしい。そうだろう。常連になるほど。足繁く通っていたら、私の担当スタイリストが何か言ってくるはずだ。ただ、カルテに来店のきっかけが私の紹介と記入されているので、店の人も口を滑らせたのだろう。おめでたいことだし。まさか、こんなことになるとは、思わないだろうし。
 私だって、ヘアメイクのことがなかったら、言うことはしなかった。結婚式、というよりこじんまりとしたパーティを開くだけに決めたので、慣れているあの店でメイクをしてもらおうと思ったのだ。予約をする必要上、話したまで。それも、最低限に。
 おそらく雅は、鏡に向かっているときに、告げられただろう。それを、想像しただけで、私の心は、風の強い日の防風林のようにざわつき、右に左に揺れてしまう。全く自動的に自分がそうなったような気になり、世界中から置いてきぼりをくったような気分で、身体中が震えてしまう。
 雅は、どうしたのだろう。取り乱したか。店の人が失言した、と後悔するほど、怒りをあらわにしたのか。それとも完璧に、良き友人を演じきり、もともと知っていたような素振りをしたのか。
 雅は、ぎりぎりの所に立って生きている。それを支えているのは、薄い「プライド」という名の板。寄りかかって板が外れてしまったら、深く暗い奈落へ落ちてしまうのを知っている。だから多分その話は知っている、と頷き、それ以降は、「話しかけてくれるな」という雰囲気を全身からかもし出し続けただろう。
 まかり間違っても、エスプリの効いた会話で、さりげなく話題をかえたりはしない。できない。そんなことができるのであれば、雅は、あのような痛々しい風体になっていやしないのだから。
「あやうく恥かくとこだったわよ、紹介されて来てるのに、そんなことも知らないのって感じになりそうになったから」
 いつものように、事実を悪く曲がって解釈。この哀れな癖も、幸運の女神が逃げていく要素なのだが、言ったところで理解できないだろう。そのくせ、
「私が何も言っていないのだから、店員さんの言っていることが、間違いだとは思わなかったわけ?」
 と聞くと、
「どうしてあの女が、私にウソつく必要があるのよ」
 と、またまたいきり立つ。多分雅は、常にこうなることを、恐れていたのだろう。以前の私のように。
 そして、店員から聞かされた時、
「とうとうこの日が来た」
 と一人で勝手に完結してしまったのだ。それは、人々が必ず来ると知りつつも、考えるのを後回しにしている「世界の終わり」や「自分の死」と同じく、疑う余地もなくやって来たものと同質なのだ。そして雅は、うすうすわかっていたのではないか。こうなることが。
 もしも、もっと希望を持って少しでも前向きでいられたら、まずは私に事実の確認をしないだろうか。
秘密にしていた理由も聞くだろう。それなのに、美容院での話をすぐさま信じ込む。そんなところが、悲しすぎて、少しだけ美容院のあの女性を悪く思った。
 雅は、ほぼ予想通りの反応をしたけれど、私自身は違った。非常に落ち着き、雅の怒号を胸に受けても痛くはなかった。仕事帰りに美容院に寄り、その足で私の部屋にやって来た雅は、今も玄関の所に立ったまま。次にどのような言葉をかければ靴を脱ぎ、部屋に入るのか。または、出て行くのか。
 けれども。
 ようやくつかんだ人並みの幸せを、こんな形で泥を塗られた私はかわいそうではないのか。これから先、準備期間のことを思い出す度、セットでこの瞬間が蘇ることになるだろう。間違いない。ひどいと思う。
 振り返れば、あまり良い思い出に彩られていない私の人生。せめてこんな時だけは、美しい映像と共に記憶の引き出しに入れてみたいのに。
 もう、袂を分かとう。よく考えれば、雅にこんなに気を使ったり、遠慮する必要はない。
 そのことに気づくのが、遅すぎた。確かに雅の中には、かつての私がそこかしこに恒間見える。でも、それは私では決して、ない。その違いは、彼岸は、どこにあるのか。
「どうせテレビでやるでしょ」
 と実際のものに手を触れず、ふてくされていた雅。
 乱気流が怖くて飛行機が揺れる度に、真剣に祈るくせに、何度も機上の人になり、ニューヨークに降り立つ私。動かしがたい違いが、こんなにも明らかな距離が、できていたのだ。私が昔のままであるならば、一人でJFK空港に降り立てるわけがない。ソーホーの角を曲がり、ざわつくクリストファーストリートを一人で、歩けるわけがない。何より、準人に好きになってもらえるはずがないではないか。
 今こそ、決別の時。自信がなくて、下ばかり向いていた以前の私に。今も一人で、底なしの沼を作り、ぽちゃぽちゃと遊んでいる、雅に。
「そうよ、結婚するのよ。来月よ」
「ふん、結婚ね。子供作る気あるなら、遅くない? 結婚したからって、すぐできるとは限らないわよ」
 少し前の私であったら、その言葉の一つ一つを目の前の見えない笹舟に乗せ、そっと流してしまっていただろう。でも、今は、
「いいのよ、たとえ子供ができなくても、彼は私の事が大好きって言ってくれているから」
 今まで、何千何万と雅から浴びせられた暴言、嫌味、人格否定。今、そのどれよりも強くきつく雅を傷つけているのを知る。復讐のつもりは、毛頭ない。ただ、たれ流される悪意ある言葉により、これ以上被害をこうむることをせきとめたかっただけ。
 私が長年されてきたのが、じわじわと痛手をこうむるボディブローなら、この一言は一瞬にして雅をノックアウトさせるカウンターパンチだ。
 雅が、止まった。口を軽く開き、思考が不可能になり、次の罵りが思い浮かばないようだ。勝ち誇る気は、ない。ただただ、この関係をおしまいにしたかっただけ。
「よくもまぁ、そんなノロケみたいなことを」
 よくもまぁって・・・。雅の様子が、みっともなさ過ぎて、私は次の言葉を失った。
「その婚約者とやらに会わせなさいよ。万一の場合、私のこと好きになっちゃうかもよ。そうしたら、真弓どうする?」
「いいわよ。会わせても。でも、大丈夫、彼は、ずっと私のこと好きだと思うから」
 言えた。言えた。言ってみたかった。自分に自信があるからではなく、準人のことを信頼しているから言えた。これは、私にとっては、ものすごく大きな転機。いつも相手の心変わりを心配しすぎて、時にはその重圧に耐え切れなくなり、わざと嫌われるような事をして、相手が去っていくと、
「ほらね、私の人生なんて、どうせこんなもの」
 と嘆いていた頃。相手のことを信じるなんて怖くて怖くてできなかった。信じて裏切られるような事態は、是が非でも避けなければ、その後生きてはいけないと思っていたから。
 雅を、打ち負かす気など、ない。できるだけ接点を持たないようにしても、雅から寄ってくる。その時点で拒絶もできただろうに。
 多分、他の人は、遅かれ早かれ、そうやって距離を置くのだ。そうして、雅は、いつも一人だ。でも、どうしても切り離すことは、できなかった。私の分身を、見捨てる気がして。それは、きっと自分の身体の一部を失うのと同じこと。
 雅は、うろたえているくせに、平静を装って、私を睨んでいる。反逆のチャンスを伺いながら、一方で風船がしおれるように何かエネルギーが縮まる気配も漂っていた。
「人のこと馬鹿にするのも、いい加減にしなさいよね。何よ。初めて相手が現れたからって、いい気になって。どうせすぐに別れるに決まってんだから」
 別に準人が、初めての恋人ではない。だからこそ、準人の良さがわかるつもり。雅は本当に一回も出会いがないのかも。今の言葉で、そう思う。
 言い切った雅の言葉は、最後の方は叫びに近かった。今まで何年間も、ずっと私を下に見て、小馬鹿にしてきたのは、雅だろう。その言い草がおかしくて、失笑しそうになるが、今ここで笑ってしまったら、そのことでまた何か責め立てられるのは必至なので、堪えた。
 哀れで。痛々しくて。
 雅には、もう取り乱してこんなことを言う他、自分を守る術はないのだ。寒々しい空気が流れる。
 でも、雅は、まかり間違えば私の姿。あの日マンハッタンで、ビルの谷間から差し込む日の光に救われなければ、私は雅とそう変わらない状況だったと思う。救われてしまったから、かえって見える動かしがたい事実。
 似ている。満員電車のたとえに。もう一人も乗ることができないくらいにぎゅうぎゅう詰めの車両に、なんとか乗りたいと身体を押し込みぐいぐい入って行く。先に乗っている人は、少し渋い顔。
「どうしてもう少し詰めてくれないの? 意地悪ね」
 と心の中で罵る。
 ところが。ようやく乗れたら、もうこっちのもの。まだまだ乗りたくて、押してくる人に対し、
「次の電車を待てばいいのに」 
 と睨みつけたりして。瞬時に立場が、入れ替わる。今私はもう、電車に乗り込んでしまった人なのだ。ドアの外で、乗ろうとして躍起になっている人の気持ちなど、もはや理解できない。雅はきっと、まだホームでひしめき合っている。その一線は、本当はいとも簡単に越えられる。でも、若干の勇気は必要。雅は、なかなか踏み出せないから、同じ所にとどまるしかない。
 もう、いいだろう。雅の心ない言動、態度で傷ついた私。今こそ、その邪悪な絆を断ち切る時。
「ごめん、雅。もうこれ以上、雅とつきあえないよ。いつもいつもそんなふうに人を悪く言い、妬んでばかりいる雅と一緒にいると、私まで暗くなっちゃうから。まもなく、ここも引越すから、もう本当にお別れよ。引越先も、知らせないからね」
 時が、満ちた。雅の顔色から、赤みが消え失せていく。そして、瞳は必死に引きとめようとしている。けれども、それを言葉にしない、できない。
 だって、今までずっと私のことを下僕のように蔑んで、バランスを取ってきたのだから。
 声を出すと、泣き声になるから黙っているんだね、雅。わかりすぎるほど、雅の心情が感じられる。でも、絶対に涙はこぼせない。それは、死守したい最後の砦。
 実際には、二、三分だったと思われる沈黙が、倒れた衝立のように、私の上にのしかかって来て、押しつぶされそうになった頃、雅は突然後ろ向きになり、ドアを開け、出て行った。外気がそのまま私の立っている所まで、入り込んでくる。停滞していた重苦しい空気が攪拌され、私の脳にまで、到達。
 私のしたことは、残酷であったのか。冷静に振り返る余裕を、今与えられている。雅を懲らしめてやろうとか、思い知れば良いとか思ったことは、誓ってない。
 そんなことをしなくても良いほど、私は準人により強い安心感を得ている。では、このまま一生雅につきまとわれ、嫌味を言われ続けることを、甘受するのか。できるのか。
 それは、無理。準人との新しい生活に、雅とのしがらみを連れて行くわけには、いかないのだ。今が、潮時。背中を押してくれたのは、なんのことはない、雅の方だった。
 「開けたまま、出て行っちゃった」
 独り言を言いつつ、玄関のほうへ向かうと、はるか遠くのほうからサイレンの音が聞こえてきた。人の心を泡立てる不吉な音色は、ドップラー効果となって夜空をぐるぐると回っていた。
 あまり頻繁に聞かないこの音は、たしかガス会社のもの。ガス漏れの現場に、急行するのだろうか。せわしなく鳴り続け、なんだか私は怖くなって、急いで扉を閉めた。
 
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