文字数 6,956文字

 帰国して、今回も時差ぼけを回避できた、と喜んだ頃、雅(みやび)が訪ねて来た。これも毎度のパターンなので、折り込み済みである。
「はい、お土産よ」
「・・・チョコレート。空港で、買ったんでしょ、離陸直前に」
 真顔で、尋ねてくる。雅は、どちらの答えを期待しているのだろう。
 雅は、高校の時の同級生。当時も、仲が良かったわけではなく、今もそういう意味では友達と呼べるのかどうか。数年前、故郷で同窓会があった折に再会して、五分程の距離に住んでいることが判明し、その偶然に驚いた。雅は、毎日私のマンションを通過して駅に向かうので、長期間留守にするとすぐにばれてしまう。最初の頃は、
「なんかいつ見ても電気消えてるんですけど」
 とメールが来た。ニューヨークで、その文面を読んだが、当時ローミングのシステムも理解が難しく、準人からは無闇にメールを送受信すると高くつくよ、と言われていたので、帰国してから返信した。それ
以来、私がよくニューヨークに行くことがわかってしまい、不在のチェックが激しくなった。
 それで、必ずお土産を用意せざるを得ない。食べ物に名産品があるわけでなし、長期間休んだお詫びを兼ね、会社のいくつかの部署へのお菓子と雅への一品が、私のお土産の全て。
 準人は準人で、やはり時間が出来るとすぐに海外へ出てしまうので、欲しい物は自分で買うことが出来るから、あえてお土産を買う必要もない。
 雅は、窮屈そうにキッチンキャビネットと本棚の隙間に置かれたスツールに座って、自由の女神やらエンパイヤステートビルが描かれたアソートチョコレートの箱を眺めている。本当に、全然心がこもっていない。
「ほら、お土産買って来てやったわよ、ありがたいと思いなさい」
 とでもいうような代物である。そろそろ、溶けるのも気になる陽気。もしかしたら、若干溶けているかもしれない。しかしながら、何も買って来なかったとしたら。
「お土産買う時間もないほど、あちこちほっつき歩いていたわけ? 良いご身分ですこと」
 などと嫌味の一つも言われてしまう。だから、ありきたりのチョコレートぐらいが、落としどころなのである。
 雅は、今回の旅がどうだったか、などと決して聞いてはこない。そんな事に、興味はない。ただただ今回も自分に黙って八日間も留守にした私に対して、文句が言いたいだけなのだ。
 この人、雅は、喉に紙やすりを隠し持っている。彼女の発する言葉は、いつもざらざらしていて、救いが全くない。
 以前は、ニューヨークの様子も少しは尋ねて来た。
「あ、そのパレード、テレビで観たことある。なんか、緑のモノを身につけてパレードするって言ってたけど」
 私がニューヨークが発祥の地で、あちこちに広まったセントパトリックデーのパレードを見た、と言った時の感想。
「三月と言ったって、寒いんでしょ。そんなの何時間も外で見てる人の気が知れない」
 始めは、面食らった。私の行動を、責めているのか。さらに、
「たしかシカゴだったと思うけど、川まで緑に染めちゃう地域もあるらしい。どうせだったら、シカゴに行きゃよかったのに」
 違う。そうでは、ない。パレードを見に行ったのでは、断じてない。ニューヨークに行ったら、その期間中にたまたまセントパトリックデーのパレードがあったので、見てきたわよ、と言っただけだ。
 雅は、話の流れを微妙にねじ曲げ、そして無理やり自分のカテゴリーに入れる。再会して間もない頃は、自分も行ってみたいという気持ちの屈折した形なのかと思い、
「今度行く時は、誘おうか」
 と、社交辞令で誘ってみた。その時の雅の反応は、今思い出しても、笑いが込み上げる。もう次の瞬間、飛行機にはがい締めされて乗せられでもするかのように、後ずさりして、
「いやいや、それはお断りします。何も、わざわざ危険な思いして、大枚はたいて行く必要ない。もうテレビやネットで充分」
 片手を、大げさに振って、否定の合図を送ってきた。私だって、こんな文句ばかり言う人と旅行なんて、できない。したくない。それは、今でも変わらない、
 時々思い出してはぞっとするけれど、現在の雅には聞けないことがある。高校卒業時に、記念としてサイン帳をまわした時のこと。男子は、面倒臭いのか頼めば書くけれど、大体は同じ文句。ちょっと気に入っていた男子は「前進あるのみ!」と一行だけ書いてくれたけれど、私だけに宛てられたものでないことを、後で知って、がっかりしたものだった。雅は、
「お願いがあります。卒業アルバムの今村の写真の顔を、黒いマジックで塗りつぶしてください。よろしくお願いします」
 この文章と、名前とピースサイン。それと、アドレスが記されていた。今村と言う男子は、サッカー部で、結構人気があったけれど、態度も悪かった。嫌いだったのか、いじめられていたのか。何しろ私は雅と仲が良かったわけではないので、知らない。
 それにしても。おめでたい卒業のサイン帳に、そんな事を書くものだろうか。親しくもない私に書くくらいだから、女子全員に書いていたのかもしれない。怖かった、情念を移されそうで、私こそ雅の書いたページをなかったことにしたかった。その日以降、雅とそのページはいつも対となって私の記憶の中にあった。今でも、今村のことを憎んでいるのか。怖くて、聞けない。憎んでいても、不思議ではない。いつだったか二人でなんとなくテレビを見ていたら、人気者のお笑い芸人が、出てきた。トップクラスだ。突然、雅が、
「こいつ、嫌い。鼻の形が高校時代大嫌いだった柴田って教師にそっくりだから」
 と言い捨てた。耳を疑う。鼻の形が、似ているだけで。さらに、吐き捨てるように、
「にっくい!」
 と。そこまで嫌える原動力は何なのか、教えて欲しいと思った。雅は、一時が万事、そういう人柄だった。何に対しても、まずマイナスから入る。マイナスとマイナスがかけ合わさると強いから、本当にそれをエネルギー源として生きているのかもしれない。
 価値観も私とは、違う。ニューヨークの事だって、大枚はたいてとか言っているけれど、そこへ行かなければ手に入らないものがあることを、受け入れるつもりがないらしい。ストリートとアヴェニューの角に立った時に、鼻をくすぐる屋台のホットドッグやケバブの匂い。冬の朝、道の端からもうもうと吹き上がってくる湯気。デパートを歩くと、あちこちで吹きかけられるフレグランスの眩暈がしそうなほどの濃厚な香り。
 そんなもの、いくらテレビで観たところで絶対に伝わらないのに、私のやっていること全てが、無駄使いであると言われている気がしてならない。
 メールの着信音が、響く。その音で、準人からの一通だとわかる。私は、確認する素振りを見せず、テーブルの上を片付ける。
「メールだと思うんですけど」
「後で見るから、いいわ。宣伝メールだと思う」
 来ますよ、この後。案の定。
「そうやって、私のメールもずい分後になって見るわけだ。今回だって、返信は帰国後だったしね」
 雅に、
「今ニューヨークにいます。初めての初夏のマンハッタン、満喫してます」
 なんてメールを送れるものか。すぐさま、
「こっちは、月末処理で忙しいのに、信じられない」
 などの、返信が来るだろう。そういうじくじくしたものは、ニューヨークには似合わない。
 一気に梅雨時の湿った空気がメールを通して、噴出してきそうだ。そんなことになるくらいなら、無視した方がいい。今だって、メールの主が準人とばれるより、雅に嫌味を言われる方がましなので、咄嗟にくだした判断。準人のことは、雅には一切言っていない。準人は、この部屋には来ないし、この町でデートもしない。
 万一準人の存在が知られたら、と思うと震える。もしかしたら、危害を加えられるかもしれない。
「私に彼氏がいないのに、真弓にだけいるなんて不公平よ。何よ、こうしてやる!」
 髪の毛をつかまれ、引きずり回される私を、想像してしまう。
 その妬み、嫉みは、多分雅のかろうじて保っている平常心をガラガラと音を立てて崩すのに充分な感情だろう。
 三十歳が目前の結婚をしていない唯一の同類を失ったなら、よるべなく狂ってしまっても、ある種しかたないとは思う。それが容易に想像できるから、言うつもりがないのだ。
「本当にそういうとこあるよね、真弓は」
 いくらでも言えば、いい。それで、おさまってくれるのなら、ありがたいくらいだ。

 私にとっては、箱の中から百回以上も取り出して、両手でめで過ぎて、すっかり角が取れてしまった小麦粘土のようなプロポーズの日。あんまり思い出すものだから、今となっては私の望みが勝手にあの日の映像に入りこんでしまったかもしれない、とさえ思う。
 路線バスを二本乗り継いで、ぶどう狩りに行った日の帰り。
「こんな近くで、狩れるんだね」
 と喜びつつ、まだ若い実の酸っぱさにへきえきしたような表情の準人。ぶどう棚の間を通り抜ける秋の始めの風は、しっかりとその実の匂いを乗せていた。でも、その青臭さは嫌なものではなかった。きっと、もう少し後になると熟した香りが立ちこめて、この青さはかき消えてしまうだろう。そんな貴重な香りを肺に取り入れられたのは、なんとなく嬉しかった。
 何より準人と共にいられたことが、全てをプラスの方向から、考えられる。ただ、この時点では、私はまだまだ臆病で、例えて言えば、枯葉の下にどんな大きな落とし穴が隠れているのかと、びくびくしながら歩いているような感じだった。
 帰りのバスは、とても空いていたのだ。一人また一人と下車していき、ターミナル駅までの数十分、もう乗って来る人もいなくて、「結果的貸切」となった車内。私は、窓の外の景色を見たかったけれど、そうすると窓際の準人と目が合ってしまいそうで、なかなか横を向くことが出来ないでいた。と言っても、街灯のほかは殆ど真っ暗で、見るべきものはなかった。時折り現れるヨーロッパの古城のようなラブホテルは、青やオレンジの灯りで電飾されていた。
「うわー、すごい。本物みたい」
 そういう時だけ堂々と窓の方を見て、準人に話しかける。準人は、興味なさそうに聞き、チラリとも見ず、右手で顎を支えて、前方を見ているだけだ。今のセリフ、
「また一緒に行こうね」
 と準人の心の中で変換されているのかも、と余計な気をまわす。郊外型のパチンコ店から延びるサーチライト状の灯りも、話のきっかけを作るため、利用させてもらった。
「小ちゃい頃、誰を捜しているのかと思って、自分だったらどうしようって。空ばかり照らしているから、神様捜しているのかなって」
 爆笑は期待していないけれど、こんな話で準人が、くすり、とでも笑ってくれたら、と矢継早に話す。退屈させたら申し訳ない、つまらない女と思われたら悲しい、まるで強迫観念にかられているかのように話し続けた。
「真弓、いいんだぜ、気ぃ使わなくても」
「え・・・」
 準人が、自然な感じで口を開いた。気を使うって。どういうことか。
「真弓はいつも嫌われないように、一足も二足も先回りして何か言ったりやったりするけど、そんな必要ぜーんぜんないから」
「え・・・・」
 私は、間抜けな反応ばかりを繰り返す。
「気を使うのは、相手の気分を害さないように心配りすることでしょ。僕は、真弓のふるまいも言葉もぜーんぶ受け入れられるから大丈夫」
 準人は、ここで初めて笑った。
 ちょうど、大きな川を渡っている時だった。準人の肩越しに、何色もの灯りを反射してキラキラ光る水面が見えた。風のない日で、穏やかな川は、まるで準人の性格そのもののようだった。
 こんなことを言ってくれる人が、十年、二十年前に私のそばにいたとしたら。私は、きっとこんなふうに、一秒一秒焦る性格にはなっていないのだろう。そして、本当は未来永劫そんな人は現れないと思っていたから、驚きの方が大きかった。
「そして、真弓はもうそんな気をまわす日々を一生送らなくてOKになる。どうしてかと言うと、残りの人生は僕と一緒に暮らすんだから」
 あれ。照れもせず。茶化しもせず。かと言って、シリアス過ぎもせず。まるで、
「明日の朝は、コーヒーでなく紅茶にしておく」
 という位の軽やかさで、準人は、私との未来を口にした。
 私は、こんな日を一体どのくらい想像したことだろう。年端のいかない一けたの年齢の頃から、ありとあらゆる状況を想定して、プロポーズされる日を夢見ていた。それが、いつしか妄想だと思うことに決め、状況設定のネタも尽きてきて、考えること自体が悲しみを伴うようになってしまったので、一切思うことを止めたのは、二十代半ば。こんな私が、まともに結婚できるわけないでしょう、生きていて仕事があるだけでも上等、と結論づけた。
 それを準人は、このままで良いと言う。このパターンは、私のイメージしたプロポーズの瞬間のどれとも、似ていなかった。
「あの写真を見た時から、真弓の謎が解けたよ。本当、もう一秒たりとも無理しなくてもいいよ。僕は、真弓のことを嫌いになったりはしないから、安心して」
 あの写真。三、四歳頃に撮られたものだ。準人に見せたことがある。社内誌の特集ページに必要なので持って来て、と広報の人に言われ、比較的かわいく撮れているのを選んだつもりだった。たしか、現在の写真と並べてレイアウトし、その違いを面白おかしく描写するという企画だったと思う。返却された時、何の気なしに、準人に見せたのだが、
「子供なのに、遠い目をしている。かわいそうに。寂しかったね。もう、大丈夫だからね」
 準人に真顔で言われた時、私はどんな表情をしていたのか。
「もう大丈夫だから」
 と、この時も言ってくれた。
 涙が、すごかった。ナイアガラ瀑布どころではなく、世界一と言われているイグアスの滝のようだった。上から下へと太い流れを作って、絶え間なく涙は流れた。一番驚いたのは、私自身だ。長い間、言葉にすることさえ、無意識に避けていたこと。それを、たったの数秒で言い当てられてしまったことへの、衝撃。現金書留用の封筒のように、幾重にも複雑に封印された私の寂しさは、準人というはさみにより、大きく封を解かれた。
 準人は、まったくびっくりしなかった。私が、鼻水をも大量生産して、予期せぬ事態になった時も、落ち着き払ってポケットティッシュを渡してくる。
 私が、自分の寂しさを見ないようにしていたことも、薄々気づいていたという。そして、まるで何かにせかされるように先回りして、気を使う私への疑問が、寂しさから起因していることを、一枚の写真によって確信したらしい。
 その日のことを思い出しつつも、それと結婚がどうしてもうまく結びつかないし、この年になって満面の笑みでプロポーズを受け入れることなど、できない。
 まず、言い訳から入る。
「でも、まもなく三十代に突入よ。子供だってすぐにできるとは限らないし」
「そりゃーねー、子供は欲しいけどねー」
 と、準人は、笑う。
「でも、僕は真弓を好きになったのであって、子供はまた別の話だから」
 とでも続くのかと思ったら、
「しかたないじゃない? 会ったのが、こんな年なんだもの」
 と、もっと笑って言う。全然嫌味ではないし、全く傷つきもしない。それは、単なる事実。確かにしかたがない。会った日は、変えられない。
「生める。平気さ」
 本当に、平気のような気がしてくる。準人の強さは、ここにある。彼が、口にした途端に、不安要素はきれいに拭い去られてされてしまう。
 準人と会う前は、誘われるままつきあい始め、気を使いすぎて、相手を疲れさせるというパターンの恋愛を繰り返してきた。距離感がはかれず、甘えることを知らないので、必ず他に好きな人ができた、と別れ話を切り出された。そんな彼らや、社内の男性たちとの誰とも似ていない準人の、考え方。
「真弓の王子様は、白馬から降りて歩いて来ちゃったんじゃない? だから、こんなに遅くに着いたわけ」
 準人は、自分を王子様呼ばわりし始めた。
「多分、鞍の振動が尻に痛くて嫌だったんじゃないかな」
 冗談なのか判断のつきかねることを、まくしたて始めた準人は、実は照れていたのかもしれない。
 まもなく、終点のターミナル駅というアナウンスが流れて、現実に引き戻された。私たちは、曖昧な笑みを取り交わしながら、降りる準備を始めた。
 はっきりとは返事をしていないけれど、準人は、きっと「YES」と思ってくれている。一つ一つ試すように、それ以降の会話の端々に、結婚生活を匂わせるような内容をちりばめてくる。
 なんとなくを装ってはいるけれど、実はかなりこじつけの話題も含まれている。私は、それを「姑息な計算」と取らずに「憎めない前振り」と思うことにしている。そういうふうに善意を持って接することが、できるようになった。進歩だ。人生の。それも、みんな準人が、教えてくれた。
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